« そして誰もが「評論家」になった。 | トップページ | 激動の半年の最終日、病院で血液検査。 »

2020/06/29

「家事評論家第一号」吉沢久子。

2020/06/24「25年の節目と時代区分で、コーフン」(http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/06/post-bf6cef.html)以来、頭の中を、戦後の25年区分、「近代」「ポスト近代」「ロスト近代」が占拠している。

この区分の下敷きであり、かつ見田宗介の「理想の時代」「虚構の時代」をバージョンアップしたという大澤真幸の「理想の時代」「虚構の時代」「不可能性の時代」という区分も捨てがたい。

1945年~60年代後半 「近代」 「理想の時代」
70年代~90年代中頃  「ポスト近代」 「虚構の時代」
90年代中頃~      「ロスト近代」 「不可能性の時代」

こうして並べて、自分の経験と照らし合わせてみると、とてもイメージがわく。

とくに、この区分から台所を見たり、台所からこの区分をみたり、と、いろいろふりかえっているうちに、思い出すことが少なからずある。

すっかり記憶から抜け落ちていた人を思い出した。記憶は、アヤフヤなものだけど、あれほどメディア(おれの記憶にあるのは主に雑誌だが)に登場し活躍していた人でも、簡単に記憶から消えてしまうことに、自分でもおどろいた。考えてみると、自分も「生活料理」といいながら、この人に言及してこなかったし、近年の「家庭料理」や「料理研究家」などに関する著述でも、ほとんど見かけない。

いそいでWEB検索したら、なんと、昨年3月に101歳で亡くなっていた。失礼だけど、もっと昔の方のように思っていた。

この人は、「近代」から「ポスト近代」の「家事」や「家庭料理」あるいは「台所」を考えるとき、はずせない。

「家事評論家第一号」の吉沢久子だ。

「第一号」であることは、検索で知った。とにかく、「家事評論家」で活躍した。と、過去の人にしまってはいけない、90歳を過ぎてからの近年も、「家事評論家」として現役で、エイジング方面でたくさんの本を出している。

清流出版のサイト、「加登屋のメモと写真」には、このような記事がある。
http://www.seiryupub.co.jp/blog/2019/05/post-156.html

…………………………………………
 吉沢さんの略歴に触れておこう。1918年、東京都江東区深川のご出身で文化学院文科卒業。1941年に速記者から始まり、古谷綱武氏の秘書を務めてから出会ったことをきっかけに1951年に結婚。綱武氏が10歳年上だった。秘書時代は文化学院、東京栄養学院、東京学院に学んだ。生活に関することを経験に生かし評論家となったが、1969年に「“家事評論家”廃業宣言」と書き話題となる。

昭和30年代は「もはや戦後ではない」といわれ、日本経済が急速に発展した時期にあたる。一般家庭にも洗濯機や炊飯器が出回るようになり、女性は厳しい家事労働から解放されるようになる。吉沢さんの活躍の場が一気に増えた。どうしたら炊飯器でも、薪で炊いたご飯と同じように美味しく炊けるか、メーカーが工夫をする中でアドバイスを求められた。電化製品ばかりではない。新型の鍋や台所用品なども出回り、その上手な見分け方や使い方を実際に使ってみて体験的にアドバイスをするなどの仕事もしている。着実に家事評論家としての地歩を築いていった。
…………………………………………

古谷綱武のことも、すっかり忘れていたなあ。文芸評論家として、ずいぶん活躍していたし、人気もあった。離婚して、吉沢と結婚したのだ。

「女性は厳しい家事から解放されるようになる」は疑問だが、台所の近代化で、「吉沢さんの活躍の場が一気に増えた」ということは、近代化と「評論家」の関係をも語っているようで、おもしろい。

アメリカでも、「家事アドバイザー」をめぐって同じような傾向がみられるようだ。ということを合わせて考えると、「評論家」は、コマーシャリズム(商業主義)やマーケティングと親和性が高いといえそうだし、昨今の「評論家」などは、ほとんどの分野で、「癒着」といっていいほど、かなり濃密な関係にみえる。

2014年、96歳のときに出版した、『明日も前へ: 歳を重ねても楽しいことがいっぱいある』(PHP研究所)は、kindle版があり、ネットで部分的に「立ち読み」もできる。

そこから台所がらみを拾ってみた。

…………………………………………

第三章 台所こそ長生きの源です

毎日欠かさず立つ場所だから、「普通」が一番
ひとりで食べきれないものは作らない
ひとりサイズの食生活には、冷凍のワザを
骨董の器には不思議な包容力がある
台所用具を長く愛用する秘訣は、「自分に合わせていく」こと
手の力が弱ってきたら、道具を変えて対処します
ひとりの食事でも、だらしなくなることはりません

毎日欠かさず立つ場所だから、「普通」が一番。
綺麗すぎず、便利すぎず、機能的すぎず……
でも安全対策はしっかり。それが私の台所です。

●身になじんだ「普通の台所」
 「家事評論家」という肩書きのもと、料理番組の司会をしたりお料理の本を出したりしてきた私ですが、自分が使う台所はいたって「普通」です。
 普通がいい、便利な道具が揃ったピカピカの台所では料理をしたくない、と常々思ってきました。だって世の中の奥さんたちは皆、そうして台所に立っているのですから。その視点からかけ離れた環境を作ってしまうと、作る料理にも書く内容にも、どこかズレた要素が出てきてしまうのではないでしょうか。
 ところがそうは言いつつ、取材などで台所を見に来られた方から見ると、「普通」とは違うところも少しはあるようです。
 そのひとつが、私の「地震対策」。

●あえて動線を長くとり、運動不足を防止する

 この考え方は今に始まったことではなく、昭和30~40年代の頃から意識していました。
 というのもその頃、家事評論の世界では「動線を短くして家事を合理化せよ」ということが盛んに叫ばれていて、私はそれに対し、諸手を挙げて賛成できない気持ちでいたです。家事を通して少し運動量を増やすほうが健康的なのでは、というのが私の考えでした。
 この台所も、動きが「最短距離」にならないように作られています。

第六章明日も前へ――100歳への夢

「家事評論家」という仕事に就く、その原点は
時代の移り変わりのなかで、昔の日本が失われていく
私が家庭で実践していた、ちょっとしたアイデア
綺麗すぎる台所だと美味しい料理はできない
「考えない家事」から「考えて行う家事」へ
新聞のコラムを半世紀近く書き続けています
『台所の戦後史』の執筆を目指しています

私が家庭で実践していた、ちょっとしたアイデアを
「記事にしてほしい」と頼まれたこと。
「家事評論家」と呼ばれるようになる
第一歩でした。

●家事評論家? それとも生活評論家?

 現在、私の肩書きは「生活評論家」となっていますが、この仕事を始めたときは「家事評論家」でした。この肩書きのもと、私は「料理を中心に、家事全般に関するアイデアを伝える」という仕事を始めます。
 その後「家事」から「生活」に変わったのはなぜかというと、ひとり暮らしになってから、家事をしなくなったためです。
 家事を家事と呼べるのは、家族のいる生活を切り回してこそだと、ひとり暮らしになった私は痛感していました。ひとりなら面倒な作業はなく、効率よくこなそうと知恵を絞る必要もないのです。「だから家事に関して教えるなんてもうできないわ」とお話ししたら、この新しい肩書きを頂戴することになりました。
 でもこの二つの肩書き、実はいずれも、自分で名乗ったことはないのです。どちらも、周りの方々につけていただいたものです。
 そのときの仕事、つまり私の初仕事は、新聞社に勤める夫の友人に、「あなたがしている生活の工夫をぜひ読者の紹介したい」と言われて書いた記事でした。 
 書いたあと、はたと困ったのが「吉沢久子」の身分をどう説明すればいいのか、ということ。「主婦」では変だし、どうすべきか……とその方はいろいろ考えた末、家事評論家という名前を考案してくださったのです。
 こうして私は、今も続けているこの仕事を始めることになりました。
 家事評論という分野自体がまだまだ未開拓だった、昭和20年代の話です。

綺麗すぎる台所だと、
美味しい料理はできない。

●『テレビ料理教室』の司会を担当

●「綺麗な台所」で料理はできない!?
 江上料理学院院長・江上トミ先生とも何度もお仕事し、親しくお付き合いさせていただきました。
 そしてお話しするうちに、先生の思わぬ「本音」を聞くこともありました。
 当時日本では、戦後の復興と住宅環境の激変のなかで、「台所改善運動」というものが盛んに行われていました。これまでの日本の住宅に北向きの台所が多いのは女性の地位が低かったからだ、といった考え方のもと、これからの女性の地位向上のためには台所の改革が必要だとされ、清潔で機能的で快適な空間を追求する動きが強まっていたのです。
 そんななか、江上先生は「あまり綺麗な台所だと、美味しい料理はできませんよ」とおっしゃっていました。汚すのが嫌だから料理をしたくない、と思う人が増えてしまうというのです。言われればたしかにそのとおりで、ピカピカに調理台で魚をさばいたり、傷ひとつないシンクで調理器具をゴシゴシこすったりするのは少しためらわれるものですね。
 でも、それは決しておおっぴらに言えることではありませんでした。ですからこれは二人の間だけの、内緒のおしゃべりだったのです。
…………………………………………

といったぐあいで、なかなか貴重な証言だ。おれは、江上トミとは、市ヶ谷の学院があるビルの上にあった自宅で2回ほど会った。懐かしく思い出した。

ほかに、日本記者クラブのサイトの「取材ノート」のコーナー、ベテランジャーナリストによるリレーエッセー「私が会ったあの人」に、「私が会った若き日の吉沢 久子さん(藤原 房子)2011年11月」も、おもしろい。
https://www.jnpc.or.jp/journal/interviews/23578

吉沢久子は、おれのなかでは、「近代」「ポスト近代」の人だ。つまり、いま、なのだ。

時間がないので、ここまで。

 

|

« そして誰もが「評論家」になった。 | トップページ | 激動の半年の最終日、病院で血液検査。 »