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2020/06/01

「言葉」と「気分」と「台所」。

藤原辰史『ナチスのキッチン 「食べること」の環境史』(共和国2016年7月)、終章「来るべき台所のために」には、「食べたいから作る、ということは、少なくとも、未来の台所にとっての基本方針であると私は考える」とある。

続いて、「それほどまでに、食べものは、食品産業と栄養学と家政学によって、選ばされているからである」いう。「選ばされている」には傍点がついている。

さらに、「「食べること」の救出に向けて」のタイトルがついている「あとがき」では、「近代キッチンの五里霧中状態、「食べること」の凋衰(ちょうすい)」を指摘し、「では、どうして、「食べること」はここまで衰微してしまったのだろうか」ということについて、述べている。

この本は本文だけでも448ぺージもあって、モノサシをあてて測ってみたいほど厚いし、内容は濃く、噛んでもかんでも食べごたえが減らない食べ物みたいだ。その終章とあとがきにあることだから、この本を読み切らなくては、いまあげた部分については、わからないかもしれない。

そこのところを、あえて簡単にまとめてみよう。

いまおれたちの「食べること」は、ナチスの時代を通じて究極の機能主義に高められた、「人間のなかに台所を埋め込むこと」と「台所のなかに人間を埋めこむこと」の陥穽にはまっている、それではどうしたらよいか、ってことなのだ。と、おれは読んでいる。

栄養学は「人間のなかに台所を埋め込むこと」に多大な貢献をし、家政学は「台所のなかに人間を埋めこむこと」に多大な貢献をし、食品産業が、それらと支えあう構造を担ってきた。そこから抜け出せるのか。

だけど、日本の大半の人びとは、どうだろう。

だいだい、「食べること」は、そんなに衰微しているのか、こんなに「豊かに」食べ物があって、食べることを楽しむ話題がごまんとあって、盛んに飲み食いしているのに。

だいたい、選ばされてなんかいない、自分たちは「選んでいる」。

そんなふうに思うんじゃないだろうか。

ことしの7月で、拙著『大衆食堂の研究』が出版されてから25年になる。その本では、こういう人びとに「生簀文化論」をあて、「てめえの胃袋は食品会社の端末機か」と吐いた。1995年のことだ。

いま、ちょいと、これらのことに関連することを、備忘の意味で、メモしておきたい。詳しくは、こんど出す予定の本で述べるつもりだが、身体のこともあり「予定」はどうなるかわからない。

前回のエントリー「画家のノート『四月と十月』42号、「理解フノー」連載23回目「気分」。」の続きになる。前回は、邱永漢の『食は広州に在り』から「文学と食い物にはなにか一脈通ずるものがあるとみえて、日本では双方とも「気分」で味わう傾向が強いようである」を引用した。こんどは、いまのことだ。

西江雅之『食べる 増補新版』(青土社2013年9月)は、「「ことば」を食べる時代」について述べている。

「ここ二、三〇年を見ると、食べ物をめぐる事態はすっかり変わりました」という。つまり「栄養主義の時代から、飽食の時代に移り変わり、いまや、亡食の時代に入り込んでしまっていると言う人びともいます」と述べている。「亡食の時代」というのは、あまりよい表現とは思わないし、著者の言葉ではないのだが、藤原辰史の「凋衰」に通じるところはある。

ようするに、「ことば」に躍らされて、「自分にあった味を求める。その味覚をさらに磨く。現実には、こうした考えは非常に弱まっています」ということなのだ。「多くの人びとは「食べ物」そのものではなくて、「食べ物」を包んでいる「ことば」を食べているとさえ言えるでしょう」

おれのようなライターは、そのように「食べ物」を「ことば」で包む仕事で糊口をしのいでいるわけだが(おれのばあい糊口をしのげるほどの仕事はしてないけどね)、もっと大々的にマスメディアを舞台に、そういうことをしている広告の著名なコピーライターの指摘が刺激的だ。

谷山雅計『広告コピーってこう書くんだ!読本』(宣伝会議2007年9月)は、「80年代は納得の時代、90年代以降は空気の時代」について述べている。

納得には、多少は論理つまり思考が必要だが、空気を動かす言葉や気分にはそんなものはいらない。「なんとなくそうですよね」「そういう感じなんですよね」「デスネ」「でしょ」

バッチリ、納得だ。

そして、「ことば」に包まれた「食べ物」がメディアを賑やかに飾り注目を集め、「食べること」を語る「ことば」は衰えてきた。

人びとは、自分は「選ばされている」と思う余裕もないほど、食べ物と「ことば」は洪水のようにあふれ、ツイッターやインスタグラムなども駆使し、追いまわすのに忙しい。そして選んだ「気分」になっている。それが「選んでいる」ということ。

ライターたちは、よりあまり知られてないような新しいネタや珍しいネタを、新鮮で魅力的な「ことば」に包んで提供するのに忙しい。そして選んだ「気分」になっている。それが「選んでいる」ということ。

そのように、本人が気づかないうちに、あるいは夢中になっているうちに、ジワジワと「衰微」細胞が癌のように広がってきた。ステージ4?それとも末期?

ミステリアスですねえ。

時間がないので、後半とばしてしまったが、藤原辰史さんの「「食べること」の救出に向けて」は、もっと掘り下げてみたいし、掘り下げがいがある。

「食べたいから作る、ということは、少なくとも、未来の台所にとっての基本方針である」は、「「食べること」の救出に向けて」、日々の台所で追求したいね。そうしよう。容易ではないが。

80年代以後の、ゆれまくっている資本主義をどう生きるかのことでもある。

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