2006/10/05

「快味」を調べる

このブログが始まる前には、ニフティから提供されるメモ帳のようなものを使って、「発作なメシゴト日記」というのをやっていた。それはいま、そっくりコチラに移行し、右欄のカテゴリーにおさまっている。

そのころの古い記録だが、03年9月19日に「軍鶏鍋」という題で、池波正太郎さんの作品から引用しアレコレ書いている。

んで、『鬼平犯科帳』の文春文庫版8巻の「明神の次郎吉」だが、

「 つぎに、軍鶏の臓物の鍋が出た。
  新鮮な臓物を、初夏のころから出まわる新牛蒡のササガキといっしょに、出汁で煮ながら食べる。熱いのを、ふうふういいながら汗をぬぐいぬぐい食べるのは、夏の快味であった。」

と「快味」という言葉がつかわれている。

この「快味」という言葉。おれは『汁かけめし快食學』のように「快食」をコンセプトにアレコレ書いているが、「快味」という言葉はつかったことも考えたこともない。ま、それで、この言葉、気になるのだな。

気になってイチオウ『広辞苑』第5版を見ると、載っていた。

「きもちのよい感じ。おもしろみ。」ということだ。

ここに「おもしろみ」とあるのがオモシロイね。「夏のおもしろみ」「秋のおもしろみ」そして冬の春の「おもしろみ」が、味覚としてありそうだ。

そこで、さらに探求すべく、グーグルで検索。すると、けっこうあるのだなあ。

知らなかったが青空文庫には、豊島与志雄さんの「自然」という短文エッセイがあって、自然讃歌であるけどイヤミがなくてよい。素晴しい。そこに「快味」が登場する。こんなぐあいだ。

「味そのものの見地からすれば、黒砂糖は白砂糖にまさり、更に砂糖黍は黒砂糖にまさること数段である。砂糖黍の艶やかな皮をむいて、あの白い中身をしゃぶる甘味快味を、私は終生忘れないだろう。」

この豊島さんと池波さんの文章からすれば、「快味」は、自然や季節に寄り添うように使われている。ま、味覚そのものが、自然と深い関係にあった時代の話だからかも知れない。

もう一つだけ、おもしろい素晴しいエッセイをあげておこう。「花崖記念」の「花崖記念文庫」の「代表作 随筆集 『田園』よりvol.6」だ。「茶漬飯哲学」の題に、以下のような著述がある。

引用……

満腹の快味を感じ得る者は幸福である。
半日鍬棒を振り廻して、さて食事時となって味噌汁と漬物で麦飯を六七杯平らげる。腹は文字通り一ばいになる。餓えたる腹の満たされたる一種異様の快味は、恐らくその人でなければ分からない。猛烈に働く者でなければ分からない。健康なる者でなければ分からない。
満腹の快味は人間が孤々の声をこの世に挙げた時、最初に表わるる主なる本能である。嬰児は教えられざるに乳を呑むことと泣くこととを知っている。生まれたるがままの人は本能的快味を知っている。これを知らざるは知らざるに非ず人為がこれをこわすのである。
満腹の快味を感じ得る者は幸福である。

……引用おわり

キムチ鍋の「快味」を味わいたくなったなあ。「快味」の「おもしろみ」は「痛快味」にも通じる気がするな。

もっと、「快味」を!

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2006/10/04

「ガツン」と「旨い」

Whiskyvoice25きのうの「アメニティ」の口直しに、牧野伊三夫さんから贈られたサントリーの「WHISKY VOICE」(牧野さんはアートディレクションと絵を担当している)を見よう。

今回の特集は「ハイボール」だが、その中の「大阪北区「堂島サンボア」鍵澤秀都さん(38)のお話から」の記事。見出しは「「氷なし、角瓶ダブル」の伝統を受け継ぐ」で、こんな話がある。鍵澤さんが語る、その味わいだが。

「飲んだ時にグッとくる。上品ではないけれど、ガツンとくる。『これ美味しいな』ではなく『旨いな!』。それが角のハイボールだと思います」

また、サントリーの山崎のブレンダー室では、二人の経験豊かなブレンダーが、「角瓶ハイボール」について会話をするが、藤井敬久(43)さんが、このように言う。

「理屈なしに旨い。角ハイは、褒め言葉として『この荒くれ者!』という感じだな」

うーむ、そうだよなあ、角ハイでなくても、そういう味わいがあるよなあ。上品ではないけど、ガツンな、旨い!味わいがあるのさ。たとえば、サバ味噌煮とかね。

先日亡くなられた「狐」というペンネームの著名な書評家が、たしか「文学界」の4月号だかに、吉田健一さんの本を取り上げていた。本の題を忘れてしまったが、狐さんは、その本を読んでいて、なんだか身体の芯が動かされるような懐かしいものに出会ったかんじがした、それが何かと考えたら吉田健一は「おいしい」とは書かずに、必ず「旨い」と書くからだ、というような内容だったと思う。それほどまで懐かしい表現になってしまった「旨い」と、その言葉をつかう吉田健一について語っていた。

椎名誠さんは、『わしらは怪しい探検隊』(角川文庫)の「缶ビール作法」で、「ウメーッ!」と「うめえ、うめえ」「旨い」「美味、美味(おいしい、おいしい)」の使い分けについてウンチクをたれている。

もっと、「ガツン」と「旨い」を!

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2006/09/17

こんな文章を書きたいなあ

顔をしかめる野糞のなかにキラリとひかる宝石のクズ一粒。ひろってみれば、ただのガラスクズ。なーんていうかんじの文章を書きたいものだ。

と、肉体作文労働者のおれだって、それぐらいのことは考える。

これを読んで、野糞からガラスクズをひろうのは臭かっただろうなあ、その手はどうしたの、とか突っ込みを考えたやつは、……単なるバカ。

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2006/09/09

「珠玉」や「ふるさと」という言葉を安直に使わないために、坂口安吾のイマシメ

ちかごろ、「珠玉」や「ふるさと」という言葉が安直に使われすぎていると思う。あるいは自分でも、気づかないうちに、そうしているかも知れない。

とりわけ、「文学系」のひとたち、それを志しているかのような文章を書く人たちも含め、「珠玉」や「ふるさと」を安直に、まるで朝晩のあいさつ社交辞令のように使う傾向が見られ、気になる。また、自分の文章に安直に「珠玉」や「ふるさと」を持ち込もうとしているかのようにもみえる。

たとえ「文学系」をめざしているわけではない、一介の作文労働者のようなおれでも、文章を書くかぎりは、そういうことはイマシメなくてはいけないと、最近しくしく思う。

なので、わがイマシメのために、ここに坂口安吾さんのイマシメを、忘れないよう書いておく。ちくま文庫版『坂口安吾全集』18「『炉辺夜話集』後記(昭和15年12月12日)」から、自分が気になるところだけ抜粋。

これは、表現技術以前のことだと思う。そして、想像力のモンダイだと思う。

以下抜粋(太字はおれ)……

 元来、私は、文学とは、人の心をすこしでも豊かにすればいい、人の生活をすこしでも高める力となればいい、そう考えていました。昔も今も、この考えに変りはありません。
 かりにあなたが、いま、戦場にいるとします。あなたはいま戦ってきました。まぢかに、戦友の戦死も見ました。そうして後方へ帰ってきて、久方ぶりに夜をてらす燈火の下に辿りついて、安息のひとときを得ました。
 そういうとき、疲労につかれて、ぐっすり眠るのでないとすれば、人々は娯楽をもとめると思います。宗教の本を読む人もあるかも知れません。戦争文学を読む人もあるかもしれません。然し、なかには、大きな人性の底にふれた、静かな、ゆたかな物語が、読みたいという人もあろうと思います。
 私は、そういう時にも堪えうるような、人性の底からにじみでた珠玉のような物語を書き残したいと思っています。

 すぐれた魂の人々が、生も死も忘れた曠野から帰ってきて、燈火の下で、許るされたわずかの時間に、はるかな心、はるかな虚しさをいやそうとする。――それに堪えうる物語が、どんなに深くなければならぬか。わが身のまずしさを考えて、私は、うんざりしています。
 けれども、とにかく、私が書き残そうと意図してきた物語は、その意図に於て、常にそのような物語でありました。戦場のみとは申しません。あらゆるとき、あらゆる虚無の深淵にのぞんで、読まれうる物語が書きたいという、私の念願はただそれのみでありました。

 私達の生きる道には、逃れがたい苦悩があります。正しく、誠実に生きる人に、より大いなる苦悩があります。そうして、ひとつの苦悩には、ひとつずつのふるさとがあります。苦悩の大につれて、ふるさとも亦、遠く深くなるでしょう。そのふるさとが、私の意図する物語のただひとつの鍵であります。

……抜粋おわり。

あまり「苦悩」して「苦悩」そのものが目的になっちゃあいけないけどな……。それじゃあ、糞づまりのアル中になりそうだ。

「すぐれた魂の人々」とは、殺人の戦場や労働の戦場にかりだされる、ふつうの人々のことであり、その「人の生活をすこしでも高める力となればいい」。人々の、あらゆるとき、あらゆる虚無の深淵にのぞんで力となりうること、と解釈すればよいか。

近頃は、どうも、ふつうの人々のすぐれた魂のことは眼中になく、自分がすぐれた魂の持ち主であることを表現し読ませようという傾向が強いように思う。あるいは自分の魂の押し売り。そのために「珠玉」や「ふるさと」に連なる言葉を、表現技術として使う。それをまた褒めあう。そういう流れに流されないように。イマシメイマシメ。

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2006/08/13

こんな飲食表現をしてみたい

どうにも身体がデレリンコンなので、寝転がって延ばした手の先にひっかかった本棚の本が、小沢信男さんの『いまむかし・東京逍遥』(晶文社)。何度も読んでいるが、パラパラめくると、植草甚一おじさん63歳のときの、1970年5月1日の日記からの引用が目にとまる。おれも今年63歳だもんな。

そのなかに、「三軒茶屋へ行くとヒサモトのコーヒーが飲みたくなるが、そういうときは、からだの調子がよく、気持がのんびりしている証拠だろう」という文章があった。

食べたり飲んだりしたことを、こういう風に書けるようになりたいものだなあ、と思う。こう書けるニンゲンになることが先決だけど。

と、忘れないうちに、ここに書いたのだが。忘れて、けっきょく、偉そうに飲食店や飲食物を裁くようなことを書くのだな。

しかしきのうの酒は、安くてまずくて気持のよい酒だった。きっと、からだの調子がよく、よい仲間と飲んでいたので、気持がのんびりしていた証拠だろう。って、これじゃ、ほぼ盗作か。やれやれ、酒の修行はずいぶんしてきたようだが、ニンゲンの修行が足りない。

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