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2020/11/19

都市的風景と農的風景の断絶、『スペクテイター』最新号「土のがっこう」。

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一昨日、小春日和。

うちの近くを流れる見沼代用水西縁を遡ってみた。

すでに途中まで歩いたことがあるのだが、こんどはもっと先まで歩き、かといって40キロ以上歩かなくてはならない利根川取水口までは無理だから、はるか手前、ここ東大宮の一つ先の蓮田駅へ出た。

以前このブログに書いた「都鄙臨界地帯」に立って見ると、都市的風景と農的風景のギャップの激しさは「断絶」ともいえそうで、あらためておどろくばかりだった。それは都市的環境と農的環境のギャップそのままではないだろうけど、それだけに、ここからの視点が何かを示唆しているようで、気になった。

2009/01/09
東大宮-蓮田、東北本線「都鄙臨界地帯」と麦味噌。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2009/01/post-7848.html

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上の写真。16号東大宮バイパスをこえると、都心から続いていた家並み街並みはトツゼン姿を消し、田畑があらわれる。

写真手前が見沼代用水西縁、田畑に水を供給する水門があって、その向こうに耕作地が広がる。右上に16号東大宮バイパスが城郭のように都市的環境を取り囲んでいるのが見える。

このギャップは「断絶」といってよいほど大きなものになっているようだ。都市的風景で「生きる」ものと農的風景で「生きる」もの。その隔たりを象徴しているように思われた。

農的風景に暮らしていても、「生きる」については、都市的風景の方を向いている人たちも少なくないだろう。それは、農的環境を抜けて蓮田駅へ出る過程でも、目にすることができた。

利根川取水口から下ってきた見沼代用水が、「西縁(にしべり)」と「東縁(ひがしべり)」に分かれるところがあった。ここで分かれた用水の西縁は、うちの近くで見沼田んぼに入り西側を流れ、東縁は迂回して見沼田んぼの東側を流れる。(下の写真、右真っすぐが西縁、左へカーブが東縁)

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この分岐は、見沼代用水が綾瀬川と交差する右岸にある。対岸の左岸には用水の水門が見える。用水は、どうやって綾瀬川をこえているかというと、川の下をくぐる「伏越」の立体交差になっているのだ。

分岐のところには赤レンガの構造物の跡があって、「上尾市登録文化財記念物(史跡) 瓦葺掛樋跡」の掲示があった。

見沼代用水は1728(享保13)年に開削されたのだが、当初から1961(昭和36)年までは、綾瀬川の上に木造の樋を架け水を通していたのだ。

ちなみに、ここで分岐した西縁は、見沼田んぼの西側を通るために見沼田んぼの真ん中を流れる芝川をこえなくてはならない。うちの近くにその立体交差があるのだが、ここでは芝川が西縁の下をくぐる構造になっている。

そうして、太古の昔から沼地だった見沼は干拓され耕作が可能になった。

その土と水と人の歴史が、これらの景色にはあるし、それは「生きる」や「食べる」の歴史でもあるはずだが、都市的風景の視点からは、すっかり遠いものになってしまった。

そもそも都市的風景のなかでは、土にふれる機会さえ、わずかになった。

認識は環境に左右されることが少なくない。これだけのギャップがあって、「生きる」「食べる」ための認識はうまくいっているのだろうか。こころもとない。

この風景を見ながら、都市に暮らす多くの人びとは、農的環境によって「食べる」ことや「生きる」ことが支えられているにも関わらず、認識のほうはというと「経済」や「金」に大きく偏り、これさえあればなんとでもなりますという感じの「極論」もメディアでは力を持っているようだし、経済や産業のことは日々目にし耳にするが、土と水と人との関係の知識や認識は貧弱で、かなりおざなりできているような気がしたのは、今月の始めに、10月30日発行の『スペクテイター』最新号「土のがっこう」を編集部の赤田祐一さんにいただいて読んでいたからでもあるのだが。

おれの知識や認識も、かなりいいかげんだった。

「土のがっこう」によれば、日本の学校教育では、「土」に関する教育がまっとうに行われたことはなく、まっとうな教科書もないらしい。それもあってだろう、この号は「土のがっこう」になったにちがいない。

自分のことを思い出しても、「土」を含んだ「生きる」環境の全体像の認識は、学校と縁がなくなってしばらくたった1970年代ぐらいからだった。

それは、すでにあれこれ書いているように、「食」や「食文化」に関わる仕事をするようになったこと、70年代から強まった「デカルト主義」といわれたりした「近代合理主義」を批判する言説やカウンターカルチャーなどとのであいがあってのことだ。おれは、いわゆる「無農薬有機栽培」や「自然農」を営む人たちとも関りを持つようになった。

「食文化」という言葉は広く流通するようになったが、それが土と水と人との関係で成り立ってきたし、いまも成り立っていることは、すっかり忘れられてしまい、多幸症的消費の重要アイテムとして話題を集めることが多いようだ。

それもまた、都市的風景がはらむ認識といえそうだ。

人は、土とどう関わってきたか、関わっているか、は、食文化の根幹のことだ。とくに日本の場合は「米」もからんで。

とかとか、今日は、じつは、『スペクテイター』最新号「土のがっこう」について紹介する前ふりのつもりで書いた。

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上、蓮田駅へ15分ぐらいのところ。下、蓮田駅。

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2020/11/16

『にあんちゃん』の頃。

文句なしの「小春日和」。ガラス窓越しの穏やかな陽にあたりながら寝転がり、手の届くところにあった関川夏央『砂のように眠る むかし「戦後」という時代があった』(新潮文庫97年)をパラッとめくり、「『にあんちゃん」が描いた風景」の適当なところを読んでいて、おどろいて起きあがった。

『にあんちゃん』の著者安本末子は、おれと同じ年の昭和18(1943)年生まれなのだ。

おれは何をかんちがいしたのか、もっと年上の人だと思っていた。

彼女は2月生まれで、おれは9月なので、学年はひとつ上だが、そんなことは問題ではない。

おれが光文社カッパブックスの『にあんちゃん』を読んだのは高校1年生のときだったと思う。高校の、図書室で見つけて借りた。とくに書物に関心が高くなくても、話題の本だった。

それで読んだのだが、そのときからずっと、著者はおれより年上と思っていた。6歳上の一緒に暮らしていた従姉と同じくらいという漠然としたイメージを持ち続けていた。

自分に照らし合わせて、小学校3年生や4年生で、こんなには書けっこないと、思い込んでしまったこともあるかもしれない。

10歳ぐらいの小学生が書いた日記ということだけで、著者の生年などは注意もしなかったこともある。だいたい著者の生年を気にするようになったのは、かなり年をくってからだ。気にしたことがなかった。

それで、同じ年の生まれと知って、ますます10歳ぐらいでよく書けたなあという思いと、それに比べ、いや比べなくても、おれはかなりボーっとしていたのだなと思った。

「安本末子という少女が小学校三年生から五年生までつけていた日記の集成で、昭和三十三年に光文社からカッパブックスの一冊として刊行された」

昭和三十三年は1958年、おれが高校に入学した年だ。

「きょうがお父さんのなくなった日から、四十九日目です」と書き始まるのだが、その日付は二十八年一月二十二日。つまり「お父さん」は前年の十二月に亡くなっている。母はすでに末子が3歳のときに亡くなっている。

長男二十歳、長女十六歳、次男(にあんちゃん)十二歳、次女末子十歳が残った。

在日コリアン2世、親が死んで自分たちの家というものがなくなった、身寄りもない。

その生活は、「貧乏」という言葉では足りない。

おれが10歳の頃というと、おれのうちも貧乏だったし、貧乏は珍しくなかったが、にあんちゃんたちはケタというか状況がちがいすぎる。

おれの家は、父親が詐欺にあい家業が崩壊、父母は離婚し家庭も崩壊というアリサマが、ほぼ10歳の一年だった。そのあとの一年は、父母がまた一緒になり、田舎町では珍しい下宿屋、廊下には小便の臭いが満ち、アル中の男の怒声と女と子供の泣きわめく声が一日に一回は鳴り響く、貧民窟のようなところで親子3人窓のない4畳半一間で暮らしていて、それが「悲惨」「不幸」であるかどうかは外からの見方であって、おれはにあんちゃんたちのように腹を空かし飢えた記憶はなく、たいがいボーっとしていた。ま、能天気な子供でいたと思う。

実際のところ、あの頃のことは、もう遠い昔すぎて思い出しようがないのだが、とにかく、日記を書こうなんて思ったことはない。夏休み帳の日記だって満足に付けたことがない。作文は大嫌いだった。

だけど、同じ頃、同じ年ごろの少女が、ちがう空間で、あのような日記を書いていたのだ。そのことをあらためて思い、おどろいた。

文章からしても、安本末子は、賢い子だったように思える。

『にあんちゃん』は映画やテレビドラマにもなり本は売れ、にあんちゃんたちは貧乏から脱出し、著者は早稲田大学へ進学する。

おれのほうは、戦後10年の中学から高校のあいだ、いったん盛り返し家まで建てた父親の商売は業界ごと低落傾向、当時は一家に一人いると家が傾くといわれた肺病で母親は手術療養その費用が家計に重くのしかかる状態、なんとか入学金や学費の安い大学へ進学したもののまたもや家業崩壊、家は人手にわたり、おれは就職したが自分が食べるのがやっと、親は田舎に居場所を失い東京の飯場に転がりこむというていたらく。

着ているものや食べるものなど「貧乏の質」はちがっても、ところや人をかえ似たようなこと同じようなことが繰り返されている。いまじゃ「貧困ビジネス」という言葉があるぐらいだ。

人並みに偏っていて、人並みに公平であり、自らの偏屈さをもてあましているような関川夏央のばあい、「性善説にもとづく戦後民主主義」や「生活の物質的豊かさは利便と怠惰を生むけど、必ずしも幸福感をともなわないのだと、この四十いく年かで日本人は身をもって知った」というモノサシで、「日本の貧困、日本の理想」を語っているのだが。

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2020/11/14

思いつき…「レシピのいらない料理」

いま「カレーライス」をつくりながら「レシピのいらない料理」というのを思いついた。

「カレーライス」はよくつくる。月に1回以上ぐらいのことだが。

ふりえってみると、ずいぶん「カレーライス」をつくってきたが、二度と同じものがつくれない/できない。だいたい、何かのレシピ通りにつくるということはないし、自分がつくったレシピも残してない。いつも、かなり気分しだいの出たとこ勝負だし、一発で決まらなくて取り繕いながら仕上げることも少なくない。

「カレーライス」に限らず、毎日のように何かしらつくっているわけだけど、ベーコンエッグのようなものは別として、かなりの割合で、「ちゃんとしたレシピによる料理」からすれば、「のようなもの料理」になってしまうことが多い。

ようするに「教科書通りではない料理」とでもいうか。

そういうやり方の料理はけっこうあるはずだと思うが、世の中には「料理のレシピ」が満ちあふれている。

巷にあふれる「料理本」や「レシピ本」にケチをつけるつもりはないが、そんなにレシピが必要なのか、もっと自由に自分なりにやっていること/やれることがあるんじゃないか、「教科書通り」にやろうとすることで失うものがありはしないか、という気がしないでもない。

って書いているうちに鍋の前にもどらなくてはならなくったので、ここまで。

今日は、「寺井尚子THE BEST」を聴きながらつくっているので、それ風のカレーになりそう。どんなんだ?

2020/10/19
料理や食事と、エンジニアリングやブリコラージュ。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/10/post-197393.html

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2020/11/12

画家のノート『四月と十月』43号、「理解フノー」連載24回目「生活の質」。

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「理解フノー」連載24回目が載っている『四月と十月』43号が届いてから一か月が過ぎた。

半年に一回の発行だから紹介が少々遅れてもかまわないだろう、とおもっているとドンドン遅れそうだ。そろそろ。

4月に発行された前の号の原稿の締め切りは2月10日だった。新型コロナはニュースにはなっていたが、「大騒ぎ」にはなっていなかったし、誌面には「コ」の字もなかった。

今回の締め切りは、「緊急事態宣言」下の暮らしを経過し、「新しい生活様式」が喧伝されている最中の8月11日だった。

あいかわらずいい味わいの、「四月と十月」同人の皆さんの文章にも、その反映が見られる。

同人の方が順次担当する表紙の作品は、山﨑杉夫さん。「表紙の作品について」で、「この春の自粛期間は、世の中の動きが一斉に止まり、なんとも非現実的に感じる時間でした」と書き出し「当たり前のように思っていた日常も、ちょっとした事ですぐに無くなってしまう事を忘れないようにと、自分にとって最も身近な日常の象徴である画材を切り絵で描いてみました」と。デザインは、毎度の内藤昇さん。

おれはといえば、まだ癌の気配も感じることなく、「生活の質」と題した今回、文章の最初のほうで2月上旬の頃を「新型コロナのことも自分の先行きもほとんど気にしていなかった」とふりかえっている。

けっこう目にすることが増えた「QOL=quality of life」つまり「生活の質」という言葉が、もとの使われ方とはずいぶん違ってきていることを知ったのは、癌のおかげだった。

とくにその治療法を決めるときには「QOL」が関係するし、癌に限らず「医療」と深い関りのある言葉だと知った。

それについては、まだまだオベンキョウ中で、知ったかぶりはできないのだが、知って思った範囲で原稿にした。

いまちょろっとツイッターを検索しただけでも、今日のツイートに「保温してくれるマグカップ買ったらQOL爆上がりした」というのがあった。おれが多く目にしてきた「QOL」は、だいたいこんな使い方をされていたし、一般的にもそうではないかと思う。

「より「上質」なイメージの消費を意味することが多く、クダラネエーと思っていた」

「ところが、いくつかある癌の治療法の選択のとき、QOLがものをいう。それは生産や消費の質のことではなく、「人間の尊厳」だと知った」

ま、だいたい、「質」などというと、「人間としてどうか」というより、生産や消費の場面でのことがほとんどになっている。それほど、「生活の質」は、「人間」から乖離し、産業やマーケティングに取り込まれているともいえる。

ところが「医療」は、そうはいかない。扱うのが人間の身体や生命そのものだ。

ほんとうは、産業だって、政治だって、たいがいのことは人間の身体や生命と関係あるのだが、認識は必ずしもそのようにならない。

とにかく、そういうことで、「生活の質」と向かいあい「人間の尊厳」について、よく考えることになった。

「苦痛や不安や抑圧などを取り除く/与えないことによる、生活の質の維持や向上だ」と書いたのだが、考えれば考えるほど難しい。

「言葉」の使い方ひとつで、それが損なわれる事態は日常ふんだんにあるし、事件になることも少ないが、むしろ表面に出ない人びとの中に蓄積されていくことがコワイ。

「健康のためなら死んでもいい健康主義」などは、そういう典型だろうが、飲食の分野では「よいこと」「おすすめ」として使われている表現が、苦痛や不安や抑圧をもたらすこともある。

いま展開されている「GoTo」キャンペーンなどは、その税金の使い方や経済効果やコロナ対策としての問題も多いが、消費を煽ることそのものが、ほんらいの「生活の質」にかなっているかどうかの問題があるだろう。

「経済か命か」なんていう言い方も、「健康のためなら死んでもいい健康主義」のようにタチが悪い。(「生活の質」を無視した医療については「病気は治ったが死んでしまった」という警句があるらしい)

まずは、そういうことに鈍感にならないように気をつけよう。

この連載には、キャプションをつけた写真を一点載せることになっている。下の写真を選び、次のキャプションをつけた。

「雲のように、あるときは抽象、あるときは具象。「人間の尊厳」は難しいが求めがいがある。」

2020/07/30
QOLとコロナ禍と癌。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/07/post-ca4a86.html

2020/05/27
画家のノート『四月と十月』42号、「理解フノー」連載23回目「気分」。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/05/post-db9a43.html

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2020/11/11

癌治療8回目。

「癌治療記録」へと、ますます傾斜を強めている感じの当ブログ。

今回は、昨日の癌治療8回目のことだ。

28日ごとの火曜日に定期に行われてきた診療、今月は先週の3日だった。いわゆる「文化の日」という香しい休日であり、かつ主治医の診療日は毎週火曜日なので一週間のび、昨日の予約だった。

しかも朝イチ9時の予約。これまで9時半より前のことはなかった。初めてだ。

いつも、まず「生理検査室」というところで採血採尿をして、その検査結果をもとに診察になる。

だから診療予約の1時間前には生理検査室の受付をすまし採血採尿という段取りなのだ。

受付は8時に始まるが、検査室が稼働するのは8時半だ。それで9時の診察までに検査結果が出るのかと思いながら、とにかく8時5分に受付をすました。採血採尿がすんだのは9時50分ごろ。

一週間前の文化の日のしわよせもあってだろう、検査室は混雑で、別に採血場所を設けて対応していた。

こりゃ、検査結果が出るのに時間がかかるなと思っていたら、やっぱり、診察室のコールがあったのは10時すぎ。待つあいだ、『サキ短編集』(新潮文庫)を読んでいた。

検査結果は、肝臓も腫瘍マーカーも、ほぼ前回と同じで「安定」。つまりは、悪化は見られないが、これ以上よくなることもなさそうってことだ。

腫瘍マーカーの数値が、もう少しは改善されるかという期待が、うっすらあったけど、そうは問屋がおろさず、基準値0~4のところを1前後で推移している状態。

このあいだMRI検査で病巣は収縮し凍結状態になっていることを確認しているので、「こんなところですね」「もとは150もあったのだから」と主治医と話しあい、それよりとおれは気になっていることを相談した。

この1か月のあいだに、薬の副作用と思われる症状があったからだ。それがうっとうしい。

主治医がいうには、その症状だと、思い当たるのは腹部に注射する癌対処の薬の副作用を抑制するために注射後3日間だけ1日1錠のむ薬の成分の可能性が考えられる。3日だけだけど、毎回続けてきたから、なんらかの影響が出たのかもしれない。その薬をやめてみてもよいが、腫れや痛みは成り行きになる。

「どうします?」といわれたので、腫れも痛みも嫌だが我慢できないことはない、「やめてみましょう」とこたえ、そうすることになった。

診察後は、いつものように中央処置室で、腹部と腕に注射。錠剤は、癌対処と患部機能のためのもの毎朝一錠ずつ。

今回の腹部の注射は、ちょうどパンツのゴムの位置だし、薬もやめたし、腫れたところが当たって痛みがキツイ。歩くと痛みが腹に響くので、おそるおそる動いている。痛いだけで、それでどうとかなるわけじゃないが、痛いのは嫌なものだ。

注射をする看護師が「もう注射になれたでしょうけど、一か月に一回でも痛い思いをするのは嫌ですよね」といったのだが、その通りだ。

次回の予約は、12月8日。これが今年最後の診療になるはず。

最初(4月21日)に、CTとMRIの画像を見せられたときは、腹部が白い巨大星雲に覆われていて驚き、どうなることかと思ったが、いまでは星雲は消滅し凍結された一点の小さな星だけになり、酒も飲めるようになり(でもあまり飲んでないし、そんなに飲みたいとも思わないが)、とりあえず無事に年をこせそうなところまではきたようだ。

まだ、年内、何があるかわからないが。新型コロナの感染も怪しい雲行きだし。

それはそうと。毎回、病院の支払いが8千数百円と薬局の支払いが千円ちょっとで、一万円札一枚が消えていくのが、収入が無くなった身としては、厳しい。いつまで続くのかねえ、おれのイノチとカネ。

2020/10/07
癌治療7回目。半年ぶりに酒を飲む。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/10/post-aef4d0.html

 

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