2019/05/16

東京新聞連載「エンテツさんの大衆食堂ランチ」79回目、南浦和・むくむく食堂。

20190419-001

先月4月19日の掲載は、若い店主の「新しい食堂」の登場だ。去年の6月に、京浜東北線と武蔵野線の乗り換え駅である南浦和に開業した、むくむく食堂だ。

本文はすでに東京新聞のサイトでご覧いただける。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2019041902000177.html

この連載で「新しい食堂」の登場は初めてだし、平成が終わる直前だったこともあり、ここ30年の食堂の動向と「新しい食堂」の特徴について簡単にふれたので、むくむく食堂そのものについてはあまり詳しく書けなかった。

だけど、ローカル愛にあふれ、「食べる側と提供する側は単なる「店」と「客」ではなく、この場所で交わる人間関係を大切に、いろいろな人といろいろなことを共有しながら、いい生活文化を育て、共に成長していこうという意識を持っている」といった特徴は、店の外観から店内のこまごまとしたところまで見られる。

こういう食堂がまずいはずはない。そして、「うまい/まずい」や「サービスのよさ」などだけで判断する食堂でもないのだ。

Dscn0224

南浦和は川口と浦和にはさまれ地味な存在だが、新旧が混在しながら新陳代謝も激しく発展している街だ。むくむく食堂がある通りは、南浦和でも古いほうの商店街だったけど、「シャッター街」を通り越し、古い商店は消えていき住宅街化している。

店主は、この商店街で生まれ育ち、食堂を始める前は、実家で衣料品や雑貨などを扱う小商いをしていた。むくむく食堂は、閉店した居酒屋を居抜きで借りて始めた。

夜はまだ行ったことがないが、定食はありながらも居酒屋メニューへシフトしているようだ。昼定食は1000円均一で3種にしぼり、喫茶メニューも充実している。

「単なる「店」と「客」」ではない関係は、これからますます存在価値を高めると思うが、なにより、これまで単なる「客」であった「消費者」の「学習」も必要になる関係だと思う。

「自分はそこで何を楽しもうとしているのか」という主体が問われる。それは、東京を中心とする主流では惰性的に続いている、値段と味や接客などを比較し選択し評価しているだけの、受け身だが「ご主人様」「神様」気取りの消費者とは違う生き方なのだ。「新しい食堂」の出現は、そういう「これから」を示唆している。

むくむく食堂のツイッターもご覧になってください。
https://twitter.com/mukumuku1945

Dscn0224001

Dscn0230

|

2019/05/09

画家のノート『四月と十月』40号、「理解フノー」連載は特集記事に変更。

Dscn0385

4月と10月に発行の美術同人誌『四月と十月』40号が、先月発行になっていたのであった。

おれは同人ではないが、「理解フノー」という連載をしている。だけど、今号は、40号の20周年を記念した「特別企画」が組まれることになり、おれの連載は休み。

特別企画は、「同人たちのアトリエ訪問記」ということで、何人かの執筆者が手分けをして、同人みなさんのアトリエを訪問するものだ。

おれも、連載のかわりに二人の同人の方のアトリエを訪問することになった。編集室の指示のままに、加藤休ミさんと、松本将次さんを担当した。どちらも、同人の中では「異色」の存在といえるだろう。

加藤休ミさんは、高校を卒業すると上京し、美術系の専門教育に類するものは、どなたかの「弟子」になることも含め一切なく、独立独歩独学で「クレヨン画家」になった。クレヨン画というと、せいぜい小学生までの子供が描くものと思っていたおれは、なぜ、どうしてクレヨン画家なのか、そこのところを知りたいと思っていた。

松本将次さんは、やはり美術系の専門教育に類するものは関係なく、大学を卒業すると印刷会社の営業に就き、絵は好きで描いているだけの、いわゆるアマチュアの「日曜画家」だ。「アトリエ」といえるものはないのではないか、家族もいることだし、外で会うことになるのではないかと思っていたら、やはり、新宿の「はやしや」で取材をすることになった。サラリマーマンしかも印刷の営業というのは、なかなか激務だ。日曜ぐらい好きなゴルフでもやりたかろう、なのに絵も描く。なぜなのか、なにか楽しみがあるのか、楽しいのか。怠け者のおれは、そのあたりが知りたかった。

お二人とも、最初から酒を飲みながらだった。

加藤さんがクレヨン画を選んだのは、上京して貧乏ぐらしの中だったので、安い画材であるクレヨンしか選べなかったからだ。そして、加藤さんがいう「いまの域に達した」のは、2012年出版の『今日のごはん』の焼いたさんまの絵あたりからだという。おれのような美術素人には、クレヨン画には見えない、おれの知るクレヨン画を超えている、そういう絵が多い。

加藤さんとは、その焼いたさんまの絵を中心に、盛り上がった。「クレヨンで食べ物を、どれだけおいしそうに描けるか」

おれが面白いと思ったのは、焼いたさんまの絵にしても、モデルは、料理撮影だったら使われることがない、スーパーなどで売っている安い細身でスマートな普通のさんまなのだ。それが絵では、すごくうまそうに見える。

料理撮影などのモデルになるさんまは、背の方に厚く肉がついて脂がのり、まさに「秋刀魚」の名の通り刀の刃のように反って立派な姿をしている。うまそうなさんまとして使われるのは、それが普通だ。うまいさんまのウンチクとなると、こういう話になるだろう。

だけど、加藤さんは、特別うまそうに見える素材を選んでいるわけではない。まったく普通だけど、描けばうまそうに見える。

これは、なかなか興味あることだった。

アトリエには、加藤さんがライブペイントで8時間かけて描いたまぐろの頭の部分の、大きな絵が貼ってあった。とてもクレヨン画には見えない。それが、なかなか活きがよさそうで、うまそうなのだ。そのことにも、興味がひかれた。

「うまい」には生理が関係するが、「うまそう」は空腹や満腹の特別な状態でなければ普通は人間の文化のことだ。それに、食品というのは、もともとは動物植物を問わず「生き物」であり、人間の手に掛かって死骸になり、商品として耐えられるものだけが「食品」とよばれる「食べ物」になって流通する。だけど、流通している食べ物すべてが、そのまま食べられる物とはかぎらない。たいがいは、なんらかの料理や加工がほどこされる。

では、この過程で、どのように「うまそう」が関与するか、そこに食文化と自然のあいだがある。と、かねてから考えているが、「虚実皮膜の間」みたいなことで、なかなか難しい。

加藤さんの絵を見て話をしているあいだに、そのあたりのことが、少しひらめいたし、同時に、「食の文学」とか「食と文学」とかは話題になるし、知ったかぶりまで横行しているけど、「食の美術」や「食と美術」については、まだそんなに関心が高い感じはしないと気付いた。だいたい、「食文化」を口にする人たちが、どれぐらい、絵などの美術的表現に食文化を見ているだろう。

「食文化」なんていうと言葉の世界がエラそうにしているが、絵と言葉では対象へのアプローチも表現の方法もまったくちがう。

「うまそう」の存在が、ますます面白くなるのだった。

アトリエ訪問の取材には、「取材のぞき」といって同人の方が参加する企画もあった。おれは「取材のぞき」大いにいいですよ、一緒に大いに飲み話しましょうという姿勢で臨んだが、加藤さんの取材のときには、同人の高橋収さんがのぞきにきてくれた。しかも、さらに同人以外の方ものぞきにきて、総勢7名で、缶ビールの空き缶と空いた清酒の瓶が豪勢に並んだ。

ほかの取材では、こういうことはなかったようで、高橋さんの報告が、この号の後ろにある「雑報」のところに、おれと加藤さんが話している写真と共に載っている。「完全に新年飲み会のつもりで行きましたが、ビールをはさんでの取材は意外?と真面目な絵画談義で大変参考になりました」と。

おれは「絵画談義」ができるほど絵に関する知識はないが、いま書いたように食べ物がからんでいたので、話がはずんだのだろう。

松本さんの取材では、「プロ」と「アマ」について考えることがあり、松本さんの記事でも少しふれたが、「産業的観念と尺度」だけが横行するようになった。これはとくに1980年代以後のことだと思うが、そのことについては、またそのうち。

いま脂がのってきている加藤休ミさんの絵本はぜひ手にしてほしいし、クレヨン画の概念がぶち壊されるに違いない原画も見てほしい。

もちろん『四月と十月』40号もね。詳しくは、こちら。今号の表紙は、同人の瓜生美雪さんの作品です。
http://4-10.sub.jp/

|

2019/05/07

東京新聞連載「エンテツさんの大衆食堂ランチ」78回目、入谷・ときわ食堂。

20190315

10連休が終わったのでブログを再開する。

ってことではなく、このブログは、ニフティのココログってやつだが、これが記事作成などの管理ページを「リニューアル」したのが、いけなかった。

もう一か月以上も前のことだったと思う。以前にも何かの「リニューアル」があったとき、かえって悪くなって、また前にもどすということがあり、嫌な予感がしていた。やっぱり酷いことになった。そして、ユーザーからは前にもどせとか、罵詈雑言がとんだ。

しかし、「不具合」を直しながら強行された。記事作成の仕方が変わったうえに、不具合はなかなか無くならない。という状況下で、新たな投稿は、ストレスになった。ストレスは嫌だ、ブログに命をかけているわけでないし。それでもポツポツ新規作成をしていた。

不具合は、かなり改善されたようだ。だけど、明らかに、以前より手数がかかるようになった。ココログ側は、そうは思っていないらしい。あるいは手数がかかっても、こちらのほうが「優れている」とするワケでもあるのだろうか。でも以前のようにサクサクいかないのだし、なれたとしても、とくに画像をアップする場合の作業ステップは増えているから、それを考えると更新の意欲が低下する。

とにかく、10日という大連休が明けた、ということを記念して、まずは、すでに先々月になってしまった、3月15日掲載の「エンテツさんの大衆食堂ランチ」をアップすることに。

すでに東京新聞のサイトでご覧いただける。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2019031502000209.html

ときわ食堂は現在何店舗あるのだろう。数えたことはないが、これで7店目だ。暖簾分けで増えた食堂の場合、いわゆる「フォーマット」がないから、それぞれ違う。それでも、どこの店でも「ときわなら安心」という感じではある。それが同じ暖簾のメリットか。

この入谷のときわ食堂は、何度か行っている。2011年3月11日の大地震のあと、年中無休の鶯谷駅前の信濃路も休まざるをえなかったときも、ここはやっていた。大混雑だった。

Dscn0120 行くたびにメニューが増えている感じだ。確か空白が多かった壁を、手書きの大きな短冊が埋めていく。見た感じ、夜の飲み客が好みそうなものが多い。夜は来たことがないが、飲兵衛で賑わっているのかもしれない。

何を食べても安定のうまさなのだが、おれはフライ類が気に入っているので、A定食にした。コロッケと魚フライで、魚はアジだった。フライ類のメニューも多いから、人気なのだろう。

食べ終わるごろ、店の人が書いていた「初かつお入荷」の短冊が出来あがった。それを見たとき、入谷は「初かつお」という言葉が、自然で似合う街だなと思った。それは、まあ、入谷に対する観念的な思い込みがあるからだろうけど、歴史のある土地ほど、そういう観念的なイメージがつきまとうようだ。

入谷といえば、このときわ食堂は入谷1丁目の言問い通りにあり、この通りを浅草方面へ500メートルもいかないうちの同じ並びに「入谷食堂」がある。すでに、この連載でも載せている。

入谷食堂は入谷2丁目になるが、その裏のほう、金美館通りの大正小学校の隣あたりには、「大衆食堂」の看板の「清月」がある。清月は、マクロビ系というか、自然・健康・安全を意識する食事を用意し、値段のほうは少し高めにしても、量がけっこうあるあたりが大衆食堂らしい。

入谷のあたりは、この3軒の大衆食堂のほかに、いわゆるレトロな洋食屋や洋食が食べられる喫茶店などがあって、個人経営の食堂の密集地なのだ。今は昔と比べると、かなり減っていると土地の人はいうが。

とにかく、狭い地域に、「ときわ」「入谷」「清月」という大衆食堂が3軒あるだけでも、珍しい。そういうわけで、どんな人たちが大衆食堂の利用客なのかも含めて入谷が気になっているのだが、通うのが大変だから、なかなかその正体がつかめない。

そういえば、入谷食堂から近いライブハウス「入谷なってるハウス」も、すっかりご無沙汰しているなあ。

ときわ食堂の夜も行ってみたいなあ。

Dscn0117
Dscn0127

 

|

2019/03/20

東京新聞連載「エンテツさんの大衆食堂ランチ」77回目、佐竹・武井。

20190215

先月の第3金曜日、15日に掲載の分だ。すでに東京新聞のサイトでご覧いただける。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2019021502000192.html

Dscn9971 武井のある場所は、住所表示では台東区の「台東」だが、最近は御徒町地域に含まれることが多いようだ。かつては、というのは80年代ぐらいまでか、このあたりは「佐竹」で通じた。70年代が絶好調だったのではないかと記憶するが、賑わっていた「佐竹商店街」が、このあたりの地名を代表していたのだろう。都電が廃止されるまでは、清洲橋通りに「竹町」という停留所があって、土地のひとは、その「竹町」を、このあたりの呼び名にしていたらしい。伊東四朗が竹町の出身といういわれかたをする「竹町」はこのあたりのことだ。

 おれの記憶では、そういうこと。

とにかく、都電が廃止されても、まだ賑やかだった70年代、JR御徒町駅から徒歩10分ぐらいの佐竹商店街を通りぬけ清洲橋通りを渡り、「おかず横丁」とよばれるようになった鳥越の商店街をぶらぶらし浅草橋駅へ出るというのが、おれの仕事をかねた散歩コースだった。

90年代の後半、つまり『大衆食堂の研究』を出したあと、佐竹商店街へ行ったのだが、あまりのさびれように驚いた。繁栄の象徴だった、東京では珍しいアーケードが、かえって仇になった感じで、暗い大きな廃屋になりかかっている印象だった。

2000年に、佐竹商店街の北側の入り口そばに都営地下鉄大江戸線新御徒町駅が開業し、2005年にはつくばエクスプレスが開業し乗り換え駅になった。そのおかげだろう、人通りが多くなり、まだかつてほどではないが、アーケードに人通りと明るさと活気がもどった。

いわゆる「下町商店街」の昔が偲ばれる商店と、ベーカリーなど新しくできた商店が混在しているのも面白い。

武井は、佐竹商店街ではあるけど、アーケードを南側へぬけたばかりのところにある。じつは、『大衆食堂の研究』を書いたころ、ここにあるのを気づいていなかった。ちょっとした視線の関係だと思うが、アーケードを南側へぬけると、すぐ左側が清洲橋通りでそちらへ向かったからだろう。武井は、アーケードを抜けた位置から、すぐ右前にあるのだ。モノゴトは、少しの視線のズレで、見えたり見えなかったりする。

食堂でドライカレーを食べたのは、ずいぶん久しぶりだ。おれがこれを初めてつくったのは中学3年か高校生のころだが、いまでも一年に何回かは家でつくる。割と好きなんだが、食堂に入ると、おかずとめしになることが多い。それに、ドライカレーがメニューにあるかないか、よく確かめたことがない。

武井のメニューは、シンプルでわかりやすい。壁面の二枚の板に書かれてあり、一目で、全メニューがわかる。そこにドライカレーがあった、すぐ、懐かしさもあってこれにした。

Dscn9973

おれが食べだすと、あとから体格のよい若い男が入ってきて、ドライカレーとハムエッグを注文した。その声をきいて、そういえば、ドライカレーに目玉焼きをのせて混ぜながら食べるとうまいんだよな~と思い出した。

ドライカレーは、焼きめしのカレー味のようなものだから、めし粒についたカレー粉の粒粒が、熱に解け切らずに残留し、それが舌にあたったときのピリッとした味わいがよい。これと目玉焼きの味がミックスされるとうまさが広がる。

こんど食堂ではドライカレーがあるかどうかメニューをよく見ることにしよう。あったら注文し、一緒に目玉焼きかハムエッグを注文しよう。

Dscn9976001

|

2019/02/27

東京新聞連載「エンテツさんの大衆食堂ランチ」76回目、深川・七福。

Dscn0046

Dscn0048001

またもやここでの掲載が遅れに遅れてしまった、これは先月の第三金曜日18日朝刊のぶんだ。

すでに東京新聞のサイトでご覧いただける。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2019011802000184.html

たまには正月らしい店名の食堂にしようと、「七福」にした。住所は白河だが、昔から深川と呼ばれている地域で、周囲には深川七福神がある。

七福は、1995年の『大衆食堂の研究』にも載っている。「『七福食堂』――江東区高橋のたもとにある。いかがわし度2。暖簾に「実用」の文字がいい」というぐあいだ。

「高橋のたもと」というのは、「たもと」に近いぐらいで、すぐそばではない。ところが、おれ自身も「たもと」にだまされてしまい、以前に再訪したときには、高橋のたもとすぐのあたりをうろうろし、住所は控えてなかったし、探したが見つからなかったことがある。

とにかく、このあたりは大変貌した。とくに七福がある清洲橋通りの大きな交差点の周辺は30階ぐらいはある高層マンションがニョニョキ建って、空が広かった下町の面影はない。

七福も、二階建ての木造から建て替わった。外見は変わったし、中も壁は板張りで「デザインされた」内装になったが、そこまで。

暖簾と看板の「実用洋食」は、そのままだし、実用のイスとテーブルで、実用の洋食を食べる。

かつて、というのは半世紀以上は前になるか、「実用洋食」が流行ったらしい。まだ詳細に調べてないが、そういう記述は見かけた。

「実用」という言葉の意味は、なかなか深長で、このばあいの判断は難しいが、おそらく、当時ごちそうで高級なイメージだった洋食に対してのことだろう。

1960年前後ぐらいまでは、東京の洋食は「ハイカラ」などといわれ、けっこう上位概念だったのだ。

七福の「実用洋食」は、大いに納得する。日替わり定食の盛り合わせを始めとする各種盛り合わせメニューの充実に、なんだかお店の洋食への「熱」を感じる。

オムライスを食べたことがないのだが、一人で入ってくる近所の会社員らしい女性たちは、ほとんどこれを食べている。

そのオムライスからして、たいしたボリュームだ。定食のごはんの量も多く、おかずのボリュームもある。フライ類は、ボリュームがあっても、油が気になることはなく、サクサク食べられるが、おれはめしの量にまいってしまう。なのに、まわりでは、大盛りを注文する客もいる。くそ~っ、大食いできないジジイになってツマラナイな~と思うのだ。

このあたりは、かつては、中小零細の事業所が多かった。いまでもビルの一階が工場だったりするところもある。

七福の客には大盛り確率が高い作業服姿の労働者が多くみられる。大盛を食べるスーツ姿の労働者もいる。

ガッチリめしを食いたい人はいるのである。それは「実用」という「文化」を支える人たちでもある。

そして、「実用」の「文化」によって、さまざまな「産業」や「文化」が支えられている。

実用万歳。

Dscn0053

Dscn0057

|

2018/12/31

東京新聞連載「エンテツさんの大衆食堂ランチ」75回目、新宿・はやしや。

20181221

今年最後の掲載日は今月21日だった。すでに東京新聞のサイトでご覧いただける。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2018122102000193.html

この連載で初めての、ナイフ、フォーク、ライス付きの食事だ。

本文では、このように書いている。

「ファミリーレストランが進出する1970年代頃から、なんでもありのメニューのデパートの大食堂は姿を変えていったが、はやしやはかつてのそれをしのべる数少ない場所だ。それに、「昭和24年より営業老舗食堂復刻メニュー 昭和のプレート1380円」には、はやしやの前身でこの場所にあった「三平本店」の昭和47年撮影の写真がそえられているのだが、「三平」は筆者が上京した1962年頃には、すでに新宿駅東口界隈(かいわい)に大きな店舗が何軒かあって、いつも大にぎわいだった。大衆食堂としては少し高めだがメニューが豊富でデパートの大食堂の廉価版といったところ、新宿が現在のようにビルに埋もれる前は、「新宿といえば三平」という存在感だったのだ」

つまり現在は「はやしや」という店名だが、もとは食堂の三平から始まっている。それも昭和24年といったら、まだ闇市が残っていた。

三平は戦後から高度成長期、新宿で勢力のあった大衆食堂で、『大衆食堂の研究』にも書いたし、このブログでも何度かふれている。

以前このブログで話題にしたときは、1960年の電話帳で見つけた「味覚の民主化」のキャッチフレーズがある三平の広告も載せている。その画像と文の一部を、もう一度ここに。

Denwacyo_sanpei02

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1960年は、まだ「民主化」がショーバイになったのだろうか。いや、当時でも、「民主化」をショーバイにつなげた経営者は、そうはいないだろう。ましてや「味覚の民主化」とは、いやあ、エライ!

この電話帳の発行は60年2月のことだが(電話の局番が3桁になっている)、すでに51年には、日本の支配者GHQ占領軍のマッカーサーは、「民主化」なんぞやめて、戦前の旧体制の推進者の公職追放を次々と解除し、日本の再軍備の必要を説いていた。そして、9月、日米安保条約調印。「民主化」の時代は、わずか数年でおわっていた。しかし、60年といえば、その安保条約をめぐって、改定反対闘争が盛り上がっていた最中ではある。

「味覚の民主化」を掲げた三平は、目先がきいていたのかきいていなかったのか。とにかく、おれが上京した62年、新宿東口のアチコチで、三平は繁盛していた。メニューは、和洋中をそろえたデパートの大食堂の廉価版といったところ。

おれが、たまーに利用したのは、東口の武蔵野館通り、三越裏のへんに2軒ほどあった店だった。『大衆食堂の研究』にも書いたが、三平は、ション横の「つるかめ」などに比べると、やや出費が多くなるので、あまり利用してない。おなじ東口の駅前にあった「じゅらく」なんぞは、上野のじゅらくにしてもそうだったが、三平より「高級」で非日常的な場所で、大衆食堂という認識はなかった。

この広告の三平の本社住所は、新宿区角筈1-1。角筈1丁目は、現在の新宿3丁目。おそらく、三平ストアがあるところだろう。この広告によれば、食堂は、東口周辺に5店のほか、西銀座5丁目、渋谷宇田川町、浅草、神田にも出店していたのだな。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2010/11/13
古い電話帳から、その3。味覚の民主化。

高田馬場の古本屋の若店主(1972年生まれ)に「はやしや」の話をしたら、子供のころ父親に連れられて行ったといった。まだそういう暮らしがあったのだなあ。

デパートの食堂は、70年代に広がったファミレスに押された感じで変貌していくが、同じように大型の食堂だった三平も変わっていった。「はやしや」は、メニューにしても「三平」がファミレス風に変化した業態と見ることができるが、なぜか「昭和」の気配を感じるから不思議だ。「ファミレス」というより「デパートの大食堂」的気分なのだ。それは昔のデパートの大食堂を知っているせいなのか。でも、昔のデパートの大食堂と比べると、やっぱりファミレス的なのだが(郊外型のそれとはちがう)。

ここでめしを食っていると、「平成」といっても「味覚の民主化」を謳うほどの迫力もなく、「昭和」の尻尾をチャラチャラ貪欲に食いつぶしていたにすぎないのではないかという感慨がわいてくる。

とにかく、この連載の年内分を、年内中の大晦日にアップすることができた。

Dscn9953001

Dscn9957


|

2018/11/24

東京新聞連載「エンテツさんの大衆食堂ランチ」74回目、佃・亀印食堂。

20181116

今月16日の朝刊に掲載の74回目は、佃の食堂だ。例によって、すでに東京新聞のサイトに載っている。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2018111602000185.html

かつての佃島は、江戸開府の頃からどんどん変わってきたようだが、近年の「世界有数のビックプロジェクト」とかいう、もしかすると天下の愚策かもしれない、俗称「ウォーターフロント開発」は、その姿を決定的に変えた。

Dscn9917広かった空を圧迫しながら、高層建築物がニョキニョキ突っ立ち怪物のように押し寄せてくる中に、亀印食堂とその一角は、ここにかつてどんな暮らしがあったかを伝えている。といっても、肩ひじ張ることなく、何気なくゆったり静かに佇んでいるのだ。

おれは1971年秋に転職してから、この界隈によく行くようになった。このあたり、つまり佃島や月島のあたりには、大きな倉庫と工場があって、クライアントの冷凍冷蔵倉庫や冷凍工場などもあったからだ。この地域は倉庫と工場以外は、「屋敷」のようなものはあまりなく、たいがいが木造の小さな家か長屋だった。

といった話は、おいといて。

近年になってからも、なんだかんだ行く機会があったが、行くたびにたいがいここでヤキソバやオムライスなどをつまみに飲んでいた。飲むばかりで、マジメに食べたことはなかった。昔の木造のゆったりした造りの店内は渋く、ほんと、落ち着くのだ。

今回は、看板のうどん、それも最高額の鍋焼うどん800円を食べた。見た目から、まったく気取ってない、普通の鍋焼うどん。冷たい風が吹いている日で、あったかいのが、すごいうまく感じた。

ここから住吉神社は近い。5分も歩かない。江戸の名残の堀が残る住吉神社の裏にも、ニョキニョキの怪物が迫っていた。

鳥居のほうにまわり、隅田川の岸に立って、かつて佃の渡しがあったところを眺めたが、もちろん、そこがそうだったという説明書きなりを見なくては、ただのコンクリートの岸壁だ。

佃大橋が完成したのは1964年の東京オリンピックの直前で、それまであった佃の渡しはなくなった。

おれが上京したのは、1962年だから、まだ渡しがあったのだが、乗ってみようかという気になったことはない。その頃は、永代橋を通る都電を利用して月島のほうへ行くことがあった。そんなときは、当時は隅田川のニオイがひどくて、クサイのやキタナイのはそれほどキライじゃないおれでも、とても渡し船に乗ってみようという気にはならなかったのだ。

とにかく、亀印食堂へ行ったら、あたりを散歩する。いや、あたりを歩いてから亀印食堂へ行くのか。どっちでもいい。

四方田犬彦の『月島物語』を読んでは、月島や佃が「労働者の町」だった頃を思い出したり。そうそう、『月島物語』によれば、吉本隆明の育った家は、亀印食堂のすぐ近くだったようだ。どうでもよいことだから、よく調べたことはない。

亀印食堂が、なんで「うどん食堂」なのか、いつも気にながら、いつも聞くのを忘れてしまう。今回も、聞き忘れてしまった。

そんなことより、いつも店の前の鉢植えが何気なくよくて、ひかれる。看板も暖簾も鉢植えも一体になって、何気なくいいのだ。この「何気なく」がいいのだな。ここでの食事も何気なくいい。

何気なく生き、何気なく仕事をし、何気なく歩き、何気なく飲み何気なく食べる。いいじゃないか。

Dscn9918

Dscn9927

Dscn9919

Dscn9923

|

2018/11/17

東京新聞連載「エンテツさんの大衆食堂ランチ」73回目、両国・下総屋食堂。

1201810

1006

これは先月19日の朝刊に掲載のものだ。きのうの本紙朝刊で今月の分が掲載されたから、一カ月遅れということになる。こういうときは、「のんびり行こうゼ」と、いってみる。もちろん、すでに東京新聞のサイトでご覧いただける。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2018101902000208.html

めったにないことだが、上の配膳の写真、どれぐらいの人が気がついたか。ダンチューなどには、こういう写真が載ることは、ゼッタイにない。

かれい煮は、一般的には、皮の色が黒っぽい茶の「背」を上に出して盛り付けられることが多いはずだ。魚屋などに生で並んでいるときも、そうだ。ところが、これは、白い「腹」を出して盛られていたのだ。

こういうことは初めてじゃないが、メディアに載せる写真として撮るのは、初めてだった。いったん、箸でひっくりかえそうかと思った。ま、「正しい」フォトグラファーやライターや編集者だったら、そうするだろう。

が、やめた。だいたい、なんでこんなことに気が付いたのだ、おれは業界標準の「正しい」ライターになったのか、掲載用の写真を撮るのでなかったら、気にしないでただちに食べ始めるところではないか。

ってことで、そうしたのだ。食べるにも、ひっくり返さず、この向きのまま突っついた。

そのままのリアリティとやらにこだわったわけじゃない。かりに「正統」があるとしても、これも「あり」なのだ、それでいいじゃないか。それに、おれは、正しいみなさんが、とかく「雑」とか「いいかげん」とか見下していることが、けっこう好きなのだ。

しかし、掲載になってみると、やはり、気になった。この写真を見て、なんだ、かれいの盛り付けも知らない食堂か、ライターも編集者も気がつかなかったのか、なーんて人がいないともかぎらない。親切なクレーマーは、新聞社に投稿するかもしれない。ゼッタイ自分は正しいと思い、それを疑わない人は、けっこういる。自分の「正しい」とちがうことに遭遇したとき、まずは自分を疑う、ということはしない。

賢明な読者ばかりだったのか、それともそんなことは、やっぽり普通は気にしないのか、ナニゴトもなかった。

かりに、背を上に盛るのが圧倒的多数だとしても、それは様式のことだ。その、どうしてかできあがった「あるべき様式」からはずれているにすぎないからといって、ただちにマチガイでワルイということにしてはいけないのだ。

たいがいの料理写真は、それぞれの「あるべき姿」をめざして撮影されている。それは、イチオウ「うまそう」でなければならないが、見なれたものが「うまそう」になる確率がヒジョーに高いのではないか。それに「あるべき姿」なんて、普遍的なものじゃない。信じるほうがおかしい。

などなど、このかれい煮の盛り方ひとつから、ああでもないこうでもない、いろいろなことが考えられるのだが、さらに、この写真のかぼちゃ煮も、盛りつけ写真としては、なかなかお目にかかることがないだろう。

が、しかし、このかれい煮もかぼちゃ煮もうまいのだ。おれは、すくなくとも感心しながら、食べた。

おれは、過去に口にした味覚をちゃんと覚えているほうではないが、下総屋食堂の「ごはん」が、とにかくうまい。その味覚と、おかずの味つけが、すごくあっている。と、このとき、あらためて思った。ハーモニーってのかな、トーンってのかな、あるいは波長、そういうものがありますね、それがうまくあっている。音楽みたいだねえ。だから、もしかすると、この「ごはん」あっての、このおかずなのかもしれない。

それに、その味覚は、建物やおかずの見た目ほどは、古い感じがしない。

個人経営の大衆食堂では、こういうことがときどきあって、チェーン店や、調理学校やお店でいわゆる「修業」した人が作るものにはない不思議だな。「修業」などで、あるていど整った方法(様式)の何かを得れば、何かを失うという関係がありうるのだ。

下総屋食堂は、戦前の建物のまま営業している。この連載で、戦前の建物で営業している食堂は2店目だ。1店目は、池袋のなみき食堂だ。

下総屋がある両国は、激しい空襲にあったところだから、「戦災をくぐり抜けた奇跡の大衆食堂」といわれたりするが、オーバーではない。

1002

|

2018/10/15

画家のノート『四月と十月』39号、「理解フノー」連載21回目。

1012

今月は10月だから、美術同人誌『四月と十月』39号が発行になった。同人ではないおれの連載「理解フノー」は21回目で、「言葉を使う」のタイトル。

呼吸をするように言葉を使っているけど、それだけに、馴れきってしまい、使う言葉については考えることがあっても、言葉を使うってどういうことかについては考えない。けっこう惰性なのだな。ってことにブチあたることがあって、「本当に言葉を使って考えているのか」と考えてしまった。ってことを書いた。

今号から連載陣に中原蒼二さんが加わった。「料理」というテーマで、今回は「包丁論 一」だ。中原さんは料理人ではないが、包丁を使って魚をおろしたりするのは得意だ。見たこともある。立ち飲みの「ヒグラシ文庫」の店主であり、最近、『わが日常茶飯 立ち飲み屋「ヒグラシ文庫」店主の馳走帳』(星羊社)を著している。

連載は、全部で15本になった。蝦名則さんの「美術の本」は見開きだが、ほかは一人1ページだから、本文60ぺーじのうち、16ページを占める。同人のみなさんの作品(必ずしも完成品ということではなく)と文が、一人一見開きずつ載る「アトリエから」というページは、今回は20人だから40ページ。

毎回のことだが、同人のみなさんの文章が、よいのだなあ。うまいっ。感心しちゃうのだ。

それにひきかえ、ライター稼業のおれは…とは考えないのだが、自分の文章にはライター稼業の悪癖が出てきたなと気づくことはある。

前号から連載陣に、ライター稼業の、岡崎武志さんが「彫刻」のテーマで、木村衣有子さんが「玩具」のテーマで加わった。

それでチョイと気が付いたことがあったのだが、今回で、少し見えてきた気がする。

同人のみなさんの文章には、既視感のようなものや類型がない。ライター稼業をしていると、どうも既視感のようなものや類型が出やすくなるのではないか。という仮説。

でも、中原さんの文章にも類型が見られるし、「東京風景」を連載の鈴木伸子さんはライター稼業の人だけど既視感のようなものも類型も見られない。

これはオモシロイな、と思った。

おれなんか出版業界と業界的な付き合いはしてないほうだが、知らず知らずに、クセのようなものがつく。いや、知らず知らずだから、「クセ」というのか。それを「悪癖」と見るかどうかは、文化的な価値観も関わるから、それぞれのことであり、なんともいえない。

とにかく、これまでおれは「私」で書いてきたが、今回から「おれ」にした。今回は一か所でしか使ってない。ほかのひとにとってはどうでもよいことだろうし、たぶんほとんどのひとは気づかないにちがいない。

最近、同人も連載陣も新しい方が加わり、『四月と十月』、どこへ行くのだろう。ひょっこりひょうたん島か。

そうそう、今回の同人の方の文の中に、おれにとっては貴重なオコトバがあった。

瓜生美雪さんの文は、「気持ちをうすく閉じ込める」のタイトルで、これにも気持がひっかかったが、後半「コラージュは楽しい」という話をして、最後にこう書いている。

「大事なことは、仕上げる時に、自分が普段出せない奥のほうの感情が入っていればそれでいい」

下の写真は、瓜生さんのページ。

表紙作品は、同人の扉野良人さん。

四月と十月のサイトはこちら。
http://4-10.sub.jp/

1014

|

2018/09/29

東京新聞連載「エンテツさんの大衆食堂ランチ」72回目、小岩・サンゴ亭。

12019

ここに掲載するのが新聞発行日から一か月遅れぐらいになる状態が続いていたが、今月は、まだ月内だ。もちろん、すでに東京新聞のサイトでご覧いただける。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2018092102000196.html

日替り定食のさば焼きを食べた。いつも焼魚や煮魚を食べたあとは、そのうまさの不思議を考えることになるのだが、このときもまたそうであった。とにかく、うまい。

という話は長くなるから、おいておこう。

やっぱり小岩はいい町だ。こじんまりとした食堂が、入口をからりと開けはなった姿は、見るだけで、なんだか気分がよくなる。それに、こじんまりとした小上がりがあるのだ。これがまた、いい。

今回は、ちょうど、スペクテイター42号「新しい食堂」を見たあとに行った。「新しい食堂」には、「食堂幸福論」というページがあって、三つの話が物干竿之介さんの画入りで載っている。その一つが「小上がり」のタイトルなのだ。

これは、春日武彦の『幸福論 精神科医の見た心のバランス』(講談社現代新書)に所収の「さまざまな幸福 宮崎市の大衆食堂」をもとにしている。

おれはこの本も話も知らなかったのだが、編集の赤田祐一さんが、そこのところを画像ファイルにして送ってくれた。読んだら、しみじみ味わい深い「幸福」の情景だった。簡単には言いたくないが、ほんと、名文だなあと、しばしぼんやりした。名文て、文章表現のテクニックのことだけじゃなく、そこにある視線や思考も大事だね。

この本で著者が、「世間一般では「これこそ幸福の見本である」とはみなさないだろうけれど、わたしとしてはそこにまぎれもなく幸福の尻尾というか断片を感じ取ったケースを、以下に1ダースばかり列挙してみることにしたい」とあげた一つに、宮崎市の大衆食堂でのことがあるのだ。

講演で宮崎市へ行き、一人でひっそりホテルに泊り、夜になって散歩がてら食事に出かけたときのことだ。

中心街から外れた場所らしい暗くて閑散とした街並のなかに、「一軒の大衆食堂がぽつんと明かりを灯していた」のを見つけ入った。

「野菜炒め定食を注文してからふと見ると、壁際に不思議なコーナーがあった」

そのコーナーというのが、木箱のうえに畳一枚を置いて小上がりに仕立てたものだった。座布団と卓袱台が置いてあり、「すなわち昔ながらの茶の間を切り取った光景が、まるで舞台装置のようにして床から七〇センチの高さに再現されていたのである」

そこにすでに先客が一人いて、新聞を広げビールを飲みながら餃子の皿を前にしていた。「完全に茶の間のミニチュア版なのである」

その客が帰ったあとだ。「するとテーブル席にいた別のおじさんが人の好さそうな顔つきで、「じゃあ、今度はわたしがくつろがせてもらいますかね」と言いながら、ビール瓶を片手にひょいと畳へ揚がり込んだ。そのあたりの呼吸が、あまりにも自然かつ楽しそうなので、わたしは思わず幸福な気分に浸されたのである」

こういうかんじの気分、おなじ場面ではなくても、あるねえ。このあとの春日武彦のまとめ方も、大衆食堂あるあるで、ほんといいんだなあ。そこは、省略。

サンゴ亭の小上がりは、木箱の上ではないが、寸法は変則的の四人は座るのが難しそうな座卓が二台あるだけの、ささやかな空間だ。その空間をテーブル席ではなく、小上がりにしているところが、いいじゃないか。

そこにはちょうど、一人の客がいて、注文の品が出てくるまで、新聞を広げテレビを見ながらくつろぐ景色があった。

それは、貧しい景色と見る人もいるかも知れないが、おれは、生活することを肯定したくなる、春日武彦の文を借りれば、「何だか、「世の中、捨てたもんでもないな」といった気分になってくる」のだった。

ま、大衆食堂では、こういう気分になるのはめずらしくないが、今回は、「食堂幸福論」の「小上がり」を見たあとでもあり、小上がりの幸福論的に書いてみた。お膳のすみにちょこんとある、ささやかな小鉢まで、小上がりのように幸せ気分を運ぶのだった。

1009

1015

1010

|

より以前の記事一覧