2019/09/15

東京新聞連載「エンテツさんの大衆食堂ランチ」83回目、高円寺・タブチ。

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ボーとしていても月日は過ぎる、それが年を取るほど速くなるというが、その通りだ。加速度的。この勢いは止められない。気が付いたら、人間の海で溺れ死んでいるのだろうか。

もう9月15日だ、まもなくおれは76歳になる。先月30日、池内紀(いけうち・おさむ)が亡くなった。その活躍ぶりからしても、おれより一回り以上は年上と思っていたのに、まだ79歳だった。75を過ぎたら、四捨五入してもしなくても80代とかわらない感じになる。感覚的に、年齢差がなくなっていくのだ。

どんどん死んでいく人たち。おもしろいぐらい死んでいく。おれより6歳も若い中原蒼二さんも死んじゃったしなあ。ようするに人間も生物だから死ぬのだ。死ぬまで食って排泄するのだ。

東京新聞、先月16日の朝刊に掲載のものだ。すでにWEBサイトでご覧いただける。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2019081602000174.html

おれの周囲では、高円寺のタブチは有名店だ。おれの知り合いには、貧乏ぐらしをしていたか、している連中が多いからかもしれない。

看板からするとカレーとラーメンが売りのようだが、定食を食べている人たちも多い。

おれにとって、ここのカレー、とくに辛口は、特別だ。というのも、1962年に上京して、初めて、家庭や大衆食堂の黄色いカレーではないカレーを食べたときの、その味覚が、タブチの辛口カレーに「同じ」と言いたいぐらい似ているからだ。

味覚の記憶なんてあまりあてにならないが、色合いは、目に焼き付いている。なにしろ、黄色くない、黒に近い深い焦げ茶色のカレーを見たのも食べたのも初めてだった。

当時は、まだ黒ビールを飲んだことがなく、かなり歳月がすぎてから、初めて黒ビールを飲んだとき、あれっ、これは、あの黒っぽいカレーと似ているなと思った。その記憶が残っていた。

おれが、このカレーを食べたのは、飯田橋にあった「カレーの南海」というチェーン店でだった。

タブチのカレーは黄色いカレーと同じようにじゃがいもなどがゴロッと入っているが、記憶では、カレーの南海のカレーはじゃがいもは入っていなかったような気がする。それは、それまで食べてきた黄色いカレーより、「もっと洋風」な感じがした。

インド風だかネパール風だか、あるいはいまどきのスパイシーなカレーとか、そちらから見れば、タブチのカレーは「日本の昔のカレー」寄りになるのかも知れない。

が、これは「タブチ風カレー」なのであり、カレーの面白さと可能性は、「各人風」「各店風」が一緒に存在していることだろう。そういう「カレー環境」こそ「文化」や「社会」と言えるものではないか、と、近頃、そういう思いが、ますます深まるのであった。

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2019/08/21

東京新聞連載「エンテツさんの大衆食堂ランチ」82回目、立川市・ふじみ食堂

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先月19日掲載の分。すでに東京新聞のサイトでご覧いただける。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2019071902000187.html

今回は、この連載では初めての「ロードサイド型」の食堂だ。それに、立川市の食堂も初めてだし、さらにJR立川駅から多摩モノレール(は乗ったことがあるけど)柴崎体育館駅に降りるのも初めてだ。まったく土地勘のない郊外。

ここを教えてくれた知人は、以前日野市に住んでいて、ときどきクルマで新奥多摩街道を走ったときに寄っていたそうだが、徒歩だとけっこう歩く。もともと「ロードサイド型」というのは、クルマの客が中心の立地であり店舗だから、当然のことだ。

「ロードサイド型」というのは、あまり一般的な用語ではなく、マーケティング屋などが使っていた呼称だと思う。だいたい「立地」をさしていた。

一般的には「ドライブイン」と呼ばれる業態があって、その定義があるわけではないが、ロードサイドでも、店舗の間口が広く、敷地も広く、大型のトラックやバスなども駐車できるスペースがあるイメージだ。

ふじみ食堂のばあい、駐車スペースが乗用車10台分ぐらいが線引きしてあって、大型トラックやバスは止まれない。なので、「ロードサイド型」の食堂と書いた。

しかも、この食堂の周辺だけは、大きなマンションや団地それにスーパーなど建ち並び、駅からの途中の荒っぽい景色と比べ、整った住宅地の「町」のカタチを成しているのだ。近隣の客も多いのだろう、メニューは酒とつまみも充実していた。中華と洋食が中心の食堂で、ガッチリ食べたい客が多いのか、800円台のセットメニューが豊富だった。こざっぱりとした味付けで、ラーメンも食べてみたくなったが、簡単には行けない。

というわけで、駐車場完備以外は、とくに「ロードサイド型」の特徴はない。1965年頃の開店だから、モータリゼーション真っ盛りが進行中であり、鉄とコンクリートの「都市化」のため、東京郊外の幹線道路は建築関係のトラックなどが横行していた時期だ。まもなく「ニューファミリー」市場が成長し、ドライブがレジャーの憧れのアイテムになる。人びとの移動も鉄道からクルマへシフト、郊外の「都市化」がすすみ人口が増える。そういう波の中で、さまざまな「ロードサイド・ビジネス」が成長した。

ふじみ食堂までの新奥多摩街道沿いには、大小さまざまなロードサイド・ビジネスが見られ雑然とした荒っぽい景色をつくっていたが、「マッサージ店」まであって驚いた。

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2019/07/14

東京新聞連載「エンテツさんの大衆食堂ランチ」81回目、綾瀬・味安。

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先月21日に掲載のものだ。すでに東京新聞のサイトでご覧いただける。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2019062102000188.html

味安へは、2017年4月に野暮な人に連れられて行った。なかなかよかったので、いつかこの連載で紹介したいと思っていた。綾瀬には、ときわ食堂もある。ここもなかなかよいわけで、こういうときは、どちらを先にするか迷うが、まずは駅から遠い方からというリクツをつけて、こちらが先になった。

 綾瀬駅から10分少々歩く距離だ。2車線だがクルマの通りの多い街道沿いにあって駐車場も備えているから、「ロードサイド型」といえなくはないが、間口はとくに広くはない。

しかし、なかに入ると、外からはうかがいしれない、入れ込みの座敷の広い店内で、たくましく飲み食いする人びとの熱気があふれているし、その人たちがお目当てにしているらしいとり唐揚げが、たくましい食欲にこたえるようにデカイ、うまい。

本文にも書いたが、これだけ広い入れ込みの座敷の食堂は、いまでは珍しい。座敷に腰をおろしあぐらを組んだり膝を崩したりすると、なんだかチマチマした抑圧から解放されたくつろいだ気分になるのだろう、周囲の目など気にすることなく、みんな素のままのエネルギーを発散させている。ああ、いいねえ、これだよコレ。

と、一人だからカウンターに座って、とり唐揚げ定食食べたいけど、近頃トシのせいか食が細っているから食べられるかなあと思案したのは一瞬で、空間にあふれる食欲に押されるように注文してしまっていた。

となりにおれより少し若い70歳ぐらいの男性が座った。お店の方の対応からすると常連さんのようだった。かれも、とり唐揚げ定食を頼んだ。かれは、定食が出てくると、まず、小鉢のひじき煮を丼めしにかけて、軽くまぜながら食べ始めた。手慣れたものだった。

なるほど~。そういえば、家じゃ、めしに納豆とひじきやきんぴらをのっけているのにと、思い出した。とり唐揚げに限らず、刺身や焼魚なども盛りがよいし、それに付いてくる、このひじき煮と漬物の小鉢が、けっこう量がある。おれは食べあぐね、しまいには丼めしが空になったあとも残ってしまい、これだけをせっせと食べていたのだ。バランスの悪いこと。70年以上も生きて、まだまだおれはダメだなあ。

それはともかく、綾瀬は、なかなかザラッとした猥雑味があって興味深い街だと、あらためて思った。以前は、たまに飲みに行ったのだが、よく感じとっていなかったようだ。綾瀬は足立区の南の端で、葛飾区と隣接しているわけだけど、足立の独自性が色濃いように思う。とにかく、おもしろい。だけど、もう足しげく通う元気がない。

そうそう味安さんに確認したいことがあって店へ電話をしたら、「本部へ」といわれ電話番号を教えてくれた。「本部」があるとは意外だったが、小さいながらもほかの飲食店や中古車センターなども手掛ける、地場の企業グループなのだ。地場の味わいが出ている。

当ブログ関連
2017/04/16
30年前のままの駅前酒場@綾瀬の短冊メニュー。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2017/04/30-2672.html

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2019/06/19

東京新聞連載「エンテツさんの大衆食堂ランチ」80回目、高円寺・富士川食堂。

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先月5月17日に掲載のものだ。すでに東京新聞のサイトでご覧いただける。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2019051702000180.html

高円寺は安い大衆的な飲食店が多い街だ。飲食店に限らず、小さな店が共存共栄としのぎの削りあいを生きているようで、いろいろ安く、若い人が暮しやすいとも言われている。だけど、この連載で高円寺の大衆食堂を紹介するのは初めてだ。

昨年、座・高円寺が発行するフリーマガジン「座・高円寺」19号の特集「高円寺定食物語」で文を担当した。取材する食堂の選択やロケハンから関わった。そのときは、富士川食堂は、候補に入っていながら、最終的にはほかの7店が選ばれた。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2018/03/19-cf7a.html

そのあたりはメディアの公共性と個性の打ち出し方のかねあいがある。

Dscn0379 この連載の視点である、「食生活の視点」からすれば、富士川食堂は、はずせない。高円寺駅周辺には、ほかにもはずせない食堂があるが、まずは、ここかなという感じだ。すでにメディア露出も多い。

高円寺へ行ったときには、中休みがないという利便性もあって、けっこう利用している。

今回、初めて「盛合わせ天ぷら定食」を食べた。皿に盛られた天ぷらの、上からは見えないが、一番下にサツマイモの天ぷらがあった。偶然一番下になったのかもしれないが、これが、ポテトチップのように薄い、見事な薄さで、しかも、もちろん、ちゃんとサツマイモの味がするわけで、これがあるかないかで「盛合わせの印象」は、ずいぶん変わるような気がした。

それと、ふた切れのキュウリの糠漬けが、いい味だった。

どちらも「小さい」が定食の中に占める役割は、小さくはないと思い、「けっこう薄い小さい「小役」も力を発揮するものだ」と書いた。ところが、新聞社のほうとしては、「小役」は表記にはなく「子役」になるということで、「子役」に変えられた。「子役」じゃなくて「小役」であるところに意味があるのになあと、担当デスクの方とも話したのだが、ま、おれはナニゴトにもこだわらないほうなので、「子役」でヨシとした。

とにかく、とかく、盛合わせ天ぷらのエビやキスあるいはカボチャやナスのような「大物」が耳目を集めやすいが、「盛合わせ」の豊かさは、それだけで語られるものではない。なんだか「社会」や「コミュニティ」と似ている。小さな商店が集まった高円寺の魅力も、似たようなことがいえる。社会は盛合わせなのだ。  

この日は、暑くて、食堂のおやじは今日は天ぷらがよく出ると言っていた。おれの隣では、若い、髪の毛のスタイルをなんて呼ぶのか、細かく分けて編んでピンでとめた若者が、ビシッと背筋をのばして食事をしていた。その向こうでは、高齢のおやじがカウンターに両肘をついてだらしなく食っていた。しばらくして若い夫妻が入ってきた。みな馴染み客のようで、食堂のおやじの愛想がよかった。おやじは、腰を痛めていて(この商売の職業病みたいなものだが)、それをかばうように動いていた。

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2019/05/16

東京新聞連載「エンテツさんの大衆食堂ランチ」79回目、南浦和・むくむく食堂。

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先月4月19日の掲載は、若い店主の「新しい食堂」の登場だ。去年の6月に、京浜東北線と武蔵野線の乗り換え駅である南浦和に開業した、むくむく食堂だ。

本文はすでに東京新聞のサイトでご覧いただける。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2019041902000177.html

この連載で「新しい食堂」の登場は初めてだし、平成が終わる直前だったこともあり、ここ30年の食堂の動向と「新しい食堂」の特徴について簡単にふれたので、むくむく食堂そのものについてはあまり詳しく書けなかった。

だけど、ローカル愛にあふれ、「食べる側と提供する側は単なる「店」と「客」ではなく、この場所で交わる人間関係を大切に、いろいろな人といろいろなことを共有しながら、いい生活文化を育て、共に成長していこうという意識を持っている」といった特徴は、店の外観から店内のこまごまとしたところまで見られる。

こういう食堂がまずいはずはない。そして、「うまい/まずい」や「サービスのよさ」などだけで判断する食堂でもないのだ。

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南浦和は川口と浦和にはさまれ地味な存在だが、新旧が混在しながら新陳代謝も激しく発展している街だ。むくむく食堂がある通りは、南浦和でも古いほうの商店街だったけど、「シャッター街」を通り越し、古い商店は消えていき住宅街化している。

店主は、この商店街で生まれ育ち、食堂を始める前は、実家で衣料品や雑貨などを扱う小商いをしていた。むくむく食堂は、閉店した居酒屋を居抜きで借りて始めた。

夜はまだ行ったことがないが、定食はありながらも居酒屋メニューへシフトしているようだ。昼定食は1000円均一で3種にしぼり、喫茶メニューも充実している。

「単なる「店」と「客」」ではない関係は、これからますます存在価値を高めると思うが、なにより、これまで単なる「客」であった「消費者」の「学習」も必要になる関係だと思う。

「自分はそこで何を楽しもうとしているのか」という主体が問われる。それは、東京を中心とする主流では惰性的に続いている、値段と味や接客などを比較し選択し評価しているだけの、受け身だが「ご主人様」「神様」気取りの消費者とは違う生き方なのだ。「新しい食堂」の出現は、そういう「これから」を示唆している。

むくむく食堂のツイッターもご覧になってください。
https://twitter.com/mukumuku1945

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2019/05/09

画家のノート『四月と十月』40号、「理解フノー」連載は特集記事に変更。

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4月と10月に発行の美術同人誌『四月と十月』40号が、先月発行になっていたのであった。

おれは同人ではないが、「理解フノー」という連載をしている。だけど、今号は、40号の20周年を記念した「特別企画」が組まれることになり、おれの連載は休み。

特別企画は、「同人たちのアトリエ訪問記」ということで、何人かの執筆者が手分けをして、同人みなさんのアトリエを訪問するものだ。

おれも、連載のかわりに二人の同人の方のアトリエを訪問することになった。編集室の指示のままに、加藤休ミさんと、松本将次さんを担当した。どちらも、同人の中では「異色」の存在といえるだろう。

加藤休ミさんは、高校を卒業すると上京し、美術系の専門教育に類するものは、どなたかの「弟子」になることも含め一切なく、独立独歩独学で「クレヨン画家」になった。クレヨン画というと、せいぜい小学生までの子供が描くものと思っていたおれは、なぜ、どうしてクレヨン画家なのか、そこのところを知りたいと思っていた。

松本将次さんは、やはり美術系の専門教育に類するものは関係なく、大学を卒業すると印刷会社の営業に就き、絵は好きで描いているだけの、いわゆるアマチュアの「日曜画家」だ。「アトリエ」といえるものはないのではないか、家族もいることだし、外で会うことになるのではないかと思っていたら、やはり、新宿の「はやしや」で取材をすることになった。サラリマーマンしかも印刷の営業というのは、なかなか激務だ。日曜ぐらい好きなゴルフでもやりたかろう、なのに絵も描く。なぜなのか、なにか楽しみがあるのか、楽しいのか。怠け者のおれは、そのあたりが知りたかった。

お二人とも、最初から酒を飲みながらだった。

加藤さんがクレヨン画を選んだのは、上京して貧乏ぐらしの中だったので、安い画材であるクレヨンしか選べなかったからだ。そして、加藤さんがいう「いまの域に達した」のは、2012年出版の『今日のごはん』の焼いたさんまの絵あたりからだという。おれのような美術素人には、クレヨン画には見えない、おれの知るクレヨン画を超えている、そういう絵が多い。

加藤さんとは、その焼いたさんまの絵を中心に、盛り上がった。「クレヨンで食べ物を、どれだけおいしそうに描けるか」

おれが面白いと思ったのは、焼いたさんまの絵にしても、モデルは、料理撮影だったら使われることがない、スーパーなどで売っている安い細身でスマートな普通のさんまなのだ。それが絵では、すごくうまそうに見える。

料理撮影などのモデルになるさんまは、背の方に厚く肉がついて脂がのり、まさに「秋刀魚」の名の通り刀の刃のように反って立派な姿をしている。うまそうなさんまとして使われるのは、それが普通だ。うまいさんまのウンチクとなると、こういう話になるだろう。

だけど、加藤さんは、特別うまそうに見える素材を選んでいるわけではない。まったく普通だけど、描けばうまそうに見える。

これは、なかなか興味あることだった。

アトリエには、加藤さんがライブペイントで8時間かけて描いたまぐろの頭の部分の、大きな絵が貼ってあった。とてもクレヨン画には見えない。それが、なかなか活きがよさそうで、うまそうなのだ。そのことにも、興味がひかれた。

「うまい」には生理が関係するが、「うまそう」は空腹や満腹の特別な状態でなければ普通は人間の文化のことだ。それに、食品というのは、もともとは動物植物を問わず「生き物」であり、人間の手に掛かって死骸になり、商品として耐えられるものだけが「食品」とよばれる「食べ物」になって流通する。だけど、流通している食べ物すべてが、そのまま食べられる物とはかぎらない。たいがいは、なんらかの料理や加工がほどこされる。

では、この過程で、どのように「うまそう」が関与するか、そこに食文化と自然のあいだがある。と、かねてから考えているが、「虚実皮膜の間」みたいなことで、なかなか難しい。

加藤さんの絵を見て話をしているあいだに、そのあたりのことが、少しひらめいたし、同時に、「食の文学」とか「食と文学」とかは話題になるし、知ったかぶりまで横行しているけど、「食の美術」や「食と美術」については、まだそんなに関心が高い感じはしないと気付いた。だいたい、「食文化」を口にする人たちが、どれぐらい、絵などの美術的表現に食文化を見ているだろう。

「食文化」なんていうと言葉の世界がエラそうにしているが、絵と言葉では対象へのアプローチも表現の方法もまったくちがう。

「うまそう」の存在が、ますます面白くなるのだった。

アトリエ訪問の取材には、「取材のぞき」といって同人の方が参加する企画もあった。おれは「取材のぞき」大いにいいですよ、一緒に大いに飲み話しましょうという姿勢で臨んだが、加藤さんの取材のときには、同人の高橋収さんがのぞきにきてくれた。しかも、さらに同人以外の方ものぞきにきて、総勢7名で、缶ビールの空き缶と空いた清酒の瓶が豪勢に並んだ。

ほかの取材では、こういうことはなかったようで、高橋さんの報告が、この号の後ろにある「雑報」のところに、おれと加藤さんが話している写真と共に載っている。「完全に新年飲み会のつもりで行きましたが、ビールをはさんでの取材は意外?と真面目な絵画談義で大変参考になりました」と。

おれは「絵画談義」ができるほど絵に関する知識はないが、いま書いたように食べ物がからんでいたので、話がはずんだのだろう。

松本さんの取材では、「プロ」と「アマ」について考えることがあり、松本さんの記事でも少しふれたが、「産業的観念と尺度」だけが横行するようになった。これはとくに1980年代以後のことだと思うが、そのことについては、またそのうち。

いま脂がのってきている加藤休ミさんの絵本はぜひ手にしてほしいし、クレヨン画の概念がぶち壊されるに違いない原画も見てほしい。

もちろん『四月と十月』40号もね。詳しくは、こちら。今号の表紙は、同人の瓜生美雪さんの作品です。
http://4-10.sub.jp/

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2019/05/07

東京新聞連載「エンテツさんの大衆食堂ランチ」78回目、入谷・ときわ食堂。

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10連休が終わったのでブログを再開する。

ってことではなく、このブログは、ニフティのココログってやつだが、これが記事作成などの管理ページを「リニューアル」したのが、いけなかった。

もう一か月以上も前のことだったと思う。以前にも何かの「リニューアル」があったとき、かえって悪くなって、また前にもどすということがあり、嫌な予感がしていた。やっぱり酷いことになった。そして、ユーザーからは前にもどせとか、罵詈雑言がとんだ。

しかし、「不具合」を直しながら強行された。記事作成の仕方が変わったうえに、不具合はなかなか無くならない。という状況下で、新たな投稿は、ストレスになった。ストレスは嫌だ、ブログに命をかけているわけでないし。それでもポツポツ新規作成をしていた。

不具合は、かなり改善されたようだ。だけど、明らかに、以前より手数がかかるようになった。ココログ側は、そうは思っていないらしい。あるいは手数がかかっても、こちらのほうが「優れている」とするワケでもあるのだろうか。でも以前のようにサクサクいかないのだし、なれたとしても、とくに画像をアップする場合の作業ステップは増えているから、それを考えると更新の意欲が低下する。

とにかく、10日という大連休が明けた、ということを記念して、まずは、すでに先々月になってしまった、3月15日掲載の「エンテツさんの大衆食堂ランチ」をアップすることに。

すでに東京新聞のサイトでご覧いただける。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2019031502000209.html

ときわ食堂は現在何店舗あるのだろう。数えたことはないが、これで7店目だ。暖簾分けで増えた食堂の場合、いわゆる「フォーマット」がないから、それぞれ違う。それでも、どこの店でも「ときわなら安心」という感じではある。それが同じ暖簾のメリットか。

この入谷のときわ食堂は、何度か行っている。2011年3月11日の大地震のあと、年中無休の鶯谷駅前の信濃路も休まざるをえなかったときも、ここはやっていた。大混雑だった。

Dscn0120 行くたびにメニューが増えている感じだ。確か空白が多かった壁を、手書きの大きな短冊が埋めていく。見た感じ、夜の飲み客が好みそうなものが多い。夜は来たことがないが、飲兵衛で賑わっているのかもしれない。

何を食べても安定のうまさなのだが、おれはフライ類が気に入っているので、A定食にした。コロッケと魚フライで、魚はアジだった。フライ類のメニューも多いから、人気なのだろう。

食べ終わるごろ、店の人が書いていた「初かつお入荷」の短冊が出来あがった。それを見たとき、入谷は「初かつお」という言葉が、自然で似合う街だなと思った。それは、まあ、入谷に対する観念的な思い込みがあるからだろうけど、歴史のある土地ほど、そういう観念的なイメージがつきまとうようだ。

入谷といえば、このときわ食堂は入谷1丁目の言問い通りにあり、この通りを浅草方面へ500メートルもいかないうちの同じ並びに「入谷食堂」がある。すでに、この連載でも載せている。

入谷食堂は入谷2丁目になるが、その裏のほう、金美館通りの大正小学校の隣あたりには、「大衆食堂」の看板の「清月」がある。清月は、マクロビ系というか、自然・健康・安全を意識する食事を用意し、値段のほうは少し高めにしても、量がけっこうあるあたりが大衆食堂らしい。

入谷のあたりは、この3軒の大衆食堂のほかに、いわゆるレトロな洋食屋や洋食が食べられる喫茶店などがあって、個人経営の食堂の密集地なのだ。今は昔と比べると、かなり減っていると土地の人はいうが。

とにかく、狭い地域に、「ときわ」「入谷」「清月」という大衆食堂が3軒あるだけでも、珍しい。そういうわけで、どんな人たちが大衆食堂の利用客なのかも含めて入谷が気になっているのだが、通うのが大変だから、なかなかその正体がつかめない。

そういえば、入谷食堂から近いライブハウス「入谷なってるハウス」も、すっかりご無沙汰しているなあ。

ときわ食堂の夜も行ってみたいなあ。

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2019/03/20

東京新聞連載「エンテツさんの大衆食堂ランチ」77回目、佐竹・武井。

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先月の第3金曜日、15日に掲載の分だ。すでに東京新聞のサイトでご覧いただける。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2019021502000192.html

Dscn9971 武井のある場所は、住所表示では台東区の「台東」だが、最近は御徒町地域に含まれることが多いようだ。かつては、というのは80年代ぐらいまでか、このあたりは「佐竹」で通じた。70年代が絶好調だったのではないかと記憶するが、賑わっていた「佐竹商店街」が、このあたりの地名を代表していたのだろう。都電が廃止されるまでは、清洲橋通りに「竹町」という停留所があって、土地のひとは、その「竹町」を、このあたりの呼び名にしていたらしい。伊東四朗が竹町の出身といういわれかたをする「竹町」はこのあたりのことだ。

 おれの記憶では、そういうこと。

とにかく、都電が廃止されても、まだ賑やかだった70年代、JR御徒町駅から徒歩10分ぐらいの佐竹商店街を通りぬけ清洲橋通りを渡り、「おかず横丁」とよばれるようになった鳥越の商店街をぶらぶらし浅草橋駅へ出るというのが、おれの仕事をかねた散歩コースだった。

90年代の後半、つまり『大衆食堂の研究』を出したあと、佐竹商店街へ行ったのだが、あまりのさびれように驚いた。繁栄の象徴だった、東京では珍しいアーケードが、かえって仇になった感じで、暗い大きな廃屋になりかかっている印象だった。

2000年に、佐竹商店街の北側の入り口そばに都営地下鉄大江戸線新御徒町駅が開業し、2005年にはつくばエクスプレスが開業し乗り換え駅になった。そのおかげだろう、人通りが多くなり、まだかつてほどではないが、アーケードに人通りと明るさと活気がもどった。

いわゆる「下町商店街」の昔が偲ばれる商店と、ベーカリーなど新しくできた商店が混在しているのも面白い。

武井は、佐竹商店街ではあるけど、アーケードを南側へぬけたばかりのところにある。じつは、『大衆食堂の研究』を書いたころ、ここにあるのを気づいていなかった。ちょっとした視線の関係だと思うが、アーケードを南側へぬけると、すぐ左側が清洲橋通りでそちらへ向かったからだろう。武井は、アーケードを抜けた位置から、すぐ右前にあるのだ。モノゴトは、少しの視線のズレで、見えたり見えなかったりする。

食堂でドライカレーを食べたのは、ずいぶん久しぶりだ。おれがこれを初めてつくったのは中学3年か高校生のころだが、いまでも一年に何回かは家でつくる。割と好きなんだが、食堂に入ると、おかずとめしになることが多い。それに、ドライカレーがメニューにあるかないか、よく確かめたことがない。

武井のメニューは、シンプルでわかりやすい。壁面の二枚の板に書かれてあり、一目で、全メニューがわかる。そこにドライカレーがあった、すぐ、懐かしさもあってこれにした。

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おれが食べだすと、あとから体格のよい若い男が入ってきて、ドライカレーとハムエッグを注文した。その声をきいて、そういえば、ドライカレーに目玉焼きをのせて混ぜながら食べるとうまいんだよな~と思い出した。

ドライカレーは、焼きめしのカレー味のようなものだから、めし粒についたカレー粉の粒粒が、熱に解け切らずに残留し、それが舌にあたったときのピリッとした味わいがよい。これと目玉焼きの味がミックスされるとうまさが広がる。

こんど食堂ではドライカレーがあるかどうかメニューをよく見ることにしよう。あったら注文し、一緒に目玉焼きかハムエッグを注文しよう。

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2019/02/27

東京新聞連載「エンテツさんの大衆食堂ランチ」76回目、深川・七福。

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またもやここでの掲載が遅れに遅れてしまった、これは先月の第三金曜日18日朝刊のぶんだ。

すでに東京新聞のサイトでご覧いただける。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2019011802000184.html

たまには正月らしい店名の食堂にしようと、「七福」にした。住所は白河だが、昔から深川と呼ばれている地域で、周囲には深川七福神がある。

七福は、1995年の『大衆食堂の研究』にも載っている。「『七福食堂』――江東区高橋のたもとにある。いかがわし度2。暖簾に「実用」の文字がいい」というぐあいだ。

「高橋のたもと」というのは、「たもと」に近いぐらいで、すぐそばではない。ところが、おれ自身も「たもと」にだまされてしまい、以前に再訪したときには、高橋のたもとすぐのあたりをうろうろし、住所は控えてなかったし、探したが見つからなかったことがある。

とにかく、このあたりは大変貌した。とくに七福がある清洲橋通りの大きな交差点の周辺は30階ぐらいはある高層マンションがニョニョキ建って、空が広かった下町の面影はない。

七福も、二階建ての木造から建て替わった。外見は変わったし、中も壁は板張りで「デザインされた」内装になったが、そこまで。

暖簾と看板の「実用洋食」は、そのままだし、実用のイスとテーブルで、実用の洋食を食べる。

かつて、というのは半世紀以上は前になるか、「実用洋食」が流行ったらしい。まだ詳細に調べてないが、そういう記述は見かけた。

「実用」という言葉の意味は、なかなか深長で、このばあいの判断は難しいが、おそらく、当時ごちそうで高級なイメージだった洋食に対してのことだろう。

1960年前後ぐらいまでは、東京の洋食は「ハイカラ」などといわれ、けっこう上位概念だったのだ。

七福の「実用洋食」は、大いに納得する。日替わり定食の盛り合わせを始めとする各種盛り合わせメニューの充実に、なんだかお店の洋食への「熱」を感じる。

オムライスを食べたことがないのだが、一人で入ってくる近所の会社員らしい女性たちは、ほとんどこれを食べている。

そのオムライスからして、たいしたボリュームだ。定食のごはんの量も多く、おかずのボリュームもある。フライ類は、ボリュームがあっても、油が気になることはなく、サクサク食べられるが、おれはめしの量にまいってしまう。なのに、まわりでは、大盛りを注文する客もいる。くそ~っ、大食いできないジジイになってツマラナイな~と思うのだ。

このあたりは、かつては、中小零細の事業所が多かった。いまでもビルの一階が工場だったりするところもある。

七福の客には大盛り確率が高い作業服姿の労働者が多くみられる。大盛を食べるスーツ姿の労働者もいる。

ガッチリめしを食いたい人はいるのである。それは「実用」という「文化」を支える人たちでもある。

そして、「実用」の「文化」によって、さまざまな「産業」や「文化」が支えられている。

実用万歳。

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2018/12/31

東京新聞連載「エンテツさんの大衆食堂ランチ」75回目、新宿・はやしや。

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今年最後の掲載日は今月21日だった。すでに東京新聞のサイトでご覧いただける。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2018122102000193.html

この連載で初めての、ナイフ、フォーク、ライス付きの食事だ。

本文では、このように書いている。

「ファミリーレストランが進出する1970年代頃から、なんでもありのメニューのデパートの大食堂は姿を変えていったが、はやしやはかつてのそれをしのべる数少ない場所だ。それに、「昭和24年より営業老舗食堂復刻メニュー 昭和のプレート1380円」には、はやしやの前身でこの場所にあった「三平本店」の昭和47年撮影の写真がそえられているのだが、「三平」は筆者が上京した1962年頃には、すでに新宿駅東口界隈(かいわい)に大きな店舗が何軒かあって、いつも大にぎわいだった。大衆食堂としては少し高めだがメニューが豊富でデパートの大食堂の廉価版といったところ、新宿が現在のようにビルに埋もれる前は、「新宿といえば三平」という存在感だったのだ」

つまり現在は「はやしや」という店名だが、もとは食堂の三平から始まっている。それも昭和24年といったら、まだ闇市が残っていた。

三平は戦後から高度成長期、新宿で勢力のあった大衆食堂で、『大衆食堂の研究』にも書いたし、このブログでも何度かふれている。

以前このブログで話題にしたときは、1960年の電話帳で見つけた「味覚の民主化」のキャッチフレーズがある三平の広告も載せている。その画像と文の一部を、もう一度ここに。

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1960年は、まだ「民主化」がショーバイになったのだろうか。いや、当時でも、「民主化」をショーバイにつなげた経営者は、そうはいないだろう。ましてや「味覚の民主化」とは、いやあ、エライ!

この電話帳の発行は60年2月のことだが(電話の局番が3桁になっている)、すでに51年には、日本の支配者GHQ占領軍のマッカーサーは、「民主化」なんぞやめて、戦前の旧体制の推進者の公職追放を次々と解除し、日本の再軍備の必要を説いていた。そして、9月、日米安保条約調印。「民主化」の時代は、わずか数年でおわっていた。しかし、60年といえば、その安保条約をめぐって、改定反対闘争が盛り上がっていた最中ではある。

「味覚の民主化」を掲げた三平は、目先がきいていたのかきいていなかったのか。とにかく、おれが上京した62年、新宿東口のアチコチで、三平は繁盛していた。メニューは、和洋中をそろえたデパートの大食堂の廉価版といったところ。

おれが、たまーに利用したのは、東口の武蔵野館通り、三越裏のへんに2軒ほどあった店だった。『大衆食堂の研究』にも書いたが、三平は、ション横の「つるかめ」などに比べると、やや出費が多くなるので、あまり利用してない。おなじ東口の駅前にあった「じゅらく」なんぞは、上野のじゅらくにしてもそうだったが、三平より「高級」で非日常的な場所で、大衆食堂という認識はなかった。

この広告の三平の本社住所は、新宿区角筈1-1。角筈1丁目は、現在の新宿3丁目。おそらく、三平ストアがあるところだろう。この広告によれば、食堂は、東口周辺に5店のほか、西銀座5丁目、渋谷宇田川町、浅草、神田にも出店していたのだな。

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2010/11/13
古い電話帳から、その3。味覚の民主化。

高田馬場の古本屋の若店主(1972年生まれ)に「はやしや」の話をしたら、子供のころ父親に連れられて行ったといった。まだそういう暮らしがあったのだなあ。

デパートの食堂は、70年代に広がったファミレスに押された感じで変貌していくが、同じように大型の食堂だった三平も変わっていった。「はやしや」は、メニューにしても「三平」がファミレス風に変化した業態と見ることができるが、なぜか「昭和」の気配を感じるから不思議だ。「ファミレス」というより「デパートの大食堂」的気分なのだ。それは昔のデパートの大食堂を知っているせいなのか。でも、昔のデパートの大食堂と比べると、やっぱりファミレス的なのだが(郊外型のそれとはちがう)。

ここでめしを食っていると、「平成」といっても「味覚の民主化」を謳うほどの迫力もなく、「昭和」の尻尾をチャラチャラ貪欲に食いつぶしていたにすぎないのではないかという感慨がわいてくる。

とにかく、この連載の年内分を、年内中の大晦日にアップすることができた。

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