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2020/11/29

「朝歩き」と朝の歌の記憶。

癌の治療のための注射2本のうち、最初の4月から打っている1本が骨粗鬆症の副作用の可能性があるため、紫外線浴をしたほうがよいと主治医に勧められた。

毎日30分ぐらいというので、食事の仕度の買い物がてら、少し遠回りすれば往復30分ぐらいになるから、そうしていた。

たいがい午後のことだ。

夏の盛りになったら、暑くてたまらん。紫外線、きつい。

8月中頃から早朝にした。

「治療優先の規則正しい生活」だったから、三食キチンと食べ、食後に薬を飲む。夕飯くって薬のんで寝るのが10時頃だった。目覚ましはつかわなくても目が覚め、5時か5時半頃から歩いた。そのあと朝食をすまし薬をのむのだ。

近くの見沼たんぼの芝川や見沼代用水西縁に沿ってある「ヘルシーロード」とか名付けられている歩道を一巡りする。コースのとりかたによるが、だいたい約4キロを40分ぐらいで歩く。

10月ぐらいからか、「治療優先の規則正しい生活」は解除になり、薬も朝だけになった。ま、「規則正しく」は続けたほうがよいのかもしれないが、「酒も飲んでよい普通の生活」になると、徐々に乱れ、以前の「普通」にもどりつつある。

寝る時間もしだいに遅れ、目が覚める時間もしだいに遅れ、日の出も遅くなり、6時や6時半から歩き始めることが多くなった。さらに、この数日は、夕食を夜の9時すぎから10時頃に帰宅する相方に合わせるようにしたので、寝るのも朝起きるのもますます遅くなっている。昨日も今日も朝歩きはやめて昼に歩いた。冷え込みが厳しくなったから、無理して朝の必要はない、紫外線効果からしても。

そのことではない。

朝歩いていると、早朝から飛び跳ねていた小さい頃を思い出した。小学校にあがる前までは、朝はうれしかった。

朝のラジオから聴こえてくる歌だ。

おれのうちにラジオはなかった。

おれが小学校にあがる前、ときどき長期間預けられた東京の現在の調布市にあった母の実家で、毎朝ラジオから流れていた。

その歌が、脳ミソにしみ込んでいた。

ラジオはNHKということも記憶にあった。

それが、朝の散歩の最中によみがえった。歩きながら口ずさんでみる。

覚えているうたは二つあった。

一つのほうが、どう考えても「労働歌」のようで、そんなのがNHKから流れていたのだろうかと気になっていた。

一番しか覚えていないのだが、こういう歌詞だ。

タイトルは「町から村から工場から」。

  町から村から工場から
  はたらく者の叫びが聞こえる
  はたらく者が働くものが
  新しい世の中をつくる
  はたらくものこそ
  しあわせになる時だ
  われらはわれらは労働者

NHKが、ありえん。おれの記憶違いかと思いながらネット検索してみたら、記憶は確かだった。

「1947年のメーデー歌募集の入選曲で、NHKラジオを通して歌唱指導されたという、今では信じられんような生い立ちのある曲です。」と。

ほんと、信じられん。

1947年というと、おれは4歳だ。弟が2歳で死んだ年。占領下、ジープに乗った進駐軍。

そのころの母の実家の記憶は、割と鮮明に残っている。朝、その空気、そのうたが流れる部屋、ラジオがあった場所、味噌汁や配給のパンとバターのにおい…。庭には、途中まで埋められた防空壕があった。

無事に復員し仕事にも就いていた母の二人の兄が、戦地での罹病(マラリア)が原因で相次いで亡くなり、祖母の家の中が急に寂しくなった頃だった。ガランとした家の中に、祖母のほかは、おれより6歳上で一緒に育てられた従姉と、おれだけ。

ラジオから歌が流れる朝。

もう一つの歌は、「朝はどこから」で、これは疑いようもなく、清く正しく美しい日本のNHKらしい歌だ。

 朝はどこから 来るかしら
 あの空越えて 雲越えて
 光の国から 来るかしら
 いえいえ そうではありませぬ
 それは 希望の家庭から
 朝が来る来る 朝が来る
 「おはよう」「おはよう」

あてにならないウィキペディアによると、「「朝はどこから」(あさはどこから)は、1946年(昭和21年)6月にコロムビアレコードから発売された日本のラジオ歌謡。朝日新聞の懸賞応募曲である。/作詞は森まさる。作曲は橋本国彦。歌は岡本敦郎、安西愛子。/1946年(昭和21年)3月、敗戦直後の日本を励ますため朝日新聞が健康的なホームソングを全国に募集したものである。そして、10526通の応募の中から一等当選歌となったものが、ホームソング「朝はどこから」と児童向きの曲「赤ちゃんのお耳」であった。」だそうだ。

「町から村から工場から」は、作詞=国鉄詩人編集部、作曲=坂井照子、1947年6月ビクターレコードから発売。

どちらの歌も、溌溂とした朝の歌だった。

しかし、「朝はどこから」と「町から村から工場から」のあいだには、しだいに溝ができ、深まり、広がり、「町から村から工場から」は排除され忘れ去られる歴史が続いた。

1986年「労働者派遣法」施行。1987年、「町から村から工場から」を生んだ国鉄は解体させられた。

拡大する労働者の受難。

 

「はたらくものこそ しあわせになる時だ」

そう願いながら、おれの朝歩き、続くか?

 

参照 うたごえ喫茶 http://www.utagoekissa.com/machikaramurakarakoubakara.html

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2020/11/27

『dancyu』と「男の料理」。

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たまーに『dancyu』に書いたこともあってか、毎号送られてくるので恐縮している。

今月6日発行の12月号は「創刊30周年記念大特集「おいしい店」100軒」であり、予告によれば12月発行の1月号も30周年特集だそうだ。

30周年記念特集を組むにあたり、編集部では「30周年記念アンケート」を行い、おれにも回答の依頼があったのだが、辞退させてもらった。体調があまりよくなく、モノグサなうえに考えるのも面倒な気分だったこともある。毎号お送りいただきながら付き合いの悪いことで、こういうことだから、出版社との関係もドンドン切れていく。もともと「業界人」の自覚が低いし。

それはともかく、この特集に、「創刊30年分の座談会」というのがあって、創刊の頃を語っている。座談会のメンバー4人の中に、創刊当時からの編集部員が2人いて、5代目編集長の里見美香さん(現在も編集部員で、おれも一緒に仕事をしたことがある)と6代目編集長の町田成一さんだ。他の2人は現在の編集長の植野広生さん(創刊当時はライターとして執筆)と1997年に発行元のプレジデント社入社の藤岡郷子さん(2度ほどだったかな?一緒に仕事をした)。

「創刊号が発売されたのは1990年の12月6日。当時はバブル真っ盛りで、男性の趣味の雑誌をつくろうというのが、そもそも発端だったと聞きました」と里見さん。

そうそう、幹部ビジネスマン相手の『プレジデント』を発行する出版社が、読者の余暇利用をねらって出したというような話を聞いたことがあると、おれは当時を思い出した。

どこかに書いたと思うが、1977年11月に「男子厨房に入ろう会」というのが発足し、その略称が「だんちゅう会」だった。それとの直接の関係は知らないし、座談会でもその会のことは語られてない。

「だんちゅう会」については、発足当時、食品メーカーのPR誌の編集をしていた知り合いが取材して、割とカタイ会社の管理職が多いというような話を聞いた覚えがある。

「だんちゅう会」の発足のあと翌年か翌々年に、「男子厨房に入ろう」を押し進めるように、『週刊ポスト』の「男の料理」の連載が始まった。巻末カラーグラビア。それが大当たりして続いた。

「だんちゅう会」は、料理店の料理人に料理の「作り方(レシピ含み)」を教わることをしていたし、『週刊ポスト』の「男の料理」も同じようなことをし、かつ作家の手料理なども紹介していた。ようするに単なるお店紹介ではなく、男が趣味の時間を使って作る料理、ということをタテマエにしていたといえる。

『dancyu』も、そういうセンだったと思う。座談会で藤岡さんは「創刊から読み返していたんですが、創刊3~4年はだいたいお店で料理を習って、店紹介がその後にちょぼちょぼと続く感じ」といっている。

『dancyu』には何回か登場し、この特集にも登場するある店を取材したことがあるが、昔は取材の時には「謝礼」をもらった、と、お店の方がいっていた。金額も聞いたけど、悪くない額だった。それが当然といえば当然だろうけど、いつごろからか「立場」が変わってしまった。

70年代後半、高度経済成長後の日本は「レジャー(余暇利用)」がブームになり様々な展開を見せていたが、『週刊ポスト』は、そこへ「男の料理」を持ち込んで広げた。キャッチーな言葉だった。発行部数からしても、別冊や単行本も売れたことからも、その影響は大きかったと思うが、では、どれぐらいの男たちが実際に台所に立ったかというと、こころもとない。ましてや「男の料理」という概念は問題ないかといえば問題大いにありそうだし、実態は別の動きをしていて、それとのギャップが大きいと思う。

ま、出版やメディアの表層と実態はギャップがあるものなので、そこをぬきに議論をすすめるとおかしなことになるのは、「男の料理」も同じ。読んで見てオシャベリして楽しんでオワリ、というのが料理や飲食に関しては珍しくない。

以前に、書評のメルマガで「食の本つまみぐい」を連載していたとき、津村喬の『ひとり暮らし料理の技術』(野草社1980年7月)を紹介した。この本の最初の出版は「男子厨房に入ろう会」の発足と同じ1977年だが、「男の料理」ではなく「ひとり暮らし」としたところに、真実性がある。趣味ではなく生活のことだった。

けっこう話題になり売れたのは、著者は、いわゆる「団塊世代」で、かつ当時の同じ世代の「カウンターカルチャー」系の若者から支持があったことが関係していると思われる。この本の読者は、余裕の趣味のために読んで楽しんでオワリというのとは傾向が違い、生活実践の思想と技術として、活用した可能性が大きい。

「戦後民主主義」の標本のように見られる「団塊世代」、それから「カウンターカルチャー」系にしても、料理や台所に立つということについては、簡単ではなかったはずだ。日々の料理や台所は「女」が担うものという「習慣」は根強く、戦前そのままの思想が70年代でも主流だった。

だからこそ「男の料理」がキャッチーであり、話題になったともいえる。

「男」が自然に台所に立ち料理をするようになるのは、学校の家庭科教育が「男」も「女」も「人として」同じように扱うようになってからといえるのではないか。

そこへ学校教育が向かったのは、いつからだろう?調べてみたことはないが、「男女共同社会」が政策として推進される2000年頃からか。いまの30代前半以下ぐらいの「男」と話すと、変化を実感する。

『dancyu』30周年、出版も大変な時代だった。おれの考えとはいろいろ異なる雑誌だけど、よく続いたし、もっと続いてもらいたい。

この30年の間に、生活と料理をめぐる環境も言説も、かなり変わった。まだ変わっている最中だ。どこへ行くのだろう。

「男」でも「女」でもなく「人として生きる」ところに料理は存在してきた。いつ「男の料理」なんていう言葉が死語になるのだろうか。

ザ大衆食のサイト
書評のメルマガ08年12月18日発行 vol.389
■食の本つまみぐい
(30)自分で食べるものは自分でつくる食の「自主管理」を主張
 津村喬『ひとり暮らし料理の技術』野草社、1980年7月
http://entetsu.c.ooco.jp/siryo/syohyou_mailmaga389.htm

当ブログ
2017/06/30
『dancyu』をふりかえる。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2017/06/dancyu-e433.html

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2020/11/26

またもや、いまさらながら残念、坪内祐三。

2020/10/02
いまさらながら残念、坪内祐三。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/10/post-67393b.html

を書いてから、坪内祐三のことが気になっていた。

図書館の坪内祐三の棚には何冊かの本がある。パラパラ見ていたら、『右であれ左であれ、思想はネットでは伝わらない』(幻戯書房)に、おれの脳ミソが反応したので借りてきた。

第1章 戦後論壇の巨人たち
第2章 文藝春秋をつくった人びと
第3章 滝田樗陰のいた時代
第4章 ラディカル・マイノリティの系譜
第5章 「戦後」の終わり

脳ミソに引っかかったのは「戦後論壇の巨人たち」だった。

もくじに並んだ名前。

福田恆存、田中美知太郎、小林秀雄、林達夫、大宅壮一、三島由紀夫、小泉信三、花田清輝、唐木順三、竹山道雄、中野好夫、橋川文三、河上徹太郎、中野重治、鮎川信夫、竹内好、桑原武夫、宮崎市定、葦津珍彦、清水幾太郎、羽仁五郎、臼井吉見、山本七平、丸山眞男

懐かしい人たち。おれが高校生の頃(1959年以後)から1970年代に、『中央公論』『文藝春秋』『世界』などなどの雑誌で読むことが多かった人たち。何人かは本も読んだし、いまも持っている本もある。

こういった人たちについて書くだけでも、なかなかすごいじゃないか、書ける人がいたのかと思った。

「巨人」かどうか、おれは判断できないけど、その存在が大きかったのは確かだし、「言論」の世界は面白かった。

いまどきの「言論」はツマラナイね。そう思うようになったのは、1980年代になってからだ。

浅田彰がもてはやされ、とくに『朝日ジャーナル』が「若者たちの神々」の連載を始めた頃から、「言論」や「言論」を扱う雑誌などはツマラナイものになった。「言論」な雑誌も読まなくなったし、新聞にも興味が失せていった。

おれが「若者たち」に含まれない年齢になっていたこともあるかもしれない。

1983年、おれは40歳になっていた。1958年生まれの坪内祐三は25歳で、浅田彰は1957年生まれ。

「若者たちの神々」は、ネットで調べたら、1984年から1985年にかけての連載だったようだ。1回目の登場は浅田彰、2回目は糸井重里、3回目は藤原新也…。

「神々」と「巨人たち」を比べるのは乱暴とは思うが、80年代を通して「言論」の世界は変貌した。

『右であれ左であれ、…』の各章の始めには、「この章について」という著者による「解説」のような文がある。

「戦後論壇の巨人たち」は、戦後五十年を迎えた1995(平成7)年の翌年の7月号から始まった『諸君!』の連載をまとめた。

「連載期間は二年。つまり二十四回だ。/私はまず二十四人をリストアップして行った。/生きている人ははずそう。亡くなった人だけにしよう(だから連載開始時はまだ丸山眞男はリストアップされていなかった」

「何を以て「論壇人」と見なすかは意見の分かれる所だが、例えば私は中野重治、中野好夫といった文学者のダブル中野も「論壇人」であると考える(ただし、この連載中、同誌編集部の某男子編集者――のちに編集長となる――から酒場で何故山本健吉が入らないんですかとしつこく問い掛けられた時は心の中でこのアホと思った)」

司馬遼太郎についてこういっている。

「当時の私は司馬遼太郎のことをあまり高く評価していなかったのだ。今もその評価にはあまり変わりはないが、彼をはずしてしまったのはやはりバランスに欠けたかと思っている」

著者の選択の基準がなんとなく見えてくる。

本書は、2018年1月の発行だ。

「連載終了から十九年数ヵ月。つまり約二十年。その間に亡くなっていった人も数多い」と、この人たちをあげている。

藤原弘達、江藤淳、山本夏彦、林健太郎、小田実、加藤周一、梅棹忠夫、谷沢栄一、吉本隆明、山口昌男、大西巨人、鶴見俊輔、阿川弘之、渡辺昇一。

そして最後にこう書く。

 この国には知識人がもう殆ど残っていない。
 しかも、まったく補填されていない。
 その状況を考えると私は恐ろしくなってしまう。
 かつての左翼と右翼という対立に変わって今、サヨとウヨという言葉がある。サヨであれウヨであれ、そんなことはもはやどうでもよい。
 事態はもっと深刻なことになっているのだ。
 三十年後、いや二十年後、この国は存在しているのだろうか。

ここから、著者の考える「国」や「知識人」を読むこともできるが、なんと悲観的で絶望的な。

まあ、しかし、「活字文化」の時代から主流を担ってきた新聞社や大手中堅の出版社のメディアのアリサマを見れば、うなずけないことはない。

「戦後論壇の巨人たち」は、簡単な仕事ではない。これからこの種の仕事をやれる人は出てくるのだろうか。

「戦後」なるものや「55年体制」といわれるものが終わろうとしている時代に、坪内祐三が生きていて、この仕事を残してくれて、うれしい。おれはよろこんで読んだ。

おれのようなものがよろこんだところでどうもならんが。

坪内祐三には、もっと生きて、この仕事を続けてほしかった。ってことで、またもや残念がっている。

おれのようなものが残念がったところでどうにもならんが。

第4章の「鶴見俊輔氏に聞く――アメリカ左翼知識人の孤独でフェアな表象」は、著者も書いている通り、鶴見俊輔と著者の話が微妙にかみあっていなくて面白く、声を出して笑った。

「あとがき」で、ツイッターをしてないが、眺めることはあって、「そしてとても悲しい気持ちになる」という。

「何故なら、ツイッターの言葉には文脈がないからです。しかも、その文脈のない言葉が、次々とリツイート(拡散)されて行く。」と。

そして、こう述べる。

「本や雑誌に載せる文章には文脈が必要です。いや、文脈こそが命だと言っても過言ではないでしょう。/そういう媒体(雑誌)が次々と消えて行く。これは言葉の危機です。」

ツイッターについては、その通りだと思うが、かといって雑誌の文章は文脈を大事にしているかというと必ずしもそうではないと、おれは思う。

自らの思想を突きつめてこそ、文脈ができ、文脈で考え、文脈で言葉を選び、文章ができあがる。

だけど、思想を問うことすらしないで、言葉を使うことが多くなった。「思想」を嫌ったり避けたりする人も少ない。

それはネットの世界のように、スピードがものをいう言葉の消費が多くなったこともあるだろう。「知識」や「言論」はファッション化し、情報価値の尺度で測られ、「新しい」ことが価値になった。

より「わかりやすく」、より「心地よく」、消費される言葉。

「文章の質」などが話題になっても、文芸的なテクニックのレベルであって、思想が問い詰められることはない。最初から思想が希薄なのだ。

その思想の希薄さは、雑誌の文章でもよく目にする。「飲食」の分野などは、そういうもので満ち満ちている。

と、おれは思っている。

坪内祐三は、この本でも、何度か自分は「保守」だといっている。「保守」は「革新」と対や天秤で語られるが、坪内祐三の「保守」は、それより、「ブルジョワ自由主義」の良質な部分を継いでいるように感じる。自由、公平、人として「まっとう」。

そういう「思想」がメディアからも失われていく時代。「私はギリギリで間に合いました。つまり雑誌で自分の考えを述べることが可能でした」と「あとがき」に書き残して、坪内祐三は死んでしまった。

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2020/11/19

都市的風景と農的風景の断絶、『スペクテイター』最新号「土のがっこう」。

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一昨日、小春日和。

うちの近くを流れる見沼代用水西縁を遡ってみた。

すでに途中まで歩いたことがあるのだが、こんどはもっと先まで歩き、かといって40キロ以上歩かなくてはならない利根川取水口までは無理だから、はるか手前、ここ東大宮の一つ先の蓮田駅へ出た。

以前このブログに書いた「都鄙臨界地帯」に立って見ると、都市的風景と農的風景のギャップの激しさは「断絶」ともいえそうで、あらためておどろくばかりだった。それは都市的環境と農的環境のギャップそのままではないだろうけど、それだけに、ここからの視点が何かを示唆しているようで、気になった。

2009/01/09
東大宮-蓮田、東北本線「都鄙臨界地帯」と麦味噌。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2009/01/post-7848.html

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上の写真。16号東大宮バイパスをこえると、都心から続いていた家並み街並みはトツゼン姿を消し、田畑があらわれる。

写真手前が見沼代用水西縁、田畑に水を供給する水門があって、その向こうに耕作地が広がる。右上に16号東大宮バイパスが城郭のように都市的環境を取り囲んでいるのが見える。

このギャップは「断絶」といってよいほど大きなものになっているようだ。都市的風景で「生きる」ものと農的風景で「生きる」もの。その隔たりを象徴しているように思われた。

農的風景に暮らしていても、「生きる」については、都市的風景の方を向いている人たちも少なくないだろう。それは、農的環境を抜けて蓮田駅へ出る過程でも、目にすることができた。

利根川取水口から下ってきた見沼代用水が、「西縁(にしべり)」と「東縁(ひがしべり)」に分かれるところがあった。ここで分かれた用水の西縁は、うちの近くで見沼田んぼに入り西側を流れ、東縁は迂回して見沼田んぼの東側を流れる。(下の写真、右真っすぐが西縁、左へカーブが東縁)

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この分岐は、見沼代用水が綾瀬川と交差する右岸にある。対岸の左岸には用水の水門が見える。用水は、どうやって綾瀬川をこえているかというと、川の下をくぐる「伏越」の立体交差になっているのだ。

分岐のところには赤レンガの構造物の跡があって、「上尾市登録文化財記念物(史跡) 瓦葺掛樋跡」の掲示があった。

見沼代用水は1728(享保13)年に開削されたのだが、当初から1961(昭和36)年までは、綾瀬川の上に木造の樋を架け水を通していたのだ。

ちなみに、ここで分岐した西縁は、見沼田んぼの西側を通るために見沼田んぼの真ん中を流れる芝川をこえなくてはならない。うちの近くにその立体交差があるのだが、ここでは芝川が西縁の下をくぐる構造になっている。

そうして、太古の昔から沼地だった見沼は干拓され耕作が可能になった。

その土と水と人の歴史が、これらの景色にはあるし、それは「生きる」や「食べる」の歴史でもあるはずだが、都市的風景の視点からは、すっかり遠いものになってしまった。

そもそも都市的風景のなかでは、土にふれる機会さえ、わずかになった。

認識は環境に左右されることが少なくない。これだけのギャップがあって、「生きる」「食べる」ための認識はうまくいっているのだろうか。こころもとない。

この風景を見ながら、都市に暮らす多くの人びとは、農的環境によって「食べる」ことや「生きる」ことが支えられているにも関わらず、認識のほうはというと「経済」や「金」に大きく偏り、これさえあればなんとでもなりますという感じの「極論」もメディアでは力を持っているようだし、経済や産業のことは日々目にし耳にするが、土と水と人との関係の知識や認識は貧弱で、かなりおざなりできているような気がしたのは、今月の始めに、10月30日発行の『スペクテイター』最新号「土のがっこう」を編集部の赤田祐一さんにいただいて読んでいたからでもあるのだが。

おれの知識や認識も、かなりいいかげんだった。

「土のがっこう」によれば、日本の学校教育では、「土」に関する教育がまっとうに行われたことはなく、まっとうな教科書もないらしい。それもあってだろう、この号は「土のがっこう」になったにちがいない。

自分のことを思い出しても、「土」を含んだ「生きる」環境の全体像の認識は、学校と縁がなくなってしばらくたった1970年代ぐらいからだった。

それは、すでにあれこれ書いているように、「食」や「食文化」に関わる仕事をするようになったこと、70年代から強まった「デカルト主義」といわれたりした「近代合理主義」を批判する言説やカウンターカルチャーなどとのであいがあってのことだ。おれは、いわゆる「無農薬有機栽培」や「自然農」を営む人たちとも関りを持つようになった。

「食文化」という言葉は広く流通するようになったが、それが土と水と人との関係で成り立ってきたし、いまも成り立っていることは、すっかり忘れられてしまい、多幸症的消費の重要アイテムとして話題を集めることが多いようだ。

それもまた、都市的風景がはらむ認識といえそうだ。

人は、土とどう関わってきたか、関わっているか、は、食文化の根幹のことだ。とくに日本の場合は「米」もからんで。

とかとか、今日は、じつは、『スペクテイター』最新号「土のがっこう」について紹介する前ふりのつもりで書いた。

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上、蓮田駅へ15分ぐらいのところ。下、蓮田駅。

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2011/11/24
見沼代用水を遡り深沢七郎ラブミー農場を遠望す。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2011/11/post-b7c2.html

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2020/11/16

『にあんちゃん』の頃。

文句なしの「小春日和」。ガラス窓越しの穏やかな陽にあたりながら寝転がり、手の届くところにあった関川夏央『砂のように眠る むかし「戦後」という時代があった』(新潮文庫97年)をパラッとめくり、「『にあんちゃん」が描いた風景」の適当なところを読んでいて、おどろいて起きあがった。

『にあんちゃん』の著者安本末子は、おれと同じ年の昭和18(1943)年生まれなのだ。

おれは何をかんちがいしたのか、もっと年上の人だと思っていた。

彼女は2月生まれで、おれは9月なので、学年はひとつ上だが、そんなことは問題ではない。

おれが光文社カッパブックスの『にあんちゃん』を読んだのは高校1年生のときだったと思う。高校の、図書室で見つけて借りた。とくに書物に関心が高くなくても、話題の本だった。

それで読んだのだが、そのときからずっと、著者はおれより年上と思っていた。6歳上の一緒に暮らしていた従姉と同じくらいという漠然としたイメージを持ち続けていた。

自分に照らし合わせて、小学校3年生や4年生で、こんなには書けっこないと、思い込んでしまったこともあるかもしれない。

10歳ぐらいの小学生が書いた日記ということだけで、著者の生年などは注意もしなかったこともある。だいたい著者の生年を気にするようになったのは、かなり年をくってからだ。気にしたことがなかった。

それで、同じ年の生まれと知って、ますます10歳ぐらいでよく書けたなあという思いと、それに比べ、いや比べなくても、おれはかなりボーっとしていたのだなと思った。

「安本末子という少女が小学校三年生から五年生までつけていた日記の集成で、昭和三十三年に光文社からカッパブックスの一冊として刊行された」

昭和三十三年は1958年、おれが高校に入学した年だ。

「きょうがお父さんのなくなった日から、四十九日目です」と書き始まるのだが、その日付は二十八年一月二十二日。つまり「お父さん」は前年の十二月に亡くなっている。母はすでに末子が3歳のときに亡くなっている。

長男二十歳、長女十六歳、次男(にあんちゃん)十二歳、次女末子十歳が残った。

在日コリアン2世、親が死んで自分たちの家というものがなくなった、身寄りもない。

その生活は、「貧乏」という言葉では足りない。

おれが10歳の頃というと、おれのうちも貧乏だったし、貧乏は珍しくなかったが、にあんちゃんたちはケタというか状況がちがいすぎる。

おれの家は、父親が詐欺にあい家業が崩壊、父母は離婚し家庭も崩壊というアリサマが、ほぼ10歳の一年だった。そのあとの一年は、父母がまた一緒になり、田舎町では珍しい下宿屋、廊下には小便の臭いが満ち、アル中の男の怒声と女と子供の泣きわめく声が一日に一回は鳴り響く、貧民窟のようなところで親子3人窓のない4畳半一間で暮らしていて、それが「悲惨」「不幸」であるかどうかは外からの見方であって、おれはにあんちゃんたちのように腹を空かし飢えた記憶はなく、たいがいボーっとしていた。ま、能天気な子供でいたと思う。

実際のところ、あの頃のことは、もう遠い昔すぎて思い出しようがないのだが、とにかく、日記を書こうなんて思ったことはない。夏休み帳の日記だって満足に付けたことがない。作文は大嫌いだった。

だけど、同じ頃、同じ年ごろの少女が、ちがう空間で、あのような日記を書いていたのだ。そのことをあらためて思い、おどろいた。

文章からしても、安本末子は、賢い子だったように思える。

『にあんちゃん』は映画やテレビドラマにもなり本は売れ、にあんちゃんたちは貧乏から脱出し、著者は早稲田大学へ進学する。

おれのほうは、戦後10年の中学から高校のあいだ、いったん盛り返し家まで建てた父親の商売は業界ごと低落傾向、当時は一家に一人いると家が傾くといわれた肺病で母親は手術療養その費用が家計に重くのしかかる状態、なんとか入学金や学費の安い大学へ進学したもののまたもや家業崩壊、家は人手にわたり、おれは就職したが自分が食べるのがやっと、親は田舎に居場所を失い東京の飯場に転がりこむというていたらく。

着ているものや食べるものなど「貧乏の質」はちがっても、ところや人をかえ似たようなこと同じようなことが繰り返されている。いまじゃ「貧困ビジネス」という言葉があるぐらいだ。

人並みに偏っていて、人並みに公平であり、自らの偏屈さをもてあましているような関川夏央のばあい、「性善説にもとづく戦後民主主義」や「生活の物質的豊かさは利便と怠惰を生むけど、必ずしも幸福感をともなわないのだと、この四十いく年かで日本人は身をもって知った」というモノサシで、「日本の貧困、日本の理想」を語っているのだが。

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2020/11/14

思いつき…「レシピのいらない料理」

いま「カレーライス」をつくりながら「レシピのいらない料理」というのを思いついた。

「カレーライス」はよくつくる。月に1回以上ぐらいのことだが。

ふりえってみると、ずいぶん「カレーライス」をつくってきたが、二度と同じものがつくれない/できない。だいたい、何かのレシピ通りにつくるということはないし、自分がつくったレシピも残してない。いつも、かなり気分しだいの出たとこ勝負だし、一発で決まらなくて取り繕いながら仕上げることも少なくない。

「カレーライス」に限らず、毎日のように何かしらつくっているわけだけど、ベーコンエッグのようなものは別として、かなりの割合で、「ちゃんとしたレシピによる料理」からすれば、「のようなもの料理」になってしまうことが多い。

ようするに「教科書通りではない料理」とでもいうか。

そういうやり方の料理はけっこうあるはずだと思うが、世の中には「料理のレシピ」が満ちあふれている。

巷にあふれる「料理本」や「レシピ本」にケチをつけるつもりはないが、そんなにレシピが必要なのか、もっと自由に自分なりにやっていること/やれることがあるんじゃないか、「教科書通り」にやろうとすることで失うものがありはしないか、という気がしないでもない。

って書いているうちに鍋の前にもどらなくてはならなくったので、ここまで。

今日は、「寺井尚子THE BEST」を聴きながらつくっているので、それ風のカレーになりそう。どんなんだ?

2020/10/19
料理や食事と、エンジニアリングやブリコラージュ。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/10/post-197393.html

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2020/11/12

画家のノート『四月と十月』43号、「理解フノー」連載24回目「生活の質」。

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「理解フノー」連載24回目が載っている『四月と十月』43号が届いてから一か月が過ぎた。

半年に一回の発行だから紹介が少々遅れてもかまわないだろう、とおもっているとドンドン遅れそうだ。そろそろ。

4月に発行された前の号の原稿の締め切りは2月10日だった。新型コロナはニュースにはなっていたが、「大騒ぎ」にはなっていなかったし、誌面には「コ」の字もなかった。

今回の締め切りは、「緊急事態宣言」下の暮らしを経過し、「新しい生活様式」が喧伝されている最中の8月11日だった。

あいかわらずいい味わいの、「四月と十月」同人の皆さんの文章にも、その反映が見られる。

同人の方が順次担当する表紙の作品は、山﨑杉夫さん。「表紙の作品について」で、「この春の自粛期間は、世の中の動きが一斉に止まり、なんとも非現実的に感じる時間でした」と書き出し「当たり前のように思っていた日常も、ちょっとした事ですぐに無くなってしまう事を忘れないようにと、自分にとって最も身近な日常の象徴である画材を切り絵で描いてみました」と。デザインは、毎度の内藤昇さん。

おれはといえば、まだ癌の気配も感じることなく、「生活の質」と題した今回、文章の最初のほうで2月上旬の頃を「新型コロナのことも自分の先行きもほとんど気にしていなかった」とふりかえっている。

けっこう目にすることが増えた「QOL=quality of life」つまり「生活の質」という言葉が、もとの使われ方とはずいぶん違ってきていることを知ったのは、癌のおかげだった。

とくにその治療法を決めるときには「QOL」が関係するし、癌に限らず「医療」と深い関りのある言葉だと知った。

それについては、まだまだオベンキョウ中で、知ったかぶりはできないのだが、知って思った範囲で原稿にした。

いまちょろっとツイッターを検索しただけでも、今日のツイートに「保温してくれるマグカップ買ったらQOL爆上がりした」というのがあった。おれが多く目にしてきた「QOL」は、だいたいこんな使い方をされていたし、一般的にもそうではないかと思う。

「より「上質」なイメージの消費を意味することが多く、クダラネエーと思っていた」

「ところが、いくつかある癌の治療法の選択のとき、QOLがものをいう。それは生産や消費の質のことではなく、「人間の尊厳」だと知った」

ま、だいたい、「質」などというと、「人間としてどうか」というより、生産や消費の場面でのことがほとんどになっている。それほど、「生活の質」は、「人間」から乖離し、産業やマーケティングに取り込まれているともいえる。

ところが「医療」は、そうはいかない。扱うのが人間の身体や生命そのものだ。

ほんとうは、産業だって、政治だって、たいがいのことは人間の身体や生命と関係あるのだが、認識は必ずしもそのようにならない。

とにかく、そういうことで、「生活の質」と向かいあい「人間の尊厳」について、よく考えることになった。

「苦痛や不安や抑圧などを取り除く/与えないことによる、生活の質の維持や向上だ」と書いたのだが、考えれば考えるほど難しい。

「言葉」の使い方ひとつで、それが損なわれる事態は日常ふんだんにあるし、事件になることも少ないが、むしろ表面に出ない人びとの中に蓄積されていくことがコワイ。

「健康のためなら死んでもいい健康主義」などは、そういう典型だろうが、飲食の分野では「よいこと」「おすすめ」として使われている表現が、苦痛や不安や抑圧をもたらすこともある。

いま展開されている「GoTo」キャンペーンなどは、その税金の使い方や経済効果やコロナ対策としての問題も多いが、消費を煽ることそのものが、ほんらいの「生活の質」にかなっているかどうかの問題があるだろう。

「経済か命か」なんていう言い方も、「健康のためなら死んでもいい健康主義」のようにタチが悪い。(「生活の質」を無視した医療については「病気は治ったが死んでしまった」という警句があるらしい)

まずは、そういうことに鈍感にならないように気をつけよう。

この連載には、キャプションをつけた写真を一点載せることになっている。下の写真を選び、次のキャプションをつけた。

「雲のように、あるときは抽象、あるときは具象。「人間の尊厳」は難しいが求めがいがある。」

2020/07/30
QOLとコロナ禍と癌。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/07/post-ca4a86.html

2020/05/27
画家のノート『四月と十月』42号、「理解フノー」連載23回目「気分」。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/05/post-db9a43.html

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2020/11/11

癌治療8回目。

「癌治療記録」へと、ますます傾斜を強めている感じの当ブログ。

今回は、昨日の癌治療8回目のことだ。

28日ごとの火曜日に定期に行われてきた診療、今月は先週の3日だった。いわゆる「文化の日」という香しい休日であり、かつ主治医の診療日は毎週火曜日なので一週間のび、昨日の予約だった。

しかも朝イチ9時の予約。これまで9時半より前のことはなかった。初めてだ。

いつも、まず「生理検査室」というところで採血採尿をして、その検査結果をもとに診察になる。

だから診療予約の1時間前には生理検査室の受付をすまし採血採尿という段取りなのだ。

受付は8時に始まるが、検査室が稼働するのは8時半だ。それで9時の診察までに検査結果が出るのかと思いながら、とにかく8時5分に受付をすました。採血採尿がすんだのは9時50分ごろ。

一週間前の文化の日のしわよせもあってだろう、検査室は混雑で、別に採血場所を設けて対応していた。

こりゃ、検査結果が出るのに時間がかかるなと思っていたら、やっぱり、診察室のコールがあったのは10時すぎ。待つあいだ、『サキ短編集』(新潮文庫)を読んでいた。

検査結果は、肝臓も腫瘍マーカーも、ほぼ前回と同じで「安定」。つまりは、悪化は見られないが、これ以上よくなることもなさそうってことだ。

腫瘍マーカーの数値が、もう少しは改善されるかという期待が、うっすらあったけど、そうは問屋がおろさず、基準値0~4のところを1前後で推移している状態。

このあいだMRI検査で病巣は収縮し凍結状態になっていることを確認しているので、「こんなところですね」「もとは150もあったのだから」と主治医と話しあい、それよりとおれは気になっていることを相談した。

この1か月のあいだに、薬の副作用と思われる症状があったからだ。それがうっとうしい。

主治医がいうには、その症状だと、思い当たるのは腹部に注射する癌対処の薬の副作用を抑制するために注射後3日間だけ1日1錠のむ薬の成分の可能性が考えられる。3日だけだけど、毎回続けてきたから、なんらかの影響が出たのかもしれない。その薬をやめてみてもよいが、腫れや痛みは成り行きになる。

「どうします?」といわれたので、腫れも痛みも嫌だが我慢できないことはない、「やめてみましょう」とこたえ、そうすることになった。

診察後は、いつものように中央処置室で、腹部と腕に注射。錠剤は、癌対処と患部機能のためのもの毎朝一錠ずつ。

今回の腹部の注射は、ちょうどパンツのゴムの位置だし、薬もやめたし、腫れたところが当たって痛みがキツイ。歩くと痛みが腹に響くので、おそるおそる動いている。痛いだけで、それでどうとかなるわけじゃないが、痛いのは嫌なものだ。

注射をする看護師が「もう注射になれたでしょうけど、一か月に一回でも痛い思いをするのは嫌ですよね」といったのだが、その通りだ。

次回の予約は、12月8日。これが今年最後の診療になるはず。

最初(4月21日)に、CTとMRIの画像を見せられたときは、腹部が白い巨大星雲に覆われていて驚き、どうなることかと思ったが、いまでは星雲は消滅し凍結された一点の小さな星だけになり、酒も飲めるようになり(でもあまり飲んでないし、そんなに飲みたいとも思わないが)、とりあえず無事に年をこせそうなところまではきたようだ。

まだ、年内、何があるかわからないが。新型コロナの感染も怪しい雲行きだし。

それはそうと。毎回、病院の支払いが8千数百円と薬局の支払いが千円ちょっとで、一万円札一枚が消えていくのが、収入が無くなった身としては、厳しい。いつまで続くのかねえ、おれのイノチとカネ。

2020/10/07
癌治療7回目。半年ぶりに酒を飲む。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/10/post-aef4d0.html

 

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