2013/11/10

<料理>という営み。

007いろいろあったが、まずは、11月6日(水)東京カルチャーカルチャー@お台場における「十日町コシヒカリ新米ちゃん祭り」だ。ここで古墳トーク以外の出演は初めてだったが、古墳トークの倍以上、100席が満員状態。すごい熱気というか、食気というか。十日町新米コシヒカリのおにぎりが食べ放題のほか、十日町の酒「松乃井」「天神囃子」が飲み放題、お土産に新米コシヒカリほか、入場料のもとがとれるほど。

テリー植田さんと須田泰成さんの司会。前半は十日町市など出品者の話し、おれは後半の出演で、この春訪ねた十日町コシヒカリの話をした。「魚沼産コシヒカリだからうまい」という原理主義じゃなくて、米のうまさ、米との付き合い方から楽しく考えてみようという話しをするツモリだった。だけど、前半のあいだに、けっこう「松乃井」「天神囃子」を飲んでしまっていた。おれが東京カルカルの壇上にいるときは、いつも酔っている。

酔ってしゃべったが、テリー植田さんがツイッターで、「大盛況で終了。十日町で食べるコシヒカリが一番上手い、というエンテツさんの言葉が、じんと残る満腹で大満足な夜になりました。ハイサワー田中社長も参加頂きました!(テリー植田)」と書いていたから、よしとしよう。

8日(金)は、18時半に上野の大統領支店だった。闇市研の井上さんが新潟から上京するのに合わせて、五十嵐さんとゼミ生ら。

昨年の2月、大統領本店で朝の10時からアメ横調査のキックオフてな名目で飲んで、2013/05/25「「アメ横から考える」を考えている場合じゃないのだが。」に書いたレポートをまとめたゼミ生のうち女子2人。めでたいことに来春卒業で就職も決まった。そして、この春にも会っている、めでたく大学院に合格したばかりの男子1人。

井上さんとは、かれが大学を卒業して新潟へ帰り就職したあと、赤羽で1度会っているが、ひさしぶりだった。まだ20代だけど、ずいぶんたくましく頼もしく成長していた。最近は、毎週のように上京しているとか。仕事と闇市研とで忙しいようだ。五十嵐さんは、あいかわらずの活躍。けっこうなことだ。

あれやこれや話は山ほどあり、元気のよい若い人たちと調子よくやっていたら、どんどん飲んで、23時閉店。上野駅で五十嵐さんと別れてから、あまり記憶がない。東大宮に着いて、コタツが開店4周年というのが気になっていたから、行ったのだが、何を飲んだかも記憶にない。とにかく、昨日は珍しく胃がやけて痛む二日酔いが残った。

さてそれで話は変わる。このツイートは7日のこと。

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大衆食堂の詩人にして、東大宮在住の遠藤哲夫さんの『大衆飯激動の戦後史』で知ったが、玉村豊男『料理の四面体』は料理についての本当の名著。構造主義入門としても、レヴィストロース神話論入門としても、そもそもすべてのレシピ本をてるとる前に<料理>という営みの入門でもある。
2013年11月7日 - 5:23
https://twitter.com/coppemkg/status/398470695639711746

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ツイートされたのは、猪瀬浩平さん(‏@coppemkg)。「すべてのレシピ本をてるとる前に」は「すべてのレシピ本をてにとる前に」だと思うが、 「<料理>という営み」という言葉づかいが、素晴らしいと思った。そうなのだ、玉村豊男さんの『料理の四面体』は、まさに「すべてのレシピ本をてにとる前に<料理>という営みの入門でもある」のだ。

そして、料理というと、すぐレシピ本になったり、栄養のことになったり、うまいもの談義になったり、あの店この店、あっちの料理とこっちの料理の比較になったり、いろいろだが、その前に「<料理>という営み」について、おれたちはどのていど知っているか、知ろうとしているかということだと思う。

考えてみれば、『大衆めし 激動の戦後史』も、「<料理>という営み」に関わることなのだ。

「<料理>という営み」は、「料理という生活」も含むことができるだろうし、これまでの料理の話しに不足がちだったところを埋める言葉でもあると思う。素晴らしいので、どんどん使いたいが、猪瀬浩平さんオリジナルって感じもあって遠慮がちに…でも、どんどん使いたい。

猪瀬浩平さんは、ツイッターのプロフィールに「見沼田んぼ福祉農園×見沼・風の学校事務局長。明治学院大学教員/明治学院大学国際平和研究所所員。文化人類学者。北浦和西口の商店街の街角で暮らしている」とある。北浦和は、ここに引っ越す前に住んでいたところ。見沼・風の学校のことは、以前からHPやブログなどで知っていて、当ブログからリンクを貼ったこともある、その方なのだ。しかも、もしかすると、今月中にお会いできるチャンスがあるかも知れない行事があるのだ。

とにかく、「<料理>という営み」に、興奮して、いろいろ考えている。

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2013/10/20

「見る・話す・書く料理」が盛んだから、もっと食文化論や料理論が必要。

最新刊の『大衆めし 激動の戦後史』は、「食文化論」や「料理論」に、かなり寄った内容になっている。

これまで、おれの単著の本では、汁かけめしと大衆食堂の二つの系統しかないのだけど、汁かけめしの本は食事と料理を中心に食文化論や料理論寄りであり、江原恵の『庖丁文化論』のブレイクダウン版のつもりで書いている。大衆食堂の本については、料理より食事が中心で、その空間や場所に寄っている。

「作る料理」「食べる料理」のうちは、食文化論や料理論など不要といえるが、70年代以後しだいに「見る・話す・書く料理」が増え、いまやインターネット上でもあふれている。多くの人が、「見る・話す・書く料理」に関わっている。

食通やグルメや評論や研究を気取る前に、食文化や料理について、基本的な「論」ぐらい知っていないと、とんだ間違いをしてしまう。

きのう、「見る・話す・書く料理」が盛んだから、食文化論や料理論が必要だと、シミジミ思うようなことがあった。

いま配信中の、ちょくマガ「週缶!さばのゆマガジンvol015」だ。

この号は、偶然にも「ありふれたものを美味しく食べる」に関係する話がほとんどだ。缶詰博士・黒川勇士さんと春風亭昇太さんのサバ缶で作るバラ寿司の話も、松尾貴史さんのオカルい悩み相談室「彼氏が急に食通気取りに。私の料理を不味いと言って食べません」も、須田泰成さんとおれのカウンターカルチャー「自分の舌を飼いならした先に、ささやかなオアシスが」は「味覚の主体化」に関係する話、そして、知られざる経堂の魅力探訪記は、ズバリ「ありふれたものをうまく食べさせる店!」だ。
http://chokumaga.com/magazine/?mid=106

なかでも、「彼氏が急に食通気取りに。私の料理を不味いと言って食べません」は、滑稽で切ない話だ。少し前に、何新聞か忘れたが、似た話があった。このテの話は、よくある。

彼氏が、トツゼン「このパン、天然酵母使っている?」「この卵は当然ながら農家の庭先を走り回っている元気な地鶏が生んだ卵だよね?丹波篠山かな?」「この野菜は、有機栽培じゃないの?噛んでも噛んでも、野菜本来の味がしない」「食をおろそかにすると、人生がおろそかになるよ」…こんなことから、恋人や夫婦の間がビミョーになってしまうのだ。

食文化や料理をめぐっては、ゆがんだり誤った知識や情報が多い。わかりやすい例をあげると、ウィキペディアに見られるカレーライスの歴史などは、ほとんどは「カレーライスという言葉をめぐる風俗」についての歴史であり、料理の歴史とはいえないのに、料理の歴史であるかのようにまかり通っている。風俗のレベルと料理のレベルの区別さえつかない知識が「常識」なのだ。

おなじように、「有機栽培だからおいしい」「野菜本来の味」「そのものの味」などというのは、なんら味覚を語っていないのに、語っているつもりになっている。

食べ物と食事と料理と味覚の区別や、「自然食」などのことになると文明のレベルと文化のレベルの区別のついていない話も、めずらしくない。

とくに食通やグルメを気取らなくても、普通にしていると、生産者やメーカーサイドあるいは料理人からの知識や情報に取り囲まれて暮らしている。

わかりやすく言えば、農水省つまり生産のなかの料理、経産省つまりメーカーや外食ビジネスや出版やメディアやレジャー(ホビー)のなかの料理、厚生省つまり健康と栄養のなかの料理、文部省つまりしつけと教育と文学のなかの料理、こういう「専門家」からの一方的な知識や情報が、食通やグルメの「常識」にすらなっている。

環境省のなかの料理もありますなあ。いまや、いんちきくさい「フードマイレージ」なんてのまで持ち出して、農水省も環境省も、エコやスローフードに熱心のようだ。

そこには、本来、料理がもつ役割の、生活からの視点がない。専門家は、いずれかの専門に偏っていても、とうぜんだ。それを鵜呑みにしていたら、とうぜん、どれかの分野の「論」にとりこまれやすい。

食や料理への興味が、食文化や料理の成長につながらず、簡単に消費主義に回収されやすい構造がある。その結果、味覚は、産業化企業化の支配下やグローバリゼーションの支配下に陥りやすいことになる。「化学調味料ダメ」「農薬も添加物ダメ」「安全・安心」「身体と心によいもの」だの「TPP反対」だのもよいが、それ以前の「味覚の主体化」が必要なのだ。

自分の舌は自分の好みで飼いならす。どんなに有名な料理店の料理より、おれにとってはおれの料理と好みが一番うまい、と言えるぐらい、ワガママな自分の味覚を持ちたい。それが野菜炒めだってよい。生活のリアルは、個人個人にあるのであって、専門分野や専門家にあるのではないのだ。

『大衆めし 激動の戦後史』は、表のテーマが「生活料理」で裏のテーマが「味覚の主体化」それに右のテーマや左のテーマ、タテのテーマ、ヨコのテーマや、斜めのテーマもあるかな。このようにいろいろなテーマをからめてしまうのは、おれの本の特徴で、ある記者さんや書評家さんなどに言われたが、紹介するのに泣けるほどまとめにくい。でもおれは、これを「ラーメン構造」の文章とよび、おれが「フリーライター」にこだわるのと関係がある。

それはともかく、『大衆めし 激動の戦後史』に書いたけど、生活料理の根幹は「ありふれたものを美味しく食べる」だと思っている。「ありふれたものを美味しく食べる」は、料理レベルと食事レベルを含めてのことだけど、『大衆めし 激動の戦後史』では、そこまで詳しく書いていない。「生活料理入門」だから。

「生活料理」は、1970年代に江原恵によって造語された。「タマネギを主材料にした、まったく新しい料理を、一つでも編み出すことのできる人は、美味学に必要な想像力を、かなり豊かにもっている人である」というあたりに、その思想があらわれている。

よりよい食材や製品を作るのは、生産者やメーカーの役割だとして、生活や料理は何をすべきかという課題があるわけだ。そこに「味覚の主体化」が関係する。一般には、産業や企業や飲食ビジネスや生産者や料理人のために料理や味覚が存在するわけではないのだ。

なんにせよ、ここ40年ほど、「消費の充実」を「生活の充実」と誤解してきた。そういうなかで、消費にゆがんだ料理や食事の知識と情報が蔓延している。だからさ、『大衆めし 激動の戦後史』が必要なのさ。と、最後は、自著のセンデン。「もくじ」などは、こちら→クリック地獄

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2010/07/28

『みんなの大衆めし』人気レシピ。

この数日、いろいろな人にあって、『みんなの大衆めし』を知らないひとのほうが、はるかに多かったのだけど、すでに買っているひともけっこういて、感想をいろいろ聞いた。

実際つくってみた人は、かなり少なかったが、作ってみたいも含めて、圧倒的な人気だったのが、「おとなのビンボーめし」119ページの「紅しょうがと魚肉ソーセージの天ぷら」だった。

おれはまだ作ったことがないのだが、これはビールのつまみにもよさそうな感じだ。それも、この暑い夏に人気のワケかも知れない。

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2009/07/15

ありふれたものをおいしく。「料理」は変わる。

時間がないから、ネットでみつけた、この記事だけメモしておく。ときどき書いてきたことだが、近年、料理は、あるいは料理に対する考えは、大きく変ってきている。「ありふれたものをおいしく」は、もともとキホンだったのだが、今後ますます語られるようになり、かつ磨かれていくことになるだろう。つまり、「あんなものは料理ではない」といわれてきた、生きること、働く生活のなかの料理が、やっと、「料理」として見直され、あたりまえに語られるようになる。この「変化」は大きい。告知してある連載「わははめし」も、この流れといえる。


(2009年7月14日 読売新聞)より
http://www.yomiuri.co.jp/gourmet/food/shinagaki/20090714-OYT8T00281.htm?from=yolsp

「卵掛けご飯」 コシノヒロコさん
創造力駆使 服も同じ


「手間がかからなくておいしい私の料理は、働く女性や一人暮らしの男性にぴったりじゃないかしら」(東京・渋谷区で)=菅野靖撮影 「ずっと仕事中心の生活。献立を考え、買い物をして、料理するなんてしたことない。ただ『窮すれば通ず』で、冷蔵庫にあるものや残り物で何か作ることは得意やな」と笑う。

 そんな自信作のひとつが卵掛けご飯だ。とても料理とは……と侮るなかれ。「私の顔を見るたびに、卵掛けご飯が食べたいと言う人がいるほどなんだから」

(略)

限りある材料と時間で、どうやって良いものを作るか? その点で、料理と服作りは似ているという。「違いは、舌で楽しむか、着て楽しむかだけ。良いもの作りには、創造力とコーディネート力が問われるわけよ」

 卵掛けご飯にとどまらず、湯がいたインスタントラーメンをいためて花がつおとザーサイをまぶした焼きそば、アンチョビーソースを生地の下味に使うお好み焼き……。発想は自由で、奇想天外。だが、その不思議な手料理は、食べた人をたちまちファンにしてしまう。

 見た目にもこだわる。「どんなにおいしい料理でも、食器や盛りつけなどのビジュアルが悪いものはダメ。味が変わってしまう」というのが持論。

 大きめの真っ赤な漆や土ものの風情あるおわんに、控えめに盛りつけられた黄色が映える。脇に置かれているのは、柄の長いスプーン。「きれいで、おいしそうで、どこの一流店の高級料理かと思うよ。ただの卵掛けご飯やけどな」。こだわりの一杯は、デザイナーとしての生き方そのものを表しているようだ。

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2006/11/30

「男」という場合の「男」は、男なのか?

「男の隠れ家」なる雑誌がある。立ち読みでパラパラ見る程度で、買ったことはない。こんなものを買うやつは男じゃないと思っている。

Web検索したら「こだわりを持った男たちのライフスタイルマガジン」だそうだ。いまどきの「こだわり」を持った男たちは、こういう雑誌を読むのか。おれの印象では、この場合の「こだわり」とは「チマチマした」としか思えない。つまり「チマチマした男たちのライフスタイルマガジン」だ。実際、いまどきの「こだわり」など、じつに狭量なチマチマした話ばかりだ。

男なら、こんな雑誌に頼らず、もっとオリジンを求めて、書物にむかったり、街や野へ出かけるだろう。

しかし、なんども書いているが、ツアーだのなんだのと群れをなして立ち飲みやら大衆酒場をめぐる男の姿は、とても男には見えない。そもそも、立ち飲みや大衆酒場の文化は、そういう男の文化ではなかったはずだ。そうではないだろうか、ねえ、立ち飲みや大衆酒場に詳しいみなさん。

では、なぜイマドキ、男たちは群をなしてまで、そこへ行くのか? それは自らのオリジンがないからだろう。自らのオリジンがないから、ありきたりの「名所(有名店なども含む)」ではオリジンを発見できない。そういう男が、立ち飲みや大衆酒場という、変貌する町中で一見時代遅れに見えるがゆえにオリジンの輝きのある存在に通じることによって、それを自らのオリジンと錯覚しイイ気分にひたる。そこらの誰でも知っているような「名所」しか知らないような男とはちがうぜ、ひとより街のチマチマを知るチマチマ優れた存在だと、そういうところにだけ、やたら男の見栄や意地を発揮するわけだ。しかも、じつは金がないために、あるいは気後れがするために「名所」に行けないだけ、という背景もなきにしもあらず。てな感じかな。

どこでもオリジンを求めてきた男なら、そのように何か対象に頼ることはしない。「名所」だろうと知られない場末の飲み屋だろうと、自分は自分で、そこに自分の存在の物語をつくる。そこがカンジンなのだ。男が街で生きるということは、そういうことであり、「名所」はダメで「ディープ」で「アナログ」なところならよいということではないだろう。

11月16日「北九州市「雲のうえ」の素晴しさ」に引用した牧野伊三男さんのオコトバは、そういう男のオコトバなのだ。もう一度、引用。

「 地理や歴史がつくるひときわ濃い風土が、血や肌に熱を感じさせる。他に類のないこの風貌のなかに酸素を送りこみ、魅力的な未来を築く方法はないだろうか。
 創刊号では「角打ち」をとりあげてみた。これからも北九州の街かどを虫眼鏡で、同時に雲のうえからながめていく。この街にふさわしい歩みのテンポを見つけるためである。」

単に「角打ち」という立ち飲みが庶民的な「ディープ」な「アナログ」な存在だからよいということではないし、いま立ち飲みがハヤリだからということではない。おそらく「雲のうえ」は、対象がありふれた「名所」であっても、それなりのオリジンを発掘するだろう。

新しいものだろうと古いものだろうと、「名所」だろうとそうでなかろうと、それにむかう男=ニンゲンのオリジンが、どうであるかなのだ。そのことを避けて、こだわりもへったくれもない。

ま、おれは男なので、男の話になったが。

Web検索で見つかった、「男の隠れ家」らしい「男の隠れ家」といえば、これが本当の意味で、それだろう。リンクをはらないが、「男の隠れ家~人妻館 待ち合わせ型高級ヘルス」。こういうところへ、ツアーしようか、なあ、自らのオリジンをつくれず、立ち飲みなどの大衆が育ててきたオリジンに頼る、オリジンを失った他者追従男たちよ。

この広い世の中、おもしろいことはたくさんあるのにね。もっと一人一人、自分にあった楽しみをみつけられるはずだと思うがなあ。男としては、たった一人だけの趣味、なんてのがあってもよいはずだし。

関連…
2006/10/26「いいかげんにしろよ、と云いたくなるなあ」…クリック地獄
2006/07/22「なんだか、うまいものこだわりは切ないなあ」…クリック地獄

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2006/10/06

ありふれたものを美味しく食べる

「食育」だろうが「栄養」だろうが、けっきょく「ありふれたものを美味しく食べる」ということをヌキにしては成り立たない。

ってことで、かつて、そのことについて書いた中からチョイ忘れたくないなというものを拾って、右サイドバーのカテゴリーに「ありふれたものをうまく」をつくってまとめた。

ここに03/07/16「ロワゾーさんのお言葉」というのがあって思い出したが、ベルナール・ロワゾーさんは、昨年だか一昨年だったか、自殺したのだった。報道では、自分がオーナーシェフをつとめるレストラン<ラ・コート・ドール>が、例のミシュランで三ツ星だったのが落ちそうというウワサが流れたのを苦にして、ということだったと記憶している。

だが、いい言葉を残してくれた。

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2006/07/22

なんだか、うまいものこだわりは切ないなあ

22日の、まもなく午前2時だ。梅雨の夜中はナントナク心もシトシトピッチャンで、しみじみ思うことがあるね。また20日に続いて清水義範さんの「四畳半調理の拘泥(こだわり)」なのだが。

「身はひとかどの料理評論家よろしくひとりよがりして、西によろしく鰻食はせる店ありと聞けば早速駆けつけ、東に新出来の仏蘭西料理店ありと知れば……出かけるなんぞは……正気の沙汰にあらず。唯食ひちらかすだけなればまだ可愛気のあろうものを、このソースには力があるの、あの鰻のたれは年輪のようなコクがあるのといっぱしの講釈しては悦に入るとは……をかしいやら恥ずかしいやら」

「そのうちには、およそ世のうまいものは食ひつくしたとうぬぼれつよくなり、いかなる名品逸品もまだひとつおのれの舌を満足させるには到らずと増長し」

「畢竟料理は胃を満たし口を満たさんがためのものなり。高級料亭の板前など、料理は人の目をもまた楽しませるものなりと言うは、味のみにては客は喜ばせる自信なきが故の邪道たること言うに及ばず。天才画家の才持つはずもなき者が、皿に料理並べたるのみにて人の目を楽しませるとは言うもおこがまし」

「またある食通の曰く、料理はただただ口を満たし舌を満たすのみが願わしく、できうれば胃を満たすことなければ食ひ飽くことなくして至上なりとや。……ひたすら舌の喜びのみを味覚と思ひこみ、胃の喜びを味と知らざりしは未熟者の考えである……」

こういった調子で、うまいものにこだわる、そのこだわりかたが、ある男の回顧という姿をかりたりしながら、嘲笑されるように並べ立てられる。そして、そのこだわりかたは、「思い入れ」というより「拘泥」であり、「拘泥」とは、「小さい事に執着して融通がきかないこと」だそうだが、その様が微細にわたって描かれる。だから、読んでいると最初はおかしく、そして悲しき気分になるのだな。

これは、どんな道楽でも陥るアサマシイ姿だと思うが、飲食の場合の切なさは、ことさらのような気がする。だいたい「をかしいやら恥ずかしいやら」「うぬぼれつよく」「増長し」「未熟者」などと言われてしまう現象は、A級B級に関係なく、うまいものこだわりに見られる傾向で図星ではないだろうか。でも、笑っちゃいられない。

そもそも道楽というのは余裕のあるカネ持ちがするもので、たいがいのモデルはそういうものだ。それを中流意識が真似ようとして無理が生まれたと思う。その無理を、まだ引きずっていると思う。つまり万事に余裕がないわけだ。うまいものこだわりは、その道の神様教祖様先生様になろうと、あせっているようにみえる。ま、誰でも人よりは何かで優れていたいと思うものかもしれないが。その姿が、とりわけ飲食の分野では嘲弄されやすいほどあからさまで、アサマシイ。なぜこうも増長なものいいになるのか。うまいものこだわりで粋がる姿も野暮になる。

ようするに無理があるのだな。もっと、なんてのかな、たとえば東京で生きていたら、都会暮らしの孤独とか屈託とか、さまざま、そこからくる感情の起伏などが、料理や食事の場にあるはずだし、そういうものと向いあっている自分がいるはずだ。そういうものが、なんか、ほとんど感じられないね。

無理するこたあねえよ。楽しいことシンドイことを抱えて、普通にうまく食べればいいのさ。ああ、こんな長雨の日々は、こんなもの食べると、猫になりたくなっちゃうよ~、とか、雨の中へ走り出したくなっちゃうよ~なんとかしろ、とか、こんなものをうまいと思う今日のおれはピハハハなのね、とか、そういう感想が言える「グルメ」になりたいね。そうすりゃ、清水義範なんていう名古屋ヤロウにからかわれることはないんだ。切ねえなあ。

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2004/12/24

料理はココロ?

12月27日発行の「ちくま」1月号に、ちくま文庫から12月新刊の『禅寺の精進料理の十二ヶ月』(藤井宗哲著)の紹介書評を書いている。

こういう本の紹介は、ムズカシイね。なにがムズカシイかというと、料理の話以外の、料理とは関係ない、「人生論」に属するような記述が、けっこうあるから。その「人生論」がまた、文学的観念的であったりするとね、もう困ってしまうわけですよ。

食や料理について書く人には、食や料理をネタにブンガクしたい人とか、ブンガクしているつもりになっている人とか、けっこういるし。また、そういう「毒にも薬にもならない」著書が無難で売れて、本質や現実に関わることは、敬遠されるという傾向もある。

ま、イマの日本人の平均的な傾向が、食や料理のオシャベリにあらわれているというか。本質や現実とむきあおうとしない日本人が少なくない。「癒し」だとかいっちゃってね。これはまあ、どういうことか。

とか言い出すと、一昨夜の罵詈雑言大会の続きになってしまうな。『禅寺の精進料理の十二ヶ月』は料理のハウツーだけを実用書として読めば役にたちます。と、いえるかな。

それはともかく、「料理はココロ」だとかいっている人たちは、そのことについて、キチンと説明してほしいね。

だいたいね、カネも時間もないなかでも、冷凍食品などで急いで料理を作って、その日の安堵をかみしめる食事だってあるのに、冷凍食品を使う料理などにはココロがない、なーんていうのは失礼だよなあ。そもそも他人の生活を罵倒するやつに、ココロはあるのか。あるとしたら、どういうココロか見せて欲しい。……見なくても、わかるが。

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2004/08/21

料理といふもの。実践と理論。

この夏たべまくったタマネギ料理を、「ザ大衆食」のサイトに掲載。
http://homepage2.nifty.com/entetsu/sinbun04/tamanegi_tuke.htm

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2004/08/11

料理とは、ね~

料理というのは、おもしろい。

それは、ちょっと、前とちがうことをして、新しいことをしてみると、おもわぬ結果を得ることがあるからだ。もちろん、よい場合も、わるい場合もある。でも、それをやることなのだ。やることに意義があるのだ。やる、やる、やる。

うーむ、うどんにマヨネーズをかけて食べる。どんぶりのうどん、ツユのなかのうどんを食べるのに、マヨネーズをそこにかけて食べるのだ。

そういう話を、今日、生まれて初めて聞いた。おれはまだやってみたことがないが、うまいだろうなあ、と思う。

問題は、そういうことではない。うどんにマヨネーズをかけてみたひとを敬服したい。それをやるひとが料理を生むのだ。これを、料理ではない、なーんていう料理人は軽蔑したい。おれは、まだまだ、だ、なあ。と思うのだ。

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