2006/10/26

大衆食堂の呼称と歴史

拙著『大衆食堂の研究』では、「大衆食堂」という用語を、かなり限定して使っている。つまり、その最初の書き出しが、こうだ……。

 食堂、といっても大衆食堂のことである。
 こうまでことわらなくても、いまでは、「食堂」といえばほとんどが、「大衆的な食堂」という意味での、大衆食堂である。そこで、あえて、東京の大衆食堂については、こういわなくてはならない。
 昭和三〇年代にして一九六〇年代の「たたずまい」をとどめている大衆食堂のことである、と。
 なぜこういう言い方をするのか、しなくてはならないかということは、これからなんとなくわかってくるはずだ。

……引用オワリ。

ワガ体験的「大衆食堂」を書くために、このように限定した。60年代の後半から国民の「中流意識」が盛り上がり、70年代には「市民意識」へ発展もしくは転化する、そのもとの根っこにあった東京の労働者の日常食における食堂を意識していたからで、読んでいただいた方にはわかるだろう。実際、当時の大衆食堂とは、そういうものだったと思っている。東京は、いまでは想像しにくいほど、「京浜工業地帯」という言葉がピッタリな工業社会日本の中心にあって、汗臭い労働者の町だったのだ。

で、『大衆食堂の研究』では、そのセンでの歴史についても少しふれているが、これは「外食文化史」というものからは、ほど遠い。こんど大衆食堂について書く機会があれば、もっと昭和外食文化史のような視点で書いてみたいものだと思っている。

最近ときどき、大衆食堂の歴史について質問されることがあって、上野の聚楽を「元祖」とする説についてであることが多い。ワガ体験的「大衆食堂」からすれば、『大衆食堂の研究』にも書きザ大衆食のサイトにも引用しているが(ザ大衆食「上野駅前上野百貨店の聚楽台と西郷丼」)、それを「元祖」とする考えはない。

まだ、自分でも、外食文化史における大衆食堂の歴史を、どう考えたらよいか確信できる方法もないのだが、ハッキリしていることは、何度も述べているように「大衆食堂」というのは、単なる風俗的な呼称なのだ。だから、かりに、その言葉の始まりという意味での「元祖」はあるかも知れないが、実態としては風俗的な呼称にすぎない。

その呼称の系譜を追っても、遠藤という苗字の元祖はわかっても、遠藤とはどういう人間であるかは明らかにならないように、大衆食堂の「像」は明らかにならない。そして、聚楽は、大衆食堂の呼称の「元祖」でもないし、その前身の須田町食堂は名前が記録に残り有名ではあるが、それをもって当時の大衆食堂を代表あるいは包括させられるだけの内容や勢力を持っていたわけではない。明治期の創業のヤマニバーなど、須田町食堂以外にも、似たような商売の方法をとるところがあって競っていた。それは外食産業史的に見たら、今日のチェーン方式の経営あるいはファミレス的業態の萌芽や先駆とみることはできるかもしれないが、大衆食堂の「元祖」とするには、無理があるように思う。

いまの時点から「大衆食堂」はこういうものだと決め付けてふりかえれば、聚楽や他のどこかの食堂を大衆食堂の「元祖」とできるだろうが、その決め付けの根拠が必要だし、それでも実際には「大衆食堂」は風俗的な呼称にすぎないという事実は消えない。

おれは、いまのところ、当時、その「大衆食堂」という呼称が生まれる時代の人たちが、どういうふうにその実態をみていたかを知ることが、大衆食堂の「像」を明らかにするために必要ではないかと思っている。ようするに、「元祖」を決めたいのか、「像」つまり実態を明らかにしたいかだろう。おれはムリヤリ元祖を決めることには興味がない。

それで、まず「大衆食堂」という呼称が生まれた時代だが、これは割とハッキリしている。「大衆」という言葉が流行する昭和の初め1925年前後から、昭和13年(1938)に東京府料理飲食業組合大衆食堂部がきるまでのあいだと見てよいだろう。(ザ大衆食「食堂の歴史あれこれ」)

ということで、まずは、またもや、きのうから持ち出している『東京食べある記』だが、ここに「「大衆的な食堂」という意味での、大衆食堂」のイメージに近い記述がある。

「簡便な安価な食堂」という見出しで、「東京の食味界で、大衆的に深く強く根を下して、安価第一で繁昌して居るのは、蕎麦屋やすし屋の他に、おでん屋の他に、「食堂」の存在を見のがしてはならなかった。」と書き出す。そして、このように述べる……

 ほんとの大衆的食堂では、東京市営の公衆食堂が市内に十数ヶ所あつて、勤人連の一部や労働者階級のために、無くてはならぬ有用な機関の一つとなつて居た。土橋に近い平民食堂、昌平橋の昌平橋食堂、上野駅に近い栄屋食堂、水道橋の水道橋食堂、牛込の飯田橋食堂、浅草のまこと食堂、深川の伊勢屋食堂、芝の玉川などでは、味噌汁、香の物、御飯で、朝食十銭から十二三銭かで、空腹を充たすことが出来た。この他浅草の田原町には、昔の一ぜん飯屋が進歩した三州屋があったし、四十何軒も同じ名のヤマニバー、本郷バーがあったし、須田町食堂など云ふのも、到る所に看板を見ることが出来た。本郷、ヤマニ、須田町の三食堂が、銀座のセンターにまで進出して、小料理物や洋食や和洋酒を、安価第一主義で提供して居るのも、当節柄としての現象らしかった。
 所謂食堂の食べ物の風味は、第二主義であっても、経済的には第一義的の使命があることを、合点せずには居られなかった。

……引用オワリ(漢字は変換の都合で新漢字にした)

「大衆的食堂」という表現で、著者は新聞記者なだけに、わりと実態を包括的にまとめていると思う。
「バー」とつくのは、かりに和洋中のメニューを扱っていても、いまでいう「洋食屋」の系譜と考えて間違いない。
市営食堂の系譜は、やがて東京府料理飲食業組合大衆食堂部に吸収され、戦時下の外食券食堂、戦後の民生食堂、東京都指定食堂へとつながることは、『大衆食堂の研究』に書いた。この東京都指定食堂は、一時は千数百店あって、戦後の大衆食堂の成り立ちの大きな潮流を担ったといえる。

長くなったので、とりあえず、こんなところで。

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2006/07/26

「そこにいる」視線と「チェック屋」の視線

はあ、大衆食堂本の遅れを取り戻すべく、根をつめてやっていると、ほかのことを忘れそうだ。しかし、今日も編集さんとメール交換、かなりイイ線で構成が浮かび上がってきたぞ。

息抜きに、ブログに書かれた大衆食堂、どれも昨日で、それぞれオモシロイ。

パラオの大衆食堂 一品料理が充実
http://paraoparao.blog57.fc2.com/blog-entry-58.html
これ、ほとんど日本の大衆食堂と同じじゃないか、おもしろいなあ。

Bassman note 【みずほ食堂】の【ざるそば】450円
http://blog.livedoor.jp/bassman1959/archives/50526105.html
ざるそばの「上にかかっている海苔が「味付け海苔」という下品さがすばらしい」だって。うまい表現だなあ。

PrettyBoy-ブログ編 象工場で働く為の必須条件
http://blog.livedoor.jp/hope0402/archives/50554852.html
磯子区役所の食堂から海が見えて、「どこか懐かしい、絶対にどっかで食べたことのある味がする」のだそうだ。気になるなあ。

どうも、こういうのを見ていると思うのだが、「そこにいる」という視線が自然でいいね。おれのようなものは、「専門家」気取りでチェックする視線になりがちだから気をつけなくてはいけないな。

どうしても自分の文章が活字になって本になったりすると、それだけでも、おれはそのへんの平民どもと違う正しいチェック屋なのだ伝道者なのだ味覚人なのだ文化人なのだ、評論するはワレにあり!ってことになりやすいからな、人のケチばかりつけていないで気をつけなくては。

しかし、「チェック屋」の視線のほうが喜ばれ本が売れる可能性が高いのだから、むずかしい。

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2006/07/24

「学び」嫌い「教育」「説教」大好き人間

飲食店を食べ歩きし評価を下し書きつらね、ナニモノかになったつもりでいる人には、「学び」嫌い「教育」「説教」大好き人間が多いようだ。その人たちのために、東京の片隅でコツコツ生きている暮らしが抹殺される。

今日はアレコレ忙しくしていると、知人から電話があって長話になってしまった。竹屋食堂は居酒屋化していて、大衆食堂とはいえないと言っているやつがいると、そいつは言うのだ。知らなかったが、居酒屋化している大衆食堂は大衆食堂とは言えないというリクツ?がはびこっているらしい。そりゃおかしいだろう。ということで、口角酒臭い泡を受話器にひっかけながら。

けっきょく、思うのだが、とにかく大衆食堂には、まだまだ「学ぶ」ことが多いと思う。大衆食堂が注目され出したのは近年のことだろう。しかし、何軒だか知らないが、たくさん食べ歩いたぐらいで、これを例によって「厳選」し、正義の大衆食堂の旗手として教えを説こうというのか。半世紀もの歴史の大衆食堂も、アワレ、「居酒屋化」していると簡単に片づけられる。なんという風潮だろう。

ま、それはその人のモノサシだからよいにしても。だけど、ほかのモノサシを学ぶココロぐらい持てないのか。そもそも大衆というのは大衆食堂も、それぞれ違うのではないか。十人十色というのは、まさに大衆食堂の世界でもあるだろう。それをセンセイ様が自分のモノサシで、一律横並びに採点し、教えをたれる。これは学校教育で身についた悪しき習慣か。もっと、大衆食堂では、不揃いを不揃いのまま楽しむことを学ぶべきではないのか。

だいたいね、竹屋食堂は朝食からの営業で、朝昼晩と、まったく様子が変わるのだよ。おれの『大衆食堂の研究』には朝昼晩かよって、その様子が書いてある。もちろん午前の昼近くでもタクシー運転手で「居酒屋化」することもあった。しかし、タクシー運転手にとっては、そこが夜勤明けのめしくって、疲れた身体に酒を入れ憩うところなのだ。ほかにも夜勤明けのビル掃除人とかね。そういう大衆食堂だったのだよ、竹屋食堂は。大衆食堂は、そこを必要とする人たちによって成り立ってきたのであり、その事実に対してもっと謙虚になるべきじゃないかと思う。もし自分の好みではなかったら行かなければよいのであって、大衆食堂ではないと決めつける必要はないだろう。

ま、いいや、いまは昭和レトロだのスローフードだのなんだので、ブームとなれば陳腐なものがはびこるのだ。そういうものが売れる活字になるのである。そして、ラーメンブームがそうであるように、自分なりの生業に励んできた小さな店が、評価されることなく消えていくのだ。あとには、ブームにたかってはテキトウなことを言うセンセイたちが、メディアの周辺でエラソウにしているのだ。そういう国なのだ、日本は。おれは深い深い絶望と怒りと野糞のうちに、ザ大衆食の竹屋食堂に追記をしたのである。けつ喰らえ!……クリック地獄

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2005/07/03

『大衆食堂の研究』のころ その2「特殊」な

6月23日に「『大衆食堂の研究』のころ」を一度書いているので、「その2」ということにしよう。本書は、「近代日本食のふつう」つまり「近代日本食のスタンダード」に関心があってヒラメイタ企画だ。そして『汁かけめし快食學』もそうだが、自分の体験をもとに普遍化を試みるという方法で書いている。

だから全体のページ数の関係もあったが、なるべくスタンダードにしぼった。「特殊」と思われるケースは、載せてないか視野におくていどの扱いだ。

その「特殊」なケースの一つは、デパートの食堂、その大衆版だった〔聚楽〕〔渋谷食堂〕〔食堂三平〕などである。『大衆食堂の研究』では「思えば…編*田舎者の道  三、食堂でなければありえない」の最初で、視野におくていどにふれている。これらは、大衆的な食堂ではあったが、値段も風俗も、おれの体験としては非日常のものだった。その非日常的光景について書いているのだが、どちらかというと、のちのファミレス発生期のファミレスのように「特別」な存在だった。
http://entetsutana.gozaru.jp/kenkyu/kekyu_5_03.htm

もう一つ、これとは違って、日常生活的な食堂であるが、立地環境が特殊なので、まったくふれてない食堂がある。それは台東区の山谷つまり日本堤地域の食堂だ。しかし、ここには何度も行っているし、『大衆食堂の研究』にとりかかった1993年ごろから、激しい変化をしている。

たとえば、1992、3年ごろは、その地域の「主な産業」であった「ドヤ」といわれる賄いのついてない「木賃宿」は、どんどん一泊二千数百円の個室型に変わっていた。しかし、でもまだ、「カイコ棚」といわれる、一泊400円から700円で泊まれる宿が、何軒か残っていた。一つの階を上下に仕切って、ま、ようするに二段ベッドを並べ詰めたような構造で、しかし個人的な仕切りは一切ないスタイルである。そこに泊まれないものは、いわゆる「露天生活者」ということになり、玉姫神社境内やいろは商店会の通りで寝る。さらに、そこに寝れないで、周辺でテキトウに寝るものもいたが。

その「宿泊構造」は同時に、その人たちの「階級構造」でもあり、それは食堂にもあった。つまり大きくは、1000円前後からの定食を中心にした「高級店」が数軒、ほかは500円前後の定食を中心にした「普通店」、そして食堂を利用できないひとは、いろは商店会の店が店の前で売る、トレーの白めしにおかずをのせて300円以内であげる。

それらは、あるていど、日雇いの賃金構造がスライドして反映している面もあって、「高級店」は階級構造のトップにいた日当のよい鳶職などが利用するところだった。ちょいと忘れたが、鳶職は土建系職人の平均日当の倍ぐらいはあったはずだ。

とにかく、当時は、そのトップの鳶から下層のホームレスまで、じつにたくさんの人たちがいた。夕方のいろは商店会は銭湯あがりの男たちで祭りの夜店のように賑やかだった。そして夜8時ごろ、いろは商店会の店が閉まると、そのアーケード通りは、「ミゴト!」といいたいぐらい、真ん中の通路を残して両側に寝具が整然とひきつめられ、男たちが寝につくのだった。

それから、数年のあいだに、その一泊400円から700円で泊まれる宿は、少なくともおれの知っているところは全部なくなった。食堂もどんどん減り、いろは商店会の整然たる夜の寝床も歯が抜けたようになった。これは、直接的には都内の「公共工事」や「大型プロジェクト」の減少が関係しているようだが、それより、工事の「自動化」が急速に進んだことによって、職人仕事が減ったのが本質的な原因だろう。以前は、ゼネコン土建屋が繁昌すれば、そこにぶらさがっている職業もおこぼれあずかることができたが、もうそういう構造はなくなった。そういう結果なのだ。

それはともかく、その男たちがいなくなった地域は寂れつつ、その男たちにかわり外国人滞在客や旅行客が流入するところとなった。ドヤはどんどん安ホテルになった。

そうそう、あと、こんな地域に詳しくてもしかたないだろうと思うのだが、なんだか下層に通じているのが自慢であるらしい、下層文化散歩人たちや下層文化通人たちが徘徊するところとなった。ま、ニッチ情報で偉そうにしてみたいイジマシイ人間が、けっこういるということか。

泪橋交差点にあった立ち飲み屋「世界本店」などは、昼間から酔っぱらいの喧嘩が絶えなかった。店のひとにボコボコ蹴られる客を見るのはめずらしいことではなかったが、そういう殺伐とした空気は漂わない、なんだか下町風流情緒的あるいは猥雑アジアンテイスト的エエなあ気分の礼賛記事が、雑誌や本に載るようになった(おれもその案内人などをつとめたことがあった)ころから、力強い自堕落な偏屈な殺伐とした男たちが減っていった。焼酎なんか自虐的な気分で飲むものだったが……。そして、「世界本店」も美しいコンビニになった。

あと「特殊」ということでは、「学生街」の食堂も特殊だから、ほとんどふれてない。そのことはまたそのうちに書こうかな。

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2005/06/23

『大衆食堂の研究』のころ

先日20日にザ大衆食のサイトに掲載した「大衆食堂の逆襲」では、こう書いた。

「『大衆食堂の研究』発刊の1995年頃をふりかえり、「当時は、いくつかのテレビ番組に大衆食堂が登場することはあったが、いわゆる古きよき人情の「レトロブーム」の流れにのった、趣味的嗜好的なものであり、「生活」ではなかった。大勢がそういう傾向であり、ようするにバブルは崩壊したとはいえ、まだ余韻は十分残っていたし、またすぐに景気は回復するだろうといった期待が気分として充満していた。コンニチのように不況下の生活を背景にして、「安酒場」や「安食堂」が話題になる雰囲気とは、かなり違っていた」

さらに、1997年の「『散歩の達人』は、いまとくらべたらかなりマイナーな雑誌であり、「大衆食堂の逆襲」がどれほど影響をおよぼしたかは心もとないが、このころから古い地味な存在だった「大衆食堂」や「大衆酒場」あるいは「立ち飲み屋」など、チマタの「大衆店」が話題になり、不況になじむハヤリものになったといえるだろう」と書いている。

95年から97年のあいだに、不況はますます出口の見えないものになっていた。そのなかで「むかしはよかった」の嘆き節、説教節が、とくに「下町」の「大衆店」を舞台にニギヤカになる。「下町」が舞台になったのは、1980年代後半からの江戸・東京論ブームやレトロブームの流れがあったのだが。そこに、必ずむかしながらの「人情」と人情に生きる人びとがいる、という物語の「定番」ができあがる。

つまり大衆店を語る、著者や制作者は、むかしながらの「人情」と人情に生きる人びとを描きながら、世の中がおかしくなったと嘆き、むかしながらの下町・人情な暮らしにもどれば、世の中は清く正しく美しくなる、というような主張なのか気分なのかを、大衆店の話にこめる。それが、「むかしはよかった」は嘆き節であったり、下町・人情礼賛節であったり、そのへんは、マアわからなくはないが、そこに「私は正しい」の自慢節「おめえら間違っているぞ」の説教節が加わる。気がつくと、飲み食いの大衆店の話は、そういうものにすりかわっているのだ。

そういう物語のキザシは、『大衆食堂の研究』発刊前に、いくつかのテレビ局が、大衆食堂をとりあげたときにすでに見られた。しかしキザシていどだった。

手元のメモでは、1993年12月16日に日本テレビの「追跡」、94年1月14日にTBS「ニュースの森」で大衆食堂をとりあげている。前者には、勝どきの「月よし」、新宿の「千草」、芝浦の「松月」、後者は「月よし」「千草」に品川の「品食」が登場する。これらの番組は、まだ「安い・うまい」が基調だった。続いて94年2月27日、テレビ東京が夜の7時から8時54分の「日曜ビッグスペシャル」の全枠で、「これが日本の大衆食堂だ! 有名人・思い出の定食屋」をやった。これは関西も含めていたが、タイトルからして「むかしはよかった」の人情臭さを盛り込んでいる。しかし、有名人が若いころ利用していた大衆食堂へ行ってヒタスラ懐かしがるだけで、のちの大衆店モノの番組や著作にくらべたら、独善的な自慢や説教は気にならなかった。

「大衆食堂の逆襲」の場合は、どうか? 見出しに一か所「人情」という言葉が登場するが、それがらみの内容は、おれの記事も含めてまったくない。根津の「かめや食堂」の書き出しに「最近人気が高い下町エリア」という表現をしているぐらいで、下町礼賛もない。

「大衆食堂の逆襲」の『散歩の達人』4月号は3月発売だったが、そのあと8月からおれはフジTV『ザ・ノンフィクション』の制作の手伝いをした。ロケハンから付き合って、10月5日に放映になったのだが、そのタイトルはモロ「東京下町人情食堂物語」である。これはフリーの演出家の松村克弥さんの演出で、ご存知の方もいると思うが、この人はあまり手を加える演出をしない。そのせいもあるかも知れないが、タイトルはそうであっても、独善的で押し付けがましい説教節は、まったくなかった。そこにあるのは、「人情」というより、東京の「下積み人生のシガラミ」というものだった。しかし、下町・人情礼賛の自慢節や説教節がニギヤカになるのは、このころからという印象がある。

長くなったから、とりあえず結論。エコロジーやスローフードや下町・人情を礼賛のエッセイには、ある種の共通性があるように思う。つまり、自分は一段高いところにいるという気負いあるいはカンチガイ。

近代物質文明こそ諸悪の根源とテレビは見るのに電子レンジは否定するような高邁な精神たるや、そういうことは政府や財界や大企業や芸能界やNHKにむかって言ってほしいと思うし、大衆酒場や大衆食堂や立ち飲みでくだまいたり気分よくしているのが、そんなにエライことなのかといいたくなるほどだが。

清水義範さんの『日本文学全集 第一集』の「徒然草」によれば、そういうのは「お叱りエッセイ」であり「世の中の者どもめ、けしからんぞ、正しくて知的で品格のあるおれを見ならえ、というのがエッセイの本音である」「エッセイというものに書かれているのは、どんなエッセイであろうと、結局、おれは偉い、だ、という井上ひさし氏が言ったということを、人の噂できいたことがある」って、ことになる。どうやら徒然草以来のエッセイが内包する悪癖らしいのだ。

イヤラシイねえ、おれもそういうものに染まっているかもねえ。でも、大衆食堂や大衆酒場を、下町・人情礼賛の自慢節説教節のネタに使うなんて、最低だと思う。でもおれは、アル中で最低の人間だから、しかたないからね、ちったあ偉そうにさせて。

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2005/06/21

力強くめしをくえ! で10年

そういうわけで、『大衆食堂の研究』からデレデレ10年を記念し、「大衆食堂の逆襲」を掲載しました。
http://homepage2.nifty.com/entetsu/siryo/santatsu_gyakusyu.htm

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2005/04/05

大衆食堂は地域のイキモノだ

3月29日の日記にも書いた、オヤジ芝田著『神戸ハレルヤ! グルめし屋』の完成版が送られてきた。帯のかわりに、裏面にシールというのが、ユニーク。

帯に載せるスイセン文は、解説からテキトウに利用してほしいと頼んでおいたのだが。シールには、「大衆食堂は地域のイキモノだ」「気どるな! 力強くめしをくえ!」とあった。

なんだか近ごろは、地域・横丁・路地とからんでいることがおおい。ま、大衆食も大衆食堂も地域と密接だからな。ということもあるし、もとはといえば、おれは高校山岳部時代から歩き回るのが好きだったのであるし、プランナーなる肩書で企画屋稼業についたときもマーケティングの分野で、1970年代初頭の「マーケティング」なんていうのは、まだ幼児期で何がマーケティングかわからん、「とにかくマーケティングとはリサーチだ!」というわけで、まあよくリサーチで歩き回ったわけだ。「歩くのが現場シゴト」というかんじで、けっこう気に入っていた。けっきょく、そのときアチコチでみた街や大衆食堂に入った記憶が「大衆食堂の研究」になったわけだなあ。

最近のトラックバックに、「ここは「どこ」だろう? まだまだこんな風に生きてみた」という、ちょっと新興宗教のお誘いくさいものがあって警戒しているひとがいるかも知れないが、これは最近ここでも話題にしているしコメントにも登場の五十嵐泰正さんのブログで、4月3日の「「観光」で東京はナントカなるのか?」へのトラックバックだ。五十嵐さんがかつて彦根あたりで同じような問題意識をもった、なかなか巧みなエッセイだね、こりゃ。そのコメント欄じゃ、おれも加わって盛り上がっている。
http://yas-igarashi.cocolog-nifty.com/hibi/2004/08/post_1.html

おれにとって「地域」というのは、基本的には「生活圏」なのだけど、そしてあるときはマーケティングの「商圏」「エリア」だったのだけど、歴史的にみるとイデオロギーとしての「地域」が根強い。つまり「地域=ふるさと=国家」という。選挙になると、とくに自民党の候補者が、日の丸のハチマキをして、おなじく日の丸のハチマキをして集まった支持者のみなさまを前に、「地域の発展」のために「中央直結」を訴え、自分は中央とのパイプ役であるという光景があった。そういう地域があって、その地域は、国家のしもべとしての地域であり、国家という領主さまに忠誠する地域でもある。そういう地域によって、生活圏としての地域が破壊されてきた歴史がある。

で、まあ、「大衆食堂は地域のイキモノだ」ということで、生活圏である地域を再発見しとりもどそうという、意義あるオコトバなのであるね、これは。

きのうはアルシーブ社で、路地特集の打ち合わせをし、ヤジウマ参加のつもりが、アレコレそれこれと話しているうちにおもしろくなり、取材のスケジュールまで決まって、今月はスケジュールがたてこんでいるうえに、東京の東西南北を歩きわらなくてはならないことになった。そりゃオモシロイが、昨夜は、帰りに北浦和に着いてから、ヤキトンの志げるでイッパイやりながら、いけねぇ、おれはもうトシなんだから、むかしのようには歩き回れないよなあ、でも話をしていると自分のトシ忘れて、おもしろがって夢中になってしまうからなあ、うへ~、今月は疲れそうだぜ、と思いながら飲みすぎてしまった。のである。

おれは、トシだということを、どうかお忘れなく。老人は労わりましょう。老人には、シゴトよりカネを!

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2005/03/19

悩ましい「田舎者」

『大衆食堂の研究』HTML版の「思えば…編*田舎者の道」の、「三、食堂でなければありえない」「四、ジャンク者の誕生」「五、田舎者は食堂へ行け」を一挙掲載した。
http://entetsutana.gozaru.jp/kenkyu/kekyu_index.htm

この編「田舎者の道」は、本書の、見方によっては奇異な特徴となっている。が、おれが大衆食堂を語るとなると、はずせない部分だったし、東京の大衆食堂の繁栄は、60年代70年代に急増した田舎者の上京をヌキには考えられない。

おれが上京した1962年前後は、東京の家賃が「畳一畳千円」と騒がれ、そしてその後の70年前後になると、例の団塊の世代が「大挙して」東京へ馳せ上ることで、トツゼン膨張した東京は、小さなコップに水がどっと注がれたような大騒ぎが連続する。60年代70年代の東京をふりかえるとき、田舎者の存在をヌキには語れないのだ。しかし、雑誌『東京人』を始め、東京をブンガク的な観念を持って語る流れの中で、そのことは、まったくふれられないままであることに、『大衆食堂の研究』を書く当時のおれは、かなり不満を持っていた。

けっきょく、ふりかえってみると、60年代の田舎者の上京の背景には、農業基本法による急激な、あるいは無理のある産業構造の転換がある。これで田舎は一挙に「職」を失い衰退し、田舎者は大都会に「未来」を模索する以外の選択肢が困難な状況におかれた。これは、食糧自給率低下問題の最も深層の部分と重なる問題であるのだが。

そして膨張した東京が「都市問題」や「社会問題」を抱え、都政の責任が追及され、また都政を担当していた自民党の腐敗体質がもたらした「黒い霧」事件なども重なり、都政が「革新」の手に落ちかかった1970年代前半、自民党東京都連の「東京ふるさと計画」キャンペーンが浮上する。おれは、そのキャンペーン企画に関わるシゴトをしていたこともあるのだけどね。

「東京ふるさと計画」キャンペーンがすべてだったわけではないが、この「東京ふるさと計画」は、都市問題や社会問題を「文化的」「イメージ的」に処理する方向をもたらした。「東京ふるさと」の鈴木都政が誕生し都政を奪還した自民党は、「ふるさと」をキーワードにしたイメージ戦略を全国的に推進する。竹下登のバブルな「ふるさと創生」などもあった。そういう流れと、東京都の支援を受けた東京PR誌のような『東京人』の普及と、レトロブームの到来は、まったく無関係とはいえない。

ともあれ、『大衆食堂の研究』を書くころには、東京PRのようなレトロ趣味のキレイゴトのイメージは、バブルの時代を通してブームのようになっていた。そこには、土着性あるいは田舎者性を失い、観念やイメージのなかを浮遊する新しい「東京人」がいた。

おれは、その1人だったのだろうか? しかし、どうもおれは「東京人」になりきれなかった田舎者のような気がしている。あまりにも田舎者すぎたか?

『大衆食堂の研究』は、95年10月9日発売『週刊ポスト』10.20号―ブックレビューで、『清貧の食卓』などの編著者であらせられる山本容朗さんに書評をいただいた。

地方出身者が東京で出会うのは、三四郎(遠藤注=夏目漱石の三四郎のこと)なら下宿屋のめし、五木(遠藤注=五木寛之)、富島(遠藤注=富島健夫)世代で言うと、外食券食堂である。言わば外食券食堂、時が移ると大衆食堂となるけれど、これは東京同化物語の一つのキーポイントといっても過言ではあるまい。/遠藤氏は、六二年以降出会った大衆食堂をやや案内的に、しかし実質哲学的に考察する。/これは大衆食堂案内ではない。だが、川崎屋という店ではメニューに「冷やしみかん」あり、を読むと、なんとなくいい気分になってくる。///読み方によれば、この著作は、型破りの東京同化ストオリーだろう。だが、地方出身者には何かシコリが残る。それを癒してくれるのが大衆食堂だと読み手はそう勝手に解釈できる。また、大衆食堂は帰れない古里、消えてしまった所在の代替みたいなものであるかも知れない。熱っぽい語り口がこの本の魅力。

「読み方によれば、この著作は、型破りの東京同化ストオリーだろう。だが、地方出身者には何かシコリが残る。それを癒してくれるのが大衆食堂だと読み手はそう勝手に解釈できる。また、大衆食堂は帰れない古里、消えてしまった所在の代替みたいなものであるかも知れない。」この部分。

こういう、ある意味の屈折は、自分自身のことながら好きで、また帰るふるさとを失い、かといって東京を新たなふるさとにすることはできずに、東京で浮浪してきた田舎者にふさわしい屈折だろうと思う。

岡崎武志さんは、3月14日の日記に書いている。
http://www3.tky.3web.ne.jp/~honnoumi/frame.okadiary05.03.htm

「教育誌もう一誌のコラム、竜巻小太郎というペンネームで書いている。「わたしの上京物語」というテーマで書く。毎年、この時期になると15年前に大阪から上京してきた日のことを思いだす。東京出身者についぞわからないのは、他府県から上京してくる者の不安、期待、高揚といった気分、それに東京に対する過剰な思い入れだ。」

共感共振共鳴してしまう。60年代70年代の大衆食堂には、「他府県から上京してくる者の不安、期待、高揚といった気分、それに東京に対する過剰な思い入れ」が渦巻いていたし、そのことをヌキの大衆食堂を語るのは、自分としてはできない。悩ましい田舎者である。

ついでながら、「大衆食堂」を味覚だけから語るのは、間違いだと思っている。「大衆食」についてもだが。それは「生活」だからなのだ。「大衆食」から「生活」をひいたもの、それが「B級グルメ」かも知れない。そのことは、またあらためて、ちょいちょいふれるとしよう。

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2005/03/10

悩ましい「優秀な経営コンサルタント」

ときどき、というか、ちかごろ増えているように思う。いわゆる下町の大衆食堂で出すものが手づくりの「家庭料理」ではなく近所の店から買ってきたものや冷凍調理品であると、ガッカリする人がいるようだ。そういうひとは、もちろん、大衆食堂にとっては「新参者」だが。

これはどこか筋違いカンチガイというものだろう。そんなに手づくりの「家庭料理」がスバラシイ食べたいものならば、いわゆる下町の大衆食堂まで出かけるカネとヒマで、自分の家庭でつくればよいのではないかと思う。いわゆる下町の食堂まで出向いてそれを求め、ないからと食堂を非難するのは、おかしい。その食堂は、これまで、そういう「手づくりファン」に支持され生きのびてきたわけではないはずだ。

いわゆる下町というのは、昔ながらの手づくりの家庭料理の味を続けているというイメージを描くのは勝手だが、それは必ずしも事実ではない。「外食」と「中食」また「惣菜屋」が古くから発達していたのが、いわゆる下町で、「手づくり内食」の伝統は「山の手」のものだ。それは、ちょいと戦前や明治大正の話を読めばわかることだ。

それからたとえば、最近は、にわかホッピーブームだが、あれは、むかしたとえばおれが1962年上京して初めて飲んだころのホッピーはそういうものだったが、最初からジョッキに注ぎきりで出てくるのがフツウだったのだ。ひどいときは、ぬるい状態のこともあった。それが「戦後昭和」というものだ。

それが最近の「昭和レトロ」とかで、いわゆる下町の大衆食堂でホッピーを飲み、ジョッキに注ぎきりのホッピーが出てくると、懐かしがらずに文句を言ったり嘆いたりするひとがいる。「レトロ趣味」といいながら、それをよろこばない。

昭和レトロを求めながら、いまふうにマーケティングされた商品やサービスを求める。これは大いなる矛盾だと思う。しかし、「昭和レトロ」ブームそのものがマーケティングされたものである現状があるから、それも当然なのだろう。

問題は、本人が、マーケティングされた行為をしているのに、そうは思わずカンチガイして、自分はよい趣味をしていると思い込んでいることだ。そういう思い込みによって、せっかく残っていた地域性や「昭和レトロ」は、ナマケモノとして非難される。どうやら下町の人間は、すごい職人仕事をやる人でなければいけないらしい。

そういうイメージをうえつけたメディアも悪いが、近年の、いわゆる下町ブームの食べ歩き飲み歩きは、そのほとんどは「B級」といわれるものだが、歴史的社会的視点に欠け論理的思考を怠ける、「典型」ともいえる日本人の姿が顕著であるように思う。

前にも書いた。チンで仕上げたおかずが出ると文句をいうひとがいるが、昔から大衆食堂でめしをくってきたものにとっては、チンが導入されただけマシなのである。ナニゴトも、そのように歴史や社会の地域性のなかで呼吸している、その呼吸に、もっと思いをはせるべきだろう。

いわゆる下町酒場や大衆食堂を、「優秀な経営コンサルタント」の視線で食べ歩き飲み歩く姿は、いかにも悩ましい。そうなのだ、みんな経営コンサルタント、飲食店経営コンサルタントの「先生」になってしまったのだ。

こういうこと書くと嫌われて、本が売れなくなるから、なるべく書くなといわれたことがあるのだけど、書いちゃいました。オリコウなイイ顔していてもしょうがないもんな。ああ「先生」、あなたはエライ!

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2005/02/21

「大衆食堂の研究」とレトロブーム

当ブログに「オッ「大衆食堂の研究」から10周年」を書いたのは1月4日だった。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2005/01/post_4.html
そのあと数日、そのことについて書いているが、いつのまにか気まぐれに立ち消え。というわけで、またもや話を復活させよう。

最近の「レトロブーム」は、いつ始まったのか調べていた。まだ正確に発生のプロセスはつかめてないが、「大衆食堂の研究」の企画が決まったのは、推測すると93年ごろではないかと思われるが、そのころにはレトロブームの雰囲気が濃かったように思うし、「大衆食堂の研究」の企画がスンナリ決まったのもレトロブームが背景にあったからだと思われる。

ナンジャタウンの開業が1996年。幕内秀夫さんの「粗食のすすめ」の発刊が、1995年7月で、「大衆食堂の研究」と同じ月。銭湯ブームに火がつき、町田忍さんが注目されたのも、そのころだ。

「粗食のすすめ」が爆発的に売れたのには、レトロブームが、かなり影響している。ついでにいえば、いまの古本ブームや「和」ブームもスローフードブーム?も、その延長だろう。

レトロブームというのは、記憶のリサイキュレーションという側面を持っていて、リサイクルOKのものだけ「レトロブーム」でリサイクルされる。つまり、あいだに、フィルタリングが働くのだ。問題は、なにがフィルタリングで、はずれたか、はずされたかだろう。

「大衆食堂の研究」では、そのはずされたものに執着した。であるから結果的に、レトロブームとは一線を画すことになり、レトロブームにのることはできなかった。それは同時期の「粗食のすすめ」と比べてみれば明らかなのだが。そして大衆食堂のイメージに近いであろう、「下町ブーム」や「銭湯ブーム」とも無縁だった。

なにかを選べば、一方で何かを捨てているのだ。

レトロブームや下町ブームで捨てられたのは、ナニだろうか。「先進文化」や「山の手文化」ではない。もちんろん「近代文化」でもない。

大胆な予測をすれば、現在進行中の「憲法改正」のメドが立つまで、現在のレトロブームは続くだろう。

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2005/01/07

『大衆食堂の研究』の発端

きのう南陀楼綾繁さんと高田馬場BIGBOXで開催中の早稲田古書店の古本市で待ち合わせ。駅近くの横丁ビルのなかの「秋田っ子」へ。あとから、古書現世セドローくんと初対面の三楽書房アキヒロくん。

くわしくは、綾繁さんの「ナンダロウアヤシゲな日々」と
http://d.hatena.ne.jp/kawasusu/20050106
セドローくんの「古書現世店番日記」に。
http://www.w-furuhon.net/wswblog/000342.html

なかなかオモシロイ店で、いろいろな意味で興味を持った。まず場所が、かつてはキッタナイ小さな横丁路地だったに違いないところを一つのビルにして、ビルの玄関はつくらないで、そのまま横丁に入っていく感覚の一階真ん中に、小さな間口のアヤシゲな飲食店がならぶ路地を残した古いつくりだ。こういうビルも、そのなかにある店も、フラッと入るには「勇気」がいる。

そもそも店主が、「よくこういう店に入ってきたね、勇気がある」というようなことを言った。もとはといえば綾繁さんが昼定食を食べに入ったことがあって、夜もよさそうなので入ってみようということだったのだが。その店主が、客がいるのに自分で勝手に飲んで酔っぱらうオモシロイひとである。彼は、どうもおれと同じぐらいの年代のようだが、秋田から中卒15歳の集団就職で上京したのだ。つまり「金の卵」といわれたひとたちだ。うーむ、その話を、もっとよく聞きたい。

おれの中学の同級生も多くが集団就職で上京した。彼らは、ほとんど東京の街の商店とくに飲食店に就職した。東京の大衆的な飲食店と集団就職の関係は深いものがある。思い出したので書いておくが、1960年前後は、いまでは想像つかないくらい都内には蕎麦屋が多く、蕎麦屋に就職したひとも少ない。そして彼らは、何十人分もの蕎麦を一緒に肩に担いで自転車に乗って配達するという「芸当」のようなワザを身につけ、それが自慢だった。おれの親戚にも、そういうひとがいたが、先年他界した。

ところで『大衆食堂の研究』だが、その発端は、一昨日の日記に書いたように、埼玉県朝霞市のかめさん食堂である。そこでめしくいながら、「もしかすると、イマ大衆食堂の存在は、ジケンじゃないかな」とフト思った。それがいつのことだったか、もう忘れた。このかめさん食堂のページに『大衆食堂の研究』から引用している文章を見ると、1993年秋に、かめさん食堂でめしをたべているが、そのときだったかどうかはワカラナイ。とにかく、かめさん食堂に初めて入ったときに、そう思ったのは、たしかだ。

もし、そのときだったとすると、2回目の離婚と同時の蒸発ブラブラ開始が92年の6月だったような気がするから、それから一年ちょいとすぎたころになる。とにかく、「懐かしい」とかいうものではなく、「ジケン」だと思ったのが、『大衆食堂の研究』のナカミになるのだ。『大衆食堂の研究』に、あまり「レトロ感」がないのは、そのためかもしれない。

今日は、ここまで、つづく。

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2005/01/05

人生山あり谷ありのなかでの「大衆食堂の研究」

きのうのつづき。拙著、『大衆食堂の研究』は三一書房から1995年の発行、『ぶっかけめしの悦楽』は四谷ラウンドから1999年の発行だが、じつは企画としては、『ぶっかけめしの悦楽』のプランのほうが先に進行していた。それは原案の段階では、「汁かけめしとカレーライス」というかんじだったが、その話の発端は、たしか1991年だろう。

そもそもは江原恵さんが三一新書から刊行していた『カレーライスの話』(1983年)を大幅に書きなおす話で、江原さんは監修で、おれが書くという編集者のプランから始まったのだ。

なぜ、その話がおれのところにきたのかというと、『カレーライスの話』発刊の企画にからんでいたからだ。つまり江原生活料理研究所が発足した1980年ごろ、おれが発行人になって、ミニコミ小冊子「ポリセント」(季刊)をだしていた。そこに、江原恵さんに「カレーライスの可能性」という短いエッセイを書いてもらったのだが、それが三一書房の編集者の目にとまり、カレーライスの本の企画になった。

その最初の企画から、取材の段取りや費用のてあてなど、おれは江原生活料理研究所のプロデューサーというかんじの役回りでからんでいた。そして当初は、おれも共著者として書いてほしいという話もあったが、おれはモノヲカクということにあまり関心はなかったし、周辺にライター稼業のひとをたくさんみて、ああいうショーバイはしたくないなあという印象があったり、それに本業のプランナー稼業のほうが忙しくかつおもしろく、まったく書く気はなかった。

しかし、内容については、江原さんと毎日のように夜な夜な飲み、議論していた。『カレーライスの話』の「第一章 カレー談義」は、冒頭「本書の執筆をすすめた友人が、かれの社の近くの大衆酒場で、話にひとくぎりついた後で、私に言った」で始まる。その「友人」がおれで、「カレー談義」として書かれているのが、その議論のナカミである。ま、書かれたナカミは、議論と必ずしも正確に合致しない「創作」もあるが。

「かれの社の近くの大衆酒場」とは、当時おれが契約在籍していた、千代田区麹町、五番町交差点近くの企画会社の前にあった、居酒屋チェーンの駒忠である。そこは午後2時に開店したのだが、おれは開店同時に入り、酒を飲みながらモロモロの打ち合わせをして過ごすということをよくやっていた。ヒドイときは、午後2時から閉店の午前2時まで、いつづけることもあった。

つまり最初は1991年ごろ、『カレーライスの話』を書きなおす話から始まったのだ。そのプランを検討しているうちに、おれが東京に落ち着いていなかったこともあったし、まだそのころでもモノヲカクということに気がすすまず、デレデレと案を相談しているうちに2回目の離婚や、その後の蒸発放浪ブラブラという事態が重なって、のびのびになっていた。

思い出したが、『カレーライスの話』の発刊のころも1回目の離婚でイソガシカッタのだから、この企画は、よくよくおれの人生の破天荒イチダイジに関係がある。いやはや、人生山あり谷あり……。

ま、そういうわけで、蒸発放浪ブラブラのあいだに、フト気になった大衆食堂で、大衆食堂の本のアイデアが浮かんだのだ。そして、当時は、おれは家なき住所不定蒸発オヤジであったから、ときどきおれから三一書房の編集者に連絡しては、都内の大衆食堂で会っていた。

その連絡のとき、ハガキで連絡するときは、「大衆食堂で会おうかい」の「かい」を「会」と書いたりしてアソンデいた。それやこれやで、『大衆食堂の研究』と「大衆食の会」の誕生になるのだ。

そうそうそれから、『カレーライスの話』のときは、おれはまったく原稿作成に関わる気はなかったのだが、Sさんという若い女性の、ライターとしてもエディターとしても有能なスタッフをくわえた。『カレーライスの話』には「S嬢」なるひとが登場するが、それが彼女で、「第3章 ごった煮カレー汁と本物のカレー」の、北海道での調査や聞き書きは、彼女のシゴトなのだ。

そして、『カレーライスの話』の書きなおしプランのときも彼女は最初から参加していて、そのまま「大衆食堂で会おうかい」にも参加し、『大衆食堂の研究』の最後に登場する嶋岡尚子さんである。大衆食堂の本を先に出すことが決まってからは、われわれは、何度かそうして都内の大衆食堂で会っていた。

ああ、長くなった、今日は、ここまで。
大衆食堂の本のアイデアが浮かんだ食堂は、ザ大衆食のサイトに紹介してある。こちら、かめさん食堂。
http://homepage2.nifty.com/entetsu/kamesan.htm

ついでに、「はてなダイアリー 江原恵」には、江原さんが「カレーライスもまた立派な日本料理だ、と、まじめな挑発をおこなった」という書き方をしている。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%BE%B8%B6%B7%C3?kid=44225
江原さんは「過激」な言動が多かったが、「挑発」というのは、この「はてな」を書かれたかたの主観だろう。そのことは、いずれ詳しくふれたいが、『カレーライスの話』は最初は「カレーライスの可能性」として企画されていたのであり、それはまた日本料理の可能性でもあるというのが、そのころのおれと江原さんの共通した考えだった。それは第一章のなかに、「カレーライスを生んだ文化の可能性」というぐあいに表現されている。これは、決して「挑発」などではない。とはいえ、本は出版されたら一人歩きするし、書かれたものはすべて著者の主観によるものであるし、また読むひとも主観を持って読むのだから、江原さんの言動を「挑発」と読むのも、またオモシロイと思う。

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2005/01/04

オッ「大衆食堂の研究」から10周年

忘れていたが、おれの出版デビュー作『大衆食堂の研究』の発行は1995年7月だから、2005年の今年は10周年なのだ。

「大衆食の会」も、10周年。それまでは、いいかげんに「大衆食堂で食べよう会」などとハガキに書いて案内していたのだが、本をだすにあたって、おれが無名の新人なものだから、著者名になにかモットモラシイ会の名前を入れたほうがよいという編集者のアドバイスもあって、「大衆食の会」を名のった。

大衆食の会になってからの初快会食は、1995年10月19日、「サバ味噌煮を食べる会」だった。そのときの様子は、紙版「大衆食の会通信」に載せ、ザ大衆食のサイトに転載してある。
http://homepage2.nifty.com/entetsu/kai951218.htm

昨年は、一回も大衆食の会をやらなかったが、今年は2月に予定しているほか、10周年記念イベントも含め何回かやる予定。

ま、とにかく、おれは、『大衆食堂の研究』の発行のころは、マダ50歳そこそこの若さだったが、10年たってアワレな老人62歳である。

しかもバブルでイカレきったあとの世間のアタマは『大衆食堂の研究』を受け入れがたかったのか、あまり売れなかったし、「下品」というよろこばしい非難をあびるし、出版社の三一書房は労使紛争と経営紛争のゴタゴタで、配本も発行もできない状態になった。イッタイこの10年間は、祝えるかどうかわからない「失われた10年間」ともいえそうだが、しかし、なんでもいいからリクツをつけて酒を飲んで騒げばよいのである。

『大衆食堂の研究』は、どうして始まったのか。ということは、明日から書こう。

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2004/12/09

『東京いい店うまい店』と「ヤル気のない」食堂

「書評のメルマガ」に隔月で連載中の「食の本つまみぐい」。12月8日発行vol.191に「中流意識市民のためのスタンダード」というお題をつけ、文藝春秋編『東京いい店うまい店』文藝春秋1967年を掲載。配信中。申し込みは、こちら。
http://www.aguni.com/hon/review/index.html

12月1日の日記に書いた朝日新聞夕刊に載った不二食堂の記事を読んだ、大衆食の会に参加の読者から手紙が届いた。長いあいだ不二食堂のある台東区竜泉に住んでいたひとである。

彼は手紙に、こう書いている。「不二食堂、ホントよかったです。あのヤル気のなさがまだ続くかと思うと泣けます」

いやあ、こういう手紙をもらうと、ホント、泣ける。そうだ、「ヤル気のなさ」が魅力の大衆食堂は、ほかにもいくつかあるが、その魅力を、マーケティングな尺度、たとえば経済的な成功のために「意欲的」で「輝いている」ワタシじゃなきゃいけないといったことを、日常の「生きる」基準にしてしまったひとたちや、西欧エリートのモデルにすぎない近代合理主義でかたまった客観的で普遍的な正義や美学を信仰しているひとたちに説明するのは、とても難しい。彼らは「優劣」を評価するだけで、「優劣」以外の存在を知らないからね。

食事や料理は、客観的あるいは普遍的な「優劣」じゃ評価できない。ナゼナラバ、それは、人生とおなじように、一過性のものだからだ。かなり主観的な、個人的な、身体的感覚の世界のことだからだ。

「ヤル気のなさ」がよいこともあるのさ。そもそも、「ヤル気」なんか、どうだっていいのさ。自分にとって、なにが大事かであって、それによって食事も料理も決まる。客観的な評価、普遍的なうまさ、なんか、幻想。自分の身体感覚を自由に保つことだね。客観だの普遍だの、というのは、日本的には、「みんなの目」「まわりの目」「誰かさんの目」ということにすぎないんじゃないの。

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