2015/08/17

ますます浮世離れ、秩父の山奥で、飲み過ごす。

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先週の11日火曜日から13日木曜日まで、毎夏恒例、秩父の山奥へ行って来た。「お盆休み」というには、13日に帰って来てしまうし、仏様を拝むこともせず、ひたすらビールを飲んでいるだけなのだが。

行くたびに、「終末」に近づいている山間の様子や年寄りの話を聞いていると、都会と地続きには思えない、異次元の世界だ。

近年は、人間どもより動物たちとの生存競争が激しく、知恵比べをやりながら、生産し収穫し生き抜いている状態が続いているようだ。

イノシシやクマは駆除効果があったのか、それともほかに理由があるのか減少し、シカが増えているそうだ。シカは、たえず家のまわりまでウロウロし、ついこのあいだは激しい雷に怯え、母屋の隣の小屋に逃げ込んできたとか。とはいえ、カワイイやつらではない。畑のものだけではなく、人間の食料でもある、野生の草や実も食べる。

おだやかな風景の山間で、見た目ではわからない、人間と動物たちが奪い合いながら、厳しい生存をしている。

隣接の県の集落では10戸あったところが、この10年間に2戸になってしまったとか、聞く話は「終末」というより「末世」という感じが多いのだが、なぜか笑うしかない滑稽とも思える営みが続いているのだ。都会のクソマジメなど、じつにバカバカしく思えてくる。

都会では、「人口減」なるものが諸悪の根源のように悲観的に語られることが多いが、それはチョイとちがうんではないかなと思ったり、ふだん「東京圏」にいるときとはちがう見方が、いろいろ浮かんでくる。なかなか刺激的だ。

帰って、しばらくは、いまもだが、この世ではないところで新たな見方を得た気分で、ツイッターなど、あまりにもギャップが激しすぎて、見るのも疎ましい。よくまあ、あんなもので、クソマジメに情報収集だの拡散だのとやっているものだ、まさにバーチャルだなあ、と思ったり。

最近は、年寄りはクルマを運転しなくなって、おれも年寄りで免許はないし、誰もクルマを運転できないから、町までクルマで30分ほどかかる買物は、ままならない。どういうことになるのだろうなあと思っていたが、それなりに「活路」はあるものだということがわかった。

けっきょく、人間にとっては、医療が最大の問題として残りそうだ。医療の保障さえあれば、誰でもどこでも、それなりに自立的に生きられる可能性はあるだろう。

とにかく、よく飲んで、よく食べた。今回は、「つつっこ」を、葉をとるところから煮あげるまで全工程を実習したので、とりあえず「伝承」はされたといえるか。

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例年に比べ、雷雨が続いたあとだったので、家の前の川の水量は豊富で、堰堤の滝の音が鳴り響いていた。滝の上のクルミの木が実をつけていた、もう秋だ、今年は、あと4カ月ほどしかない。

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13日に帰り、15日の土曜日は午後から、イノセさんから誘いがあった、見沼田んぼ福祉農園の合宿に参加した。大学生たちと、刺激的で楽しいひととき。福島で調査研究中のイシイさんとも1年半ぶりぐらいの再会。いい話を聞けた。その件はまた。

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2015/01/03

今年は72歳、『大衆食堂の研究』から20年。

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あけましておめでとうございます。

今年は、とくに気合いが入っているわけじゃないけど、早いブログ始め。よろしくお願い申す。

昨年末の30日から、例年のように、秩父の義父母の家へ行き、昨日2日に帰ってきた。

今年の正月は厳しい寒さの毎日で、すでに降った雪が日陰などに残っていたが、1日の朝も目が覚めたら、うっすら積もっていた。いつものように、毎日鍋を作っては食べ、酒を飲みゴロゴロして過ごした。

町や農協などの広報誌を見ると、昨年2月の大雪のあとは、かなり雪害が残り大変だったようだ。救急車が入れず、ヘリコプターの発着場所やヘリコプターまでの輸送が地域の人たちの力で用意できなかった土地では、結果的に手遅れで亡くなった方もいたらしい。農業は最近やっと復旧に近い状態。残っていた東電原発事故の影響からも脱しつつあるらしい。

マスコミからはほとんど見捨てられたような地域なので、まったく話題にならないが、その土地で生きているものにとっては、大変なこと。

当家は、雪害より、夏の雹の害と、生った大根の半分が鹿に食べられた被害が大きかったとか。80半ばに近い義父は、いま使っている軽自動車の車検の期限が来たら、自動車は止めると言っていた。もう運転は危ないので、そのほうがよいが、かなり不便な生活になるだろう。

おれがここで暮らすようになったとき、いちばん困るのはWeb環境だったが、最近WiFiが利用できる環境が整ったので、カネの問題を除けば見通しはたった。奥地は、ケーブルより無線か。

昨年末、今年発行予定の、四月と十月文庫『理解フノー』の編集を担当していただいている成合さんから、すでに『四月と十月』に連載の原稿は約30ページぐらいにしかならないと連絡があった。薄い120ページでまとめるにしても、あと90ページ分ぐらいは書きおろしになる計算。枚数にして400字150枚ぐらいか。怠けないで、ボチボチ書いていかなくてはならない。

還暦のときから、自分の干支など意識したことがなかったが、今年は未だそうで、おれは年男の72歳なのだ。

出版デビューの『大衆食堂の研究』1995年から20年。

72歳も20年も、とくに感慨はないが。

明日の取材から、仕事が始まる。仕事から連続して新年会。

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2014/08/15

お盆休みと鈴木常吉ライブ@北浦和クークーバード

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10日は台風の影響で一日中風強く雨模様だった。11日は朝から風は強いが晴れた。10時半ごろ家を出て熊谷、秩父鉄道経由で秩父、バスに乗り換え、小鹿野町で買い物、山奥の家に着いたのが16時ごろだった。

掃除をして風呂に入り、あがってアジのなめろうを作ったほかは、まいどうまい七平とうふの冷奴、畑のトマトやキュウリを切っただけ、酒を飲み始めた。

ビールのあと、焼酎を農協の売店で買ってきたカボス100%ジュースで割って飲んでいたら、どんどん飲めた。泥酔記憶喪失のまま寝てしまった。

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12日朝方、寒くて目が覚めた。夏掛け一枚では足りず厚い布団もかけ、寝なおした。天気は一日中雨。雨脚が強くなったり弱まったり。谷川の水量が多く、ごうごう音が響く。家がある谷間は、靄がかかったようにぼんやり、山肌を霧がたなびく。寒くて長そでシャツと長ズボンに着替え、ごろごろしながら、酒を飲み、うどんを冷汁で食べる。ようするにクウネルノム。夜は夏掛けに厚い布団を掛けて寝た。

13日は晴れた。クウノム、ただそれだけ。七平とうふの冷奴、畑のトマトやキュウリ、畑のゴボウとニンジンのキンピラ、ミョウガやナスやオオバの天ぷら、冷汁うどんなど。

029天気がよいので家の周辺をぶらぶら。すぐそばの沢は、いつも干すことはないが、たいがい水がしみるていどに流れているだけなのに、めずらしく「流れ」になっている。沢ガニが棲んでいるのだが、流されてしまったかもしれない。

この沢の上に、この家の自家水道の取水槽がある。家の前の谷川をはさんで、こちらと対岸では地質がちがうので、水質もちがう。こちらは軟らかく、対岸の水は硬い。

昼すぎ、「お盆さま」を迎える準備。このあたりの家は、地所のどこかに芭蕉が植わっている。この家の場合は、前の川原の一段高いところにある。その葉を二枚切って、さらに両端を切り落としサイズ形を整え、仏壇の前にテーブルを置き、その上にひく。写真やお供えを飾り、迎え火の準備ができる。

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昔は、15日の送りのときに、飾りを片づけ、いらなくなったものはこの葉に包み、しばって前の谷川に流したらしい。

「お盆さま」を迎える準備が整ったところで、14時過ぎのバスに乗って帰って来た。

きのう14日は、北浦和クークーバードで鈴木常吉さんのライブ。20時スタートだったが、開店の18時過ぎに行って、すでに飲んでいた常さんとおしゃべり、終わったあとも常さんとおしゃべりしながら飲み、たっぷり楽しんだ。常さんのうたいっぷりは快調だった。最後のアンコール?Summertimeのカバーもよかった。これでお盆休みも、オワリ、という感じ。

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2014/01/18

遅まきながら年末年始。

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ようやく「ブログ始め」ということになる。本年もよろしくお願いいたします。

とりあえず備忘メモ。

年末年始の休みは、例年のように、秩父の山奥で過ごした。最近は12月31日に行って1月2日に帰ってくることが多かったが、今回は30日に行って2日に帰ってきた。いつも元旦といっても雑煮をつくる習慣はなく、とにかく、打ってもらったうどんやそばなどを食べて飲んで過ごした。標高600メートルの谷底で、前の谷川には氷が張っている年が多いのだが、今年はナシ。おだやかな日和の年末年始だった。

昨年の夏に行ったとき、家のまわりに植えてあったコンニャクが収穫され、外の竈で大量にコンニャクが作られていた。これをさっと煮付けたのがうまいのだ。

玄関前や、いたるところに鈴なりに実がなる南天が植えられていた。その実のつき方が、これまでの南天とは違ってみごとで、見応えがある。家人に聞くと、下の方の集落の人が、京都から種をもらって来て植えたものらしい。その人は、これを「ニュービジネス」にしているようだが、東京のやんごとなき人びとのあいだでも評判がよいとか。衰退一方の山間の集落にも、才覚のある人がいるし、才覚しだいでやりようがあるものだと思った。

しかし高齢化と迫り来る死による人口減への対処は難しい。この家の老夫婦も、しだいに身体が弱っていて、日々の買い物も、これまでのようにはいかない。すると、そこにまたあらたな需要と供給の関係が生まれるわけで、このあたり孤立化しつつある家々をまわり、用を足す役割をになっているのが、牛乳配達の人らしい。上の方の集落、かつて10戸ほどあったのに今では3戸だけになってしまい、山地にばらばらになって、その上歩くのも困難な人が残っている。そこでは、この牛乳配達の人が、回覧板をまわすことまでやっているそうだ。

013すでにこのブログで書いたように、昨年読んだ『オオカミの護符』がいろいろ刺激になり、この家にある「お札」が気になっている。つまり、「お札」は、かつての暮らしのネットワークの存在を示すものなのだ。これからよく調べたいと思っている。写真は、台所の荒神様で、この背後窓の外にはコンニャクを炊いている竈がある。ほかにも、玄関などに、ちがうお札がある。

以上、年末年始の秩父のこと。
書き落としていることを、少し遡っての主なことだけを以下にメモ。

11月21日19時から、東中野のパオに、以前の企画会社でおれの「配下」だった連中が集まった。ふとしたキッカケでそうなったのだが、すぐ連絡がとれた連中だけ、ノムラ、マコト、ユウタ、ジュンコ、ギンコ、ナオコ。ノムラ、ユウタ、ジュンコは、顔を合わせるのが30年ぶりぐらいだろう。かつて、おれは30代後半から40、かれらは20代後半から30ぐらいの時代に出合った。もう周囲から見るとメチャクチャなことをやっていたのだけど…そういうメチャクチャな話をしながら、楽しく過ごした。

パオは、第1回の大衆食の会をやったところだ。そのときの屋根からパオの屋根が突き出していたボロ家は立派なビルになり、「遊牧民」か「浮浪者」の集まりのようなパオの店は続けられるのかと思っていたが、行く度に充実、大いに繁盛するようになった。昨年の7月ごろには「孤独のグルメ」にも登場し、大混雑が続いているとか。ビル最上階には、バーまで開業。けっこう、けっこう。

ザ大衆食のサイトにある「パオ」のこと…クリック地獄

12月2日。18時から、高田馬場で宮崎さん西垣さんと新企画の打ち合わせ。その前、17時に高田馬場駅そばに事務所のあるユウタとおしゃべり。

13日。19時から日暮里「又一順」。一昨年脳梗塞で倒れ三途の川を渡りかけながらもどってきた塩山さんが、飲酒も解禁になったというので、ナンダロウさんの呼びかけで「解酒会」。仙台からいがらしみきおさんも駆けつけ、10名ばかりで楽しく飲んだ。塩の字は、かつてのような毒舌罵詈雑言の勢いは衰え、好々爺のようにうれしそうにしていた。

14日。わめぞの忘年会。池袋の「東京大中華街」って名前だったかな?まあ、とにかく飲んだ。飲んで、朝までカラオケに付き合い、朝帰り。

16日。新宿で、珍しいというか初めての顔合わせというか、柳瀬さんコーディネートによる、男2人、女2人の飲み。「みのる」で待ち合わせ、「玉蘭」から「フロイデ」。

19日。「路地と人」でアキリカさんとトーク。この件については別に書く。後日、いつになるか。

22日。亀有で野暮連どもと飲み。後日、別に書く。

26日。17時から、新宿の鼎。ホリオカさん、ササキさん、オオハシさん、初対面のタカハシさん。2軒目は「フロイデ」。5人だったので、30年ぶりぐらいで、一つだけのボックス席に座った。フロイデで、すごく面白いよいことがあったのだが、書いていると長くなるので、省略。

29日。野暮酒場で野暮な忘年会。

昨年末28日になって、1月6日に原稿20枚弱の締切を知らされる。その6日に仕上げるべく書いていると、ギンコから電話があって、見留が12月31日に亡くなって、7日がお通夜で8日が葬式だという。原稿を書いていた集中が途切れる。

心臓の替わりにペースメーカーを入れ、いつ死んでもおかしくない男だったが、11月ごろには、イタリアなどに出張して、その後も京都など国内出張が多いようだったが、ペースメーカーのほうが疲れなくていいよ~、とか言っていた。享年61。

生まれつきの、いわゆる「心臓奇形」で、かれが20代後半でおれの「配下」になったときから、仕事も酒も山もスキーも、のちにはかれが社長をやっていた会社も一緒につくるなど、行動を共にすることが多かったが、その間に何度も発作がおきて寝倒れていた。よく生き抜いたといえるだろう。離婚再婚もやったし、再婚後は、子供3人も育て上げ。

とにかく、7日は早朝に6日締切の原稿を送り、お通夜、鎌倉へ行く。死者の引き合わせ、ギンコのほかに、オウサカさん、ハギワラさん、ヤマウチさんなど、ひさしぶりの連中と会い、話がはずんだ。ここで、神山さんが、見留が亡くなる前、27日に亡くなっていたと知る。なにしろかれは「火宅の人」だから葬式も難しかったようだ。60歳半ばだったかな?酔って風呂で死んでいたのだ。あのバカ、バカな死に方をしやがって、と…、ギンコとハギワラとヤマウチとおれ、通夜の席にしてはわれわれだけ見留や神山を偲ぶににぎやかすぎるので、ヒグラシ文庫へ移動。湘南新宿ライナーの最終で帰った。

10日。鶯谷の「信濃路」で19時から飲み会。おれを含め男2人と女4人。元気のよい女4人に圧倒される。

11日。小岩の「野暮酒場」で、18時から。「新春初笑い企画、大衆食堂の詩人・エンテツさん出演の怪作DVD『全日本オヤジ選手権』鑑賞会&トーク」ってのがあった。クダラナイことこのうえないDVDを見るために集まったモノズキたち。近頃、野暮酒場にも新顔が増えている。しかも東京の西から、この東の端まで来た人が3人もいた。なんというモノズキだろう。二次会までシッカリ飲んで、泥酔帰宅。

とりあえず、以上かな?ほかにもいろいろあり、この間に小まめに飲み小まめに仕事をしていた。今週あたりからは、早く取り掛からなくてはならない新企画もあり、ドタバタ続き。

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2013/08/25

お盆帰りのち再校ゲラ。

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世間がお盆休みのあいだは本の初校をやっていて、もどしは18日必着だったから、18日午前中に着くよう16日の深夜にコンビニから宅急便で発送した。

再校が出る前に、秩父の年寄りの様子を見に行ってこようと思い、20日に出かけた。その前に、「四月と十月」に連載の「理解フノー」の締め切りが20日だったので、仕上げて送った。

20日出がけに、スソアキコさんから宅急便メールが届いた。開封したら、以前にスソさんと瀬尾さんと協力出演した、NHKの海外向け番組「BEGIN Japanology」の古墳のDVDだった。4月18日に放送になったらしいが、すっかり忘れていた。それと、内澤旬子さんが「考える人」に連載中の「馬」の2回分のコピーが入っていた。「馬」は、スソさんオススメで、初回のコピーもいただいて読んだ。スソさん、身体のぐあいがよくないはずなのに、すみません。それを、そのままバッグに突っ込んで、家を出た。

「馬」は行きの電車のなかで読んで、DVDは向こうに着いてから見た。古墳の番組は、さすがNHKというか、しっかりつくられていた。ピーターバカランが案内する、ちゃんとした日本の古墳の紹介で、後半で、おれたちだけが何故か国民代表みたいに唐突に登場し、勝手なことを言っているのが、オモシロイ。内澤さんの「馬」は、頼まれたままどうやって書こうかと考えていた原稿の、よいヒントになった。

012_2秩父の家は、行くたびに、家の近くが「畑化」している。おやじは80過ぎだし、トシをとって身体のぐあいも万全じゃないから、肥料や水を担いで険しい斜面を登って畑へ行くのが辛くなっているのだろう。家の近くの少しでも平らな場所に、いろいろな野菜が植えてあるのだ。

縁側先の庭の花壇だったところは、大豆ときゅうりが植えてあった。ひょうたんの棚だったところには、かぼちゃのつるが這い、実って落ちそうなかぼちゃを発泡スチーロルの箱で支えていた。山側の以前は何かの木があったところは刈られ、こんにゃくが生っていた。

金銭のこともあるが、買い物には、クルマで片道30分はかかる。もとから野菜は自給体制が基本だったから、習慣もあるのだろう。本人たちは、こうした山間の厳しい生活を、さほど気にしていない。一番よいところに住んでいると思っていて、選挙になると、20戸にも満たない「集落の発展のために」大いに張り切る。9月には、町長選挙があると言っていた。いわゆる「政治意識」は高くはない。選挙は、政治ではなく、暮らしなのだ。これが望ましい民主的な生活であり、望ましい民主主義であるという感じがしないでもない。

016帰ってきて、きのう23日、再校のゲラが届いた。行く前からメールでやりとりがあったのだが、当初、おれが原稿を書いていたときのタイトルは、出版社の編集長と営業によって蹴られたので、「対案待ち」だったが、それもやっと決着ついた。

なにしろ、おれが書いていたタイトルではヨワイというのだ。ってことで、チョイと大げさハッタリが強すぎやしないかと思われるタイトルになったが、「誇張はあれど嘘はない」という感じなので、ま、カバーまわりはセールスプロモーションツールだからと思い、まかせた。こちらは、数千の初刷りのまま、一度も重版がない身だし、あちらは、基本10000部の本を毎月何冊も作り売ってきている実績からくる自信と勘があるらしいのだ。

そして、発行部数は、これまでになく多い。いいのか、という感じだが、のっかってやりぬくしかない。「商品開発」は、本だろうが、なんだろうが、同じだ。それでよいのだろう。

チマチマせずに、大きく、粗っぽく、ってのは嫌いじゃない。近頃は、読者(お客)をチヤホヤするように、わかりやすくチマチマ丁寧に、細かいかゆいところに手が届くような文章(サービス)が、アタリマエという傾向が多いから、おれのようなヘソマガリは、抵抗もしたくなる。そんなところで、大人になる必要はないね。自立的な大人を相手に商売しよう。なーんて、言っていると、また売れないことになるか。

そういうわけで、コツコツ再校に向かっている。再校が終われば、8月も終わりだ。

当ブログ関連
2013/02/24
NHKの番組のため古墳部活動。

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2013/01/06

2月3日のトークの予約受付が始まりました。

ああ、もう6日になってしまった。

今日から、2月3日に開催の「鬼子母神通りみちくさ市2013・プレイベント」、『みんなで決めた「安心」のかたち―ポスト3.11の「地産地消」をさがした柏の一年』(亜紀書房)刊行記念トークの参加予約受付が始まっています。

2月3日(日)13:15~17:00。この本のメイン著者である五十嵐泰正さんをホストに、1部のゲストが開沼博さん、そして、2部のゲストがおれなのです。

1部のタイトルが「断絶と無関心を超えて」、2部のタイトルは「「いいモノ」食ってりゃ幸せか?」と、もうタイトルからして過激な硬軟両極端で、おれがゲストなんて間違っているんじゃないか、と思う人がいるかも知れないが、そこが、ま、みちくさ市を運営するわめぞらしくもあり、五十嵐さんらしいところでもあるのだな、ってことにしておいてもらいたい。

1部と2部の間には、〈柏産柏消〉セッション!「おいしい野菜は、こんなにすごい! 14:45~15:15」ということで、「安全・安心の柏産柏消」円卓会議参加の農家さんによる、「農家という生き方」と「おいしい野菜」の紹介です! 野菜を使ったメニューの試食もあるかも?」だそうです。

お申し込みなど詳細は、こちら。よろしくお願い申す。いや、実際、このトークイベントは、めったにないものになるでしょうぞ。
http://d.hatena.ne.jp/wamezo/20130203

当ブログ関連
2012/12/23
人間はどうやって社会的に食べているのか。
2012/12/02
忙しくても、これだけは、『みんなで決めた「安心」のかたち――ポスト3.11の「地産地消」をさがした柏の一年』。

001昨年末にさかのぼる。25日の「クリスマスは、今年最後の打ち合わせ。」で、仕事はすべて片付いたと思っていたら、急ぎの仕事がふってわき、28日は御徒町へ、30日は資料を求めて雨の中を西日暮里から古書ほうろうへ、都内へ行ったついでに、この日が最終営業の小岩の野暮酒場まで足をのばした。

31日、まいどの秩父の山奥へ行き、大晦日と新年を迎える。2日に帰り、3日に急ぎ仕事の某プロモーションの企画書作成が4日まで無事に終了のち大宮へ。野暮連の新年会が、いづみや16時集合なのだ。タノ、シノ、アリマ。18時少し前、東大宮のちゃぶだいへ移動。奥のちゃぶだいの部屋に陣取り、白菊と澤姫の樽を飲み放題コース1500円にジャンプイン。コン、サキ、キムラが加わり、賑やかに、わけわからん状態。たぶん22時ごろまで飲んだのではないかと思う。とにかく飲んだ。泥酔記憶喪失帰宅だった。料理写真は、ちゃぶだいのおせちお通しセット、うまかった。

ま、今年も、かなり野暮な年になるでしょう。

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2012/08/20

カントリーロード、どこへ行く。

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町からバスに乗って向かった先は、秩父の奥、山峡の集落。曲がりくねった道が、峠を越える。わずかな平地の道路沿い、普通の民家に混じって、床屋、豆腐屋、食料品店、民宿に鉱泉宿など。

030103_wakui1そこにはかつて小さな酒蔵があった。覚えているさ、知る人ぞ知る「慶長」という酒を造っていた。江戸期から続く和久井酒造が廃業したのは、2008年のこと。屋敷は、そのまま残っている。手入れもされているようだ。バスの中から写真に撮った。ついでに、まだ酒を造っていたころの写真も載せておこう。たぶん2003年ごろだ。ああ、あのころはまだうまい酒を造っていた。

014すぐに人家は絶え、バスは急なカーブの坂道を登る。高度を増す左側の車窓には、放水中のダム。巨大な立小便。合角ダムが完成したのは、いつだったか。10数年以内のことだ。ああ、そうだ、おれが初めて来たころは、まだダムは無かった。それから、ダムの底に沈む家が退去して、工事が始まり完成した。ダムの水は都会生活の役に立つ計画らしいが、都会では水は足りているという話もある。

一車線だった県道の拡張工事も始まった。工事は、まだ続いている。広い立派な道路が出来ていく。どんどん人が減っていく。ダムから上は、「平地」といえる所はわずかだ。山峡の谷川沿いに、10数ほどの集落が点々とある。1つの集落につき10戸から20戸か。かつては林業が盛んだった。道路の拡張工事は続いているが、子供たちが通う小学校も中学校も無くなった。

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バスの後ろの窓から振り返ったら、新しい道路のトンネルと並んで、谷川のそばに、つい最近廃道になった昔の手掘りのトンネルが見えた。その向こうには、廃校の中学校舎。そんなに古くない鉄筋コンクリートだ。手掘りのトンネルは新しいトンネルと比べると小さいが、大型のバスもトラックも通っていた。バスには、子供たちがにぎやかだった。ああ、わずか10数年のことさ。

10数年前、「○○の発展のために」と、「○○」は集落の名だが、何かというとそんな声が聞かれた。いまじゃそんなことを口にする大人はいない。大人は、たいがい70代80代だ。ただジッと、来し方を振り返り、あるいは自分のイノチを見つめ、未来は語らず。

山峡の集落がイチバン「景気」がよかったのは、江戸か明治か。馬だって、立派な財産だった。昭和、戦死者の墓が増えた。それでも、いつだって生活は楽じゃなかったが、子供がいて、未来を語ることができた。山地は耕され実り、林は手入れされ育っていた。「○○の発展のために」と胸を張っていえた。ついこのあいだまでは。谷川で、もぐって魚をつかまえる中学生もいたが、どこへ行ったのだろう。

この道は、どこへ続くのだろう。何かの終わりか、何かの始まりか。

(やや、感傷的に)

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2012/08/17

キンチョールな山峡のお盆。

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まいどの、お盆。14日に出かけて、昨日の夜帰ってきた。行った先は、何度も当ブログに登場している、同じ埼玉県の秩父地方、標高約600メートルの谷底の集落。

7月に、ここの80歳の主が手術入院したので、町の病院までは何度か往復しているが、当家までは正月以来。主は、今月の7日に退院して、まだコルセットを付け杖をついて歩いて、体重は47キロから43キロに減ったそうだが、クルマは運転しているしビールは飲むし、ま、順調のようだった。

涼しいところで、もちろんエアコンはない。食って飲んでは昼寝三昧。寝ていると、蝿や蚊はいないが、虻が多い、ほかに蜂やもろもろの虫が身体の周りを飛び交う。なので、昼寝にはキンチョールが手放せない。田舎な夏はキンチョールってわけです。

昨夜帰ってきて、下界の暑さに、まいっている。今日は、これまで。

そうそう、25日の久住昌之さんとのトークは、来週末に迫った。予約の残席は10ぐらいらしいので、早めにお申し込みください。
http://aioibooklabo.com/event_wagamama.html

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2012/07/28

秩父まで「特定疾患」の手続きに。

Dscn1050一昨日、義父の「特定疾患」の手続きに必要な医師の書類が出来たとの連絡が病院からあったので、昨日は、それを受け取って手続きをすませた。

朝7時半すぎに家を出て、大宮で高崎線に乗り換え、熊谷から秩父鉄道で秩父、秩父からバス40分といういつものコース。熊谷に着いてみたら、一番早く秩父に着く電車が30分ほど待つ急行。急行券一律200円。この車輌は、どこかの鉄道のお下がりで、あまりスピードは出ないが、シートがよい。なので、旅気分を楽しもうと、ニギリメシとサンドイッチと缶ビールを買って乗り込んだ。結果、よく食べておいたのが、よかった。やはり、バテないためには、食っておくことだ。

バスを降りて病院まで歩く間も、盆地の町は、日差しも照り返しも厳しく、皮膚が痛いほどだった。病院に着いたのが、11時ごろ。受付カウンターで医師の書類を受け取り病棟へ。手術直後は個室だったが、順調に回復し、4人部屋に移っていた。患者は3人。義父は窓側のベッドの上に座り、そばに義母がいた。すでに出来上がって置いてあった、ほかの書類を持って、食堂へ行き、テーブルにぶわっと広げて、チェックと不足の書き込み。

病室にもどっておしゃべりをしていると、義父と幼なじみという同級生の婆さんが見舞いに来た。あれこれおしゃべりに付き合う。12時になると、患者の食事の時間になる。もう歩けるので、食堂まで自分一人で食べにいく。見舞いの婆さんは、それを潮に帰り、おれも12時30分すぎのバスに乗って秩父にもどり保健所へ書類を出しに行くので、少ししてから退出。義母は13時すぎのバスで、町からさらに40分ほどの奥地の自宅へ帰るという。

保健所へは一番近いバス停で降りて、10分ほど歩く。ジリジリ暑い。保健所のなかは、冷房が効いていて、生き返った心地。応対の係の女の方は、それなりに丁寧で親切だった。細かい直しをいわれ、書き直し、直したところに訂正印を押す、3枚複写なので、それを繰り返す。医師の書類に、記入漏れがあった。おれでわかることもあったが、とうぜん医師でないとわからないこともあって、それについては係の女の方が、あとで問い合わせてくれることで、めでたく受理となった。

「特定疾患」の認定は、このあと9月7日の審査会で正式に決まるが、決まれば、この受理の日まで遡って適用され、つまりこの日以後払った費用は、あとで還付になるのだ。ってことで、手術代もそこに含まれるので、やれやれ、なんとなく気がかりだったことが片付き、ほっとする。

しかし、こんなにいろいろな書類を揃えて、ややこしい書き込みをしなくてはならない手続き、家族がいない年寄りは、大変だろうし、出来ないですましているひともいるのではないかと思う。だいたい、病名を聞いただけでは、医師が教えてくれなければ、特定疾患なんて知らんもんね。

帰りは、保健所から秩父駅まで20分ほど歩くが、暑くてもバテた気分はない。やや上りの坂道を勢いよく歩き、駅に着くと10分ほどで熊谷行きがあり、東大宮に16時ごろ帰り着いた。まずは、大いに食べて飲もう、といってもこの時間では餃子の満洲しか開いてないから、ギョウザ、ニラレバ炒め、ラーメン、生ビール二杯飲んで、これにて手続きは「打ち上げ」一人御苦労様会。

家に戻って、もう一つ、壊れた冷蔵庫の新品との交換日がいつなのか気になるので電話をすると、日曜日の29日に持って来ることになった。

秩父鉄道に乗っていて気づいたこと。ソーラー発電パネルを屋根にのせている家が増えている。てか、以前は、ほとんどなかったが、ずいぶん目につくようになった。デモとは違うが、それに実質的だが、これも「脱原発」か。だけど、けっこう投資がいるから、貧乏人には難しい。貧乏人は、高くなる電気代や消費税に耐えながら、デモやるしかないか。

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2012/07/21

あの昔の切符を何と呼ぶのか。熊谷は池端のナポリタン。

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ここ東大宮から義父が入院の町立病院へ行くには、大宮で高崎線に乗り換え、熊谷から秩父鉄道で秩父駅、そこからバスで40分ほど。秩父鉄道は単線で、一日に何本か、急行が走っている。めったに出合わないのだが、18日は往きも帰りも、ちょうどよいタイミングで利用することができた。

あらためて気がついたが、秩父駅からのローカルなバスでさえスイカが使えるのに、秩父鉄道は昔の厚いボール紙の切符を使用している。古い作り置きが、よほどたくさんあるのだろうか。自動券売機は、よくある薄い用紙だが、急行を利用するときは、自動券売機では扱っていない急行券を窓口で乗車券と一緒に買う、するとどちらも昔の切符なのだ。

この切符を手にしただけで、どこか遠いところへ旅する気分になる。「遠いところ」というより、この切符が、どこでも普通であったころへの、遠い時間の旅とでもいうべきか。

熊谷は、何度も乗り換えで利用しているが、駅ビルから外へ出たことが、2度ぐらいしか記憶にない。関東平野のように茫漠としたイメージだ。しかし、ここは埼玉県北部の都会で、南部の大宮や浦和とは異なる独自な文化の色彩を持っている。ってことは、まあ、いいや。

18日の帰り、熊谷に着いたのは21時半ごろだったと思う。とにかく、朝から暑かったし、手術を待つのもくたびれることだし、空きっ腹を抱えて熊谷までたどりつき、ここで何か食べようということになった。で、行った先が、熊谷の愛人の周囲で評判の、『池端』という居酒屋だ。愛人が行く店に妻と行くのは、いかがなものか、ということは一切考慮になく、とにかくそれほど評判の店なら、行って見ようじゃないかと。

ここは、熊谷駅のナントカという駅ビルから出てすぐのところにある。ちょいと小路を入ったところに、落ち着いた大人の佇まい。食べログには「新和食 池端」とあるように、建物も店内も純和風とはちがい、オーク材風を使ったモダンな雰囲気なのだ。

メニューを見て、どうやら鮮魚料理が得意らしいと思われたが、なにしろ疲れた身体はコッテリ系を要求しているし、そういうメニューも揃っている。鮮魚中心全方位メニューという感じであり、そこで目に止まったのが、「ナポリタン」だ。ナポリタンに、カッコで「青春の味」とある。そこで、フン、青春なんか関係ねーよと思えば、あるいは鮮魚料理を注文することになったかも知れないが、逆に、おおっ青春の味!いいじゃないか、となってしまった。それに、チーズオムレツやらもう一品、いずれもコッテリ系。

とにかく暑いから生ビールが、うまい。

Dscn1039青春の味、ナポリタンは熱い鉄板にのって、しかも鉄板の上には溶いた玉子を引いてナポリタンを盛ってある。つまりナポリタンを食べると、その底に薄く玉子焼きになった玉子があるというぐあいなのだ。このナポリタン、よくあるナポリタンより麺が細い。これは珍しいねと写真に撮ったのだが、ちょっとわかりにくいな。

働き食べる大人たちへの気配りが感じられる空間。お客さんも、テーブルを囲む同じ会社の仲間らしい6名ほどや、労働のあとカウンターで一人一杯やって食べて帰る男たちという模様。労働とくつろぎ。

働く食欲のためか、出てきた料理は、みな量が多い。味も濃い目でうまいのだけど、けっきょく、ナポリタンは食べきれなかった。

焼酎もポン酒も、いろいろ揃っていた。最後は、お店の方がサービスで出してくれた枝豆で、土佐鶴を一杯飲んだ。この酒も、なみなみたっぷりに注いでくれる。

熊谷は、気前がよい街なのか。お店の方も感じがよかった。

気分よく、高崎線に乗って、大宮で宇都宮線に乗り換えて、帰ってきたのでした。

こんど行ったときは、必ず行くだろうが、まずは鮮魚料理を食べよう。

埼玉は海のない県だが、海から離れているほど鮮魚料理への執着があるともいわれる。坂口安吾が、かつて彼が暮らした、足利だか桐生だったかな?寿司屋が多いと書いていたが。そういうものかも知れない。

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