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2020/10/20

25年前の「いかがわしい無名文化の探求」。

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薬が効いて症状が安定しているうちにと、「身辺整理」をやっている。といっても、自分の作業場を物理的に片づけているだけなのだが。

すっかり忘れていたものが、いろいろ出てくる。

25年前、出版ニュース社発行の旬刊誌『出版ニュース』10月上旬号に載ったものだ。1995年7月の『大衆食堂の研究』刊行のあと、すぐのタイミングで原稿依頼があったにちがいない。

「書きたいテーマ・出したい本」のコーナーで、著者から出版社への売り込みのページ、ということだった記憶がある。だけど、出版したいという版元はあらわれなかった。ま、そうだろうね。

だいたい、ライターになるつもりはなく、また本を出そうという気はなかった。当時、出版ニュースの編集の方には、『大衆食堂の研究』を気に入っていただき、何度か会い酒も飲み、もっと書くようすすめられたのだけれど、自分のことのようには思えず、おどろいたりとまどったりだった。

とにかく、「いかがわしい無名文化の探求」と題した一文、そっくりここに転載しよう。

『大衆食堂の研究』もそうだけど、猪瀬浩平さんの『分解者たち』の帯文にある「「とるに足らない」とされたものたちの思想に向けて」という言葉を借りれば、「「いかがわしい」とされたものたちの思想に向けて」とでもいえるだろうか。

街から「いかがわしい」とされたものたちがどんどん排除される流れは依然として続いているし、文化の中心部では、強くなっているようだ。ときには、「昭和」な希少価値として美化され、情緒マーケティングのネタにされながら。

一年間の新刊目録でもある『出版年鑑』を発行し続ける偉業を残して、出版ニュース社は、昨年4月30日で事業を停止した。


いかがわしい無名文化の探究

「あっぱれサバのみそ煮」という感じを、やりたい。たとえば、渡辺淳一は小説『化身』で「サバのみそ煮」をくいにいきたがる女主人公里美を登場させる。それが「サバのみそ煮」でなければならない理由を考えてみよう。ナンテはじまるのだ。「サバのみそ煮」に独特の感情をもち共通のイメージを描く日本人がいる。「サバのみそ煮」の「味わい」はなんなのか、「サバのみそ煮」からみえてくる情景をわたりあるきながら考える。もちろんいろいろな「サバのみそ煮」が登場する。生活の数だけ「サバのみそ煮」がある。「サバのみそ煮」がいまだに人気メニューの大衆食堂にはいってみれば、食堂のオパサンの手によるそれぞれの味つけがある。焼き魚も刺身もショセン焼くだけ切るだけだから、そこには、じつは、家庭の味もなければ日本の味もない、といいたくなる「深さ」「あたたかさ」が「サバのみそ煮」にはある。それは「生存の文化」ともいえるものなのだ。これを棄てたままモノゴトを考えるなんてイケナイことだ。そもそもこの活力はなんだ、と、おれは「サバのみそ煮」をコツコツくうのだった。
 この「あっぱれサバのみそ煮」の発想は、既刊の『大衆食堂の研究』(三一書房)と親戚関係といえる。つまり「いかがわしい無名文化の探究」なのである。一昔前まで「民衆文化」とか「大衆文化」などといわれていたなかには無視され棄てられいかがわしい存在になりながら、けっこうエネルギッシュに生きているものがある。そこには生存にかかわる大切な「何か」が凝縮されて残っているような気がする。その熱源のそのままを、郷愁の「激情駄文乱れ打ち」にのせて、発散させたい。「生存の力」「生業の戦略」「田舎者の根性」という視点を掘リ下げながら。そういう発想のひとつなのです。「サバのみそ煮じゃ本にならないよ」といった食文化だか料理だかの専門家がいたが、舌と手技とこころの「ウンチク見世物料理」の手にはおえない食べ物だ。わかってね。

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