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2020/03/30

「とは何か」

「食生活」という言葉がしめすように、「生きる」と「食べる」と「食べ物」は、日常で切り離しがたく一体であるのに、80年代以降の中央の出版物やメディアではとくに、「食べ物」だけが切り離されて取り上げられる傾向が盛んだった。

それは、1982年の「おいしい生活」が象徴するような80年代ぐらいからの大きな流れになった、平和な暮らしも経済の発展も生活の質も「よりよい消費」からという思想と深い関係がある。

景気がよかろうが悪かろうが、「いいもの」「いいひと」「いい物語」を追いかけて、メディアの表層を覆った。まだ懲りずに続いているし、というか、ほかの方法が考えられなくなったのか。

そして、いま、新型コロナウイルスによって、「生きる」「食べる」「食べ物」が、世界的規模で同時に大きくゆれている。

こんなときだから、「生活」について、たくさん考えることがある。

すでに何度も書いているが、1970年代中頃に江原恵と「生活料理」にであって以来、「生活とは何か」×「料理とは何か」=「生活料理とは何か」にハマってしまった。

「とは何か」に正解が欲しいわけではない。正解は一つではないし、「とは何か」を問い続けることで見えてくることがある。それを積み重ねていくことで、「これから」の流れが育まれるのではないかという考えの、「とは何か」なのだ。

ほかにも、「近代日本食のスタンダードとは何か」とも言ったりしている。これも正解が欲しいわけじゃない。

「とは何か」を問い続けることで、ああでもないこうでもない、ああでもあるこうでもある、あれこれ考え、一緒の布袋に入れて吊るしておくと、したたり落ちるものがある。「垂れみそ」の原理のようだが。

迂遠のようでも、こうすることで、メディアの表層にあふれる、結論を急いで短絡した軽率で浅薄なオシャベリを回避することができるし、複雑な状況に対処する思考力が育つのだと思う。

ようするに、いつもどんなことも「日頃」の延長にあるのだから、「とは何か」を問い続ける「日頃」が大事ってことだ。

当ブログ関連
2015/06/10
「生活」とは、なんじゃらほい。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2015/06/post-7723.html

2007/04/05
1980年―81年の生活料理の幻
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2007/04/198081_9d29.html

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2020/03/19

東京新聞連載「エンテツさんの大衆食堂ランチ」88回目、赤羽・自由軒。

20200117

だいぶ遅れてしまった。今年の一回目、1月17日(金)の朝刊に掲載の分だ。

もちろん、すでに東京新聞WEBサイトでご覧いただける。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2020011702000179.html

赤羽の自由軒は、おれ好みの一軒で、けっこう行っているし、赤羽在住の知り合いからは「あそこ、載せないの」といわれて、「優先順位があるから」なーんてテキトウなことをいって先送りしていたのは、ほかに先に載せたい食堂があるからではなく、おれ好みなので後回しにとっておきたいという気分だったからだ。

だけど、おれの急速の老化からすると、この連載を今年一年続けられるかどうか自信がない。そこで、今年の一回目にした。

おれ好みを、本文にこう書いた。「常連さんが描いたという額装のない絵がたくさん、カレンダーが数点も、壁を埋めている。その光景は、地域の人たちの「たまり場」「休憩所」といった感じで、妙にくつろぐ。このように地元に生きる姿そのままの食堂は、本当に少なくなった」

と、これではまだその雰囲気は伝わらない気がしているけど、カレンダーにしても常連が持ち込んだもので、ほかにも誰の好みかわからないものがいろいろあり、美的なものは一つもないのだが、エントランスからしてキチンと商売の空間に仕立てるのではなく、成り行きでこんなぐあいに店と街と客が混じりあって生きてきましたという感じが濃厚に漂う空間なのだ。赤羽の街の猥雑感がしみ込んでいるような。

そして、中華洋食中心の料理のほうは、なかなか普通にうまい。食べ終わると、底に店名が入っている器を使っている。

どういう人が料理をつくっているのか、いつも気になるのだけど、厨房は上の階にあって、料理運搬用の小さなエレベーターが運んでいるから、姿は見えない。その「謎」さ加減もいい。

「謎」といえば、以前に掲載の赤羽の「暖母」も「謎」だ。赤羽の面白さは「謎」だね。

とりあえず、そういうことで。

近頃は、長年誇ってきた「快食、快便、快眠」のペースが維持できなくなり、やはり長年67キロ前後で安定していた体重が減っている。身体的なしんどさを感じる日々、本当にこの連載をいつまで続けられるのだろうという感じだ。

何をやるのも面倒で、ブログなんかどーでもいいの気分だけど、次の本の原稿だけは、なかなか面白いこともあって、コツコツ進めている。でも、すぐ疲れるからね~、文章は次々浮かんでも、パソコンに向かう体力が追いつかない感じだ。

やれやれ。

食うのも、書くのも、体力勝負だ。

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2020/03/04

メイクシフト。

2020/01/26「理解フノー二十二回「二十年」に関連して。」http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/01/post-6a4065.html でふれた、「胃袋からみる食と人びとの日常」の湯澤規子さんの著書が気になっていたのだが、こんどの本の原稿にも関係がありそうなので、先日、新型肺炎休館になる前の大宮図書館で2冊借りて読んでいる。

『胃袋の近代 食と人びとの日常史』(名古屋大学出版会、2018年6月)と『7袋のポテトチップス 食べるを語る、胃袋の戦後史』(晶文社、2019年3月)だ。

「「胃袋」は「食べる」という行為、さらには「生きる」感覚に直結している」ってことで、「胃袋」をキーワードにした、なかなかの野心作だ。とくに前者は、大衆食堂の背景や成り立ちに関わることや、「生活料理」の裏付けにもなることが、豊富な資料で語られている。

いま、その内容についてはふれないが、読んでいるうちにいくつか気になったことがあって調べている。

というのも、おれの最初の出版1995年の『大衆食堂の研究』の頃は、「日常」は、まだそれほど注目されていなかった。

「生きる」と「食べる」と「食べ物」は、日常で切り離しがたく一体であるのに、「食べ物」だけをネタとして切り離し、「趣味」な「気分」を満足させる出版が盛んだった。いまでもそちらが中央の中心で、あっちの食べ物こっちの飲食店と、盛んであるのだけど。『大衆食堂の研究』は、そういう傾向への「逆襲」でもあった。

近頃は、湯澤さんの本に限らず、「日常」を舞台にしたテーマが、とくに研究方面で増えているのは明らかだ。それって、いつごろぐらいからかなあと調べてみたら、どうやら今世紀になってからの傾向らしいとわかった。そのことについては、こんどの本に盛り込もう。

最初のリンク先に書いてある「食をめぐる言説空間は、かなり様変わりするにちがいない」は、「日常」をめぐって動いているといえる。そうそう、今年の1月にコトニ社から発行の久保明教著『「家庭料理」という戦場』に、おれの本の言及があると聞いている。まだ入手してないのだが、この本もタイトルからして「日常」が舞台のようだ。

それはともかく、『胃袋の近代 食と人びとの日常史』に、「メイクシフト・ヒストリーとしての日常史」という項があって、「生きものはすべて、何かを食べて生きている。長い生涯を全うするためというだけでなく、今、この瞬間の空腹を満たし、その場をしのぎ、なんとかやりくりして生き延びるために食べる。このような「その場しのぎ」、「やりくり」という行為は、メイクシフトという概念でとらえることができる」と述べているのだ。

ここでおれは、ぶたやまかあさんの「やり過ごしごはん」を思い出した。「その場しのぎ」「やりくり」というと経済的に逼迫した状態の暮らしを想像しやすいが、忙しくなるばかりの日常においては、広く存在する暮らしだ。雑誌などに登場する、余裕あるおいしい暮らしを楽しんでいます風のものは、本当は少数の選民にすぎない。

この3月11日で東日本大震災から9年。まだ10年たたないうちに、日常が損なわれる災害に見舞われた人びとは少なくなく、さらに「新型肺炎」で、またもや全国的に「日常」は不安定になり、いろいろな「やりくり」に追われている。先日も書いたが、もともと日本の日常システムは脆弱なのだ。

こんなときぐらい「普通」の「日常」を、よく考えておきたいものだ。そして、うまい物いい物談義が、どんなに暮らしに対する認識を歪めてきたかも、よく考えおきたいものだ。

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2020/03/03

「生活工芸」。「鑑賞料理」と「伝統料理」そして「生活料理」。

次の本の原稿に取りかかっているのだが、今度のテーマは資料がたくさんありそうでいて少ない。そこが、面白くもあり、考えることが多い。

とうぜん「生活料理」がらみのことで、ネットでもあれこれ検索していたら、「生活工芸」という言葉にぶちあたった。知らんかったなあ。でも、この言葉、割と新しいのだ。

「やまほん」のWEBサイトに、ギャラリーやまほんで行われたトークイベントの書きおこしが載っているのだが、そのタイトルが「生活工芸の思想」だ。
http://www.gallery-yamahon.com/talkevent/seikatsutalk1

このトークイベント、いつ行われたのか記載がないのでわからないのだが、2017年からこちらのことらしい。

「1. 言葉の誕生とその背景 安藤雅信 辻和美 三谷龍二」「2. 生活工芸とは 川合優 安永正臣」「3. 器とオブジェ 内田鋼一 三谷龍二」「4. 工芸と社会の関わり 菅野康晴(工芸青花)森岡督行(森岡書店)」「5. 生活工芸のこれから 安藤雅信 内田鋼一 辻和美」というぐあいで、4回にわかれている。

その1回目を見ると、「生活工芸という言葉は、辻和美さんがディレクションをされて2010年に金沢で開催された「生活工芸展」から始まっています」とある。

そして辻和美さんは、「つまり金沢においては、生活工芸という言葉は、鑑賞工芸、伝統工芸と区別するための言葉として分かりやすかったようです。自己表現のための工芸、素材の可能性に挑戦する工芸というより、人間の生活を中心に考えられた道具を中心としたモノたち、そういうものとして一般の方に認識されやすい。そういうスタートで生活工芸という名前を使い始めました」と語っている。

金沢ローカルで始まったということも面白いし、2回目以降のトークでは登壇者が入れ替わりながら、生活工芸の思想が深められていき、最後のまとめらしきところで、安藤雅信さんが「その時代時代に問題を見つけてそれを解決していく」「ボブ・ディランのように70歳過ぎても常に戦っていきたいと思うんですけれども、社会に対して常に問題提起をし、自分なりの答えを提案し続ける。それをやっていくことが生活に寄り添う工芸ということではないかと思います」とのべていて、多いに共感するところがあった。

ようするに、生活の問題を解決するのが生活工芸の思想である、と読めた。これは、おれの生活料理の思想と重なるところがあると思った。それに、メディアの権威に頼って仕事している人物が、浅はかな知識でエラそうに定義し意味づけするのではなく、「共通点を探していくことで生活工芸の輪郭が見えてくる」という方法も共感できる。

昨日のエントリー「気分」は続く。今日の日常。」と、その前の「ただよう「気分」と「言葉」。」で書いた、「気分」な文学や飲食とは、えらいちがいだ。

そういうわけで、またもや小便をチビリそうにコーフンしながら、「鑑賞工芸」を「鑑賞料理」に置き換え、「伝統工芸」を「伝統料理」に置き換えて考えてみた。「伝統料理」という言葉は、以前からあるのだが、「工芸」と「料理」は、共通するところと異なるところがあるから、そのあたりから考えが広まるのも、面白い。

「鑑賞料理」は、いわゆる「気分=趣味」のグルメや飲食のための料理と重なるところが多いようだ。

しかし、問題は「生活」という言葉だろうなあ。「生活」は抽象だから、けっこう複雑で、複雑ということは多様で、いろいろな要素や要件がからむ。だからこそ、「共通点を探していくことで輪郭が見えてくる」という方法が必要なのだが。

この「生活工芸」の作品に見られる「生活」は、おれの考える「生活」とはチョイとイメージがちがうような「気分」も残った。そのあたりは、おれのなかの「生活」という概念の幅の問題なのだろう。

とにかく、「生活工芸」と「生活料理」、面白い。ようするに「業界」の外、社会や歴史や自然などに対して、どういうテーマと方法で臨むかなのだ。この、問題の多い時代に。

当ブログ関連
2020/02/17
「惣菜料理」×「宴会料理」

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2020/03/02

「気分」は続く。今日の日常。

東大宮で一番大きなスーパーへ行った。倉庫みたいに大量の商品が並ぶ、ナショナルチェーンの店だ。

米売り場が、無洗米まで含め、一粒もないほどカラ。冷凍/冷蔵のピザやスパゲティも売り切れ、ほかのものも、かなり品薄状態。あと、乾麺も品薄。といったぐあいだ。昨日は、普通にあったのだが。

トイレットペーパーとティッシュペーパーも、引き続き、ナシ。

学校が休みになって、給食は頼れないし、食欲旺盛な子供を食べさせなくてはならない家庭の事情があるかもしれない。冷凍食品は、頼れる?供給元だった中国の状態が、不安の元になっているかもしれない。

前の戦争を持ち出して、日本は「兵站がダメだから」というようなことを言うひともいるが、それはあたっていないと思う。いまの日本の生産から流通のシステム(「ロジスティクス」とかいうやつね)は、じつにキチンと立派にできあがっている。

キチンと立派すぎて、余裕がなさすぎる。いい加減さが足りない。不況続きのなかのコストカットでギリギリ状態でまわしている。つまりバッファがないから、買い占めのつもりなどなくても、子供が休みになったことだし、チョイと余計に必要かなと思って何気なく多めに買ったとしても、その人数があるていどになると、ロジスティクスの全体に影響を及ぼす。

近年、鉄道会社が乗り入れを進めた結果、どこかで故障や事故があると、広範囲にわたって長時間影響が出るのに似ている。

食品の場合、「日販品」といわれる牛乳やパンなど以外の加工品は、たいがい稼働すると一度にたくさんの製品が出来あがるラインの工場で生産される。紙類も、そうだ。一度に大量に生産できる。それを、いったん倉庫に保管し、キチンとした計画に従って配送する。そのための運送方法、手段、時間などは、実績で把握されている需要の状態に合わせ、かなり計画的に決められている。めんどうくせえデータ処理の世界だが、コンピューターと通信のテクノロジーのおかげだ。

1970年代ぐらいまでは、一次問屋、二次問屋、地方によっては三次問屋まであって、製品は分散されストックされる、いわゆる「流通在庫」が多くあって、問屋の地域ごとの対応がやりやすかったが、それらは整理された。トヨタの「看板方式」は、下請け部品工場から組み立て工場への入荷の生産段階でのことだが、それを販売経路に適用させた、と考えればいいだろう。

工場から店頭までロボット化されているようなもので、テクノロジーとシステムに人間がふりまわされ、「お母さんは忙しくなるばかり」が、家事だけではなく、いたるところに広がっているのだ。

スーパーの場合、多品種少量づつの品揃えになっているから、ある品物がそういう事情で品切れになると、すぐには補充されないから、あとの客は同種の別の物を購入する、するとそれもすぐ品切れ、という状態が繰り返され、カラの棚が増え、それを目の当たりにした客がアセルの当然だろう、という循環で、どんどんカラの棚が生まれる。だからといって、ロジスティクスの変更は簡単にはできない。

流通システム上の余裕のなさと客の心理的な余裕のなさが、思わぬことを引き起こす。まるで、サスペンスだ。余裕のない日常とは、サスペンスなのだ。「2,3日様子をみながら」ということができなくなっている文化は、けっこうコワイものがある。

こういう「余裕」のさばきかたの問題は、日常の文化と直結していると思うのだが、「買い占めに走る愚民ども冷静になれ」とエラそうにする文学がけっこう存在する。

昨日だったかな?何かのノンフィクション賞をもらったことがある、著名なジャーナリストだか作家が、モノはあるのだから「冷静になりましょう」というようなことを言っていた。自分は一段高いところにいると思っている。

文学なら、いたるところ余裕のない状態で成り立っている日常を、もっと考えるべきじゃないのか。

そして、「お母さんは忙しくなるばかり」でアタフタしている一方、いい「気分」な飲食の話は、あいかわらず活発で、そのこと自体は、もちろん、とやかくいうことではないが、内容が相変わらずすぎるというか。「食文学同好会」のようなものでして。

トイレットペーパーを「食」の問題として捉える視点はなく、「口に入れるまで」ぐらいを何やら賢そうに文化的文学的に語って気取っている様子は……。ブリッ。

そうそう、昨日のエントリーをご覧になった、存じ上げない方から、こんなツイートがありますよというメールをいただいた。どうもありがとうございました。

赤松利市
@hZoImkE6gPbGnUs
本日新聞社のインタビューを受けました。著作についていろいろ訊かれ「最後に一言」と。
「ツイッターで政治的な呟きをかなりされてますが、担当編集さんから制止されませんか?」
「相応しいくないという助言を頂く場合もあります。ただ元は住所不定無職の私です。今さら怖れるものはありません」
午後6:02 · 2020年2月29日から
https://twitter.com/hZoImkE6gPbGnUs/status/1233678973428584448

というもので、なにやら、中央メディア界隈にただよう「気分」な文学あたりのことがすけてみえるような。

政治的な発言は相応しくないというのが、あのあたりの空気であり気分なのは、なんとなく感じてはいた。だけど、すごく政治的な嫌韓や安倍援護射撃発言やヘイトな発言をする有名な作家がいるんだよね。つまり、「政治的」というのは「反政権的」という「気分」らしいのだ。

そんな「気分」と「空気」のなかで、語られているのが、一見まったく無難に処理された「いい気分」なだけの飲食談義なんだよね。でも、じつは、飲食ほど政治的なものはない。ただ、そのことに目をつぶっているか見えない者たちだけが、中央メディアあたりで「いい気分」になっているだけなのさ。そして、昨今の政治の動きのなかでは、そのこと自体が政治性を持つようになった。

ところで、赤松利市という作家を知らなかったのだが、ツイッターのプロフィールに、「中間小説を書いています。大衆娯楽小説です。『犬』が第22回大藪春彦賞を受賞。62歳でデビューした64歳です。#吉村萬壱 #車谷長吉 #ミヒャエル・エンデ」とあって、おお、すばらしい!と、おれは感動のあまり小便をチビリそうになった。

「中間小説」なんて、ある人たちに言わせたら「死語」だものね。おれも「大衆」なんて言葉使っていると、もう「大衆文学」も「中間小説」も終わっているし、そんなのはさっさと卒業したらどうですか、と、ある自他ともに文芸性の高い品質のよい本を出していると認めているらしい出版社の編集さんに「助言」をいただいたことがある。

とにかく、まずは『犬』を読んでみよう。

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2020/03/01

ただよう「気分」と「言葉」。

前回のエントリーから、一週間たっていないのに、いろいろ世間は騒々しく動きも激しい。ある局面では状況が大きく変わった。

身近のところをあげれば、3日ほど前に、突然、スーパーなどの店頭からテイッシュペーパーやトイレットペーパーが無くなる騒動が持ち上がった。

店頭で知って驚いてネットで調べたら、新型肺炎のためのマスクが買いだめされたり、店頭では品切れや品薄が続いているのだが、そのマスク生産のための紙材料が不足しテイッシュペーパーやトイレットペーパーの生産に影響を及ぼす、というようなデマがキッカケらしい。いくらか落ち着きをとりもどしつつあるが、まだ店頭では品切れや品薄が続いている。

なにしろ、おおもとの新型肺炎については、落ち着いてはいないから、いわゆる「人心」はきわめて不安定だ。それについては、さらに不安定を増大させるようなことがあって、目下、状況は混とんとしているといってよい。

先週27日夕方、日本国の内閣総理大臣安倍晋三が、新型コロナウイルス感染症対策本部の会合で、「感染拡大を防ぐため全国の小中高校に3月2日から春休みまでの臨時休校を要請した」という事態が発生したのだ。

これは報道によれば、専門家会議も知らなかったことだし、「文部科学省は反対したが、首相は押し切って表明」とのことだ。昨日、首相は記者会見を開いたが、いつものように形式的なもので終わっているから、混乱は続くだろう。臨時休校だけでなく、「濃厚接触」から感染の拡大の可能性のある、イベントなどが軒並み中止または延期になり、国立博物館などの展示会場も休館、おれが利用しているさいたま市の図書館も明日から休館になるし、とにかく「不要不急」の外出は避けるということになり、ただし、毎日の激しい濃厚接触がある会社や通勤電車はそのままという、などなど。飲食業は、ようやっとリーマンショック前まで回復したようだったが、また波をかぶることに。

しかも、こうしたなか、「27日のニューヨーク株式市場はダウ平均株価は大きく値下がりし、値下がり幅は1190ドル余りと、1日としては過去最大を記録」「ダウ平均株価の値下がりは、これで6日連続」「これほどの値下がり局面はリーマンショック直後の2008年10月以来だ」というニュースが流れた。株価の動きは単純ではないから、判断が難しいが、きわめて不安定な状況にあることは確かだ。

こういう時は、どういう人たちが何にどんな関心を持っているか、あるいは、持っていないかがよくあらわれるし、その思考の具合もよく見える。

同じようなことが、2008年のリーマン・ショックと、2011年3月11日の東日本大震災と続く東電原発事故のあとにも、あらわれた。そして、平成30年をふりかえる様々な記事を見ても、リーマン・ショックは3.11ほど取り沙汰されてないように、今回も、アメリカにおけるリーマン・ショック以来の株価の下げ幅より、もっぱら新型肝炎がクローズアップされている。

何が起きているのだろう。

先月25日に、『四月と十月』に連載の「理解フノー」の校正を終えた。こんどの4月に発行の分だ。

今回のタイトルは「気分」であり、初めてトイレットパーパーの買いだめ騒動が起きた1973年のオイルショックと、2011年3月11日以後を念頭において書いたものだ。

とくに3月11日以後だが、こうしたことが何故おきるのか、というような面妖なことが、メディアを舞台に続いていたし、そこでは、かつてのオイルショックの頃の「活字文化」をけん引してきて、いまでも中央メディア界隈で小さくない権威を維持しているように思われる「文学」なるものが、まったく機能していないし、コトは歪むばかりなのがナゾだった。

そこを考え続けていたら、少し見えてきたことがあった。もともと、日本の「文学」は歪みやすい脆弱性を抱えていたということになるか。

詳しくふれている時間がないので、「気分」の原稿からつまんでおこう。

とにかく歪んだ状況について、「日常の認識や思考のもとになる言葉や論理など、文学の問題ではないのかという気がしてきた」「そこで思い出した文言。「文学と食い物にはなにか一脈通ずるものがあるとみえて、日本では双方とも「気分」で味わう傾向が強いようである」っての。直木賞作家から「金儲けの神様」に転じた邱永漢の『食は広州に在り』にある」

この『食は広州に在り』は、オイルショック後の1975年に中公文庫になり、おれは当時それを読んだ。

「半世紀前が今も目の前。文学を味わう人たちというと知的存在と思うが。「気分」を「趣味」や「観念」などに置き換えることも可能で、そう読むと「気分」のことがわかりやすい。とにかく、邱永漢もいうように「あまりあてにならない代物だ」。文学も食い物も認識と深い関りがあるのに、「気分」に左右される。さらにメディアの権威にあぐらをかいている「気分」が「正しい」「現実的」なんてことで」

文学も食い物も認識と深い関りがあるのに、「気分」に走っている。公共も論理もへったくれもない状況は蔓延し、問題解決なんかどうでもよく、井戸端会議的オシャベリを文化的文学的な言い回しでやって、何者かになったような「いい気分」でいられる文学が盛りなのだ。

というと言いすぎのようだが、いわゆる「世俗的成功」とみられている中央メディアあたりに存在する文学は、本好き文学好きの「趣味」な仲間に囲まれて「外界=現代の資本主義や資本主義文化」の動きが視野に入っていないように見える。自分のこと=出版業界における自分の位置、出版業界ばかりに関心が高く、出版や文学は自然や社会の何を解決しようとしているのかの問題意識は低い。

そういうことに思い当たり、「気分」を書いたのだが、それ以後の新型肺炎をめぐる動きを見ても、あいかわらず、「文学」と「食い物」は「気分」なのだなあという「気分」は深まるばかり。

しかし、おかげで、みんな何を信じていいのかわからない状況が生まれ、その混とんと、アナーキーとまではいかないが、ややアナーキーな状況は、おれは嫌いじゃない。

不安定ではあるが、だからこその、中央メディアの権威に「意味づけ」を求めない、自らの意味づけは自らするという人たちも増えているかどうかは定かではないが、その発言はそれなりに価値を発揮するようになってきたからだ。

「活字文化」と中核の「文学」が権威として、さまざまなことに「意味づけ」をして、その「意味づけ」をありがたがる存在によって権威は維持されてきた、その構図は、やっと終焉を迎えるか……というのはおれの期待であって、中央の新聞雑誌などに巣くう旧弊な権威は旧弊な土壌でしぶとく生きようとする。彼らは、ほかの見方や方法を知らないからねえ。

「理解フノー」の「気分」の最後のほうでは、「サテ、本一冊買う難儀も取りざたされる日本の資本主義、どうしたらいいか」と書いた。とらえどこがないほど大きく見える資本主義とその文化は、本一冊買う、じゃがいもを買う、トイレットペーパーを買う、といった日常の小さなことに凝縮されている。それを認識できるかどうか、そこに文学が機能しているかどうか。

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