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2020/05/27

画家のノート『四月と十月』42号、「理解フノー」連載23回目「気分」。

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4月発行の42号が届いたときは、新型コロナウイルスの感染拡大が勢いよく進行中だった。

4月7日に新型コロナ特措法にもとづく緊急事態宣言の発令がされた。この段階では、7都府県(埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、大阪府、兵庫県、福岡県)を対象に5月6日までの1か月間だった。それが期間は同じだけど、全国に拡大されることになったのは16日夜に開かれた政府対策本部でのこと。

『四月と十月』は、昨年4月に20周年40号の特別企画を組み、同人のみなさんは今年4月からの「美術同人誌『四月と十月』創刊20周年記念全国巡回展」に向けて準備をしてきた。

この42号が届いたときには、その案内のチラシが同封されていたが、「ご存知の通りコロナウィルス流行のため無事に開催できるか危ぶまれており、今後は状況をみて各会場と相談のうえすすめていく状況です」という文章も一緒だった。

その後、20日すぎに、4月東京、5月大阪、6月名古屋の開催の延期が決まった。7月以降については、6月初めの様子で決めることになった。

詳しくはこちら、四月と十月のサイトを→http://4-10.sub.jp/

本誌表紙は、長野県安曇野のスミレ研究所・所長、金井三和さん。右手を負傷という災難の中での作品だ。

同人のみなさんの作品と文も、あいかわらず興味深く楽しい。なかでも、靴職人の高橋収さんの作品と文が、ここのところおれの頭から離れない「分解」と関係が深いもので、おもしろかった。

タイトルは「さなぎ」。

革と布と針金で作った大きなさなぎの写真に、文の書き出しがこうだ。「数年前からさなぎに興味を持ち始めた。きっかけは何かの番組で「イモ虫が蝶になる時さなぎの中で一度ドロドロの液体になる」と聞いたからだ」と。

このドロドロのことは、このあいだ読んだ藤原辰史『分解の哲学』(青土社)にも、ファーブル昆虫記の話と共に興味深い展開があり、また諸星大二郎『暗黒神話』にも連想させる話があり、そのことが思い出された。

ところで、おれの連載「理解フノー」は23回目で「気分」のタイトルだ。

原稿の締め切りが2月上旬だったから、新型コロナウイルスについては、まだそれほど問題意識も緊張感もなかったが、その後の展開は、ここに書いた「気分」が広く日本を覆った感じで、いまでもいろいろなことがドンドン「気分」に流れているように見える。

なにしろ「気分」で緊急事態宣言にいたり「気分」で解除して、それに国民も「気分」で従っているのだから、なんだか感染や死亡は欧米より少なくすんでいるようだが、データすら杜撰で、どんな対策が効果的だったのか、誰も判断がつきかねて、ああだこうだああでもないこうでもない、「ニッポン不思議」という事態が生まれている。

それは、今回のことばかりでない。そのことがずーっと気になっていて、とくに東日本大震災と東電原発事故以来の「気分」の動きが気になり考えていた、そのことを書いた。

それは、なぜ、このように言葉や論理が機能しなくなったのだろう、これはもしかすると、その中枢を担ってきた「文学」の問題なのではないかということだった。

このことを原稿を書いたあとも探っているのだが、いま、意外なところにたどりついて、ボーゼンとしている。

というのも、日本語が持つ構造、それは「文学」が育て、また日本語が「文学」を育ててきたという関係もあるのだろうが、とにかく、日本語というのは論理が苦手らしいのだ。あの「源氏物語」、あの「枕草子」、あの「徒然草」…、などからして。知らねえよ、そんなもの。

ボーゼンせざるを得ないではないか。おれがいまこうして考えている言葉や論理からして、アヤシイ、ってことになるではないか。日本語自体のモンダイなら、どうしたらいいのだ。もう日本語をやめるのか?いまからほかの言葉を覚えるのか、大変だ、嫌だ。

とにかく、「理解フノー」に書いた「気分」については、このブログの2020/03/01「ただよう「気分」と「言葉」。」でふれているので、その一部をここに転載しておく。以下。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/03/post-4ba878.html

しかも、こうしたなか、「27日のニューヨーク株式市場はダウ平均株価は大きく値下がりし、値下がり幅は1190ドル余りと、1日としては過去最大を記録」「ダウ平均株価の値下がりは、これで6日連続」「これほどの値下がり局面はリーマンショック直後の2008年10月以来だ」というニュースが流れた。株価の動きは単純ではないから、判断が難しいが、きわめて不安定な状況にあることは確かだ。

こういう時は、どういう人たちが何にどんな関心を持っているか、あるいは、持っていないかがよくあらわれるし、その思考の具合もよく見える。

同じようなことが、2008年のリーマン・ショックと、2011年3月11日の東日本大震災と続く東電原発事故のあとにも、あらわれた。そして、平成30年をふりかえる様々な記事を見ても、リーマン・ショックは3.11ほど取り沙汰されてないように、今回も、アメリカにおけるリーマン・ショック以来の株価の下げ幅より、もっぱら新型肺炎がクローズアップされている。

何が起きているのだろう。

先月25日に、『四月と十月』に連載の「理解フノー」の校正を終えた。こんどの4月に発行の分だ。

今回のタイトルは「気分」であり、初めてトイレットパーパーの買いだめ騒動が起きた1973年のオイルショックと、2011年3月11日以後を念頭において書いたものだ。

とくに3月11日以後だが、こうしたことが何故おきるのか、というような面妖なことが、メディアを舞台に続いていたし、そこでは、かつてのオイルショックの頃の「活字文化」をけん引してきて、いまでも中央メディア界隈で小さくない権威を維持しているように思われる「文学」なるものが、まったく機能していないし、コトは歪むばかりなのがナゾだった。

そこを考え続けていたら、少し見えてきたことがあった。もともと、日本の「文学」は歪みやすい脆弱性を抱えていたということになるか。

詳しくふれている時間がないので、「気分」の原稿からつまんでおこう。

とにかく歪んだ状況について、「日常の認識や思考のもとになる言葉や論理など、文学の問題ではないのかという気がしてきた」「そこで思い出した文言。「文学と食い物にはなにか一脈通ずるものがあるとみえて、日本では双方とも「気分」で味わう傾向が強いようである」っての。直木賞作家から「金儲けの神様」に転じた邱永漢の『食は広州に在り』にある」

この『食は広州に在り』は、オイルショック後の1975年に中公文庫になり、おれは当時それを読んだ。

「半世紀前が今も目の前。文学を味わう人たちというと知的存在と思うが。「気分」を「趣味」や「観念」などに置き換えることも可能で、そう読むと「気分」のことがわかりやすい。とにかく、邱永漢もいうように「あまりあてにならない代物だ」。文学も食い物も認識と深い関りがあるのに、「気分」に左右される。さらにメディアの権威にあぐらをかいている「気分」が「正しい」「現実的」なんてことで」

文学も食い物も認識と深い関りがあるのに、「気分」に走っている。公共も論理もへったくれもない状況は蔓延し、問題解決なんかどうでもよく、井戸端会議的オシャベリを文化的文学的な言い回しでやって、何者かになったような「いい気分」でいられる文学が盛りなのだ。

というと言いすぎのようだが、いわゆる「世俗的成功」とみられている中央メディアあたりに存在する文学は、本好き文学好きの「趣味」な仲間に囲まれて「外界=現代の資本主義や資本主義文化」の動きが視野に入っていないように見える。自分のこと=出版業界における自分の位置、出版業界ばかりに関心が高く、出版や文学は自然や社会の何を解決しようとしているのかの問題意識は低い。

そういうことに思い当たり、「気分」を書いたのだが、それ以後の新型肺炎をめぐる動きを見ても、あいかわらず、「文学」と「食い物」は「気分」なのだなあという「気分」は深まるばかり。

しかし、おかげで、みんな何を信じていいのかわからない状況が生まれ、その混とんと、アナーキーとまではいかないが、ややアナーキーな状況は、おれは嫌いじゃない。

不安定ではあるが、だからこその、中央メディアの権威に「意味づけ」を求めない、自らの意味づけは自らするという人たちも増えているかどうかは定かではないが、その発言はそれなりに価値を発揮するようになってきたからだ。

「活字文化」と中核の「文学」が権威として、さまざまなことに「意味づけ」をして、その「意味づけ」をありがたがる存在によって権威は維持されてきた、その構図は、やっと終焉を迎えるか……というのはおれの期待であって、中央の新聞雑誌などに巣くう旧弊な権威は旧弊な土壌でしぶとく生きようとする。彼らは、ほかの見方や方法を知らないからねえ。

「理解フノー」の「気分」の最後のほうでは、「サテ、本一冊買う難儀も取りざたされる日本の資本主義、どうしたらいいか」と書いた。とらえどこがないほど大きく見える資本主義とその文化は、本一冊買う、じゃがいもを買う、トイレットペーパーを買う、といった日常の小さなことに凝縮されている。それを認識できるかどうか、そこに文学が機能しているかどうか。

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2020/05/23

実質最終回 東京新聞連載「エンテツさんの大衆食堂ランチ」90回目、荻窪・やしろ食堂荻窪店。

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3月20日に掲載の分だ。2012年10月に始まった連載は、これが実質最終回になった。
すでに東京新聞のWEBサイトでご覧いただける。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2020032002000194.html

この掲載日には、まだ続くつもりでいたが、体調は悪くなっていたし、食欲は急激に衰えていた。ちょっとぐあいの悪いところに思い当たることもあったが、たいがいは「老化」のせいだろうと思っていた。それが27日に医者に診てもらってから、急転、休載までのいきさつは、当ブログ2020/04/01「東京新聞「エンテツさんの大衆食堂ランチ」は休載。」に書いた通り。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/04/post-f88b3b.html

シンドイ身体で、やしろ食堂荻窪店を訪ねたのは3月12日のことだった。すでに2月14日に「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議」が設置され、イベントの中止や延期など、感染防止対策のいろいろな動きが「自主的」に始まっていたが、飲食店などの営業は変わることなく荻窪駅周辺もにぎわっていた。

ただ、マスクをしている人は増えていたし、おれもマスクをして出かけた。それに、営業している店は、やしろ食堂のばあいもそうだったが、入口の戸を開け放ったり、換気に注意していた。

やしろ食堂は、かつて東京の西側に勢力を張っていたチェーン店だけど、残っている店は少ない。2015年12月に方南町店を紹介している。東高円寺店については、校正が出たあたりだったと思うが、突然の閉店で差し替えになった。高円寺店は、最近は行ってないが、よく利用した。

荻窪店は、荻窪の人気店だ。やしろ食堂への助走にぴったりの、駅北口の教会通り商店街を歩いてすぐだ。

14時ごろになっていたが、客足が途絶えない。若い一人客が多い中、近所の中年夫妻が「一品料理とビールでもいいかな」と聞き、くつろいでいた。

この頃は、ごはん茶碗一杯も食べるのがやっとだったというのに、入り口のボードの「かつ煮定820円」を見て、頼んでしまった。好物なのだ、しかたない。

しかし、いまだかつて出合ったことのないボリュームにおどろいた。かつが二枚、皿の底にびっしり並んでいるのだ。

でも、食べた。かなり無理した。無理しても食べたいうまさだった。

書き出しの「新型コロナウイルスで落ち着かない日々、だからこそ食堂めしをシッカリ食べて力をつけておこう」は、すでに感染警戒から客足が食堂などから遠のく気配がある状況を意識していたが、体調不良の自分に言い聞かせるためでもあった。

とにかく、やしろ食堂荻窪店を紹介できてよかった。ほんと、最後を飾るにふさわしい、いい食堂だ。

しかし、コロナ禍の中で、やしろ食堂もほかの食堂も、みなさんどうしているのだろう。したたかに生きのびてほしい。

「おれの急速の老化からすると、この連載を今年一年続けられるかどうか自信がない」と、3月19日のブログに書いている。それは「老化」ではなく癌のせいだったといまではわかっていることだが。今年は、連載が始まった10月まで続け、紹介したいと思いながらとっておいた食堂を載せて終わりにしようと思っていた。

チョイと早くなったが、7年と半年の連載、これにて、終わり。

本にしないかという話は、いくつかいただいた。いまどきうれしいことだが、本にするつもりで書いてきてないし、お断りしてきた。勝手をいってすみません、お許しください。

ありがとうございました。

過去掲載分は、こちらからご覧いただけます。

http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/cat23482706/index.html

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2020/05/22

癌治療二回目。

19日火曜日は、4週おきの癌治療通院日だった。コロナ禍にからむ「緊急事態宣言」で「不要不急の外出自粛要請」が出ている最中だが、通院は、いいのである。そもそも、感染が怖いから外出したくない人も多いようだし。でも、「不要不急」はひとによって異なるし、いろいろ複雑な状況だ。

雨が降っていた。診察予約は9時半だが、その1時間前に来て採血と採尿をするようにいわれていたので、8時半に病院についた。いつもなら混んでいる宇都宮線は、座席が8割ほど埋まり、4人ぐらいが立っているだけだった。

これまでなかったことだが、病院の入り口に3人ほどいて、額に体温計をかざし体温を測られ、手の消毒をやらされた。もちろん、マスクは家を出るときからしている。

検査室の前は、一人おきに椅子に座って待つ人が、けっこういた。採血採尿をすまし、診察室の前で待つ。ドアの英語表記は「consultation room」だ。

10時少し前によばれ、部屋に。ドア入って、傘を傘立てに荷物を荷物置きにとやっているうちから、主治医が「どうです具合は」と声をかけてくる。声が少しはずんでいる。いい感じだ。

椅子に腰かけながら「快調ですよ、患部の痛み少し違和感が残っているけど痛まないし、病気なんかないみたいです」というと、「薬がよく効いたのでおどろきました」と、先ほど採血採尿した検査の結果を見せられる。

癌の指標となる数値が、当初は基準値の40倍あったのだが、0.01倍ていどになっているのだ。ほぼ基準値ではないか。治療前に主治医は、数値的には、かなり改善されるはずと自信ありげだったけど、その想像をこえていたらしい。

「でも、これで癌が治るってことじゃないですよね」

「ステージ4というのは、それほど甘くないですよ、でも、この調子だと、かなり小さくなります」

親指と人差し指をギュッと孔がないほどまるめて見せながら。

「もう酒は、いいですかね」

「うーん、γ値が高すぎるから、もう少し様子を見ましょう。3か月後にまた精密検査をして治療法を検討しますから、それまでは現状で」

「はあ~」

というようなおしゃべりをしながら、主治医は前回ステージ4を告げたときと比べるとはるかに明るい。医者でも、そういうものか。あるいは患者の気持に寄り添っているということなのか。

小さくても転移のおそれがあるので、それを封じ込める注射もしたほうが万全だからそうしたい、その注射は虫歯があるとできないので口腔外科の検査を受けてもらえないかといわれ、同意する。

次回4週間後6月16日火曜日の予約をし、口腔外科でも予約をし、注射をする処置室へ。自分で血圧と脈拍をはかり待つ。前回は120㏄を腹部の2か所にしたのだが、今回は1か所80㏄のみ。

会計をすまし、帰り薬局によって処方箋を出し薬をもらう。薬も前回と同じ5種。1種は、注射の副作用を抑制するためのもので3日間夕食後に飲む。他の4種のうち、直接の癌治療薬は1種で、他は症状緩和のためのもの。

支払料金は、明細書を見ればわかるが、合計5千数百円だったと思う。前回もそれぐらい。後期高齢者保健の本人負担額1割でこれだ。

薬も人間との相性があるらしい。人によって、効果がちがうようだ。今回、おれはかなり相性がよいということなんだろう。

食事で注意することがあるか主治医に聞いたら、これまでを続けるのがよいというのでそうしている、つまり食べたいものを食べている。ネットを見ると、肉系を避ける献立がほとんどで、そうしている人もいるようだが、薬ですら「相性」というものがあるようだから、身体のことは自分で判断するしかない。ま、なにごとも、自分で判断するものであるが。

2020/04/23
癌治療一回目。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/04/post-89539f.html

 

 

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2020/05/05

中断していた本の原稿に取りかかる。

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先月21日(火曜日)に一回目の治療をしてから、ちょうど2週間。4週おきの通院治療だから、つぎは2週間後という真ん中だ。

21日のあと、5日間ぐらいは患部の痛みや注射の副作用による痛みもあり、ゴロゴロ安静に過ごしていた。1週間たったあたりから、症状はどんどん緩和し、姿勢によって患部に少し違和感が残るていどで、パソコンに向かうのも苦痛でなくなり、よく眠れるようになったし食欲も以前のような感じになった。体重も60キロ前後で下げ止まっているようだ。

ステージ4は治癒の見込みがないらしいのだが、なんだか治った気分。

そのように身体が普通に動き食欲も出て普通に食べられるようになってみると、3月になって痛みが激しくなる前から身体の動きを重く感じたり、あまり食べられなくなったことなどを、なんでも「老化」のせいにして過ごしていたが、ありゃ癌のせいだったかとふりかえるのだった。

とにかく、3月20日すぎに痛みが厳しくなり中断していた原稿に取りかかることにした。ボチボチすすんでいる。

さいたま市の図書館から、2月24日と30日に資料を借りていたのだが、コロナ騒動のおかげで3月2日から3月15日まで休館となってしまった。その後さらに延長、4月7日には「緊急事態宣言」なるものが出され、昨日その宣言が5月末まで延長されることになって、図書館の開館はいつになるのやら。

思い出したが、2月24日も30日も、大宮駅や街中でマスクをしている人は4割ぐらいだった、それも花粉症の人も少なくなかったと思われる。

3月上旬に返却予定の本が、まだ手元にある。おかげで、原稿を中断しているあいだに忘れてしまったことを、パラパラ読み返しては思い出すことができる。

しかし、図書館が開かないと、禁帯出の資料から必要なものを探すこともできない。ほとんどの図書館が休館だから、困っている人も多いようだ。

とにかく、こんなときは、のんびり気長にかまえているより仕方がない。セカセカせずに、じっくり考えられるから、それがいいこともある。

この間に、昨年6月発行で直後に担当の編集さんからいただいた、田中祐理子『病む、生きる、身体の歴史 近代病理学の哲学』青土社を読み終えた。読み始めてしばらくは、読んではつまずきながらだったが、最近の「コロナ禍」の環境で、自分の病気もあり、じつにタイムリーな内容、一気に完読できた。

10章「自生するものについて―アメリカ、二〇世紀をめぐる試論」は、毎日のようにニュースになる「PCR」の開発の話で、「バイオテクノロジー」の物語でもある。アメリカの「新しい科学」って、なんとなく胡散臭いイメージを持っていたが、それを生む思想や精神は、なかなか興味深いものがあると知った。

この10章は、三部構成のうちの「Ⅲ」に属し、「生をとらえる・もとめる」というタイトルがついている。この本を読み終えて、おれの「書く」という作業は、「生をとらえる・もとめる」作業でもあるのだな、と思った。

それから、人はみな「壊れかけ」を生きているのだと知った。生きている社会も「壊れかけ」であり、身体も社会も絶えずメンテナンスが必要なのだ。「生をとらえる・もとめる」作業は「メンテナンス」と関係がある。これは、藤原辰史さんが『分解の哲学』青土社で述べている「メンテナンス」とも関係があると思う。といったぐあいに、いろいろつながり、なかなか面白い。

「食べること」も、「生をとらえる・もとめる」ことにほかならないだろう。

それにしても、「新型コロナウイルス」をめぐる対応には「ウイルス悪い、人間正しい」という思想の危うさもあるような気がする。微生物をめぐっては「発酵正しい、人間正しい」ってのもあるようで、これも危うい感じだ。「生きているものをとらえる難しさ」なのか。

『病む、生きる、身体の歴史 近代病理学の哲学』のもくじは、こちら。学術書なので、おれにとって難解のところも少なくなかったが、いまのタイミングだからこそ理解できることが多かった。
http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3301

『現代思想』青土社の最新5月号は、緊急特集「感染/パンデミック」で、そのものスバリだ。目下つまみぐい中。田中祐理子の寄稿もある。

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