2004/12/24

料理はココロ?

12月27日発行の「ちくま」1月号に、ちくま文庫から12月新刊の『禅寺の精進料理の十二ヶ月』(藤井宗哲著)の紹介書評を書いている。

こういう本の紹介は、ムズカシイね。なにがムズカシイかというと、料理の話以外の、料理とは関係ない、「人生論」に属するような記述が、けっこうあるから。その「人生論」がまた、文学的観念的であったりするとね、もう困ってしまうわけですよ。

食や料理について書く人には、食や料理をネタにブンガクしたい人とか、ブンガクしているつもりになっている人とか、けっこういるし。また、そういう「毒にも薬にもならない」著書が無難で売れて、本質や現実に関わることは、敬遠されるという傾向もある。

ま、イマの日本人の平均的な傾向が、食や料理のオシャベリにあらわれているというか。本質や現実とむきあおうとしない日本人が少なくない。「癒し」だとかいっちゃってね。これはまあ、どういうことか。

とか言い出すと、一昨夜の罵詈雑言大会の続きになってしまうな。『禅寺の精進料理の十二ヶ月』は料理のハウツーだけを実用書として読めば役にたちます。と、いえるかな。

それはともかく、「料理はココロ」だとかいっている人たちは、そのことについて、キチンと説明してほしいね。

だいたいね、カネも時間もないなかでも、冷凍食品などで急いで料理を作って、その日の安堵をかみしめる食事だってあるのに、冷凍食品を使う料理などにはココロがない、なーんていうのは失礼だよなあ。そもそも他人の生活を罵倒するやつに、ココロはあるのか。あるとしたら、どういうココロか見せて欲しい。……見なくても、わかるが。

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2004/08/11

料理とは、ね~

料理というのは、おもしろい。

それは、ちょっと、前とちがうことをして、新しいことをしてみると、おもわぬ結果を得ることがあるからだ。もちろん、よい場合も、わるい場合もある。でも、それをやることなのだ。やることに意義があるのだ。やる、やる、やる。

うーむ、うどんにマヨネーズをかけて食べる。どんぶりのうどん、ツユのなかのうどんを食べるのに、マヨネーズをそこにかけて食べるのだ。

そういう話を、今日、生まれて初めて聞いた。おれはまだやってみたことがないが、うまいだろうなあ、と思う。

問題は、そういうことではない。うどんにマヨネーズをかけてみたひとを敬服したい。それをやるひとが料理を生むのだ。これを、料理ではない、なーんていう料理人は軽蔑したい。おれは、まだまだ、だ、なあ。と思うのだ。

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2003/03/02

ハンバーグとハンバーカ

料理の歴史は「何をどう食べてきたか」つまり「生活の技術の歴史」というのが、おれの考えだ。いうのは簡単、実際は、かなりめんどうが多い。まず、料理は食べるとなくなり、まったくカタチを残さない。だから歴史をとらえるのは、かなり難しい。さらに、名前はおなじでも違う料理は、めずらしいことではない。名前は、料理の実態、つまり技術に関係なくイメージで呼ばれるからだ。

たとえばハンバーグだ。大雑把な話、刻んだタマネギをゆっくり炒める→炒めてドロドロになったタマネギとミンチの肉ほか材料を混ぜ合わせる→焼く、これがハンバーグである。しかし、実際は、ミンチの肉ほか材料を混ぜあわせる→焼く、という例が少なからずある。とくに、いわしハンバーグや豆腐ハンバーグは、ほとんどこの類だし、ミンチ肉を使用する場合でも、ま、ようするに料理としては「つくね」をフライパンで焼くようなものが少なくない。だけどハンバーグというのである。いま、後者をハンバーカと呼ぶとしよう。

ハンバーカは、刻んだタマネギを炒めベースに使うことをしない。ハンバーグは、刻んだタマネギをドロドロになるほどゆっくり炒める。この技術は、日本になかったものだ。習慣的にないものは、習得するか、めんどうなら、今までの方法のバリエーションでやろうとする。で、つくねをフライパンで焼く方法でハンバーカができたのだが、これはハンバーグではない。ソースも含めれば、さらにずいぶん違う料理である。技術的にも味覚的にも、まったく違う。

ハンバーグは新しい技術の獲得であり、ハンバーカは従来の技術の系譜なのだ。

いまならハンバーグの歴史は、かなりリアルタイムでわかるから、こういう話ができる。しかし、すでにカレーライスの場合は、インスタントカレールウ以前が、わかりにくい。わかりにくいのだが、そもそもカレーライスが歴史になったのは、あの黄色いカレーライスが「国民食」といわれるほど普及したからである。もし、これがなかったら、たとえばハヤシライスと比較してみればわかるが、歴史にはならなかったかもしれない。

料理の歴史は、料理はつくって食べればなくなるものだから、その複製復元のくりかえしが歴史なのだ。もっと本質的な言い方をすれば復元複製の技術が料理の歴史なのである。料理書にあるレシピでも、それが繰り返し復元されないかぎり、料理の歴史にはならない。はたして、

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2003/02/25

料理とは2

整理すると、
A→B→C→…→X
これが通時的な処理。








これが共時的な処理。
料理は、基本的には、素材を集める→料理(調理)する→盛り付ける→配膳する、というぐあいに通時的に行われる。が、実際には、通時的な処理がいくつか平行して行われ、どこかで合わさったり。あるいは、たとえば通時的処理のBが別の共時的処理の下ごしらえで得られたモノであったり、というぐあいに、いくつかの処理の組み合わせになっていることが多い。

たばこ総合研究センター発行の『TASC MONTHLY』00年10月号に、知人で料理に詳しい博学の佐藤真さんが「ソシュール食堂のすすめ」を寄稿している。料理の通時的活動と共時的活動を解説しながら、「料理は基本的に言語の構造と同じなのである。ただし、多くの料理の場合、そのプロセスが複雑に錯綜し、また入れ子構造になっているものも少なくない」と述べる。そこにつけこんで、料理を経験主義と精神主義と神秘主義の祭壇に祭り上げる人物は少なくないが、彼はもちろん違う。最近のイタリア料理ブームを分析し、それが外食の場だけではなく家庭の台所にまで入ってきた原因をさぐる。

それはともかく、佐藤さんの解説は面白い。「<僕は、トマトソースのパスタが好きだ。>この文章は、→の方向に、<「僕」+「は」+「トマトソース」+「の」+「パスタ」+「が」+「好き」+「だ」>という順番でつながっている」「たとえば<「好き」+「は」+「トマトソース」+「僕」+「だ」+「が」+「パスタ」+「の」>というように、もし前後をバラバラに入れ替えてしっまたとしたら、意味がわからなくなる」

通時的処理は、その意味では厳密だが、しかし、その「トマトソースのパスタ」は「サバの味噌煮」と置き換えることはできる。

だから佐藤さんは、料理の「通時的な流れは、言語と同様に、変換がきかない。変換は全く別の料理への変換か、もしくは失敗を意味する。それに対して共時的な変換、つまり素材を換えたり調理法を換えたりすることで、バリエーションをつくりだす」と述べる。

ま、しょっちゅう料理しているひとには、すぐ合点がいく話しだと思う。問題は、それが、イタリア料理のブームや料理の歴史に関係していることにある。

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