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2020/06/26

そして誰もが「評論家」になった。

先月のことだが、かの有名な内田某による書評が、書評の対象となった本の編集者によってネット上で批判にさらされるということがあって、ツイッターなどで話題になった。ネットならではのデキゴトで、すばらしい。

編集者の批判は、「800字という限られた文章量の半分以上、控えめに計算して全57行中42行を、対象となる本ではなく《自分語り》に費やす文章を《書評》とは呼べない、と私は考えます」という趣旨だった。

ネットでのざっとの印象では賛意の言及が多かったようにみえたが、賛否というより、書評も変わってきた、そういうのもありだし、自己宣伝のために書評を利用することすらあるではないか、というような指摘もあって、なかなかおもしろかった。

おれは、その議論はともかく、以前から気になっていることがあった。

1995年頃から25年のあいだに、書評は大きく変わったと思っている。「書評」ばかりでなく、「批評」や「評論」あるいは「レビュー」といったもの、まとめてなんといえばいいのか(「言論空間」「言説空間」でいいのかな?)、ああだこうだ評価することの、目的や方法や作法などすべて変わってしまった。それがいいか悪いかではなく。

その変化の先鋒は、80年代初頭の「料理評論家」の登場だと思うし、彼の本は、この人が書評に取り上げれば売れる、といわれた丸谷才一の書評で、ますます箔がついて売れた。

もともと丸谷才一も『食通知ったかぶり』を著していたし、60年代から70年代に流行の「飲食談義」「味覚談義」などの著作は、「文士」といわれる人たちが主な担い手であり、食べ物は「文芸」のネタだった。

そういうものと「料理評論家」による料理評論は異質のもの、と、読書人のたいがいは考えていたと思う。

丸谷が、なぜ「料理評論家」の本を扱ったのか、ほんとうのところはわからない。『食通知ったかぶり』に見られる、丸谷の飲食を語ることに対する逡巡ぶりを考えると、書評欄担当の編集者の押しだった可能性も否定できない。掲載紙は『週刊朝日』だった。

おれとしては、これは、少なくとも「書評界」と「料理界」の大きなジケンとして記憶に残った。80年代的現象だった。

何か、はわからないが、何か、が「変質」し始めていた。

その変質は、情報過剰のバブルを経て、少しずつあきらかになった。

あのころ「情報化社会の申し子として誕生し、成長し続けるオタク」が注目を浴び、そのオタクを評論する「オタク評論家」まで出現した。

過剰な情報の中で、ある分野に詳しい、ある分野について一生懸命である人たちが、情報消費のリーダー的存在になる状況が生まれたのだ。

それが、「評論(を書く人)」や「書評(を書く人)」として、メディアや世間に迎え入れられた。

この傾向は、95年を境にインターネットが普及するにしたがい、メディアの一角というより中心部にどっかり座った。

「ある分野」は、ますます細分化されクラスタ化され、それぞれに情報消費のリーダー的存在が位置するようになった。

もう一つ。

かつての「書評」は、「活字文化」と共に発展したわけだが、「活字文化」の頂点に立ちリードしていた新聞は、ちょうどバブルの頃をピークに販売部数が減少に転じる。

95年頃、拙著『大衆食堂の研究』が出たあとだが、新聞の書評を見た人が実際にどのていど購入するかを調べた記事があった。朝日新聞の書評欄がダントツで80%だったのが年々低下している、ほかの書評欄は推して知るべしというようなことが書かれていて記憶に残っている。権威性の基盤が崩れだしたのだ。

「活字文化」の衰退は、「活字文化」によって立っていた書評の変質を加速させたといえるかもしれない。

「書評」は、情報消費のリーダー的存在として変質することで生きのびた。それは「文化」が創造性を失い「消費」に飲みこまれる過程だったともみれなくはない。

そういう昨今の「書評」は、あるていどの文章の技さえあれば(ネットならそれもいらないか)、かつてほどの教養や知性や読解力を必要としない、ま、ただの情報消費空間のにぎわいの一角になったといえる。

1クラスタに1人あるいは何人かの、情報消費のリーダー的存在としての「書評(を書く人)」が位置し、かつてほどの教養や知性や読解力が必要とされないがゆえに誰もがそういう存在になれる可能性があって、メディアは回転し消費が動く。そんな感じかな。

そういうことをあらためて考えさせられたのだけど、これ、一昨日から書いている、「ポスト近代」や「ロスト近代」と深い関係がありそうなのだ。それについては、また。

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