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2020/12/31

大晦日。

大晦日の21時半過ぎにブログを書いているなんて、初めてだと思う。

昨日書いた株価については、今日のネットニュースで、いくつか論評というかなんというか、解説含みのニュースがあった。

ざっと見たところ、実態経済との乖離にふれているものがほとんど。そりゃそうだろう。

もう、いまさらだが、株価はマネーゲームの反映で、実態経済なんか関係ないのだ。

「期待値」で動いている。

アレだ、どの目に賭けるか、は、どの目に期待するか、ってことであって、実にイイカゲンなのだ。

イイカゲンは、いい。すべては、イイカゲン、デタラメ、ランダムに動いている。

そのことを認めないのが間違っている。認めれば、エビデンスを大事に扱うことになる。

エビデンスも期待値も関係なく、大晦日になって「高水準」に達したのが、新型コロナウイルスの国内の感染者数。

全国で過去最多の4515人、東京都も過去最多の1337人。

なかなかすごい年末になった。

株価も感染者数も、予測をしていた人はいるだろう。

しかし、たいがいは何らかのバイアスがかかった予測だし、バイアスがかかっても当然の状況だ。

なにしろ、何もかもデタラメに動いているのだ。

ウロタエは見せてないような専門家の言動も、言外にウロタエを十分に感じさせる。

お気持、わかります。

って、知ったかぶりしちゃいけないか。

もちろん、恒例の紅白歌合戦は、ちゃんとかどうかしらないが、行われているようだ。

こうなったら、なにがあっても、「変わらない」ことに賭けたくなるのも、人情というものだろう。

混乱が深まるほど、エビデンスより期待値、なのだ。

きっと、来年は、いい年になる。さあ、はった、はった。

おれは、完治はないというエビデンスを無視して、おれの癌は治るに賭けたい。ところがだ、おれはエビデンスを無視できないタチなので、ま、来年一年、生きのびられたらいいな、という、期待値になるわけ。

これだと、エビデンスと期待値のあいだに矛盾や齟齬はない。

だけど、なんだかツマラナイな。イイカゲン、デタラメ、ランダムにのっている感じがない。

明日から新年。

冬至を元日にしたほうが、エビデンスは明快で、ナチュラルでわかりやすくていいんじゃないかと、いつも思うのだが、どうして、こうなっちゃったんだろう。

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2020/12/30

この30年は、なんだったのか。

ちょっと、どうして、といいたくなる年末の株価。
あの「バブル」期並みの「高水準」。
あのバブルのときだって、株価は実態経済を反映してないといわれていたのに。


東証、一時30年4カ月ぶり高値
https://this.kiji.is/716469636165304320?c=39550187727945729

 29日午前の東京株式市場の日経平均株価(225種)は一時2万7300円近くまで上昇し、取引時間中として1990年8月以来約30年4カ月ぶりの高水準に達した。


大納会、日経平均終値は31年ぶり高値2万7444円
https://news.nifty.com/article/economy/economyall/12213-913228/

 2020年最後の株式取引となった大納会の30日、東京株式市場で日経平均株価(225種)の終値は、前日比123円98銭安の2万7444円17銭だった。年末の株価としては、史上最高値だった1989年の3万8915円87銭以来、31年ぶりの高値で取引を終えた。

 日経平均は2年連続で前年末の終値を上回り、終値を前年末と比較した年間の上昇率は16・01%だった。

 新型コロナウイルスの感染拡大が深刻化した2~3月に急落し、3月19日には終値で1万6552円の年初来安値をつけた。その後は、各国政府の財政出動や中央銀行の大規模な金融緩和策をきっかけに、株式市場に資金が流入。9月に新型コロナによる急落前の水準(2月21日の2万3386円)を取り戻し、12月29日には、1991年以来29年ぶりに2万7000円台の大台を回復した。

 

この株価に、どんな実態経済が反映しているのだろう。
あのバブル期以上の、このバブル。
あのバブル期は、それでも個人資産が株式市場に動いて、株価を上げていた面があった。
このバブルは、「各国政府の財政出動や中央銀行の大規模な金融緩和策をきっかけに、株式市場に資金が流入」。
日本の中央銀行も株式市場にドカドカ金を注ぎこんだ。日本株をどんどん買い支えた。
あのユニクロ(ファーストリテイリング)だって日銀が大株主、など、日銀は日本株の大株主になった。

日銀券を印刷できる日銀が大株主ってことは、実態経済なんか関係なく、株価や経済を自作自演できる。いつかは破綻するけど。
今回の「バブル」の根幹は、そういうことだ。もちろん、アメリカ頼りだけど。
自作自演のためには、バブリーな虚構を担う中央のメディアの力が不可欠。その応援ぶりもすごいね、驚いたね。

あの「バブル」では、差は小さくなかったけど、幅広い層に「恩恵」がこぼれた。おかげで、バブル崩壊後は、とんでもないトバッチリを背負ってしまった人も少なくなかった。でも、ちょっとばかり夢を見て、少しは「おいしい思い」をした人が、けっこういた。労働者庶民であっても。

今回は、どうか。「おいしい思い」をしているのは、どんな人か。

そりゃまあ、コロナ禍でも「おいしい思い」をしている人はいるけど、かなりしぼられているね。自作自演にのれる位置にいる、いわゆる「エリート」とか、「大手」とか、そのあたりにぶらさがっている、傾斜の上の方だけ。

それでも、リーマンショック後を経験した人は、あの「底」と比べたらよくなったし、せっかくよくなったのにコロナ禍でまた…という思いもあって、株価の「高水準」に期待したくもなるだろう。

だけど、ダメダメ実態経済30年のもとでの、この自作自演バブルは、すでに格差拡大という大きな禍をもたらしている。労働問題は、多岐にわたって、かなり深刻になっている。

経団連もダメダメ。ラクしているもん。

労働者庶民の生活がよくなるほうへ金が動く気配はない。

それにしても、あの安倍の、唐突な「辞任劇」は、なんだったのだ。

なんだった、なんだった、で暮れる年。

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2020/12/29

東京へ行かなかった年。

とにかく東京へ行かなかった。

行ったのは、いつが最後か、調べてみた。

どうやら、3月12日のようだ。東京新聞に連載の「エンテツさんの大衆食堂ランチ」の取材だった。これがこの連載の実質最終回になったのだが、そのことは以前に書いている。

2020/05/23
実質最終回 東京新聞連載「エンテツさんの大衆食堂ランチ」90回目、荻窪・やしろ食堂荻窪店。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/05/post-c8373a.html

ここに、3月12日にやしろ食堂へ取材に行ったと書いてある。それが、最後だろう。

「この掲載日には、まだ続くつもりでいたが、体調は悪くなっていたし、食欲は急激に衰えていた。ちょっとぐあいの悪いところに思い当たることもあったが、たいがいは「老化」のせいだろうと思っていた。それが27日に医者に診てもらってから、急転、休載」

「シンドイ身体で、やしろ食堂荻窪店を訪ねたのは3月12日のことだった。すでに2月14日に「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議」が設置され、イベントの中止や延期など、感染防止対策のいろいろな動きが「自主的」に始まっていたが、飲食店などの営業は変わることなく荻窪駅周辺もにぎわっていた」

その頃には「シンドイ身体」になっていたわけだが、それでもまだ、「いまだかつて出合ったことのないボリューム」のカツ煮定食を無理しても食べられたのだ。

コロナ禍とおれの癌禍は、ほぼ同時進行的に悪化した。癌の治療が始まって主治医には、コロナに感染したら重症化まちがいないから、十分気を付けるようにいわれた。

それでなくても前年あたりから東京へ行く回数は減らしていた。それが病気に関係あったのかどうか、東京へ行くと疲れるし面倒になっていたからだ。後期高齢者というトシのせいだろう思っていた。

用がなければ、東京へ行きたいと思ったことはない。ま、東京の住人である誰かと一緒に飲みたいナ、と思うことが、まったくないわけではなかったと思うが、もともと東京の街自体には、それほど魅力を感じているわけではなかった。東京へ来るのがトウゼン、東京へ集まるのがトウゼン、東京のメディアはエライ、と思っているらしい東京の人間には、違和感があった。

「東京へ行かない暮らし」は、おれにとっては、かなりナチュラルでノーマルだった。

幸いなことに、東京へ行かないでも、生きている。

これ、「新しい生活様式」ってのかな?

もう一つ、例年と大きく違うことがあった。

外食が減ったのはもちろんだが、外食で「ラーメン」を食べたのが1度か2度ぐらいだと思う。これは、どういう必然が作用しているのだろうか。見当がつかない。駅近くにある日高屋や満洲ラーメンなどは、よく利用していたのに。「ラーメンを食べたい」と思うことすら、なくなった。

習慣というか惰性で続いていた味覚が、コロナ禍や癌禍で、途切れたようでもある。味覚なんか、けっこう惰性的だし、情報に追随的だからなあ。あらためて、そう思った。

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2020/12/27

生と死とめし。

この年末、家の中が明るくなった。物理的に明るくなったのだ。

家を建て引っ越してから12年が過ぎた。蛍光ランプが寿命で暗くなったり点かなくなったりなので、新しい蛍光ランプやLEDに替えた。

室内の大半がLEDになった。明るい。

LEDの仕様を見たら、「計画寿命」が4万時間とある。24時間つけっぱなしでも4年半はもつ。普通の使用状態なら10年以上。

人間には「設計寿命」なんてものはない。生まれたときから、何かを口に入れなくては生きていけない。生と死は隣合わせ、といわれる。

毎日、食べて、何とか死を先延ばしにする。

そのことをうまくいったやつがいる。「やつ」という言葉を敬称として使っているのだが。

ブコウスキーだ。

こんなぐあい。

………
いずれにしても生き延びていくしかないのだ。死はいつも隣にいるが、何とかごまかして、しばらくはおあずけをくわせるのにこしたことはない。
………

詩人らしい、といえるか。『ブコフスキーの酔いどれ紀行』(中川五郎訳、ちくま文庫2017年)にあった(P126)。

同じようなことを、学者が近代医学の成立にふれながら生と死を語ると、こんなぐあいだ。

………
 他方では、生そのものにおける死の不断の進行が、病的プロセスとは区別されるものとして発見される。死が、唯一の絶対的瞬間であることをやめて、時間のなかに分散されるということ。死は、もはや生を外から不意に襲うものではなく、生のなかに配分されているもの、生とのあいだに内的関係を持つものとしてとらえられるようになるということだ。そしてここから、そもそも生の根底には死があるという考え、生とは死への抵抗の総体であるという考えが生まれるとともに、死は、生の真理を語るための視点として役立つものとなる。
………

学者らしい著述、といえるか。

慎改康之著『ミシェル・フーコー ――自己から抜け出すための哲学』(岩波新書2019年)、「第二章 不可視なる可視性 『臨床医学の誕生』と離脱のプロセス」の、2「近代医学の成立――近代医学の誕生」のところにある(P48)。

この本は、ミシェル・フーコーの著書を年代順に読み解きながら、そこに「自己から抜け出すための哲学」を見るという仕掛けになっているのだけど、そのことは置いておこう。

「そもそも生の根底には死があるという考え、生とは死への抵抗の総体であるという考えが生まれる」のは、近代医学の成立の過程であり、そんなにふるいことではない。

いまでも、「生とは死への抵抗の総体である」という考えは、それほど一般的のようには思えない。

ブコフスキーの「死はいつも隣にいるが、何とかごまかして、しばらくはおあずけをくわせるのにこしたことはない」は、どうだろうか。

「おあずけをくわせる」は、死への抵抗だろうと思うけど。

食べることは、「おあずけをくわせる」ことだし「死への抵抗」だ。という考えは、普通の生活ではあまり感じることも認識することもないのではないか。

死を考えることは生を考えることだ、ぐらいまではよくあったとしても、「生の根底には死がある」という考えとは違うようでもある。

だけど、「余命」や「5年後の生存率」が話題になる癌などに罹ると、生きているのは日々めしを食うのは「おあずけをくわせる」「死への抵抗」という実感も認識も、グーンと高まる。

こんなことを書くていどには。

そして、やっぱり、力強くめしを食え!だよね、と思うのだった。

それから、死の視点から、生の真理を考えるように、食の真理を考えられないものだろうかと思っている。栄養とか、健康とか、「最後の晩餐」とかじゃなくて。

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2020/12/23

今年の読書と本。

今年は「本を読んだ」という気分がある。

「必要趣味」と「自由趣味」という軸に従えば、自由趣味の読書が多かったということになるか。

つまり、必要趣味の本は、いくら読んでも、「仕事脳」がぶよぶよし、「読書」の気分ではない。ということになるようだ。

別の軸、たとえば鶴見俊輔がいうような、「文明批評として読む」と「人生の一部として読む」で比べれば、後者の小説が多かったともいえるようだ。

「多かった」といっても、絶対数ではない。おれの小さな日々のなかで、どちらかといえば読書量の少ないなかでの、「ていど」のことだ。

津村記久子の『サキの忘れ物』(新潮社)の発行が6月25日で、7月初めに買って読んだ。これが発火点だった。

面白くて、味わい深くて、しばらくほっておいた津村記久子の本を、手持ちのものから読み返した。

図書館で、『ポースケ』(中央公論新社、2013年)『とにかくうちに帰ります』(新潮社、2012年)『やりたいことは二度寝だけ』(講談社、2012年)を借りて読んだ。

9月になって、図書館で『エヴリシング・フロウズ』(文藝春秋2014年)を借りた。

朝日新聞出版から2012年11月に発行の『ウエストウイング』に登場する「やまだヒロシ」のその後を知りたい、というようなことをどこかの編集者にいわれてこの小説を書いた、というような話を何かで読んだ。もしかすると、『エヴリシング・フロウズ』のあとがきにあったのかも知れない。

とうぜん気になるから、『ウエストウイング』を図書館で借りて読んだ。『エヴリシング・フロウズ』では中3の「やまだヒロシ」は、この本では小学6年生。主要登場人物の一人、あるいは主人公を構成する一人だ。この小説は「場」が主人公のように話が展開する。

とにかく、小学6年生と中学3年生、そしたら高校3年生が気になった。『ミュージック・ブレス・ユー!!』のオケタニアザミだ。これは角川文庫版を持っているから、もう一度、4回目ぐらいになると思うが読んだ。

ついで、大学卒業間近のホリガイを読みたくなった。枕元の本棚から『君は永遠にそいつらより若い』(ちくま文庫)を引っ張り出して、これも何度目になるか、読んだ。

これで、小・中・高・大の、しかも卒業年度のシリーズになる。「シリーズ」とは謳ってないが。

喜寿で癌で先が短くなっているジジイの頭のなかだけ、「青春」がざわざわ。

「青春小説」という言葉がある。中学3年生ぐらいなら引っかかりそうだが、小学6年生は、どうだろう。でも、「青春」になりそうでもある。

図書館で『アレグリアとは仕事はできない』(筑摩書房2008年)を図書館で借りて読んだ。これは、「仕事系」だ。それでまた、手元にある「仕事系」の文庫本『ワーカーズ・ダイジェスト』(集英社文庫)『ポトスライムの舟』(講談社文庫)『カソウスキの行方』(講談社文庫)を読み返す。

同じ頃、図書館の棚の前をふらふらしていたら、四方田犬彦の『ハイスクール1968年』(新潮文庫2008年)が目に止まり、「おっ、青春だ」と借りて読んだ。これはエッセイということになるか。ちょっとはずれた。偶然読んでしまったという感じ。

同じ頃、やはり図書館の棚の前をふらふらしていたら、佐藤亜紀の『スウィングしなけりゃ意味がない』が目に止まった。

佐藤亜紀は『ミノタウロス』 (講談社2007年)を買って読んで以来、ご無沙汰している。パラッと開いて見たら、「青春だ」しかも「ジャズだ」、それもナチの支配下。借りて読んだ。ひさしぶりだが期待を裏切らない佐藤亜紀。これは手元において何度でも読みたい、角川文庫版を買って読み直した。須賀しのぶの解説。面白さとまらず、『ミノタウロス』まで引っ張り出して読み直した。

『サキの忘れ物』は、これまでの到達点、さらに「青春系」「仕事系」をこえ、いろいろな枠組みをこえ、あたらしいこれからのステージのお目見えという感じでもある短編集だ。

その一編のタイトルである「サキの忘れ物」は、新潮文庫の『サキ短編集』。読んだことがない。買ってきた。一度に読むのはもったいないから、病院の待ち時間の読書にしている。21編中4編まで読んだ。

そして、いま、初めての西加奈子を少しばかり。『円卓』(文春文庫、2013年)、小学3年生のこっこ。『漁港の肉子ちゃん』(幻冬舎文庫、2014年)、小学5年生のキクりん。

いやあ、おれとしては、よく読んでいる。

必要趣味のほうは、いろいろだが、目下の関心は、「大衆食」「モダニズム」「民藝(運動)」というあたりのつながりと断絶などを、ポテトサラダで探求することだ。

こうして、新型コロナと癌の年は暮れようとしている。

当ブログ関連
2020/08/16
「食べることを食のマウンティングから切り離したい」
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/08/post-6449ca.html

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2020/12/21

想像以上にデカイ広い、また何度も行きたい渡良瀬遊水地。

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先週の15日火曜日、初めて渡良瀬遊水地へ行った。いいぐあいに、想像を裏切られた。

ほんとうのことをいうと舐めていた。

だいたい、渡良瀬遊水地といえば、足尾銅山鉱毒事件と田中正造と谷中村というあたりの知識が断片的にあるていどだった。この件については、自民党の指導的立場の連中の新型コロナやパンデミックに対する態度や知識を笑えないぐらい、お粗末だった。だからといって、首相だから会食OKよ、議員だから忘年会OKよ、とか、マスクも正しくできない麻生のように、あからさまに舐めた態度はとらんけどな。やつらは無知なのに学ぼうともしてない。

そんなに期待していなかった。

15日の朝になって、行ったことがなく、人混みを避けて行けるところと考えて、浮上したのが渡良瀬遊水地だった。

検索したら、うちから1時間ちょっとで行ける。なんだ、チョイと行ってみようか、と気軽に出かけた。コンビニで、食べ物と飲み物を調達。

宇都宮線の人混みの東京方面と反対、下りで栗橋。東武日光線に乗り換え二つ目の柳生駅で降りた。

ただでさえ、広く平らな関東平野。ガランとした駅、駅前、「密」とは無縁な「疎」。肉屋があるだけ。一軒あるだけの店が肉屋、というのが面白い。惣菜も売っている。ほかは、かつては何かの店だったスペースを駐輪場にしている建物が3軒ほど。

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畑地の中に家がある。道路がある。歩くこと10数分。遊水地の土手が見えた。

日本海を渡り押し寄せる今季初の寒気の波の先端が、上越国境を越え、吹きまくっていた。遮るものがない、吹き放題だ。

土手の葦が、「風にそよぐ葦」なんてもんじゃなく、北風に叩きつけられ、耐えている。

土手を上る。見えた。

「え~っ、こんなにデカイのか」

すまん、渡良瀬遊水地、ただデカイだけじゃなかった。

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2020/12/18

今年の、ちょっとした意外、驚き。

テレビも新聞もない生活だし、ようするにあれやこれや各界の中央の主流の権威とみられるメディアの類の動向など、まったく縁がないしあまり関心もないのだが、最近、へえ~今年はそんなことがあったんだ、と思ったことが二つあった。

といっても、私的な関心のことにすぎないのだが。

一つは、大河ドラマに近衛前久が登場したという話だ。

この男、ドラマでどのように扱われたかは知らないが、かつて、かなり興味を持って調べたことがある。

そして、「小説 料理物語」というのを構想したのだが。そのことを思い出して、このブログを検索したら、書いていた。これだ。

2007/05/25「大構想 小説料理物語」
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2007/05/post_5ef1.html

そこに書いたように、江原恵さんに書いてもらいたくて構想した。

『料理物語』は1643(寛永20)年の書として伝わる。この本の読み方は色々だけど、それまでの料理書とはかなり違う点がある。最後に「右料理の一巻は庖丁きりかたの式法によらず、唯人々の作り方次第の物なれば」といった、支配的だった中世的な料理書には見られない記述がある。いったいどんな著者が、と気になるが、不明なのだ。

そこに着目した、構想だった。

この書を「近代日本料理思想の芽生え」として読んで、それが生まれる、織田信長の頃からの100年間ぐらいを「小説」というカタチでまとめてみたらどうか。

料理物語の作者像は、かなり気になる。それを解くカギとして「右料理の一巻は庖丁きりかたの式法によらず、唯人々の作り方次第の物なれば」のほかに、「御所様餅」「近衛様餅」がある。これは菓子なのだが、当時はまだ菓子は料理から独立していなかった、あるいは、独立していなかった時代に書かれたことを証拠立てるが、本書の中で、この二つだけが、名前からして上流階級をイメージさせる。

このへんの「なぜ」を突き詰めていくと、料理思想や技術はどう伝わっていくのかや、とくに「和食・洋食・中華」という言葉で語られる食風俗の中に埋没してきた近代日本料理や味覚文化の成り立ちが、いくらかトレースできないかという期待があった。

そのことについては、ちょっとだけ汁かけめしの本などでふれてはいるが。

中世的な思想と支配が崩れる頃は、「時代」をかきまわすやつがいる。縦横無尽にかきまわすやつがいる。その役割を近衛前久に負わせたらどうか。その結果として、「御所様餅」「近衛様餅」が残った。料理物語の著者と深い因縁があったからだ。なーんていうことを考えた。

おれが読んだ限りの資料だが、近衛前久は公家にしてはかなり型破りな人物だったし、その頃から徳川初期の茶人には型破りの人物がいた。「型破り」とは「中世的ヒエラルキー」その思考には、おさまりきらないということだが。

料理物語の作者は、上流階級と関りのあった人物という設定であり、おれは小堀遠州周辺の人ではないかと推理していたが、江原さんは違う考えだったようだ。そのへんは擦りあわす機会がないまま終わった。

そのことはこれぐらいにして、もう一つは、NHKの「100分de名著」という番組に、ブルデュー『ディスタンクシオン』が登場したということだ。講師は岸政彦。

へえ~、NHKが? だった。

ブルデューについても、『ディスタンクシオン』についても、岸政彦についても、詳しいことは知らない。

ただ、「ハビトゥス」という概念がすごく気になっていて、まだよく理解できていない。

「食生活」を考えるときには、避けられない概念のような気がしてはいるのだが。

以前、よく消化できていない生半可の知識のままブログに書いた。

2018/07/23
食の実践と卓越化。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2018/07/post-96a4.html 

なんか、でも、この二つのことでは、意外でもあり、驚いた。

「時代」はゆれているのだろうか。

 

 

 

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2020/12/17

ブリコラージュな「やきめし」。

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今年は「分解」という言葉を抱えて、考えたり考えなかったりしていることが多かった、といえるようだ。

なんとかこの言葉を噛み砕いて自分のものにできないか。

このブログには、こんなことも書いている。

2020/10/19
料理や食事と、エンジニアリングやブリコラージュ。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/10/post-197393.html

んで、大衆食堂の画像を整理していたら、十条の天将の「やきめし」が目にとまった。

この「やきめし」、これはブリコラージュではないか。

やきめしの楽しさはブリコラージュにあるとひらめいた。

あまりものをテキトウにぶちこんで作る「やきめし」、うまいんだな、これが。おれが父親に最初に教わった料理が「やきめし」だった。

ひらめいた脳ミソに「パッチワーク」という言葉も浮かんだ。そうだ、パッチワークはブリコラージュ、やきめしはパッチワークでありブリコラージュだ!

そうそう、藤原辰史『分解の哲学』には、「金繕い」の話があったな。あれも、同じ類ではないか。

と考えているうちに、だんだんだんだん、見えてきた。

料理は、食材や熱や欲望などいろいろな関係を繕うものであり、その料理を食べて人間は身体や気持を繕い、料理を一緒に「食べる」ことで人との間を繕い……てなぐあいに、「繕う」という言葉を置いてみると、食事と料理をめぐるブリコラージュが、「分解」が、見えてきた。

ような気がしている。

「料理」について、大きなカンチガイがある。

それは、エンジニアリング力で提供される「いいもの」を消費する、近年の「消費社会」の中で、拡大してきた。

一方で、やせほそるブリコラージュ力。つまり、「家庭料理」という言葉で語られるところのいろいろ。

この「やきめし」を見ながら、そう思った。

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2020/12/13

「これが、(いち、に、さん)命なんです」

西加奈子という作家、チョイと気になっていたのだが、初めて読んだ。驚いた。

前の投稿「いのち」にからんでいるところが、どえらく面白かったし。

『円卓』(文春文庫、2013年)。

両親と14歳の三つ子の姉と祖父母と公団住宅の3LDKに暮らす小学3年生の9歳の「こっこ」。彼女の夏休み前最後の学級会のテーマは、「学級で生き物を飼うかどうか」だ。

こっこは生き物が好きで飼いたいが自宅では飼えない。公団だし、家族は多いし。

学級で飼うようにしよう。こっこは提案することにした。

こっこの要求を学級の皆に呑ますためには、どう話したらよいか、賢いぽっさんが知恵を授ける。ぽっさんはこっこと同じ学級、同じ団地のこっこの住まいから声が届く棟に住んでいる。

こっこは興奮しやすい。興奮すると「うるさいぼけ。」と罵倒が始まる。冷静にいけよ。

ぽっさんの知恵は、″「生き物を飼うことで命の有難さが分かる」というような教訓めいたことを提示するのが良い″″決して個人的な嗜好からこのように言うのではないのだ、ということを、皆に分かってもらわねばならない″ということだった。

そのための効果のある話し方を、こっこは何度も練習して臨む。


こっこは何度も練習したそれを、いよいよ始めるのである。
「みんな、手のひらを胸に当ててみてください。」
 皆、こっこの言うとおり、手を胸に当てた。9歳はまだ素直だ。
「心臓が動いているのが、分るでしょう。」
 皆、うなずく。表情、雰囲気、こっことぽっさんの計画通りである。
「これが、(いち、に、さん)命なんです。」
 ぽっさんは、効果を増すために、「これが」と「命なんです」の間を、三秒空けるのが良いだろう、と言った。「なんです」の「す」も、「SU」というより「S」という感じで、空気にゆだねるように。ぽっさん熱心、なぜならぽっさんも、生き物を飼いたいのである。
「命の大切さ、私はみんなと分かち合いたいんです。」
 分かち合う、という言葉、こっこ初めはどうしても「かち割る」と言ってしまっていたほどの無知。だが今はどうだ、美しいHGP明朝Bを、お口からなんぼでも出す。
「生き物を飼うことで、命の大切さが、分ると思うんです。」

なんとまあ、うまいこと書くもんだ。西加奈子、なんていうやつだ。
いや、作家なら、これぐらい言葉について熟知していて当然か。
それにしてもなあ。うまく書くもんだ。
「命」という言葉が持つ神秘性や神々しさが及ぼす影響。個人的な嗜好ではなく、教訓めいたことの提示。

「(いち、に、さん)」
「美しいHGP明朝Bを、お口からなんぼでも出す」

うまいなあ。心憎い、という言い方は、こういうときにぴったりだ。
もしかすると、おちょくったり、皮肉ったりしていたとしても、これでは気が付かないもんなあ。

HPG明朝B、には、気を付けよう。「S」という感じの「です」「ます」調もねえ、けっこうあるけど、おかしいよなあ。

そうなんだよ、「命」という言葉は、こんな表情と雰囲気を持って語られることが多いんだよなあ。

そのように、ひたすら感心したのだけど。
こっこのプレゼンは、うまくいった、そう見えた。が、思わぬことが起き、こっこは「うるさいぼけ。」「うちは、生き物が、飼いたいのんじゃ!」を口走ってしまう。

それはともかく、この小説は、抽象や世界を知り理解していく年齢、10歳前後ぐらいの言葉の世界を、じつにうまく描いていて(8人の家族構成と他の登場人物、それから紅い円卓が、効果的)、うなりまくり。

解説は、津村記久子。それもあって、図書館から借りてきた。

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2020/12/10

「いのち」という言葉。

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言葉というのは、やっかいだ。日本語のせいがあるかもしれない。

「いのち」は、「命」とも書くし「生命」と書いて「いのち」と読むこともある。あるいは「イノチ」という表記もある。

おれのばあい、こんなぐあいに、何かに書いているし、「ザ大衆食」のサイトにも掲げている。

http://entetsu.c.ooco.jp/hon/labo.htm

″生活は「生命をつなぐ活動」、料理は「生命をつなぐ技術」、食事は「生命をつなぐ祭事」/食事の前に、ご唱和くだせえ。  「生命」は「いのち」とお読みくだせえ。″

なぜ「生命」と書いて「いのち」と読むのか、または「いのち」という言葉に「生命」という漢字をあてたのかというと、「いのち」や「命」という言葉は「生きる」や「生命体(生きもの)」から遊離しやすいと思ったことがあるからだ。

遊離すると、神秘的あるいは神的な観念のほうへ傾斜しやすい。

「命」は「みこと」とも読んで、「須佐之男命」となったりするしな。

2020/12/06
『スペクテイター』最新号「土のがっこう」。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/12/post-c65d23.html

にも書いたように、おれは90年前後ぐらいから、いまでいう「オーガニック」や「マクロビオティック」などに関わるようになったが、そのとき、「いのち」という言葉のやっかいさやあやうさが気になったのだった。

この「土のがっこう」の紹介に載せた図解には、「いのちは循環している」というタイトルがついている。このばあいの「いのち」は、ほぼ「生命」と見てよいだろう。

「動物や植物の死骸は、地中で微生物に分解され、それによってつくられた無機物が植物の栄養となる」

とあるからだ。

簡単にいえば「生物と無機物のあいだの循環」ということになるし、これがまあ自然の営みであり人間はその中で生きているということでもあるが。

循環しているはずの「いのち」の実像は、はっきりしない。

そのあたりに、「いのち」が、神秘性をおび、神的や霊的な存在、「魂?」のような、そういう抽象へと転化していく要因や必然があるのではないか。

そうなると、「いのち」は、「生きる」や「生き物」を離れた存在になっていく。「生活」からも離れる。

たとえば、「転生」といった概念。「いのち」は生まれかわる。これもまたいろいろのようだが、楠木正成の生まれかわりという人にも会ったし、楠木正成の何番目かの息子の生まれかわりという人もいた。

シャーリーマクレーンの信者のような人もいたな。昨今の「スピリチュアル」で「マクロビ」で、というあたりになるか。かなりファッション的ではあるけれど。それなりの「市場」を形成している。

いまおれは癌治療をしているが、そのあたりのいわゆる「代替療法」や「自由診療」にも、見られる。

「いのち」は神秘。

それで、おれは、「命」は「生」つまり「生きる」や「生きもの」や「生活」にある、それらを離れて「いのち」は存在しない、という意味をこめて、「生命」を「いのち」と読み、「いのち」に「生命」という漢字をあてることが多い。

その「循環」の一端は、「食べる」ことや「食べ物」に見ることができる。だけど、「食べる」ことや「食べ物」から、その「循環」が見えているとは限らない。

「食文化」も関係するし、そこにまた「いのち」がやどったりする。ややこしくて、あやうい。心臓の鼓動に手をあててみたり。

「いのち」が神秘的だと、「死」まで神秘的になったりする。

生まれたら、向かうのは、誰でも同じ死であるはずなのだが、言葉が、ややこしくする。

近頃は、「命」は、「命か経済か」と、「経済」と並べられたりして。神秘性が利用されている。

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2020/12/09

2020年「癌生活」リンク集。

昨日の診療は今年最後の診療だった。4月1日から始まる「癌日記」みたいな投稿を、2020年「癌生活」リンク集としてまとめてみた。

2020/12/09
癌治療9回目。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/12/post-a18392.html

2020/12/02
ガンの本。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/12/post-6187ce.html

2020/11/11
癌治療8回目。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/11/post-8913f0.html

2020/10/07
癌治療7回目。半年ぶりに酒を飲む。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/10/post-aef4d0.html

2020/10/01
MRI検査の結果。癌細胞が冷凍状態になった。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/10/post-edb003.html

2020/09/20
MRI検査、きつかった。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/09/post-373367.html

2020/09/10
癌治療6回目。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/09/post-e8975e.html

2020/09/07
紫外線浴歩き。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/09/post-34764f.html

2020/08/18
「健康な生活」と「規則正しい生活」。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/08/post-0e46a5.html

2020/08/14
癌治療5回目。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/08/post-948fbc.html

2020/08/04
3か月ごとの検査(CTスキャン)。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/08/post-5e1572.html

2020/07/30
QOLとコロナ禍と癌。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/07/post-ca4a86.html

2020/07/15
癌治療4回目。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/07/post-10a395.html

2020/07/10
高額療養費支給申請。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/07/post-1597e5.html

2020/07/07
ノンアルビールとプラシーボ効果。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/07/post-99e390.html

2020/07/01
激動の半年の最終日、病院で血液検査。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/07/post-6a16e5.html

2020/06/19
癌治療三回目。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/06/post-1a8761.html

2020/05/23
実質最終回 東京新聞連載「エンテツさんの大衆食堂ランチ」90回目、荻窪・やしろ食堂荻窪店。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/05/post-c8373a.html

2020/05/22
癌治療二回目。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/05/post-96aa24.html

2020/04/23
癌治療一回目。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/04/post-89539f.html

2020/04/10
検査手術入院2泊3日。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/04/post-dce43e.html

2020/04/04
MRI検査、体重7キロダウン。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/04/post-ae7d9e.html

2020/04/01
東京新聞「エンテツさんの大衆食堂ランチ」は休載。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/04/post-f88b3b.html

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癌治療9回目。

昨日は4週ごとの診療日だった。9回目で、今年最後。

前回のように受付開始の8時が指定された時間。6時半に起き、顔洗って、糞して、飯くって、一日に一度朝食後に飲む2種2錠。遅れそうになったので急いで家を出る。

再来受付機に診察券を突っ込む。診療票が吐き出される。受付時間は8時1分。受付番号が、これまでで一番早い23番。何の特典もないけど。

生理検査室に診療票を出して待つ。採血が始まるのは8時半だ。45分頃採血のち紙コップもらって自力採尿。

診療受付に診療票を出し、診療室の前で待つ。予約は9時半だが、それまでに検査結果が出ることは、ほとんどない。でも10時前に呼ばれた。

腫瘍マーカーの数値が一気に上がっていた。8月9月10月とコンマ以下だったが、11月に1を少しこえた。でも微増だから問題なしだった。今回は10月の4倍。

数値の変動は3か月単位で判断するのだそうで、薬を変えた方がよい悪化のレベルだと主治医はいう。

「でも、まだ基準値以下ですよね」とおれ。

「それは健康の人の基準値だから」

「数値は、必ずしも実態じゃなくて、誤差がありますよね」とおれは数値に抵抗する。

「そうだけど、遠藤さんの原発巣のばあい、割と正確に数値に反映するんですよね」

「薬を変えるって、注射ですか」

「錠剤だけど、これが高いんだな、副作用も強いし」

「いまだって注射代が高いんだから、困るなあ」(現在は1回の診療で1万円札が消える)

「高いよねえ」

「この数値、急に上がりすぎじゃないですか。こんなに急に上がるもんなんですか」

「うーん、ちょっと急すぎるけど」

などなど、アーダコーダドーダと話しあいは続き、次回まで様子を見ましょうということになった。

「体調管理をしっかりやってくださいね」

高齢者のばあい、体調管理でマーカーの数値が改善されることがあるそうだ。

酒は飲んでもよいが、寝るのが遅く睡眠不足になるのは、よくない。

ま、「治療優先の生活」から「普通の生活」になってこの間、いろいろ緩くなっていたからな。寝る時間が遅く、少し生活が乱れていたし。

いまより高い薬も強い副作用も嫌だから、次の診療まで自重し、なるべく楽しく愉快に過ごし、薬の効果を高めるとしよう。

いつものように腹部の注射による痛みと腫れ。

2020/11/11
癌治療8回目。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/11/post-8913f0.html

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2020/12/06

『スペクテイター』最新号「土のがっこう」。

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今日のニュースに「東京の不動産投資額が世界首位 コロナで海外資金流入」という大きな見出しがあった。うれしくない、誇れないニュースだ。

土地を不動産価値でしか数えられなくなった日本、その首都の姿。こんな時代だから、まず「土地」を、地球と人類の歴史的資産であり文化的資産である「土」として、見てみよう。その資産を食いつぶしながらの「経済」の姿も、見えるだろう。

「土」を日々生きる視野に入れるのだ。

『スペクテイター』最新号「土のがっこう」は、人が生きていく上で、ということは、食べていく上で、必須のことが詰まっている。これまでこういうテキストがなかったのが不思議なぐらいだが、それが現実だった。

2020/11/19
都市的風景と農的風景の断絶、『スペクテイター』最新号「土のがっこう」。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/11/post-2cfd79.html

に、顔を出してから、なかなか本題に入れなかった。でも、この間にブログに書いていたことは、「土」と学校に関係あることだった。昨日と一昨日に書いた、学校のことは、偶然にテープ起こしが見つかったからだが、自分は小学校や中学校で、どんな教科書を使いどんな授業を受けていたのだろうと考えていた。あまり思い出せない。

自分が卒業したあとの学校世界のことは、ほとんどわからないが、2000年頃に東京都の小中学校で授業を取材する機会があって、いくらかは見えたこともあった。だけど、どんな教科書を使いどんな授業をやっているかは、ほとんど知らない。知らないでも、生きていける。たいがいの大人たちは、そうではないだろうか。

土の中、を知ることは、「生きる」や「価値」を知ることでもあるのだな。とはいえ、「土」がどうして存在するかについての知識もおぼつかない。

「太陽」と「空気」と「雨(水)」と「土」がなければ、人間もあらゆる生物も生きていけない。といわれるが、中でも、「土」が特別なのは、「土」は自然にあったものではなく、マグマが冷えて固まった「岩石」が太陽と空気と雨それに微生物や苔などの作用でできてきた。気が遠くなるほどの時間がかかって「土」ができてきた。とても薄い「土」の層。磁器の釉のようなものか。「土」は、太陽や空気や雨のように人間の生理と直接関わるわけじゃない。あいだに「農」や「農耕」や「食」などの文化が介在する。そして、だから、人間の扱い方(文化)によっては、失われるのもはやい。その循環のどこかが損なわれると、「土」はどんどん失われる。

いま、そのことが問われている。

「1時間め 基調講演 ようこそ!土の世界へ」では、土壌学者の福田直さんが、「土壌教育」の必要性を強調しながら、「学習指導要領でとりあげられた”土”という言葉は、学習指導要領が改訂されるたびに、けずられてきました」と語っている。

おれが子供の頃ですら、まだ多分に農業社会的だったけど、「土」については、学校でちゃんと学んだ記憶はない。では、いったい、何を学習していたのだ。

学校教育も実生活の舞台も、どんどん「土」から離れていった。おれも、東京に出てからは、どんどん「土」から離れていった。

少しばかり「土」と縁ができて日々の「視野」に入ってきたのは、80年前後ぐらいからだ。ある旧財閥系の園芸会社の仕事を請け負ったことで、「土づくり」や「種苗生産」といったことに接する機会があったし、自分でも実際に小さい畑を耕し肥料を施し、じゃがいもやサヤエンドウを育てたりした。

「脱工業化」や「エコロジー」な時代背景もあり、だんだん「土」や「自然」へ傾斜していった。高校のときから登山をやっていたから「自然」とは親しかったようだけど、そういう「自然」と「土」の「自然」は、チョイと違う。いや、かなり違う。

「毎日うんこと泥をこねくりまわしていますよ」

あんぱんの皮のように日焼けした顔をほころばせながら、そういうショウさんのことを、「土のがっこう」を読みながら懐かしく思い出した。

ショウさんは、土壌浄化法による下水処理施設の工事(この仕事でうんこと泥をこねくりまわしているのだ)と自然農を営んでいた。おれが初めてあったのは、1989年か90年頃で、自然農法は始めたばかりの頃だった。

おれはショウさんの家に「下宿」して仕事をしていた。周囲には、「無農薬有機栽培」なんて謳わなくても、先祖代々それが当たり前の農林業家などがいて、何人もの人たちと交流があった。

その一人がクリさん。「自然は、わたしたちがやったことに必ず応えてくれます。自然に聞きながらやるんですよ。無理はいけないし、自然に逆らうおかしなことはいけない」といった。彼は、農林業を学ぶための国立大学と大学院6年間以外は、ずっとその土地で生きている。彼の林や田畑は、見ただけでわかると誰もがいったし、素人のおれでもわかった。当時、無農薬有機栽培の野菜は農協が引き取ってくれず、販売ルートで困ることが多かったのだが、彼の野菜は仲買人が競って買い求め市場でも高値がついた。

「土」「農」「有機栽培」「無農薬」「減農薬」「自然農法」「慣行農業」…などについて学ぶことが多かったが、なにより、生き方やモノゴトの見方について、いろいろ学んだ。以前、このブログでも時々書いている。

ま、とにかく「土」も「土いじり」も面白いね。けっこう興奮するし。「土」のぬくもりは、癒しになるし。

いまは小さな庭の水やりていどで、「土いじり」ってほどはやってないが、近所には畑がけっこうあって、毎日「土」を見ている。あの、ふかふかした「土」の顔は、見ているだけで気持が和む。

まずは、「土」を知り、「土」に親しむ。

もくじだけ紹介しておこう。

最初の扉に、「土」の文字が、どのような意味と歴史で成り立っているか解説がある。知らなかった。これだけでも得した気分。

◆イントロダクション

土のせかいは、おもしろい 文/編集部 イラスト/河井克夫

◆基調講演 ようこそ! 土の世界へ

講師/福田直 インタビュー構成/編集部 イラストレーション/相馬章宏

◆学習まんが 土ってなんだろう?

作画/河井克夫 原作/福田直 構成/編集部

「土と日本人」
「土と人類」
「土壌侵食って何?」
「土と教育」
「土と有機農業」
「2008年以降」

◆ロング・インタビュー 土からのメッセージ

取材・構成/編集部

橋本力男「堆肥づくりは 感性の扉」

小泉英政「土から見えたものは」

◆土と仕事

土に救われた僕
文/モリテツヤ

土いじりを仕事にするまで
文/高谷裕一郎

土から教わる、おいしい哲学
文/齊藤はるか

野菜ジュースと堆肥
文/コウ ノリ

一〇〇〇の用途のある粘土
文/川内たみ

◆土と生活

《わたし》は土に還れるか? ──離れ小島でメンドリと暮らす
文/よしのももこ イラスト/ブックン

◆「恵みの土」
マンガ/まどの一哉

◆土の図書館

「土のまわり編」文/桜井通開
「土のいじん編」文/横戸茂

http://www.spectatorweb.com/


当ブログ関連いくつか

2017/08/14
有効微生物群(EM)の初期の資料。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2017/08/post-3440.html

2009/02/12
みんなで農業、いのちと〝農〟の論理。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2009/02/post-bc2c.html

2008/09/17
百姓になって3年、毎日出荷の休日なし愛媛・西条市「有機菜園 藤田家族」。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2008/09/3-2810.html

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2020/12/05

学校給食と食文化。

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昨日のことから、取材で訪ねた学校の給食の画像があるはずだと探したら、二枚だけ見つかった。

一枚目は2001年11月15日の撮影、2枚目は2003年1月29日の撮影。

昔の画像は、パソコンクラッシュで、失ったものが多いのだが、よく残っていた。

東京都の小中高の授業の取材で、いろいろなところへ行った。校長やいろいろな先生にあった、学校管理の役所と化した教育委員会のエライ人にもあったな。八丈島へも行った。面白かった。

取材の時間によっては、給食をいただくことがあった。

給食をいただかなくても、厨房や少しずつ普及していた「食堂」などを見させてもらうこともあった。これは、取材とは関係なく、「個人的興味」でお願いした。

都区内の学校ほど食堂が整っていた記憶がある。ま、「財政事情」の違いにより、都区内でもいろいろだけど。すごい立派な食堂の小学校もあったなあ。

画像の一枚目は、たぶん、大田区立の小学校だと思う。

すべて校内の厨房で作っていて、このパンも「自家製」だと説明された記憶がある。

二枚目の画像は、よく覚えている。多摩地方のある市立の中学校だ。

セントラルキッチン方式での給食だった。

育ち盛りの中学生が、この量で満足するのだろかと思って、一緒に食べた校長に聞いた。

そういう質問をすると、たいがい同じ答えがかえってくる。

「カロリーは足りているはずだが…」

よく噛むかどうかで、満腹感は違ってくるのだ。これは病院の食事でも、同じことを言われる。

給食の苦労は、なんといっても、予算内であげることだ。どこでも、その苦労話になった。

この頃は、一食200円台ではなかったかと思う。おそらく材料費あるいは「原価」相当分だけだろう。

「食文化」というと、とかく、それなりの金額で提供する料理や食事、ある種の職人的・文学的・芸術的な香りのする方面を中心に語られがちだ。

それは必ずしも「食文化」ではなく、もっと別の狭い視野での「文化」のことではないかと思うことが多い。これが「科学」なら「エセ科学」とでもいわれるようなものでも、「文化」は上手な写真や文章でごまかしがきくらしく、「エセ文化」といわれることはなく「食文化」として通用していることがたくさんある。

食文化がどこに存在するかというと、こういう給食を含めた、例えば、こういう給食と、先にあげた一般的にメディアなどで注目され「食文化」といわれているような料理や食事のあいだにあるはずなのだ。

もっと大きな視野でみれば、「食」から見た、自然と人間の接点にある文化的な営み。

自然と人間の接点というと、「土」と「台所」になる。ここで自然と人間の営みが、文化的に交差する。

自然とじゃがいものあいだには「土」がとりもつ文化があり、そして「台所」の文化がじゃがいもとポテトサラダのあいだをとりもつ。

高級店の食べ物は、そこだけで、給食などとは無関係に存在しているわけではない。文化的には、同じ「土壌」のものなのだ。

だけど、そういう視点で書くひとやメディアは、どれぐらい存在するのだろう。ショーバイにならんし。「食文化」は歪む。紙メディアだろうとインターネットだろうと「稼げるネタ」としての「食文化」。それは多幸症的消費文化の一翼としての「食」の表層として見ることができる。

なーんてことで、先日来、このブログにお題目だけ登場している、『スペクテイター』最新号「土のがっこう」と、つながりそうだ。

「科学」や「科学的」という言葉を、日常雑に使うようになった。「文化」や「文化的」という言葉も同じ。「芸術」なんて言葉は「クソ」と同じように使われる。『スペクテイター』の「土のがっこう」は、それらを問い直しているようでもある。

かな?かなかな。

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2020/12/04

「13歳で一度死ぬ」。

ここのところ、いろいろ片づけをしていると、いろいろなものが出てくる。

2002年というと、9月11日アメリカ同時多発テロがあった年だが、その頃の貴重なテープ起こしが出てきた。

都内のある区立中学校の先生の講演を録音し、まとめたときのものだ。

とても興味深い内容。とくに「人格というのは13歳で一度死ぬ」という言葉が印象深く残って、時々思い出していたのだが、まとめた原稿が掲載になったWEBサイトも冊子も無くなってしまったので、その言葉がどういう話の中でのことだったか、思い出せないでいた。

A4で12枚に手書きのテープ起こしは、前の部分と後の部分は無く、ちょうど「13歳で一度死ぬ」という話に入るところからあった。

そこだけとっておいたものらしい。

それだけでも、うれしい。

いま、このA先生は都内の区立中学校の副校長になっているようだが、当時から「授業が上手」ということで有名だった。この先生の授業の参観を希望する教員も多く、講演というとたくさんの人が集まった。

おれは、A先生が代表をしていた、学校の情報化や総合学習の推進と交流などを目的とする団体の活動の記録や広報などを担当していて、その頃のA先生の話はたいがい聴いていた(酒もよく飲んだ)し、授業も取材していた。

テープ起こしの表題の部分がないので、いつの何の催しかわからないが、たぶん何かのシンポジウムの基調講演のようなもので、教員が主な聴衆らしい。

大雑把には、「思春期の学校教育、生徒と教員」みたいなのがテーマで話しているようだ。

「13歳で一度死ぬ」とは、どういうことか。
「思春期」というものを、どう理解していかなくてはならないか。
中学生に話をする技術の存在。
「思春期の自立」と「愛の社会科」
自我の成長をどう支援できるか。

などについてふれている。

面白い、じっくり読み直してみよう。

A先生や、その団体の中心メンバーの先生方(公立学校の小中高の先生が多かった)、ほんとに素晴らしかった。あれから文科省の学校教育政策は大きく変わってしまったし、この組織も解散したけど、みなさんどうしているかな。

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2020/12/03

「GoToキャンペーン」と「多幸症的消費」。

今日もまだ『スペクテイター』最新号「土のがっこう」の紹介ではない。

8月上旬開始予定を前倒しで7月22日から始まった、消費を促し「経済を回す」という「GoToキャンペーン」、日々感染拡大の波が大きくなっている中で、いろいろ物議をかもしている。

新型コロナ感染拡大が押さえ込まれたわけでもないのに、なんで前倒ししてまで拙速に始めたのか。また「世間の空気」も、そこへ雪崩れ込んだのか。ということなどを突っつくだけでも、いろいろ出てきて、すでに取り沙汰されていることもある。

おれなりにチョイと気になったことのメモ。

「GoToキャンペーン」は、国土交通省所轄の「トラベル」と経産省所轄の「イベント」と農水省所轄の「イート」が三本柱だ。

「イベント」が文科省所轄ではなく、「イート」が経産省所轄でないあたりは、なかなか味わい深いものがあるが、そこは目をつむりこの三本柱を見ているうちに、あの、昭和の、「三種の神器」を思い出した。

「新三種の神器」といわれるものもあった。

工業社会時代の高度経済成長の消費を牽引したモノたち。モノが消費を喚起した時代だった。

ところが、いまでは、「トラベル」と「イート」と「イベント」が、消費を牽引し景気を刺激する「三種の神器」になっているのだ。

どんな旅行、どんな飲食、どんな芸術やスポーツ、それがステータスにもなる。

これ、見方によっては、セツナイことだと思うけど、そういう気配はあまりない。ポジティブで楽天的。

いい旅、いい飲食、いい芸術やブポーツに酔って、いい気分になってきた。

そして、「GoToキャンペーン」。

指摘している人も多いけど、いまの政府には、これ以外の策がないというのも、かなりセツナイ。

さらにセツナイことがある。

嬉々として、このキャンペーンに乗っているひとが少なくない様子は、ネットでよく見えるのだが、その様子がまたセツナイ。

たいがいは「お得」つまり「コスパ」のよさを強調し、高級で上質のものが、この安さ!信じられん!あそこも行った、ここも行った、もっと行く、といったメッセージが圧倒している。

インスタ映えも競いながら。

日頃がそんなにリッチでもセレブでもないのだから仕方ないけど。比較的余裕のある層がこれではなあ。

もっと、その、何か言いようがないのか、言葉はどうした。文化の貧困化?

このさい、禍を福となすため、旅行や飲食やイベントなどの文化の充実と向上をはかり、文化が経済の礎である自覚を高めよう。なーんてことは、まったく感じられない。

金と時間に余裕のある「市民」だけが、嬉々としてガンガン消費し、片方には「奴隷的労働」の人たちが取り残されている。

上機嫌な「市民」と耐える「奴隷的労働者」。

「GoToトラベル」の利用者ン千万人といったって、「延べ」のことだ。同じ人が、何回も何日も利用している。

「GoToトラベル」を「原因」とする感染拡大は、ほんのわずか、といった「説」もあるが。

感染の機会は、そういう数値ではかれるものではない。マスの統計で、陽性確率ン%といったって、それは昨日までの過去のことだし、マスではなく個人レベルの明日のことになれば、いつだって、「感染するか/しないか」しかない。

そういう「数値」の判断の仕方については、さっぱり話題にならない。これだけ日々数値を使いながら目にしながら、数値の見方については、イロハすら向上してないかのようだ。

分母がバラバラのまま平気で比較したりとか。

当然、論理はメチャクチャで、対策は中途半端になる。

とかとか、あげると切りがないほど、今回の「GoToキャンペーン」からはいろいろ見えてくる。

なんといっても、おれが強烈に感じたのは、1980年代から拡大した「多幸症的消費」だ。

じつは、この言葉を忘れかけていたようだが、思い出した。

「ジャパン・アズ・ナンバーワン」なんておだてあげられた工業社会の高度経済成長が折れたあと、80年代以降の「多幸症的消費」を担ってきたのが、「トラベル」と「イート」と「イベント」だと、あらためて感じた。

「IT立国」も空念仏で終わったしな。

多幸症。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説(https://kotobank.jp/word/%E5%A4%9A%E5%B9%B8%E7%97%87-1558876)から引っぱると。

「感情ないし気分の障害であり、上機嫌ともいう。客観的状況にそぐわない空虚で無内容な爽快(そうかい)な気分状態である。あらゆることに楽天的で、苦にせず、その背景には、人格の水準低下が想定される」

「多幸症的消費」は、80年代のバブルの頃、バブル批判としてよく言われたけど、すっかり定着してしまったらしい。

ま、メディアを動員して「多幸症的消費」を煽ることで、「経済を回し」てきたのだからなあ。

「経済を回す」なんていう言い方も、「人格の水準低下」のあらわれだと思うが。

だってさ、「経済を回す」って「金を回す」って意味だけでしか使ってない。「経済」とはそういうものか。

「GoToキャンペーン」は、コロナ禍を、「多幸症的消費」で克服しようというのだ。

それじゃ、ほんとに「多幸症」になってしまいそうだ。

年末、いつもの年なら、「多幸症的消費」が絶好調になる。我を忘れるように。

「家飲み」で、コロナ禍という「客観的状況にそぐわない空虚で無内容な爽快(そうかい)な気分状態」にでもなるか。

 

 

 

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2020/12/02

ガンの本。

先月19日のこのブログは、「今日は、じつは、『スペクテイター』最新号「土のがっこう」について紹介する前ふりのつもりで書いた」と終わった。

それが、そのままになっている。

今日もまた違う。まだ、その本題ではない。

「ガンの本」のことだ。

癌になって、何か本を読んだか、どんな本を読んだかと聞かれることがある。

一冊も読んでない。

読もうと思ったこともない。読む気も起きない。

うちの本棚を見ても、タイトルに「ガン」や「癌」や「がん」の文字がある本は一冊もない。

癌になった人が、「癌とのつきあい」みたいなことを書いているらしい本が一冊だけある。

内澤旬子さんの『身体のいいなり』、朝日文庫版だ。

あるけど、まだ読んでない。

3,4年前だったと思うが、癌検診で乳癌が見つかって治療中の知り合いの女性が、「『身体のいいなり』を読んでおいてよかった」といった。

彼女は、乳癌が見つかる前に読んでいたのだ。

その話を聞いても、まだ読もうとは思わなかった。

そのうちに読もうと思ってはいる。なにしろ本棚にあるのだし。内澤旬子さんの本だし。

今日、大宮のブックオフへ行った。ガンの本は、ずいぶんたくさんある。

タイトルを見ても読む気がおこらない。

内容が想像つくということもあるが、そういうことなら、おれは主治医に話を聞くねと思う。

「話を聞く」というより「問答」だ。

おれの癌についてよく知っているのは、おれをのぞけば、主治医だけだ。

そんなことを考えながら棚を見ていると、目にとまった一冊があった。

『ガン入院オロオロ日記』東海林さだお(文藝春秋、2017年)。

おっ、東海林さだおもガンになったのか、おっ、手術をしたのか、ごくろうさん、と手に取ってパラッと見ると、「初体験入院日記」ってことで、「Ⅰ がんと過ごした40日をふりかえる」「Ⅱ 病院は不本意でいっぱい」「Ⅲ ヨレヨレパジャマ族、威厳ヲ欲ス」の話が並んでいる。

279ページのうち、52ページだけ。

見たところ癌の話はあまりなくて、入院中の「病院風俗観察記」といったところだ。

例によって、行替えだらけのテキスト。

210円だったから、初めての「ガンの本」として買うことにした。

読んだ。

よくある「闘病記」だの「治る」だのといった「ガンの本」とは違うのがいい。ようするに、例の調子。

その影響で、今日のブログは、行替えの多いテキストになっている。

ちょっとおどろいたことが一つ。

4時間かかる手術の日の朝、東海林さだおは病室で手術着だけになり(ノーパン)、「エレベーターに乗り、廊下を歩いて手術室に向かう」。

そして、手術室前に着くと、「これから手術を受ける人が20名ぐらい並んでいる」のだ。

順番に手術室に消えていく。ということは、手術室が20ぐらいあるということだ。

そんなに一度に手術ができるのか。どこの病院だ。東海林さだおほどの有名人が入院するのだから、きっと有名な大病院なのだろうけど。

同じフロアで、20人もが手術している光景を想像する。なかなかのものだ。

「文明の力」ってものか。「文明」すごい。ウゲッ。

そういうわけで、『スペクテイター』最新号「土のがっこう」の紹介は、明日か明後日か…。

この本、すごく大切なことが書いてあるし、1980年代ぐらいに土と縁があって少し深みにはまり、土や土壌とその文化などに関する本はいろいろ読んできたけど、よくできたガイダンスブックだと思う(ちょっと校正ミスらしい「玉に瑕」があるけど、まがい物の玉じゃない)。

だいたい、いきなり特集の扉から、「説文解字」によった「土」の漢字の図解に、グッとひかれる。

身近な大切なことなのに、まだまだ、知らなすぎる。

食も癌も新型コロナウィルスも、生命が根を張っている「土」から考えよう。


当ブログ関連
2020/11/19
都市的風景と農的風景の断絶、『スペクテイター』最新号「土のがっこう」。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/11/post-2cfd79.html

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2020/12/01

2020年最後の月。

自分のことはさておき。

2020年の日本は、かなり糞な年のまま終わろうとしている。

その最後の月が始まった。

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