2006/11/30

「男」という場合の「男」は、男なのか?

「男の隠れ家」なる雑誌がある。立ち読みでパラパラ見る程度で、買ったことはない。こんなものを買うやつは男じゃないと思っている。

Web検索したら「こだわりを持った男たちのライフスタイルマガジン」だそうだ。いまどきの「こだわり」を持った男たちは、こういう雑誌を読むのか。おれの印象では、この場合の「こだわり」とは「チマチマした」としか思えない。つまり「チマチマした男たちのライフスタイルマガジン」だ。実際、いまどきの「こだわり」など、じつに狭量なチマチマした話ばかりだ。

男なら、こんな雑誌に頼らず、もっとオリジンを求めて、書物にむかったり、街や野へ出かけるだろう。

しかし、なんども書いているが、ツアーだのなんだのと群れをなして立ち飲みやら大衆酒場をめぐる男の姿は、とても男には見えない。そもそも、立ち飲みや大衆酒場の文化は、そういう男の文化ではなかったはずだ。そうではないだろうか、ねえ、立ち飲みや大衆酒場に詳しいみなさん。

では、なぜイマドキ、男たちは群をなしてまで、そこへ行くのか? それは自らのオリジンがないからだろう。自らのオリジンがないから、ありきたりの「名所(有名店なども含む)」ではオリジンを発見できない。そういう男が、立ち飲みや大衆酒場という、変貌する町中で一見時代遅れに見えるがゆえにオリジンの輝きのある存在に通じることによって、それを自らのオリジンと錯覚しイイ気分にひたる。そこらの誰でも知っているような「名所」しか知らないような男とはちがうぜ、ひとより街のチマチマを知るチマチマ優れた存在だと、そういうところにだけ、やたら男の見栄や意地を発揮するわけだ。しかも、じつは金がないために、あるいは気後れがするために「名所」に行けないだけ、という背景もなきにしもあらず。てな感じかな。

どこでもオリジンを求めてきた男なら、そのように何か対象に頼ることはしない。「名所」だろうと知られない場末の飲み屋だろうと、自分は自分で、そこに自分の存在の物語をつくる。そこがカンジンなのだ。男が街で生きるということは、そういうことであり、「名所」はダメで「ディープ」で「アナログ」なところならよいということではないだろう。

11月16日「北九州市「雲のうえ」の素晴しさ」に引用した牧野伊三男さんのオコトバは、そういう男のオコトバなのだ。もう一度、引用。

「 地理や歴史がつくるひときわ濃い風土が、血や肌に熱を感じさせる。他に類のないこの風貌のなかに酸素を送りこみ、魅力的な未来を築く方法はないだろうか。
 創刊号では「角打ち」をとりあげてみた。これからも北九州の街かどを虫眼鏡で、同時に雲のうえからながめていく。この街にふさわしい歩みのテンポを見つけるためである。」

単に「角打ち」という立ち飲みが庶民的な「ディープ」な「アナログ」な存在だからよいということではないし、いま立ち飲みがハヤリだからということではない。おそらく「雲のうえ」は、対象がありふれた「名所」であっても、それなりのオリジンを発掘するだろう。

新しいものだろうと古いものだろうと、「名所」だろうとそうでなかろうと、それにむかう男=ニンゲンのオリジンが、どうであるかなのだ。そのことを避けて、こだわりもへったくれもない。

ま、おれは男なので、男の話になったが。

Web検索で見つかった、「男の隠れ家」らしい「男の隠れ家」といえば、これが本当の意味で、それだろう。リンクをはらないが、「男の隠れ家~人妻館 待ち合わせ型高級ヘルス」。こういうところへ、ツアーしようか、なあ、自らのオリジンをつくれず、立ち飲みなどの大衆が育ててきたオリジンに頼る、オリジンを失った他者追従男たちよ。

この広い世の中、おもしろいことはたくさんあるのにね。もっと一人一人、自分にあった楽しみをみつけられるはずだと思うがなあ。男としては、たった一人だけの趣味、なんてのがあってもよいはずだし。

関連…
2006/10/26「いいかげんにしろよ、と云いたくなるなあ」…クリック地獄
2006/07/22「なんだか、うまいものこだわりは切ないなあ」…クリック地獄

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2006/07/22

なんだか、うまいものこだわりは切ないなあ

22日の、まもなく午前2時だ。梅雨の夜中はナントナク心もシトシトピッチャンで、しみじみ思うことがあるね。また20日に続いて清水義範さんの「四畳半調理の拘泥(こだわり)」なのだが。

「身はひとかどの料理評論家よろしくひとりよがりして、西によろしく鰻食はせる店ありと聞けば早速駆けつけ、東に新出来の仏蘭西料理店ありと知れば……出かけるなんぞは……正気の沙汰にあらず。唯食ひちらかすだけなればまだ可愛気のあろうものを、このソースには力があるの、あの鰻のたれは年輪のようなコクがあるのといっぱしの講釈しては悦に入るとは……をかしいやら恥ずかしいやら」

「そのうちには、およそ世のうまいものは食ひつくしたとうぬぼれつよくなり、いかなる名品逸品もまだひとつおのれの舌を満足させるには到らずと増長し」

「畢竟料理は胃を満たし口を満たさんがためのものなり。高級料亭の板前など、料理は人の目をもまた楽しませるものなりと言うは、味のみにては客は喜ばせる自信なきが故の邪道たること言うに及ばず。天才画家の才持つはずもなき者が、皿に料理並べたるのみにて人の目を楽しませるとは言うもおこがまし」

「またある食通の曰く、料理はただただ口を満たし舌を満たすのみが願わしく、できうれば胃を満たすことなければ食ひ飽くことなくして至上なりとや。……ひたすら舌の喜びのみを味覚と思ひこみ、胃の喜びを味と知らざりしは未熟者の考えである……」

こういった調子で、うまいものにこだわる、そのこだわりかたが、ある男の回顧という姿をかりたりしながら、嘲笑されるように並べ立てられる。そして、そのこだわりかたは、「思い入れ」というより「拘泥」であり、「拘泥」とは、「小さい事に執着して融通がきかないこと」だそうだが、その様が微細にわたって描かれる。だから、読んでいると最初はおかしく、そして悲しき気分になるのだな。

これは、どんな道楽でも陥るアサマシイ姿だと思うが、飲食の場合の切なさは、ことさらのような気がする。だいたい「をかしいやら恥ずかしいやら」「うぬぼれつよく」「増長し」「未熟者」などと言われてしまう現象は、A級B級に関係なく、うまいものこだわりに見られる傾向で図星ではないだろうか。でも、笑っちゃいられない。

そもそも道楽というのは余裕のあるカネ持ちがするもので、たいがいのモデルはそういうものだ。それを中流意識が真似ようとして無理が生まれたと思う。その無理を、まだ引きずっていると思う。つまり万事に余裕がないわけだ。うまいものこだわりは、その道の神様教祖様先生様になろうと、あせっているようにみえる。ま、誰でも人よりは何かで優れていたいと思うものかもしれないが。その姿が、とりわけ飲食の分野では嘲弄されやすいほどあからさまで、アサマシイ。なぜこうも増長なものいいになるのか。うまいものこだわりで粋がる姿も野暮になる。

ようするに無理があるのだな。もっと、なんてのかな、たとえば東京で生きていたら、都会暮らしの孤独とか屈託とか、さまざま、そこからくる感情の起伏などが、料理や食事の場にあるはずだし、そういうものと向いあっている自分がいるはずだ。そういうものが、なんか、ほとんど感じられないね。

無理するこたあねえよ。楽しいことシンドイことを抱えて、普通にうまく食べればいいのさ。ああ、こんな長雨の日々は、こんなもの食べると、猫になりたくなっちゃうよ~、とか、雨の中へ走り出したくなっちゃうよ~なんとかしろ、とか、こんなものをうまいと思う今日のおれはピハハハなのね、とか、そういう感想が言える「グルメ」になりたいね。そうすりゃ、清水義範なんていう名古屋ヤロウにからかわれることはないんだ。切ねえなあ。

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2002/12/22

「反グルメ論」続

われわれ反グルメ人間は食べ物になんの魔力も感じない。

とボブ・グリーンさんは述べたあと、こう続けている。

人間と食べ物の関係は車とガソリンの関係だと思っている。空になれば、最寄りのスタンドへ行って、補給する。そしてまた空になるまで走りつづけ、空になったら、ふたたび都合のいいスタンドへ行って満タンにする。一時間十分もかけてある特定のガソリンスタンドまで出かけていくようなことは断じてない。同じようにわれわれは、同じ時間をかけて特定のレストランまで出かけていくこともない。5ドル分のレギュラー・ガソリンを入れて送り出してさえくれれば、それで十分なのだ。

と、ここまで読むと、さすがファーストフーズの国の売れっ子コラムニストだと思わなくもないが、かれは「”世界一のピザ”を食べてみないか、と何人かの人間に誘われ」「なにを血迷ったのか」車で一時間十分走ってそこへ行ったすえに、食べたかったペパローニがメニューになかったという体験をしたあとだということを、考慮にいれなくてはならない。

それにカンジンなことは、やはり「5ドル分のレギュラー・ガソリン」にありつけなくてはならないのである。そのガソリンが、水でうすまっていてはいけない。ボブさんは、こういいたいだけなのだ。

誤解しないでほしい。もちろん食べ物は人の味覚を満足させることもできる。だがそれは、大騒ぎするほどのことではない。

と。

ほとんどの料理や食事というのは、つまり大衆食というのは、そういうものであるはずなのだ。であるがゆえに、1980年代からの「グルメ」という大衆文化は、文化というにはお粗末な、何軒食べたと数を誇り、そのために遠くまで旅をし、その愚劣をごまかすために、大げさな表現で「料理の魔力」について述べなくてはならなくなった。それはまた「フレーバー系」料理や食品を、きらびやかな色と言葉で装飾する時代に対応している。

「有名人ブランド」「有名店ブランド」のインスタントラーメンやレトルトカレーの登場は、その馬脚のあらわれともいえるだろう。しょせんインスタントでありレトルトであるものを「グルメ」な装いにして二百数十円で売るなんざ、水増しのガソリンと同じじゃないか。ボンカレーとチキンラーメンやチャルメラがあれば十分である。「グルメ」とは、そのていどのものだったのである。

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2002/12/21

「反グルメ論」

じつは、昨日の「日本料理はフレーバー系に敗北した」という断定ははやすぎる。日本料理はフレーバー系に「変容した」あるいは「進化した」と、いえるかもしれないからだ。

いずれにせよ、江原さんが「日本料理は敗北した」というときの「日本料理」は、大衆食堂にあるような料理ではなく、「日本料理屋」にあるような料理のことである。そのことはチョットおいといて、「反グルメ」を先にしよう。

ボブ・グリーンさんは、1985年の『チーズバーガーズ』で「反グルメ論」を書いている。ちょっと長くなるが引用する。翻訳は、1986年の井上一馬さんだ。

「断じて食べ物のために旅をしてはならない」この教訓は、かつて派手な装飾の仰々しい映画館を歓迎したときと同じようにレストランを歓迎するいまの社会、あるいはニーズにかなったレストランをタイミングよく出した実業家に莫大な財産をもたらす社会、さらにはレストラン批評家なるものが存在する社会では、奇異にさえ聞こえるかもしれない。すでにアメリカ人が、レストランに名誉を与え、その権威の前にひれ伏すばかりか、”本物の料理”を食べるためならどんなに遠くまでも出かけていくようになっていることはまぎれもない事実である。

と述べ。

だが、なかには私のように少しちがった考えかたをする人間もいる。われわれ反グルメ人間は食べ物になんの魔力も感じない。

といっている。

つまり、わが日本の「グルメ」なるものは、「アメリカ化」のあとに、じつにアメリカと酷似したかたちで始まったのだ。そして、おそらく、このサイトをごらんになっているかたのなかには、ボブ・グリーンさんのように、それとは「少しちがった考えかたをする」ひともいるはずだと思う。

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