2019/06/22

昨日は間違っていた。

昨夜は寝床に入ってから、掛け算では間違っていると気がついた。割り算でなくては、剰余がでないのだ。

そこが気になって、うつらうつらしながら考えるものだから、よく眠れなかった。

うつらうつらしながら考えたことは、まず、元の方程式「事件÷推理=解決+剰余」に素直に従ってみると、「事件を推理によって解く」となる。これを料理と味覚に置き換えれば、「料理を味覚によって解く」になるから、ひとまず「料理÷味覚=解決+剰余」となる。しかし「解決」に替わる言葉が思いつかない。

とりあえず、「解決」を「味」にしてみると、「料理÷味覚=味+剰余」になる。「生活的」には、これでもよいかな、という感じではあるから、いまは、こうしておこうと思った。

生活度よりグルメ度(趣味度)が高くなるほど、管理や抑圧が強く働き、「剰余」が無くなり、「料理÷味覚=味」の世界になっていく。

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2019/06/21

料理と味覚の楽しみにおける「剰余価値説」を考えてみた。

植草甚一の『こんなコラムばかり新聞や雑誌に書いていた』(ちくま文庫」を読んでいると、ついつい料理や味覚のことに関連させて考えてしまうことが多い。

本を味わうには学習をつんで読解力がいるように、料理を味わうにも学習をつんで「味読力」のようなものが必要だ。植草甚一の読解力の核には「論理」があって、これが「味読力」にも応用ができそうな気がして、ついつい考え込んでしまうのだ。

って、この文章の調子も、植草甚一に似てきちゃいそうだが、いま気になっているのは、「事件÷推理=解決+剰余」という方程式だ。

この方程式は、「ラウトリーという偉い牧師も推理小説を読みながら、悪の問題と直面している」という長い見出しで、エリック・ラウトリー『探偵小説のピュリタン的な楽しみ』と権田萬治『宿命の美学』を評しているなかにある。植草甚一の考案ではなく、権田萬治の考案なのだ。

『宿命の美学』は十三年間にわたる評論の集大成であり、その間に権田萬治が「推理小説を楽しむための個人的鉄則として、一つの方程式つくった」、それが、これなのだ。

「この方程式にある<剰余>が問題になってくるのであるが」と植草甚一は、<剰余>が作品の魅力になっている長編推理小説を12編あげている。権田萬治が選べば、その方程式に従って、たんぶこうなるだろうということなのだ。この試みも楽しく面白い。

「ところで」と植草甚一は、「<剰余>がなくなって(事件÷推理=解決)という方程式をつくったのは土屋隆夫なのであるが、よく出来上がった本格派の推理小説を規定したものとして、なまじっかな定義により遙かに明確なので気持ちがいい」と。

そして、「エリック・ラウトリーはどうかというと、<剰余>なしの本格物がすきな人である。すぐれた本格物は読み終わったときカタルシス作用を起こさせるものだ。そのためにまたカタルシス作用を起こさせるような作品が読みたくなってくる」

カンジンなのは、ここからだ。

「ところが<剰余>がある推理小説の場合はカタルシス作用をおこさせないことが多い。割り切った結末がないからだ」

と、このまま引用を終わっては、植草甚一にも権田萬治にも失礼だ。

とにかく権田萬治は、日本の作家と翻訳された推理小説は全部読んでしまった、「一か月に五十冊も読まないとカタがつかないことがあったそうだが、そんなとき推理小説の<剰余>的要素がどんなに面白いものかを繰り返し感じとったにちがいないのだ」

で、おれは、大衆食堂や家庭の料理というのは、割り切った結末がない。特定の管理や抑圧から比較的自由であり、台所を担当する者の意思や気分が働きやすい、きのうの続きであり明日に続く日々の繰り返しだ、そこに<剰余>があるのか生まれるのか、その<剰余>を楽しむものではないかと思った。

「本格的」な専門料理ほど、<剰余>はなく、事件÷推理=解決の方程式にはまる。完結する方程式のうえに成り立っている料理だ。興奮または大興奮するほどのカタルシス作用がある。でなければ、高いカネを払って食べに行かない。

マニュアル化されたチェーン店の場合は、管理と抑圧に従っているから<余剰>は生まれない。想像通りのものを想像通りに食べて終わる。

とまでは考えてみたのだが、事件÷推理=解決の、「事件」や「推理」や「解決」に相当するものは料理の場合どうなるだろうというあたりが解決しない。

「事件」は、「素材」あるいは「食材」でよさそうだ。「推理」を「調理」にした場合、「÷」が、どうもしっくりこない、「×」ならよいかもしれない。「解決」は「料理」では、単純すぎる、「食卓」のほうが「解決」に近いのではないか。

とかとか考えてみると、なかなか面白くて、とまらない。

これを料理と味覚の「剰余価値説」として追求してみよう。「剰余価値説」といえばマルクス経済学だが。「いづみやの煮込みのルサンチマン的な楽しみ」についても、また考えてみたくなった。ああ<剰余>。

当ブログ関連
2007/11/18
大宮いづみやで「ルサンチマンの味」を知る
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2007/11/post_0bf4.html
2016/02/01
開高健『鯨の舌』から、味の言葉。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2016/02/post-3fda.html

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2016/07/15

「いろいろのねじれ方」を味わう。

吉行淳之介に「酔いざめ日記」という短いエッセイがある。

そこで彼は、井伏鱒二が言った日本酒の味わいについて、人づてに聞いたことを、書いている。

吉行淳之介は、「八十歳を過ぎた筈の井伏鱒二氏は朝まで居酒屋で飲んでおられて、泰然自若たるものがある」というような話しを聞くのだが、「二十年ほど前、新宿の居酒屋で偶然に井伏さんにお会いした。そのとき、「このごろ酒を飲むと湿疹ができて困る」と言われたので、日本酒をウイスキーに替えるようにおすすめした。ウイスキーのほうが、人体細胞内の滞留時間がはるかに短いのである」

と、そのあとだ。

「人づてに聞くと、その後の井伏さんは、ウイスキーのことが多いそうだが、「日本酒がゆっくり時間をかけて体内を通り過ぎてゆくそのいろいろのねじれ方に趣きがある」という意味のことを言っておられたそうだ」と書く。

「日本酒がゆっくり時間をかけて体内を通り過ぎてゆくそのいろいろのねじれ方に趣きがある」って、なんだかよくわかるし、うまい言い方だなあと思った。それに、舌先ではなく、体を使って味わっている感じがいい。

同じ安酒でもねじれ方がちがうし、純米酒だっていろいろなねじれ方がある。

こういう「大人の飲み方」と比べたら、安酒をバカにしたり、反対に「純米山廃」だからよいだの好きだのという話は、とても幼稚で、酒を味わっているとはいえない。

「いろいろのねじれ方に趣き」を見つけて楽しむのは、人生観や世界観にも関わることだろう。

ま、とにかく、酒を飲むにも、物を食べるにも、全身を使うことだ。舌先だけ、口先だけでは、いけない。

奥が深いなあ。それにしても、井伏鱒二のような大人が、少なくなったなあ。おれもイチオウ大人なのだが。

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2016/02/01

開高健『鯨の舌』から、味の言葉。

きのうの話の、山本容朗さんが編集の『日々これ好食』(鎌倉書房、1979年)には、開高健『鯨の舌』も収録されている。

開高健というと、味覚の表現が豊かで、それも、世界の認識や真実に迫ろうという姿勢が、おもしろく楽しいし、ためになる。この話のばあいも、そうなのだ。

『鯨の舌』は、おでんと鯨の話だが、大阪生まれ大阪育ちの氏のことなので、とくに道頓堀にあるおでんやの「たこ梅」と、鯨のコロやサエズリのことが中心になっている。

とにかく、例によって、多彩な言葉を「まさぐり」ながら動員して味覚を探索しているのだが、「味」の言葉が多い。

「たこ梅」特製のコンニャクについて、「淡白な滋味」に感動するのだが、そのコンニャクを刺身や天ぷらにすると、「《無味の味》とでもいうか禅味があって、私は好きである」とか。

禅味なら、なんとなく想像つくが、サエズリについては、こうだ。

「サエズリの味を文字に変えるのはたいそうむつかしく、ほとんど不可能を感じさせられる――すべての"味"や"香り"がそうであるが――」と書いたのち、「奇味。怪味。魔味。珍味。」とあげる。

そして「いろいろと風変わりでしかもうまいものを表現する言葉をまさぐりたいが、子供のときから鯨をいろいろな料理で食べ慣れてきた私には珍しさよりも親密さがあって、もし一串のなかで香ばしくて淡白な脂のあるコマ切れに出会うと、滋味、潤味という言葉を選びたくのである」といったぐあいに続けるのだ。

味覚には、多様で豊かで雑多な快楽があるはずだが、とくに近頃は、あんがいツマラナイ話が多い。なんていうのか、書く人が自分の感覚の心地よさに酔っているような、味覚自慢のような、とにかく言葉をつくしているようでも、なんだかふわふわしていて薄っぺらで、味覚を掘り起こしてくれるような話が少ない。

「私は「いい味」を知っている」式の話は、ともすると説教臭くもあり、辛気臭くて、解放感がない。だから、味覚が、ちっとも楽しくない。

味覚というのは、世界の真実を認識し理解をするための大切な感覚なのに、いつのまにか、卓抜した感覚や能力を称賛したり誇るためのネタになった感じがある。満たされない自己の何かを満たすための踏み台になるネタを、味覚に求めている人が少なくないということでもあるのだろうか。

もっとも、いまどきは、「世界」だの「真実」だのというのもダサイ感じで、そんなことより、自分の心地よさが大事という感じではある。

開高健の味覚の話は、食べる歓びや、未知の世界へ、どーんと解放してくれるような、おもしろさがある。

以前このブログでもふれた、昨年亡くなられた文化人類学者の西江雅之さんの食の話がおもしろいのも、世界や人間の多様性を認識しながら、かつ興味深く追いかけていたからではないかとおもう。

味覚は、広い世界、深い真実へ向かってこそ、おもしろく楽しい。

おれは、聴覚と視覚が失われた、ヘレンケラーのような人の味覚を想像してみた。味覚は、世界や真実の窓口であり、それらを認識する重要な手掛かりなのだ。それを、ふわふわと消費していて、いいものだろうか。

日本の文化は、日本料理など典型的だけど、系譜主義と純血純粋主義の影響を強く残している。そこにある狭量な価値観は、少なからず味覚にもつきまとっている。

はあ、もっと解放された味覚で、大らかに食を楽しみたい。

そういう意味では、おれが最も好むのは「痛快味」なのだ。でも、これ、しゃくだけど、まさに系譜主義と純血純粋主義の権化みたいな、辻嘉一の本から知った言葉なのだ。辻さんは、「快味」という言葉も、ときどき使っていたとおもう。ま、ニンゲンは、矛盾に満ちた動物であるってこと。

いままで最も傑作だった味の表現は、大宮いづみやの名代もつ煮込み(170円だったかな?)を「ルサンチマンの味」と書いたひとがいて、これですね。脱帽。

「ルサンチマン」って、「悪」「負」「タブー」のイメージだけど、それはルサンチマンの標的になりやすい立場にあるエスタブリッシュの希望なのではないだろうか。そんな思想をうのみすることはない。

ルサンチマンを抱え安酒場で飲んで癒されているものが、せっかく頂戴したルサンチマンを簡単に放棄すべきではないだろう。ルサンチマンの味は、ルサンチマンを植えつけられたうえ、さらにそのルサンチマンを否定される状況からの解放であろう。ある種、痛快味でもある。いや、このうえない野暮味かな。

なーんて、考えた、『鯨の舌』だった。

当ブログ関連
2007/11/18
大宮いづみやで「ルサンチマンの味」を知る

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2016/01/31

戸板康二「米の飯」から。

山本容朗さんが編集の『日々これ好食』(鎌倉書房、1979年)は、飲食に関する作家の作品から「二編の小説と四十八の随筆」を選んでいる。

そのなかの戸板康二「米の飯」に、こういう文がある。以下引用………

 ライスカレーをはじめ、上にものをかけて食べる米の食べ方を、ぼくは一番、身になる食べ方のような気がしている。ぼくは高級レストランで食べるビーフシチューを飯にかけたい誘惑に、しばしば襲われる。
 三田通りにむかしあった洋食屋の加藤では、「カツのっかり」というのが名物であった。カツを飯にのせて持って来るのである。ナイフを入れてあって、ソースを上からかけると、カツの間からそれが飯に沁みていった。
 ハヤシライスにしても、のっかりにしても、カレー同様、飯をじかに自分の身につける気のする食べ物である。むろん、その米が、よく炊けていたら申し分はない。

………引用終わり。

引用しながら、ヨダレが出てきた。加藤の「のっかり」については、池田弥三郎『私の食物誌』にも、「のっかり」の一文があり、拙著『汁かけめし快食學』でも引用している。

体験的には、カレーやハヤシライスやのっかりは、「上にものをかけて食べる米の食べ方」である。「ぶっかけめし」「汁かけめし」のはずだが、こういう体験は、なかなか「歴史」にならない。ってことについては、その何故も含めて、『汁かけめし快食學』でも書いた。

それはともかく、「身になる食べ方」「飯をじかに自分の身につける気のする食べ物」という表現が、いいねえ。

戸板康二は、1915年生まれ。この文でも「米というものが、何ものよりも尊くおもわれたあのいやな時代」「「天道様と米の飯はどこへもついてまわる」という諺が、遠いところへ行っていた暗黒の時代、もうあんな時代は二度と願い下げにしたいものである」と述べているが、戦争の飢餓を体験している。「身になる」は、だからこその表現かもしれないが、食うことの根源のような気がする。

「暗黒の時代」は願い下げにして、身になる食べ方をしたい。もしかすると、「身になる食べ方」を大切にすることは、「暗黒の時代」の再来をふせぐことにつながるのかもしれない。

なにより、こういう体験を大切にし、シッカリ語り継ぎ、「歴史」にすることだろうね。ふわふわした味覚の話ばかりしてないで、「身になる食べ方」から「身になる歴史」をつくる。なんてね。

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2015/01/27

オノマトペな味覚。

先日、ツイッターで「銀座三州屋。旬のカキフライの幸福感。ソースさらりと掛けて頬張ると、その食感はサクサクぶりん。カキから旨味がジュッと滲み出て口の中にたっぷり広がり、最後にふわりと磯の香が残る。美味い。」というツイートを見つけ、思わず笑った。

とにかく、面白いのだ。

これだけの文章のなかに、擬音語や擬態語など、いわゆるオノマトペといわれれる語彙が、「さらり」「サクサク」「ぷりん」「ジュッ」「ふわり」。「たっぷり」は一般語との中間ともいわれるが、この場合は擬態語に近い使い方だろう。

これらの語彙を省いてしまうと、「その食感は」通じなくなり、「ソース掛けて頬張ると、カキから旨味が滲み出て口の中に広がり、最後に磯の香が残る」というぐあいになる。

オノマトペには、ひとを気持よくさせ酔わせる力がある。そして、いわゆる、うまいもの話が好きな「グルメ」な人たちのあいだでは、オノマトペが多用されるし、よろこばれる。このツイートなども、そういうことの反映だと思う。

オノマトペを使った文章は、受け入れられやすく、広がりやすい。ということを「実験」してみたことがある。

おれは、なるべくオノマトペを使わないで書いてみようとしている。それには、ワケがあるのだが、そのわけはともかく、東京新聞に連載の「エンテツさんの大衆食堂ランチ」は、新聞掲載日にすぐ東京新聞のサイトにアップされる。これが、たちまち2chあたりのエサになった。

彼らは、たいがい、「通りがかり」に、痰を吐くように何かしらの悪態を書き込んでいくことが多い。その意味では、彼らのテクニックは洗練されていて、なにかしら自分が気にくわないところや、くらいつきやすいところを素早く見つけ、きわめて簡潔に痰を吐く。

あまり高級店とは縁がなさそうな彼らにとっては、大衆食堂あたりはネタにしやすい。身近でケチをつけやすいものには、すぐくらいついてくる。

おれとしては、彼らに痰を吐かれるのは、いやじゃない。ある意味、彼らに貶されるのは、とても名誉なことだと思っているのだが、あるとき、彼らをのせてやろうという遊びを思いついた。

これならのってくるだろうと思われる擬音語を使ってみたのだ。すると、案の定、のってきた。その語彙が彼らによって繰り返し使われて、どんどん拡散していく。

だからといっておれの文章をほめるようなことはなく、ただ彼らは、とても気持よさそうなのだ。

べつに彼らに限ったことではない、文章を読者に売り込むには、オノマトペを上手に使うことだ。最初に読んだひとが気持よく受け入れて、ここが大事なのだが、それを同じように誰かに伝えやすい語彙を使うこと。これは、広告コピーの基本だが、飲食においては、じつにわかりやすくあらわれる。

太田和彦さんの「ツイーッ」なども、その典型だね。

読者が気持よくなるオノマトペは、売れる文章に不可欠のようだ。

だけど、味覚をオノマトペ抜きで書くのは難しいが、オノマトペを使いなれてしまうのも、アブナイことだと思っている。もっとアブナイのは、オノマトペに酔ってしまうことだろう。

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2015/01/08

使いたくない言葉、「上品」と「下品」。

あまり使ってないが、このブログのカテゴリーには、「味覚・表現アレコレ」がある。今日は、このカテゴリーに関係する内容だ。

あまり使いたくない言葉がいくつかある。なかでも最も使いたくないのは、「上品」と「下品」だ。

もちろん、「上品ぶっているやつは、たいがい下品なやつだ」なーんていうふうに使うのは楽しいし、「うーん、この下品な香りが漂うからこそ、この料理はおもしろくなっている」なーんてのも楽しい。

モンダイは、味覚の表現でよく見かける、上品だからよい、下品だから悪いという「思想」なのだ。

「上品」「下品」という言葉を捨てれば、その言葉を使って見たり判断することはできなくなるし、違う言葉を考えなくてはならない。そこに、思考の幅のようなものが生まれる。それが、大事だと思う。思考の幅は、物事の見方の幅、味覚の幅にも関係するからだ。

とくに、「上品」「下品」は、儒教的価値観が入りやすい言葉で、これを使うひとの頭の中には、序列的な価値観が入っているとみて、ほぼ間違いない。それは、前のエントリーに書いた、快楽を罪悪視する思想にも通じるし、ひとを上下でみる考えにも通じる。

飲食の快楽のためには、「上品」や「下品」は、最も使ってはいけない言葉なのだ。そもそも、こんな言葉で簡単に片づけていては、味覚の楽しみは、ずいぶん失われる。そんなふうに考えるおれは、20年前の『大衆食堂の研究』のときから、このことを意識している。

『大衆食堂の研究』以来使っている、「気取るな、力強くめしをくえ!」は、その結果、頭に浮かんだフレーズなのだ。

実際のところ、飲食の世界では、「上品」といってしまえば、簡単に共感が得られやすい場面が多い。ついでながら、「粋(いき)」なんて言葉もそうだ。だからこそ、書く方も安直に使うのかも知れない。上品ぶっている下品なやつが多すぎるのだ。

「上品」「下品」という言葉を使わないようにしよう。

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2013/04/17

「うまい」と「おいしい」。

いま書いている本の原稿でも困ってしまうのだが、おれは、「ありふれたものを美味しく」という表現をスローガンのように使っているが、それが「ありふれたものをうまく」にもなったりもしている。

本来は「うまい」なのだが、「うまく」になってしまうと、どうもうまく伝わらない感じがする場合があるからだ。

「ありふれたものを美味しく」の「美味しく」は、ほんとは「うまい」を意味し、「美味しい」や「旨い」や「うまく」を表現したものではない。と書くと、少しは、わかってもらえるだろうか。

「うまく」と「うまい」は、ずいぶん違う。

もう、なんだかややこしくて、いやんなっちゃうね。

おれとしては、世界と日本の言語学はともかく、「美味しい」は、舌の味覚のことであり、「うまい」は、もっと皮膚感覚も含めた、大げさにいえば、全宇宙的に生きている自分を感じる、広い味覚の表現として、使い分けたい。

つまり、「美味しい」には、「生命感」や「幸福感」といったものは含まれない。「うまい」には、幸福感も含め、「生きる」ことの喜びに通じる「食べる」ことの喜びが含まれる、といったぐあいに使い分けたい。

だけど、「ありふれたものをうまく」というより、「ありふれたものを美味しく」の方が、自分が伝えたい実感に近いので、困る。

それは、「うまく」のもつ、ことばのいかがわしさ、つまり「上手く」といった要領のよさが入り込んでくるような感じがあるからのような気がする。「うまい」には、「うまく」にはない潔さがある。

それにしても、「美味しい」を女ことば、「うまい」を男ことばとして、使い分けるくだらなさよ。

はあ、悩ましい。ひさしぶりに酔ってブログを書いているせいもあるのか、自分でも、よくわからない。

当ブログ関連
2006/10/04
「ガツン」と「旨い」

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2006/10/05

「快味」を調べる

このブログが始まる前には、ニフティから提供されるメモ帳のようなものを使って、「発作なメシゴト日記」というのをやっていた。それはいま、そっくりコチラに移行し、右欄のカテゴリーにおさまっている。

そのころの古い記録だが、03年9月19日に「軍鶏鍋」という題で、池波正太郎さんの作品から引用しアレコレ書いている。

んで、『鬼平犯科帳』の文春文庫版8巻の「明神の次郎吉」だが、

「 つぎに、軍鶏の臓物の鍋が出た。
  新鮮な臓物を、初夏のころから出まわる新牛蒡のササガキといっしょに、出汁で煮ながら食べる。熱いのを、ふうふういいながら汗をぬぐいぬぐい食べるのは、夏の快味であった。」

と「快味」という言葉がつかわれている。

この「快味」という言葉。おれは『汁かけめし快食學』のように「快食」をコンセプトにアレコレ書いているが、「快味」という言葉はつかったことも考えたこともない。ま、それで、この言葉、気になるのだな。

気になってイチオウ『広辞苑』第5版を見ると、載っていた。

「きもちのよい感じ。おもしろみ。」ということだ。

ここに「おもしろみ」とあるのがオモシロイね。「夏のおもしろみ」「秋のおもしろみ」そして冬の春の「おもしろみ」が、味覚としてありそうだ。

そこで、さらに探求すべく、グーグルで検索。すると、けっこうあるのだなあ。

知らなかったが青空文庫には、豊島与志雄さんの「自然」という短文エッセイがあって、自然讃歌であるけどイヤミがなくてよい。素晴しい。そこに「快味」が登場する。こんなぐあいだ。

「味そのものの見地からすれば、黒砂糖は白砂糖にまさり、更に砂糖黍は黒砂糖にまさること数段である。砂糖黍の艶やかな皮をむいて、あの白い中身をしゃぶる甘味快味を、私は終生忘れないだろう。」

この豊島さんと池波さんの文章からすれば、「快味」は、自然や季節に寄り添うように使われている。ま、味覚そのものが、自然と深い関係にあった時代の話だからかも知れない。

もう一つだけ、おもしろい素晴しいエッセイをあげておこう。「花崖記念」の「花崖記念文庫」の「代表作 随筆集 『田園』よりvol.6」だ。「茶漬飯哲学」の題に、以下のような著述がある。

引用……

満腹の快味を感じ得る者は幸福である。
半日鍬棒を振り廻して、さて食事時となって味噌汁と漬物で麦飯を六七杯平らげる。腹は文字通り一ばいになる。餓えたる腹の満たされたる一種異様の快味は、恐らくその人でなければ分からない。猛烈に働く者でなければ分からない。健康なる者でなければ分からない。
満腹の快味は人間が孤々の声をこの世に挙げた時、最初に表わるる主なる本能である。嬰児は教えられざるに乳を呑むことと泣くこととを知っている。生まれたるがままの人は本能的快味を知っている。これを知らざるは知らざるに非ず人為がこれをこわすのである。
満腹の快味を感じ得る者は幸福である。

……引用おわり

キムチ鍋の「快味」を味わいたくなったなあ。「快味」の「おもしろみ」は「痛快味」にも通じる気がするな。

もっと、「快味」を!

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2006/10/04

「ガツン」と「旨い」

Whiskyvoice25きのうの「アメニティ」の口直しに、牧野伊三夫さんから贈られたサントリーの「WHISKY VOICE」(牧野さんはアートディレクションと絵を担当している)を見よう。

今回の特集は「ハイボール」だが、その中の「大阪北区「堂島サンボア」鍵澤秀都さん(38)のお話から」の記事。見出しは「「氷なし、角瓶ダブル」の伝統を受け継ぐ」で、こんな話がある。鍵澤さんが語る、その味わいだが。

「飲んだ時にグッとくる。上品ではないけれど、ガツンとくる。『これ美味しいな』ではなく『旨いな!』。それが角のハイボールだと思います」

また、サントリーの山崎のブレンダー室では、二人の経験豊かなブレンダーが、「角瓶ハイボール」について会話をするが、藤井敬久(43)さんが、このように言う。

「理屈なしに旨い。角ハイは、褒め言葉として『この荒くれ者!』という感じだな」

うーむ、そうだよなあ、角ハイでなくても、そういう味わいがあるよなあ。上品ではないけど、ガツンな、旨い!味わいがあるのさ。たとえば、サバ味噌煮とかね。

先日亡くなられた「狐」というペンネームの著名な書評家が、たしか「文学界」の4月号だかに、吉田健一さんの本を取り上げていた。本の題を忘れてしまったが、狐さんは、その本を読んでいて、なんだか身体の芯が動かされるような懐かしいものに出会ったかんじがした、それが何かと考えたら吉田健一は「おいしい」とは書かずに、必ず「旨い」と書くからだ、というような内容だったと思う。それほどまで懐かしい表現になってしまった「旨い」と、その言葉をつかう吉田健一について語っていた。

椎名誠さんは、『わしらは怪しい探検隊』(角川文庫)の「缶ビール作法」で、「ウメーッ!」と「うめえ、うめえ」「旨い」「美味、美味(おいしい、おいしい)」の使い分けについてウンチクをたれている。

もっと、「ガツン」と「旨い」を!

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