2020/10/19

料理や食事と、エンジニアリングやブリコラージュ。

食をめぐって自分が考えてきたこと、つぎつぎに出現するさまざまな言説などが、頭の中で整理がつかない状態で、癌に突入した。

その治療の考え方と方法が、なかなかおもしろくて、刺激を受け、頭の中の整理が、糸口をつかんだていどには進んだ。

そのことについて、ちょっとだけ備忘のメモをしておきたい。

ひとつは、「ぶっかけめし」について、とくに今世紀になってから、くっきり見えてきたことがあって、『ぶっかけめしの悦楽』や『しるかけめし快食學』のレベルから、もっと掘り下げる必要があると思っていた。

ひとつは、藤原辰史の『ナチスのキッチン』や『分解の哲学』に述べられている核心を、食生活や食文化のレベルでおれなりに納得がいく理解をしたいということがあった。

もうひとつは、久保明教の『「家庭料理」という戦場』が提起していることを、やはり、学問の業界に身を置いていないおれなりに突き詰めてみたいということがあった。これには、山尾美香が『きょうも料理』でしている仕事もからむところがあって、それは「ようするに家庭料理ってなんだ」ということなのだ。

おれは、すでに何度か述べているように、「家庭料理」という言葉に違和感を持ちながら使ってきた。どうも、この言葉が、日本では、といったほうがよいか、料理をわかりずらくしてきた、つまり楽しみにくくしてきたのではないかという疑いがある。

それやこれや考えていたのだが、おれの癌の治療を当事者あるいは傍観者として見ているうちに、あの、例の、「エンジニアリング」と「ブリコラージュ」という言葉が浮かんだ。

主治医と、治療の考え方や方法、CTやMRI検査の結果の検討など、いろいろ話しているうちに、ああ、身体のことや病気のことや治療のことなどは、エンジニアリングとブリコラージュの思想や方法が関与しているのだなと思ったのだ。

それは矛盾の関係でありながら、相互補完の関係というか、そのあたりはまだ書けるほど理解はしてないが、どっちが正しいかという問題ではないのは確かだろう。

食事や料理についても、身体と深い関係にあることだし、エンジニアリングとブリコラージュの思想や方法から見ることが可能のように思えてきた。

このブログで前に、「ロスト近代」がなんじゃらかんじゃら書いていたが、そのときの25年単位でいくと、ここ25年のあいだに、ブリコラージュな料理や食事が広がり、それなりの位置を占めるようになった。

「和洋中」という、エンジニアリングな近代を背負った食事と料理が大勢を占めていた中で、80年代から少しずつ「エスニック料理」や「インド料理(エスニック料理に含まれるけど)」などが広がり、いまではスーパーの売り場まで変える状況で、単なる流行現象といえないほどになった。このことがブリコラージュな食事や料理の広がりと大いに関係がありそうだ。

そこには、ちゃんと「ぶっかけめし」も位置しているのだが、おれは江原恵の見方を継承し、美味追求の二つの型、つまり「複合融合型」と「単品単一型」にわけ、ぶっかけめしを複合融合型としたのだけど、そこにブリコラージュの思想や方法を見ていなかった。というか、見る知識も能力もなかった。

単品単一型はエンジニアリング的であり、複合融合型はブリコラージュ的である、と型にはめることはできない。そこに、どんな関係があるか、なのだ。

ひとつの思い付きだが、当然のことだろうけど、「マーケティング料理」になるほどエンジニアリングの思想と方法が幅をきかす。「マーケティング料理」とは「商売料理」を「ロスト近代風?」に言い換えてみただけだが。マーケティングは思想も方法も、エンジニアリングの申し子のようなものだ。

マーケティングされてない料理というのがあると思う。たいがいの「家庭料理」は、そのはずだ。大衆食堂の料理にも多い。

ここで気になるのは、「レシピ」ってやつだ。レシピは、エンジニアリングの思想と方法の第一歩なのではないか。つくる人の試行錯誤や繕いを、できるだけ取り除いて成り立つ。

レシピにしたがってつくられたものを、そのまま食べる、これは「単品単一型」にはありがちだし、食べ方をはずすと行儀が悪いだのなんだのってことにもなる。

ところが、「複合融合型」は、食べる人がごちゃごちゃ混ぜたりしながら食べるのが普通だ。仮にレシピに従ってつくられても、食べ方はブリコラージュ的といえるのではないか、それにつくる人も、それを前提にしているのではないか。

なーんてことを、あれこれ考えている。

おもしろい。

誰かが何かについていった言葉を、うろ覚えで借りて言葉を変えれば、料理とは、料理とはなにかをめぐる思考の移動なのだ。

2020/06/24
25年の節目と時代区分で、コーフン。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/06/post-bf6cef.html

 

 

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2020/08/24

「食べること」 ヨシカさんの場合。

2020/08/21「カフェ「食事・喫茶 ハナタカ」の場合。」http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/08/post-31d8b4.html では、「食事と喫茶 ハタナカ」について、客の一人である加藤のぞみさんはどう考えているかを紹介したが、店主のヨシカさんは食事について、どんなことをいっているか、どう考えているかについて書くのを忘れてしまったので、書いておく。

たとえばだが。

「ハタナカ」を開店する前に勤めていた会社で、ヨシカさんは孤独だったけど、篠宮さんという会社で一人だけ役職つきの女性と食事に行くようになる。その篠宮さんがあるとき、ヨシカさんが担当している地域に「雑誌に載っていた良さそうな洋食屋があるのだが、どういう感じか?」と訊ねる。

するとヨシカさんは「端的に、脂っこいけどしんどいときにいいですよ」と答える。

そして、篠宮さんは「実際に疲れている時に一人でそこに行ってみて、すごく良かったから、今度給料日に行こうよ」とヨシカさんにいう。

また「ポースケ」の当日の食事会に出す食事は、ステーキにハッシュドブラウンポテト、バターとグレープのジャムを添えたトースト、オレンジジュースか牛乳、ワインかコーヒーか紅茶、である。

ヨシカさんは、こういう考えで選んだ。

「ただひたすらがつがつ食べられそうなものを選んだのだった。食べて、端的に、明日の活力になりそうなイメージのものがいいと思った」「善良な小市民である自分たちは、それを食べて明日も生きるのだ」

客たちは、がつがつ、平らげた。

とかく、こういう食事や大衆食堂の食事などは、「男めし」などといわれたりした。おれも「男めし」という言葉を使ったことがあると思う。

だけど、働き、食べ、生きる生活に男も女もない。

その生活から食べ物だけを取り出して、品定めのようなことをしている習性の中では、食べ物に「男」や「女」といった属性を与えたくなるかもしれないが。

ヨシカさんは、そんな考えは持っていない。

「食べる」ことは「食べ物」だけじゃない。食べるワタシがいる、ワタシの生活がある。しんどいときには、それなりに良い食べ物がある。

働く生活には、それなりの良い食べ物があるし、「がつがつ食べる」ことも良いし、美しい。

ま、大衆食堂の食事なども、そういうことだ。

「食べる」ことから「食べ物」だけを取り出して、「飲食店」という実験室で味見をするように食べ比較し品定めをすることは広く行われていて、それがアタリマエのような雰囲気もあるけど、それは、メディアをめぐる消費の世間のことで、実態としては、今日も生き明日も生きる日々の暮らしでは、さまざまな「食べる」が存在する。

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2020/08/22

『ポースケ』 藤原辰史「縁食論」の場合。

ネット検索していたら、このブログでここ2日ほど続けて触れている津村記久子『ポースケ』について、藤原辰史さんの評を見つけた。

藤原辰史さんは、ミシマ社の「みんなのミシマガジン」で「縁食論」ってのを書いていて、その1回目が「飲みこまされる言葉と飲みこめる食べもの――『ポースケ』に寄せて」なのだ。今年の1月16日から前編、後編に分けて掲載されている。
https://www.mishimaga.com/books/en-shoku/001889.html

「津村記久子の『ポースケ』(2013年)という小説は、人間が主役ではない、と思った。主役はきっと小説の舞台、つまり、奈良の商店街のカフェ「食事・喫茶 ハタナカ」ではないか、というのが私の読後感である」と始まる。

「この小説の語り手がそれぞれの個性際立つ人間を描きながらも、それと同じぐらい細やかに表現しているのが、このカフェのふところの深さである」

「ふところが深いカフェ、というのはちょっと変な言い方かもしれないが、この作品にはあっているような気がする。社会に適応しづらい人間たちの存在を認めて、居させるそのふところの深さ、という感じだろうか。とにかく、食べるものではなく、食べる場所、もっといえば、その場所をめぐる人間たちの浅かったり深かったりする交流や接触が描かれている。このこと自体、子ども食堂が多くの子どもや大人の居場所を提供している昨今、興味がそそられる。そうした背景から、わたしは、『ポースケ』について一度じっくり取り組んでみたい、と前から思っていたのだった」

後編の最後で、こうまとめている。

「永続を目的とする人間集団は、それがいきすぎると生贄なり、排除される人間が必要となるが、ヨシカのカフェは、包摂と排除を意識しなくてもよい。カフェの原理は、無理に飲み込ませないこと。自然に飲み込んでもらうこと。自分が属する人間集団に無理やり何かを飲み込まされつづけている人びとが、じっくりと、やんわりと飲みものばかりでなく食べものまでも飲み込むことができる場所なのである。そして、食べものの嚥下に慣れたその喉に、たまたま飲み込みやすい言葉が通るアヴェレージが結構高い場所こそが、「食事・喫茶 ハタナカ」であり、縁食の場所なのだ。おそらく、そんなおいしい言葉しか、品定めの視線に網羅された社会を変えることはできない」

この指摘に、うなった。

ってことだけ、今日は書いておきたかったのだ。

「品定めの視線に網羅された社会を変える」には、という視点で、もう一度『ポースケ』を読み直してみよう。

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2020/08/21

カフェ「食事・喫茶 ハナタカ」の場合。

「何か口に入れるものを傍に置きながら、誰かの薄い気配を感じつつ、一人で何も考えずにじっとできる、という状況は、意識的に作り出さないと存在しにくいものなのかもしれない」「かつ、もし店にいる時に災害があったら、それなりに助け合えるような客層であること、そういうふうに呼びかけられる店の人間がいること。人は難しい。一人になりたいといつも思っているけど、完全に放っておかれるとかまわれたいと思う」

近鉄奈良駅から連なるアーケード商店街のはずれのほうにある「食事・喫茶 ハタナカ」の店主、ヨシカさんこと畑中芳夏さんは、そんなふうに考えている。

大阪出身で大阪の大学を卒業し、食品メーカーに総合職として就職した。成績のよい営業社員だったが、27歳のとき、偶然のキッカケもあって、辞めた。

大学4年間にカフェでアルバイトをしていたから、やるならカフェだと思っていた。

大学1年のときからの友人である長瀬由紀子さんの住まいが奈良にある。古くてボロの家だが広いので、ヨシカさんは、そこに数か月居候しながら、気に入っている奈良に出店する場所を探し、開店にこぎつけた。

ヨシカは、34歳になった。なんとか続けている。この先どうなるかは常にわからないのだが、これからも続けていくつもりだ。

「ハタナカ」は、どんなカフェだろうか。

たとえば、一人暮らしで会社員の加藤のぞみさんは、週に一度ぐらい「ハタナカ」で食事をする。

妙に頼りがいのある店主だと思っている。

「最初は、大きめのスコーンやパンケーキと、ポットの紅茶を提供してくれるということで店に入ったのだが、このところは、食事目当てで店にやって来ている」

そんなによく食べるわけではないのぞみさんにとって、「一食八〇〇円は安い値段ではないのだが、週に一度ぐらい、自炊をするのも外で何を食べるか考えるのもいやになった時に、ハタナカで夕食を食べている。小鉢はそこそこ凝っているものの、取り立てて健康指向でもおしゃれでもなく、どちらかというと男の人や子供のほうが喜びそうなメニューには、いつも懐かしいニュアンスの単純なおいしさがあったので」通っている。

「店主がこれと思った作り方をきっちりこなしているのだろう」と、のぞみさんは考えている。

「ハタナカ」は、「新しい食堂」なのだ。

昨日書いた、津村記久子の『ポースケ』を読み終えて、これは一つの食堂物語だなと思ったし、東京新聞の連載「大衆食堂ランチ」にも登場してもらったことのある、南浦和のむくむく食堂が思い浮かんだ。

『ポースケ』は、9編の連作からなっている。

1作目の「ポースケ?」は、「ハタナカ」の日常が舞台で、店主のヨシカがいて、とりまく従業員と客が、つぎつぎ登場する。

「ハタナカ」の店内には本棚があって、客や従業員が、好きな本や手作りのものなどを置いている。本は、名前とメールアドレスを知らせれば借りることもできる。ヨシカは、ふとしたことから、「ポースケ」というバザーのような文化祭のようなことを店でやろうと思い立つ。

「ポースケ」とは、店で話題になったノルウェーの復活祭のことらしいのだが、そこからの連想だ。

以下、「ハンガリーの女王」「苺の逃避行」「歩いて二分」「コップと意思力」「亜矢子を助けたい」「我が家の危機管理」というぐあいに、客か従業員が主人公や語り手になって話が展開する。

それぞれ、仕事や家庭や学校で、ややこしいことや面倒や屈託を抱えている。心身にダメージを受けて、2分の徒歩通勤もやっとの竹井さんは、「ハタナカ」のパートさんだ。

ささいなこと、小さなこと、ふとしたことが、つぎつぎに起きるし、そこでの言葉のやりとりが、思わぬことにつながっていく。たいがいの人の生活は、そういうものだろう。そういう中で、なにがあろうと、食べているのだ。

そして、8作目の「ヨシカ」は、ヨシカさんの独白のようなもの。

最後の9作目「ポースケ」は、祭りの当日だ。

最初の「ポースケ?」に登場した人々が、何かを持ち寄り、誰かを連れてきたり、みんなでワショイ、ポースケ。締めくくりの食事会、ヨシカさんは「ただひたすらがつがつ食べられそうなものを選んだのだった。食べて、端的に、明日の活力になりそうなイメージのものがいいと思った」。食事会の参加者は、「みんながつがつ、元気に食べていた」。

そして祭りが終わり、それぞれ帰っていく。

一日休んで次の日の開店まであと5分。

ふとしたことから、電車に乗り勤めることにした竹井さん。

まもなく「ハタナカ」を辞める竹井さんが、「厨房から外に出て、ドアの札をひっくり返す音が聞こえた」

「それまでと似ていて、けれども非なる、かけがえのない一日が始まる音だった」

そんな音が、どんな生活にも、どんな「食べること」にもあるはずだ。

食堂を舞台にした、生きること、働くこと、食べることが、ぎっしり詰まっている。

というか、「食べる」を語るというのは、こういうことじゃないかと思う。

「それまでと似ていて、けれども非なる、かけがえのない一日」と共にある日々の「食べ物」と「食事」を考えたい。

と、『ポースケ』を読み終えて思うのだった。

当ブログ関連
2018/08/31 スペクテイター42号「新しい食堂」。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2018/08/post-8f99.html

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2020/08/16

「食べることを食のマウンティングから切り離したい」

津村記久子の新刊『サキの忘れ物』(新潮社)を買ったのは7月3日だった。

この本が出ていることを知り合いから教えてもらって、早速買いに行ったのだが、おれが新刊の文学作品を急いで買うのは津村記久子のものだけだ。

好きなだけ本を買う経済的余裕がないこともあるが、とにかく津村記久子のファンである、といえるぐらいにはお気に入りなのだ。

といっても、新刊をこまめにチェックしているわけではないし、一冊も漏らさず揃えようという根性もない。

『サキの忘れ物』については、そのうち書くかもしれないが、『サキの忘れ物』を読んだら、第何次かの津村記久子マーイブームが勃発し、手持ちのものを再度再再度読んだあげく、昨日は図書館へ行ったついでに、『ポースケ』(中央公論新社、2013年12月)『とにかくうちに帰ります』(新潮社、2012年2月)『やりたいことは二度寝だけ』(講談社、2012年6月)を借りてきた。

『ポースケ』から読み始めているところだ。

今日は、そのことではない。

津村記久子でWEBを見ていたら、重要かつ面白い発言があった。

京都大学新聞のサイトに、「食べることを見つめなおす 藤原辰史さんと津村記久子さんがトーク(2015.11.16)」という記事があって、「人文科学研究所准教授の藤原辰史さんと芥川賞作家の津村記久子さんが「働くことと食べること」というテーマのもとで語り合った」というものだ。

そこで、津村記久子は、このようなことを言っているのだ。

「2人は、食べることに人間が余計な物語を付与することへの違和感を共有するという。津村さんは、「優位性を誇示する馬乗り」を意味する霊長類学用語「マウンティング」をもじって、料理に別の物語を持ち込むことが「食のマウンティングにつながっている」と表現。「食べることを食のマウンティングから切り離したい」と話した。藤原さんは「食育において、お母さんが和食を作り継承していくといったように食が家族の物語と結び付けられていることは気持ちが悪い」と語った。」

もう、ほんと、よく見かけるし、近頃ますますひどくなっている感じだ。書店の店頭をにぎわす「飲食本」と「嫌韓嫌中ヘイト本は、見た目は違うけど、「売れる」から出発した企画の本質は同じで、表裏ではないかという気がしている。

そういう「飲食本」には、私語りも含め、「料理に別の物語」を持ち込んだものが多い。売りやすい「飲食の衣」を着たエッセイという体裁で。

そうでなくても、メディアに関わっていると、上位や優位からモノゴトを語りやすく、それがマウンティングとなってあわられることも少なくない。なにしろ「食」は「格差」を含んでいることであるし。

「食べることを食のマウンティングから切り離したい」

ほんと、ほんと。

2人は「「食べることは楽しければいい。こうあるべきだという論から食べることを解放したい」と締めくくった」そうだ。

ほんと、ほんと。

今日は、このことだけを、忘れないうちに、急いで書いておきたかったのだ。

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2020/07/09

サラダ。

”「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日”

280万部ごえのベストセラーになった俵万智の第1歌集『サラダ記念日』で歌われたおかげで、7月6日は「サラダの日」といわれるほどになったらしい。

この本は、1987年5月の発行だった。

いまでは、サラダは、コンビニでも欠かせない主力商品だけど、その位置を占めたのは1980年代のことだ。

そのころおれは、大手コンビニチェーンの関東地区本部のマーケティングに関わる仕事をしていたのだが、80年代半ばぐらいから、商品としてのサラダが急成長した記憶がある。

その「サラダ」は、昔からあるポテトサラダやマカロニサラダのイメージではなく、生野菜を中心としたもので、「サラダ」といえば生野菜のイメージが一般的になっていくのだが。

サラダ市場が急成長した一つの要因は、20代の若い男たちが、「健康」や「おしゃれ」を意識して、食べるようになったことがあげられる。

この歌は、そういう背景があってのことだし、また、この歌のおかげで、サラダは日常の普通の景色になり、「文化」としての位置を固めたともいえる。

それまでサラダは、主には添え物であり、家庭でも外食でも「洋食」の皿に一緒に盛られているていどだった。あるいは小鉢ぐらいの扱いだった。サラダが別盛りの一皿になるような、いわゆる「西洋料理」は、一般庶民にとっては日常ではなかった。

若い男がサラダをムシャムシャ食べだしたころ、流行に鈍感な中高年の男の中には、そんなものは女の食うもんだろ、という感覚があった。こういうおれも、そんなものは女の食うもんだろ、とまではおもわないまでも、違和感をかんじてはいた。馴染みがない風景だったのだ。

いや、当の若い男でも、おれのチームにもいたが、ちょっとテレながら「身体にいいから」といいわけじみたことをいいながら、コンビニで買ったサラダボールをオフイスのデスクで食べていた。

サラダ単独を一つの器でムシャムシャ食べたり、サラダに「この味がいいね」なんてことは、この頃からなのだ。

その背景には、いろいろなことがからんでいるのだが、70年代からの「ポスト近代」の流れとしてみることができそうだ。

先月17日、津村喬が亡くなった。

彼の著作のなかで最も売れたし、影響力もあった、『ひとり暮らし料理の技術』は、1977年12月に風濤社から刊行され、その後、風濤社は倒産し、1980年7月野草社から発行された。

「サラダ変幻」という項で、著者は、こう述べている。

「福沢諭吉以来、健康食といえば牛肉ということで近代化が進んで来たが、高度成長に限界のみえてきた七〇年代には、ローカロリーのアルカリ食といったことがむしろ価値ある食物になってきた。サラダ文化というのもここから生まれた」

この視点は、単なる観念的な健康志向によるサラダのとらえかたと違い、なかなかおもしろい。

津村は、当時のレッテル貼りにしたがえば、「反体制」「左翼」「毛沢東主義」あるいは「カウンターカルチャー」といったことになるようだ。

実際に、著書でも、「食の自主管理」「〈根拠地〉としての台所」といったぐあいに、反体制活動家が好んで使った「自主管理」「根拠地」といった言葉が登場し、「ひからびた都会のジャングルの中で、本当の意味で自律的に自活していこうとすることは、ひとつの闘いだ。ひとりひとり、ゲリラ的に、自分の責任ではじめるしかないことだ」と、自炊をよびかけている。

食文化戦線においてゲリラ戦を展開する、チェ・ゲバラや毛沢東といったかんじが……なんておもうのは、おれのような年代だけか。津村は、おれより5歳若い1948年生まれ、いわゆる「団塊の世代」だ。

だけど、レッテル貼りして片づけられるほど、薄っぺらな内容ではない。

といった話をしていると長くなるからやめよう。

以前、書評のメルマガで「食の本つまみぐい」を連載していたときにこの本を紹介した。
http://entetsu.c.ooco.jp/siryo/syohyou_mailmaga389.htm

「食文化史的にみると、料理を生活の技術とする視点からの著述は歴史が浅く、1974年に『庖丁文化論』を出版した江原恵さん以後」は、と、この本などを上げている。

「自分の食生活を自分でうちたてていく見通しも努力もなしに、この都会が与えてくれるままの食物を受け入れるままになっていくとしたら、それはおそろしいことだ。食べるということは生活の基本であり、当然に文化の機軸だ」は、いまも変わらない、まっとうな考えだろう。

「自主管理」があってこそ、外食もいいものになるのだ、ともいっている。

津村の訃報にふれて、この本を本棚から取り出して見た。書評を書いたときには自分の未熟さから見落としていたことが少なくないことに気づいた。

現代の日本の食文化は、サラダ一つとっても、複雑な層をなしている。その深層を考えるときに、はずせない本だ。とりわけ、生活の視点からは。

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2020/06/29

「家事評論家第一号」吉沢久子。

2020/06/24「25年の節目と時代区分で、コーフン」(http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/06/post-bf6cef.html)以来、頭の中を、戦後の25年区分、「近代」「ポスト近代」「ロスト近代」が占拠している。

この区分の下敷きであり、かつ見田宗介の「理想の時代」「虚構の時代」をバージョンアップしたという大澤真幸の「理想の時代」「虚構の時代」「不可能性の時代」という区分も捨てがたい。

1945年~60年代後半 「近代」 「理想の時代」
70年代~90年代中頃  「ポスト近代」 「虚構の時代」
90年代中頃~      「ロスト近代」 「不可能性の時代」

こうして並べて、自分の経験と照らし合わせてみると、とてもイメージがわく。

とくに、この区分から台所を見たり、台所からこの区分をみたり、と、いろいろふりかえっているうちに、思い出すことが少なからずある。

すっかり記憶から抜け落ちていた人を思い出した。記憶は、アヤフヤなものだけど、あれほどメディア(おれの記憶にあるのは主に雑誌だが)に登場し活躍していた人でも、簡単に記憶から消えてしまうことに、自分でもおどろいた。考えてみると、自分も「生活料理」といいながら、この人に言及してこなかったし、近年の「家庭料理」や「料理研究家」などに関する著述でも、ほとんど見かけない。

いそいでWEB検索したら、なんと、昨年3月に101歳で亡くなっていた。失礼だけど、もっと昔の方のように思っていた。

この人は、「近代」から「ポスト近代」の「家事」や「家庭料理」あるいは「台所」を考えるとき、はずせない。

「家事評論家第一号」の吉沢久子だ。

「第一号」であることは、検索で知った。とにかく、「家事評論家」で活躍した。と、過去の人にしまってはいけない、90歳を過ぎてからの近年も、「家事評論家」として現役で、エイジング方面でたくさんの本を出している。

清流出版のサイト、「加登屋のメモと写真」には、このような記事がある。
http://www.seiryupub.co.jp/blog/2019/05/post-156.html

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 吉沢さんの略歴に触れておこう。1918年、東京都江東区深川のご出身で文化学院文科卒業。1941年に速記者から始まり、古谷綱武氏の秘書を務めてから出会ったことをきっかけに1951年に結婚。綱武氏が10歳年上だった。秘書時代は文化学院、東京栄養学院、東京学院に学んだ。生活に関することを経験に生かし評論家となったが、1969年に「“家事評論家”廃業宣言」と書き話題となる。

昭和30年代は「もはや戦後ではない」といわれ、日本経済が急速に発展した時期にあたる。一般家庭にも洗濯機や炊飯器が出回るようになり、女性は厳しい家事労働から解放されるようになる。吉沢さんの活躍の場が一気に増えた。どうしたら炊飯器でも、薪で炊いたご飯と同じように美味しく炊けるか、メーカーが工夫をする中でアドバイスを求められた。電化製品ばかりではない。新型の鍋や台所用品なども出回り、その上手な見分け方や使い方を実際に使ってみて体験的にアドバイスをするなどの仕事もしている。着実に家事評論家としての地歩を築いていった。
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古谷綱武のことも、すっかり忘れていたなあ。文芸評論家として、ずいぶん活躍していたし、人気もあった。離婚して、吉沢と結婚したのだ。

「女性は厳しい家事から解放されるようになる」は疑問だが、台所の近代化で、「吉沢さんの活躍の場が一気に増えた」ということは、近代化と「評論家」の関係をも語っているようで、おもしろい。

アメリカでも、「家事アドバイザー」をめぐって同じような傾向がみられるようだ。ということを合わせて考えると、「評論家」は、コマーシャリズム(商業主義)やマーケティングと親和性が高いといえそうだし、昨今の「評論家」などは、ほとんどの分野で、「癒着」といっていいほど、かなり濃密な関係にみえる。

2014年、96歳のときに出版した、『明日も前へ: 歳を重ねても楽しいことがいっぱいある』(PHP研究所)は、kindle版があり、ネットで部分的に「立ち読み」もできる。

そこから台所がらみを拾ってみた。

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第三章 台所こそ長生きの源です

毎日欠かさず立つ場所だから、「普通」が一番
ひとりで食べきれないものは作らない
ひとりサイズの食生活には、冷凍のワザを
骨董の器には不思議な包容力がある
台所用具を長く愛用する秘訣は、「自分に合わせていく」こと
手の力が弱ってきたら、道具を変えて対処します
ひとりの食事でも、だらしなくなることはりません

毎日欠かさず立つ場所だから、「普通」が一番。
綺麗すぎず、便利すぎず、機能的すぎず……
でも安全対策はしっかり。それが私の台所です。

●身になじんだ「普通の台所」
 「家事評論家」という肩書きのもと、料理番組の司会をしたりお料理の本を出したりしてきた私ですが、自分が使う台所はいたって「普通」です。
 普通がいい、便利な道具が揃ったピカピカの台所では料理をしたくない、と常々思ってきました。だって世の中の奥さんたちは皆、そうして台所に立っているのですから。その視点からかけ離れた環境を作ってしまうと、作る料理にも書く内容にも、どこかズレた要素が出てきてしまうのではないでしょうか。
 ところがそうは言いつつ、取材などで台所を見に来られた方から見ると、「普通」とは違うところも少しはあるようです。
 そのひとつが、私の「地震対策」。

●あえて動線を長くとり、運動不足を防止する

 この考え方は今に始まったことではなく、昭和30~40年代の頃から意識していました。
 というのもその頃、家事評論の世界では「動線を短くして家事を合理化せよ」ということが盛んに叫ばれていて、私はそれに対し、諸手を挙げて賛成できない気持ちでいたです。家事を通して少し運動量を増やすほうが健康的なのでは、というのが私の考えでした。
 この台所も、動きが「最短距離」にならないように作られています。

第六章明日も前へ――100歳への夢

「家事評論家」という仕事に就く、その原点は
時代の移り変わりのなかで、昔の日本が失われていく
私が家庭で実践していた、ちょっとしたアイデア
綺麗すぎる台所だと美味しい料理はできない
「考えない家事」から「考えて行う家事」へ
新聞のコラムを半世紀近く書き続けています
『台所の戦後史』の執筆を目指しています

私が家庭で実践していた、ちょっとしたアイデアを
「記事にしてほしい」と頼まれたこと。
「家事評論家」と呼ばれるようになる
第一歩でした。

●家事評論家? それとも生活評論家?

 現在、私の肩書きは「生活評論家」となっていますが、この仕事を始めたときは「家事評論家」でした。この肩書きのもと、私は「料理を中心に、家事全般に関するアイデアを伝える」という仕事を始めます。
 その後「家事」から「生活」に変わったのはなぜかというと、ひとり暮らしになってから、家事をしなくなったためです。
 家事を家事と呼べるのは、家族のいる生活を切り回してこそだと、ひとり暮らしになった私は痛感していました。ひとりなら面倒な作業はなく、効率よくこなそうと知恵を絞る必要もないのです。「だから家事に関して教えるなんてもうできないわ」とお話ししたら、この新しい肩書きを頂戴することになりました。
 でもこの二つの肩書き、実はいずれも、自分で名乗ったことはないのです。どちらも、周りの方々につけていただいたものです。
 そのときの仕事、つまり私の初仕事は、新聞社に勤める夫の友人に、「あなたがしている生活の工夫をぜひ読者の紹介したい」と言われて書いた記事でした。 
 書いたあと、はたと困ったのが「吉沢久子」の身分をどう説明すればいいのか、ということ。「主婦」では変だし、どうすべきか……とその方はいろいろ考えた末、家事評論家という名前を考案してくださったのです。
 こうして私は、今も続けているこの仕事を始めることになりました。
 家事評論という分野自体がまだまだ未開拓だった、昭和20年代の話です。

綺麗すぎる台所だと、
美味しい料理はできない。

●『テレビ料理教室』の司会を担当

●「綺麗な台所」で料理はできない!?
 江上料理学院院長・江上トミ先生とも何度もお仕事し、親しくお付き合いさせていただきました。
 そしてお話しするうちに、先生の思わぬ「本音」を聞くこともありました。
 当時日本では、戦後の復興と住宅環境の激変のなかで、「台所改善運動」というものが盛んに行われていました。これまでの日本の住宅に北向きの台所が多いのは女性の地位が低かったからだ、といった考え方のもと、これからの女性の地位向上のためには台所の改革が必要だとされ、清潔で機能的で快適な空間を追求する動きが強まっていたのです。
 そんななか、江上先生は「あまり綺麗な台所だと、美味しい料理はできませんよ」とおっしゃっていました。汚すのが嫌だから料理をしたくない、と思う人が増えてしまうというのです。言われればたしかにそのとおりで、ピカピカに調理台で魚をさばいたり、傷ひとつないシンクで調理器具をゴシゴシこすったりするのは少しためらわれるものですね。
 でも、それは決しておおっぴらに言えることではありませんでした。ですからこれは二人の間だけの、内緒のおしゃべりだったのです。
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といったぐあいで、なかなか貴重な証言だ。おれは、江上トミとは、市ヶ谷の学院があるビルの上にあった自宅で2回ほど会った。懐かしく思い出した。

ほかに、日本記者クラブのサイトの「取材ノート」のコーナー、ベテランジャーナリストによるリレーエッセー「私が会ったあの人」に、「私が会った若き日の吉沢 久子さん(藤原 房子)2011年11月」も、おもしろい。
https://www.jnpc.or.jp/journal/interviews/23578

吉沢久子は、おれのなかでは、「近代」「ポスト近代」の人だ。つまり、いま、なのだ。

時間がないので、ここまで。

 

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2020/06/25

「近代」と「現代」。

昨日の橋本務は、「「ロスト近代」についてお話する前に、まずモダン(modern)とは何か、簡単におさらいしておきましょう」と、以下のように書いている。

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日本語では、モダンは「近代(的)」とも「現代(的)」とも訳され、使い分けられています。「近代」とは、封建社会から脱皮した資本主義社会(あるいは市民社会)、とりわけその商業-工業段階(産業社会)を指します。同時に、その社会の理想となる諸価値、科学・進歩・啓蒙・普遍などが流布していく過程を意味します。一方、「現代」とは、時代現象として捉えた場合の現在を意味し、同時に、現在の社会関係のなかに未来へ向かう進歩の一契機を見出して、それを時代の特徴とするものです。つまり、近代の諸価値を体現するものを「近代(的)」と呼び、また、評価の定まらない新しい社会現象については、「現代(的)」と呼んで使い分けているようです。
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「近代」と「現代」の違いが、わかりやすい。

おれがマーケティングの仕事(主に食品メーカーの)に就いた1970年代初頭は、まだ、「市場調査」というと「需要予測」が中心的な業務だった。

この「需要予測」は、60年代中頃までの、供給が需要を上回っている状態での考え方と方法が惰性的に続いていたといえるのだけど(業種によって違いがあったようだが)、すでに「生産過剰」と「マーケティングの革新」がいわれていて、「需要予測」の方法も含め、マーケティング全体が変わろうとしている最中だった。

73年のオイルショックを境に、マーケティングは激しく変わり続けた。川上(メーカー)志向から「川下(顧客)」志向へ、がいわれ、消費者の意識や嗜好、消費行動などが調査の中心になった。

消費者のニーズと商品の品質の追求、さらに「ニーズ(必要)」から「ウォンツ(欲求)」だのと、消費者とのコミュニケーションなどが中心的な課題になっていく。欲望を刺激し消費に駆り立てる。簡単にいってしまえば、「情報」のマーケティングってことなんだが。

つまり、それまでの「つくれば売れる」といわれた(実態はそれほど甘くはなかったけど)生産や製造が中心の「商業-工業段階(産業社会)」の「近代」とは異なるフェーズに突入したわけで、目まぐるしい変化のなかで、そのことを実感する日々だった。

橋本務が、70年代―1995年を「ポスト近代」としたことには、そういう体験も含め、すごく納得がいく。

ってことを、忘れないうちに書いておきたかったのだ。

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2020/06/24

25年の節目と時代区分で、コーフン。

今年は1995年7月の『大衆食堂の研究』発刊から25年という節目だ。

「節目」などはあまり気にしたことがなかった。だけど、デレデレ生きてきた歳月をふりかえってみようかというとき、「節目」で整理する方法は便利だし有意義だということに、いまさらながら気づいた。

25年という節目は1世紀=100年が基準値だろう。「四半世紀」が25年、「半世紀」が50年という区切りの付け方だ。ほかにもいろいろな節目がある。元旦だって一年単位の節目だし、何かという10年単位も多い。10年単位でも、年号か西暦かで異なる。おれは今年「喜寿」といわれる77歳になるが、これも一つの節目だ。

どの節目でみるかによって、モノゴトが違う角度からみえるようだ。それは、関連するモノゴトの局面がタイムラグをもってあらわれることも関係する。たとえば、産業と文化と政治のあいだにはズレがあるし、需要と供給にはズレが生じやすいし、それらと識者の言説や国の政策もズレる。節目の単位は、地図の縮尺のようなものだけど、縮尺より主観的だし、どの単位を選ぶかで見え方が変わるのだ。

結婚25年は「銀婚」といわれる。私事になるが、結婚記念日など気にかけていたことはないし、だいたい覚えていないのだが、相方はよく覚えていて、今年は銀婚だという。5年後の30年目は「ダイヤ婚」だそうだ。ところが、おれがステージ4の癌を告知されて、5年後に何割かあるはずの生存率に残れるかどうかわからないから、記念の写真をとっておこうというので、セルフタイマーで撮影した。

そんなことをしていたら、そうだ、今年は『大衆食堂の研究』発刊から25年だ、と気づいたのだ。

さらに、25年を単位にしてみると、95年の前は1970年、その前は1945年で敗戦の年になることにも気づいた。

つまり、『大衆食堂の研究』は、敗戦から半世紀、50年後の発刊だった。執筆当時は、そのことをまったく意識していなかった。戦後の大衆食堂は、敗戦の焼け跡から立ち上がったというのに。

この区分を基準に「食」を考えてみると、いろいろな見方ができる。

すぐ気づいたのが「米」政策を軸にみることだ。

戦後最初の25年、45年から60年代は、食管法と米作・米飯拡大による「米飯主食体制」の確立といえるだろう。

70年から一転、減反と自主流通米とブランド米の拡大で食管法は実態を失っていく。

95年から新食糧法のもとでの米作と米飯であり、つまり「完全自由化」で「米飯主食体制の崩壊」てなぐあいになるだろう。

おれが食品のマーケティングに関わるようになったのは、1971年の秋からだが、その頃からの50年は、戦後の25年でやっと確立したかに見えた「米飯主食体制」が、ゆらぎ崩れる過程だった、とみることも可能だ。

「米飯主食体制」の確立は、工業化の進展つまり化学肥料と農薬と工作機械の生産と普及によって支えられた。また「米飯主食」は同時に発展する工業と都市の人びとの胃袋を支えた、というみかたもできるだろう。

70年前後は、工業生産の需給関係が供給過剰に変わる転換点でもあった。ほかにも要因があるが、減反政策は、その必然ともいえる。

戦後日本の資本主義の中心的な産業は生産と製造で、これを軸に急成長した。いわゆる工業化社会ってやつで、工場が集まる都市と労働者の人口が急増した。

その工業社会の産業構造が激動するのが、70年からの25年だ。73年、第一次石油ショックで高度経済成長が終わり「不確実性の中の成熟化」という、わけのわからんことになった。1967年の資本自由化は、大きな変化をもたらした。とくに70年代の食品流通と外食の分野だ。

マクドナルドやセブンイレブンなど、外食や小売の分野でチェーン化を促し、小売や外食が「産業」として成長する。一方で、従来型の生業は苦境に立つ。76年には、第三次産業の人口が50%をこえた。

80年前後から、日本の資本主義は、落ち着きのない構造的な変化の中にいる。ま、日本に限らず資本主義は、大きな曲がり角に立ったのだが、日本では80年からの潮流を「ナショナリズムの台頭、自信と不安の交錯」とよんだりする。

80年代前半、「出口の見えない時代」ということがいわれ始め、いわゆる「閉塞感」が漂い始めた。「閉塞」が盛んにいわれるようになったのは、80年代後半のバブルの頃なのだが、イケイケ浮かれまくっていた人たちは、まったく覚えがないようだ。

「マイコン革命」がいわれ、コンピュータ産業や情報産業が台頭する一方、為替の大きな変動(円高)もあり、国の政策は70年代の輸出から内需拡大へ大きく切り替わる。消費主義台頭の先頭を切っていたのが「グルメ」とファッション。生産から消費へ、製造からサービスや通信へ。サービスの中心に金融や証券がドッカリ座る、不動産と組んでバブルをもたらした。

「産業構造の転換」や「第4次産業」などが叫ばれたが、出口は見えない。ただ「重厚長大」から「軽薄短小」へ、「護送船団方式」は終わったというばかり。そこに都合よく新自由主義がはびこり、あらたなグローバル化が勢いよく進んだ。70年からの25年は、そんなだった。

「失われたン十年」という見方は1995年を起点にしているが、実際は、80年前後から出口が見つからない状態が続いているし、政治面では、1982年の中曽根内閣からの「行革」という新自由主義の導入以来、小泉、安倍と受け継がれているし、消費税の導入も89年で、70年からの25年は大きな変化に突入したままの状態。

つまり、70年からの50年は出口の見えない閉塞のなかにいるのだが、95年までと95年以後は、かなり異なる面がある。

以前、対談をしたことがある速水健朗さんは、『1995年』(ちくま書房2013年)で、この年が敗戦から50年にあたるとしながら、「1995年とは、それ以前に起こっていた日本社会の変化を強く認識する機会となった転機の年なのである」として注視し検討している。読み直してみたら、なかなかおもしろい。

おれは1943年生まれだから、わずかだけど戦後の記憶があり、高度経済成長期にガキから成長し就職し結婚し70年を迎え、70年代からはマーケティングといういやでも「時代の変化」の現場にいて大波小波を生き、95年に至った。

ということを考えているうちに、いま取り掛かっている本のこともあり、自分の体験を整理する意味でも、ほかに戦後を25年単位で区分する考え方はないものか探してみたら、あったのだ。

なんと、なんと、これが、なかなかおもしろい。

橋本務(『ロスト近代』弘文堂2012などの著者)は、45-60年代を「近代」、70年代ー1995年を「ポスト近代」、96年以降を「ロスト近代」と区分している。

橋本務は、大澤真幸が『不可能の時代』(岩波新書2008年)で論じた時代区分にふれている。それは、45-60年代後半を「理想の時代」、70年代前半から90年代中頃を「虚構の時代」、90年代中頃からを「不可能性の時代」と名付けているという。「理想の時代」や「虚構の時代」は、見田宗介が『社会学入門』(岩波新書2006年)で述べていて、それを下敷きにバージョンアップしたものとのことだが、大澤と見田の時代区分は少し違う。とにかく、橋本は大澤と見田の先行理論を参考にしている。

ってことで、「近代」「ポスト近代」「ロスト近代」に、先にあげた米飯主食体制確立から完全崩壊や、ほかの「食」の動きをからめて考えていると、病気を忘れそうなほどコーフンしてくるのであります。

たとえば、近年の「(スパイス)カレー」や「発酵」のブームなどは、ロスト近代の視点からみると、単なる「カレー」や「発酵」ではなくなる。といったぐあいで。あるいは、米を基軸にみると、「近代」は「米食あこがれの時代」、「ポスト近代」は「ポスト米食」、「ロスト近代」は「ロスト米食」と置き換えることができそうだ。

橋本は、「もう、消費社会は終わったのではないか。そう考えた時、この時代状況を表わすものとして、私は「ロスト近代」と言う言葉で呼ぶのが適当ではないかと思ったのです」と述べている。

いま世界の資本主義は、新型コロナウイルスでゆれまくっている。「ロスト近代」は、どうなるのだ。いま、これからこそが、「ロスト近代」なのかもしれない。

コーフンが連鎖し止まらない。これは、癌にいいのか悪いのか。いいにちがいない。

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2020/06/05

再掲載 食の本つまみぐい。

一昨年だったかな?ザ大衆食のサイトのURLが変わったので、当ブログにはっていたリンクが切れてしまった。困ったことだ。
全部をはりかえるのも面倒なので、自分が必要になったものから再掲載してリンクを貼り直すことにした。ってことで、今日はこれ。文章もそのまま。

2015/05/24 食の本つまみぐい。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2015/05/post-9813.html

すっかり忘れていたが、以前、書評のメルマガに「食の本つまみぐい」というのを連載していた。ここのところ、2度ばかり続けて、そのことが話題になる機会があって、おお、そーいえば、と思い出した。

『大衆めし 激動の戦後史』と、この連載をあわせて読むと、ますますおもしろい、とも言われた。『大衆めし 激動の戦後史』を、ボロボロになるほど読んでくださったうえ、そのように言われると、恥ずかしながらライターをしているおれとしては、とてもうれしい。

しかし、『大衆めし 激動の戦後史』を書いているときは、「食の本つまみぐい」のことなど、完全に忘れていた。忘却の彼方。光陰矢のごとし、忘却矢のごとし。

そういうわけで、久しぶりに、ザ大衆食のサイトに全文掲載してあるそれを読んでみた。
http://entetsu.c.ooco.jp/hon/syokubunkahon.htm

03年8月のvol.128から09年12月のvol.436まで隔月の連載で、全35回。

1回目が江原恵の『庖丁文化論』、最終回が玉村豊男『料理の四面体』だ。まさに、『大衆めし 激動の戦後史』の重要な部分を占めている2冊。

最終回では、このように書いている。「この連載は、これが最後。連載を始めるときに、最初は江原恵さんの『庖丁文化論』で、最後は本書で締めくくろうと決めていた。日本の料理の歴史のなかで、もちろん万全ではないが、「画期的」といえるのは、この2冊だろうと思う。」

当時は、書評なんぞ書くのは初めてだから、どうやって書くべきものやらわからないまま書いている。出来不出来はあるが、いま読んでもおもしろく、タメになる。食、とくに料理の本質について考えるによい。

ま、大勢はあいかわらず、食というとグルメや外食を中心に食風俗に関心が傾斜していて、料理の本質なんぞに関心のある人は少ないと思うが、料理そのものを中心に「まちづくり」にまでふれ、料理をめぐるコンニチ的な事柄を広く見渡している。

食と料理を、表層ではなく、突き詰めて考えてみたい人には、読んでもらうとよいかも。

 

 

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