2020/10/19

料理や食事と、エンジニアリングやブリコラージュ。

食をめぐって自分が考えてきたこと、つぎつぎに出現するさまざまな言説などが、頭の中で整理がつかない状態で、癌に突入した。

その治療の考え方と方法が、なかなかおもしろくて、刺激を受け、頭の中の整理が、糸口をつかんだていどには進んだ。

そのことについて、ちょっとだけ備忘のメモをしておきたい。

ひとつは、「ぶっかけめし」について、とくに今世紀になってから、くっきり見えてきたことがあって、『ぶっかけめしの悦楽』や『しるかけめし快食學』のレベルから、もっと掘り下げる必要があると思っていた。

ひとつは、藤原辰史の『ナチスのキッチン』や『分解の哲学』に述べられている核心を、食生活や食文化のレベルでおれなりに納得がいく理解をしたいということがあった。

もうひとつは、久保明教の『「家庭料理」という戦場』が提起していることを、やはり、学問の業界に身を置いていないおれなりに突き詰めてみたいということがあった。これには、山尾美香が『きょうも料理』でしている仕事もからむところがあって、それは「ようするに家庭料理ってなんだ」ということなのだ。

おれは、すでに何度か述べているように、「家庭料理」という言葉に違和感を持ちながら使ってきた。どうも、この言葉が、日本では、といったほうがよいか、料理をわかりずらくしてきた、つまり楽しみにくくしてきたのではないかという疑いがある。

それやこれや考えていたのだが、おれの癌の治療を当事者あるいは傍観者として見ているうちに、あの、例の、「エンジニアリング」と「ブリコラージュ」という言葉が浮かんだ。

主治医と、治療の考え方や方法、CTやMRI検査の結果の検討など、いろいろ話しているうちに、ああ、身体のことや病気のことや治療のことなどは、エンジニアリングとブリコラージュの思想や方法が関与しているのだなと思ったのだ。

それは矛盾の関係でありながら、相互補完の関係というか、そのあたりはまだ書けるほど理解はしてないが、どっちが正しいかという問題ではないのは確かだろう。

食事や料理についても、身体と深い関係にあることだし、エンジニアリングとブリコラージュの思想や方法から見ることが可能のように思えてきた。

このブログで前に、「ロスト近代」がなんじゃらかんじゃら書いていたが、そのときの25年単位でいくと、ここ25年のあいだに、ブリコラージュな料理や食事が広がり、それなりの位置を占めるようになった。

「和洋中」という、エンジニアリングな近代を背負った食事と料理が大勢を占めていた中で、80年代から少しずつ「エスニック料理」や「インド料理(エスニック料理に含まれるけど)」などが広がり、いまではスーパーの売り場まで変える状況で、単なる流行現象といえないほどになった。このことがブリコラージュな食事や料理の広がりと大いに関係がありそうだ。

そこには、ちゃんと「ぶっかけめし」も位置しているのだが、おれは江原恵の見方を継承し、美味追求の二つの型、つまり「複合融合型」と「単品単一型」にわけ、ぶっかけめしを複合融合型としたのだけど、そこにブリコラージュの思想や方法を見ていなかった。というか、見る知識も能力もなかった。

単品単一型はエンジニアリング的であり、複合融合型はブリコラージュ的である、と型にはめることはできない。そこに、どんな関係があるか、なのだ。

ひとつの思い付きだが、当然のことだろうけど、「マーケティング料理」になるほどエンジニアリングの思想と方法が幅をきかす。「マーケティング料理」とは「商売料理」を「ロスト近代風?」に言い換えてみただけだが。マーケティングは思想も方法も、エンジニアリングの申し子のようなものだ。

マーケティングされてない料理というのがあると思う。たいがいの「家庭料理」は、そのはずだ。大衆食堂の料理にも多い。

ここで気になるのは、「レシピ」ってやつだ。レシピは、エンジニアリングの思想と方法の第一歩なのではないか。つくる人の試行錯誤や繕いを、できるだけ取り除いて成り立つ。

レシピにしたがってつくられたものを、そのまま食べる、これは「単品単一型」にはありがちだし、食べ方をはずすと行儀が悪いだのなんだのってことにもなる。

ところが、「複合融合型」は、食べる人がごちゃごちゃ混ぜたりしながら食べるのが普通だ。仮にレシピに従ってつくられても、食べ方はブリコラージュ的といえるのではないか、それにつくる人も、それを前提にしているのではないか。

なーんてことを、あれこれ考えている。

おもしろい。

誰かが何かについていった言葉を、うろ覚えで借りて言葉を変えれば、料理とは、料理とはなにかをめぐる思考の移動なのだ。

2020/06/24
25年の節目と時代区分で、コーフン。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/06/post-bf6cef.html

 

 

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2020/03/03

「生活工芸」。「鑑賞料理」と「伝統料理」そして「生活料理」。

次の本の原稿に取りかかっているのだが、今度のテーマは資料がたくさんありそうでいて少ない。そこが、面白くもあり、考えることが多い。

とうぜん「生活料理」がらみのことで、ネットでもあれこれ検索していたら、「生活工芸」という言葉にぶちあたった。知らんかったなあ。でも、この言葉、割と新しいのだ。

「やまほん」のWEBサイトに、ギャラリーやまほんで行われたトークイベントの書きおこしが載っているのだが、そのタイトルが「生活工芸の思想」だ。
http://www.gallery-yamahon.com/talkevent/seikatsutalk1

このトークイベント、いつ行われたのか記載がないのでわからないのだが、2017年からこちらのことらしい。

「1. 言葉の誕生とその背景 安藤雅信 辻和美 三谷龍二」「2. 生活工芸とは 川合優 安永正臣」「3. 器とオブジェ 内田鋼一 三谷龍二」「4. 工芸と社会の関わり 菅野康晴(工芸青花)森岡督行(森岡書店)」「5. 生活工芸のこれから 安藤雅信 内田鋼一 辻和美」というぐあいで、4回にわかれている。

その1回目を見ると、「生活工芸という言葉は、辻和美さんがディレクションをされて2010年に金沢で開催された「生活工芸展」から始まっています」とある。

そして辻和美さんは、「つまり金沢においては、生活工芸という言葉は、鑑賞工芸、伝統工芸と区別するための言葉として分かりやすかったようです。自己表現のための工芸、素材の可能性に挑戦する工芸というより、人間の生活を中心に考えられた道具を中心としたモノたち、そういうものとして一般の方に認識されやすい。そういうスタートで生活工芸という名前を使い始めました」と語っている。

金沢ローカルで始まったということも面白いし、2回目以降のトークでは登壇者が入れ替わりながら、生活工芸の思想が深められていき、最後のまとめらしきところで、安藤雅信さんが「その時代時代に問題を見つけてそれを解決していく」「ボブ・ディランのように70歳過ぎても常に戦っていきたいと思うんですけれども、社会に対して常に問題提起をし、自分なりの答えを提案し続ける。それをやっていくことが生活に寄り添う工芸ということではないかと思います」とのべていて、多いに共感するところがあった。

ようするに、生活の問題を解決するのが生活工芸の思想である、と読めた。これは、おれの生活料理の思想と重なるところがあると思った。それに、メディアの権威に頼って仕事している人物が、浅はかな知識でエラそうに定義し意味づけするのではなく、「共通点を探していくことで生活工芸の輪郭が見えてくる」という方法も共感できる。

昨日のエントリー「気分」は続く。今日の日常。」と、その前の「ただよう「気分」と「言葉」。」で書いた、「気分」な文学や飲食とは、えらいちがいだ。

そういうわけで、またもや小便をチビリそうにコーフンしながら、「鑑賞工芸」を「鑑賞料理」に置き換え、「伝統工芸」を「伝統料理」に置き換えて考えてみた。「伝統料理」という言葉は、以前からあるのだが、「工芸」と「料理」は、共通するところと異なるところがあるから、そのあたりから考えが広まるのも、面白い。

「鑑賞料理」は、いわゆる「気分=趣味」のグルメや飲食のための料理と重なるところが多いようだ。

しかし、問題は「生活」という言葉だろうなあ。「生活」は抽象だから、けっこう複雑で、複雑ということは多様で、いろいろな要素や要件がからむ。だからこそ、「共通点を探していくことで輪郭が見えてくる」という方法が必要なのだが。

この「生活工芸」の作品に見られる「生活」は、おれの考える「生活」とはチョイとイメージがちがうような「気分」も残った。そのあたりは、おれのなかの「生活」という概念の幅の問題なのだろう。

とにかく、「生活工芸」と「生活料理」、面白い。ようするに「業界」の外、社会や歴史や自然などに対して、どういうテーマと方法で臨むかなのだ。この、問題の多い時代に。

当ブログ関連
2020/02/17
「惣菜料理」×「宴会料理」

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2019/03/14

おかずをパンにはさんで食べる。

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おかずをパンにはさんで食べるということは普通にやられている。ただ「洋風」のおかずが多いようだ。「サンドイッチ」という呼び名が「洋風」だからだろうか。

やきそばは、コッペにはさんで「やきそばサンド」になるが、あれは「何風」なのだ。

林真理子の『食べるたびに、哀しくって…』には、たしか、ひそかにあこがれていたか尊敬していた美人の女性が、納豆を食パンにはさんで食べるのを見て失望した、というような話があった。

「和風」の納豆をパンにはんさで食べるのは、おれは昔、そうだねえ高校のころからやっているが、うまい。バターをぬったトーストにはさんだり、マヨネーズをちょっとたらすのもいいね。いろいろなものを一緒にあわせられる。

なんでもパンにはさんで食べられる。切干大根の煮物だって、糠漬けだって。

ただ、ごはんを食べるために作られたおかずは、パンにはさむには味付けが濃すぎることが多いから、ほかに野菜などを合わせて塩味加減を調節する工夫が必要だ。

糠漬けと生野菜にオリーブオイルをたらしたりするのもいいね。

とにかく、「和風」「洋風」なんか関係ない。たいがいのおかずは、ごはんでもパンでも一緒に食べられる。そこがまたおかずのよさだ。さば味噌煮サンドなんか、缶詰でもいいが、いい酒のつまみにもなる。タレまでパンにつけて食べる。

もっと自由にやって、普通からの逸脱を楽しむのもいい。そこからまた何か開ける。

てなことを話していた。

おかずの世界は、作るのも食べるのも、自由で広い。それを生かし切っているだろうか。へんな観念にとらわれていないか。

サンドイッチ食べながら味噌汁飲むのもいいさ。

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2018/11/12

大革命。

近ごろは、あんまり「革命」ということばを聞きもしないし見もしないな。どうしたの、みんなビビっているのか。

80年代前半の中曽根内閣のころから「改革」がハヤリになり「革命」は廃れた、ように見えるが、そうでもないな。

いまの家に引っ越したのは、10年前の10月21日だった。

それで何が変ったって、台所のレンジがガスからアイエイチになったのだ。

それまでは、炎が見える火力を使って料理をしていた。

その火力のもとは、薪が炭や石炭、石油からガスになっても、太古の昔から炎が見えていたのだ。

「火」とは、見えるものだった。

それが、炎がないアイエイチってやつになった。これは「火」のようだが「火」ではない。つまり「火」を使わないで料理をするようになったのだ。

有史以来の大革命に、おれは遭遇した。

「火」は見えないが、「熱」は得られる。

「火」から「熱」へ。

「ファイアー」ではなく「カロリー」。

この「ファイアー」と「カロリー」のあいだには、いろいろありすぎる。電磁波じゃ~とか、波動じゃ~とか。なんじゃそれ。

とにかく、なれるのに、けっこう時間がかかった。とくに炒め物は、最近ようやっと、なんとかなったかな、という感じだ。

そのなんとかなったかな、ってのは、ようやっとアイエイチの前ぐらいになったかな、ということではない。もっとちがう次元の、なんとかなったかな、という感じなのだ。

この比較はヒジョーに難しいが、革命とは、そういうものなのだな。たぶん。

ようするに、「見える火力」と「見えない火力」が、認識できたし自覚できた。まだ、よく理解しているかどうかは、わからない。

おれは革命に参加して、悪くないネ、やりようだネ、ていどの感想は持った。だからといって、これはゼッタイにイイと、ひとにすすめはしない。革命が悪いからではなく、それぞれが判断することだからな。

熱源のちがいが料理の「味」に影響することはたしかだろうけど、それをコントロールする人間の文化があり、さらに食べる文化がある。熱源は科学だが、味覚には文化がからむ。

アイエイチを批判するひともいるし否定するひともいる。そういうひとには、たくさん遭遇した。おれは、素直に聞いていた。まあ、人類が「火」を使いはじめて以来の初めての革命だからねえ。フランス革命やロシア革命どこじゃないわけ。

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2017/09/09

火と料理。

拙著『大衆めし 激動の戦後史』の第6章「生活料理と「野菜炒め」考」では、野菜炒めと台所とくに火の条件との関係で野菜炒めを見ている。

これは、きのうふれた『料理の四面体』からの影響があるが、ほかにも、まったく火の条件を無視した「料理の歴史」のようなものに対する批判もこめられている。

日本の料理や食べ物に関する話は、事実の積み重ねから離れた「非科学的」な偏りが多い。そのことの混乱は、いまではけっこう大きな問題をはらんでいる。こういうことについて、料理や食べ物に関して編集したり書いたりしている人は、少なくない責任があるわけだけど、あらたまる方向へ向かっているかんじがしない。

それでも、『料理の四面体』が2010年になってだが、中公文庫から復刊になったのは、あらたまる方向を期待してよいキザシかもしれない。だけど、その中公文庫にしたって、ほかのアヤシイものがはるかに多いのだから、どうなるのだろう。

とにかく、火と料理について、あらためて考えてみた。

いまさら気がついたのだが、おれは、薪と炭の料理の時代からIHまで、体験しているのだった。これは、日常的なことでは、おれたちの年代が最後かもしれない。

おれが小さい子供のころは、薪と炭で料理をしていた。その火の番をするのが手伝いで、かまどやいろりのそばにいて、親が教えてくれたように火力のコントロールをするのだ。

そのときは気がつかなかったが、火力のコントロールは、料理の本質に関わる重要なことだった。

しばらくして石油コンロや電熱器が入り、それは短いあいだ部分的で、やがて中学生のころには全面的にガスになった。ガスが長く続き、9年前に引っ越して、それからはIHと電子レンジの台所で料理をしている。

薪と炭の料理は、縄文時代からの延長線、というより継続だった。これは、薪や炭と空気のあたえかたで火力を調節する。炎のぐあいを見ながら、薪や炭を補充したり、空気を送ったり、こまめに手をうごかさなくてはならない。

ガスになると、ガスと空気の調整は、それほどこまめに手を動かす必要はない。ことによったら、火事になるのを気をつけさえすれば、そばを離れることができる。

だけど、炎が見える火だから、薪や炭の延長といえる。目で炎を見て、手を動かして、火力をコントロールするのだ。

これ、縄文時代からの継続と延長だ。おれが小さいころは、縄文人とかなり近かったのだ。

ところが、IHと電子レンジは、「炎」がない。もっといえば、「火」による加熱ではない。

言い方をかえれば、縄文時代から抜け出したのだ。

しかし、いまだに、IHや電子レンジを「化け物」のようにいう料理の「専門家」がいる。とかく「科学的現象」が理解できないと「化け物」に見えるということもあるようだ。それに、「電磁波」なるものを放射能なみに危険視する人たちもいる。

「炎」が見えないのだから、気持ちはわからんではないが、IHや電子レンジで、料理は、やっと料理の仕組みが理解され、料理が科学として広く認知されるような気がする。そう願いたい。

「秘伝」だの「愛情」だの、あと「誠実」だの「丁寧」だの「真摯」だの、料理を精神や道徳やさまざまな観念の檻にとじこめてきた言論や思想などから、解放されるのだ。

ヤッホー。

という気分なのだが、はたしてどうだろう。とくに職人的な手作業にこだわって、いまや工作機械産業やAIまで遅れをとってしまった日本のことだから、19世紀ぐらいのままの言論と思想の大勢に流されて、ああ、どうなるのだろう。

「火」は文明をもたらした、といわれている。しかし、宗教行事に「炎」の演出がつきまとうように「炎」は「神秘性」と相性がよい。

炎を使う料理は、とかく神秘的に扱われやすく、神秘的なウンチクをかたむけるほどありがたがられた。ありがたがられ「芸術」扱いにされることも多かった。この構造は、陶磁器などのやきものにも通じるが。

「炎」に興奮しても、IHのガラス面に鍋がのっているだけでは、なんの感動もないからなあ。でも、それで加熱が成り立つのだから、感動ものだ。

真実は、見えないところにある。とかね。

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2017/03/16

『dancyu』のたまごと『栄養と料理』のたまご。

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2016/09/13「『栄養と料理』10月号の特集に初寄稿。」に、こう書いた。

「『dancyu』と『栄養と料理』は、じつは、背中合わせで一つの食の姿になる。それでも「食」の全体像からは遠いと思うが。ところが、割りとどちらからしか見てないことが多い。」

この両方の雑誌を読んでいる方がどれぐらいいるかわからないが、今回、というのは今月発売の『dancyu』4月号と『栄養と料理』4月号を見ると、『dancyu』の特集がたまご料理で、『栄養と料理』のこの春から始まった新連載の4回目「ぶたやまかあさんのお台所サイエンス」のお題が「卵ってなぜかたまるの?」なのだ。

たまたまこうなったのだろうけど、同じテーマで『dancyu』と『栄養と料理』がコラボしてみたらおもしろいのではないかと思っていたおれにとっては、この偶然はうれしかった。

しかも、『dancyu』は「380個を食べ比べて検証します!」という「味玉大実験」が大きく扱われ、ぶたやまかあさんの話題はゆで卵を題材にしているというぐあいだ。

衣食住のなかでも、食は、外界のものを体内に取り入れるという際立った特徴を持っているわけだけど、その取り入れ方や考え方については、ずいぶんさまざまなアプローチがあるわけで、その両端をこれで見た思いがして、人間が食べるって、いろいろ大変なことでありますなあ、と、他人事のように、あらためて食と料理のおもしろさと人間の理解フノーについて考えることが多かった。

どちらも、突っ込みが少しマニアックすぎないかという感じもあったが、またそこまでやるのがイマドキの「食の知」なのだということも、思い知った。

『dancyu』は「食はエンターテイメント」を謳い、『栄養と料理』は、とくに謳ってないが、カタクいえば「食はサイエンス」といったところか。しかし、エンターテイメントとサイエンスは、必ずしも矛盾あるいは二者択一の関係ではない。そこが、おもしろいわけだ。

今回の「たまごをゆでる」にあたり、『dancyu』は実際に作りながら体験的実証的な実験を繰り返し、ぶたやまかあさんは料理の科学でも最もコアといってよい化学、白身と黄身という異なるたんぱく質に熱を加えたばあいの変化のちがいについて、滋賀医科大学助教で医学博士の旦部幸博さんに質問し深めている。

これを読んで、おれは「なるほど」と思いながら、いつも朝食用につくるゆでたまごをつくりながら、でも、おれはハードボイルドが好きだから、気楽だね。人生、気楽がイチバン。ってぐあいに、料理や味覚には、科学や技術だけではなく人生観(嗜好や世界観なども含め)が深く関係するねと思った。

そして、かりに『dancyu』と『栄養と料理』がコラボしたばあい、どんなテーマが成り立つか、それは一冊の本のテーマにもなるのではないかと、ああだこうだ考えているのだった。

これは「グルメ」と「クッキング」のあいだ、ともいえるかもしれない。

ところで、この『栄養と料理』4月号には、その『dancyu』編集長の江部拓弥さんが、「食の仕事人」に登場しインタビューの答えている。これがまた、なかなかおもしろい。見出しをあげると「グルメにはグルメの雑誌は作れない」「皿の上にはない物語を聞きとる」「雑誌を作るという仕事の魅力」といったぐあいだ。

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2013/11/10

<料理>という営み。

007いろいろあったが、まずは、11月6日(水)東京カルチャーカルチャー@お台場における「十日町コシヒカリ新米ちゃん祭り」だ。ここで古墳トーク以外の出演は初めてだったが、古墳トークの倍以上、100席が満員状態。すごい熱気というか、食気というか。十日町新米コシヒカリのおにぎりが食べ放題のほか、十日町の酒「松乃井」「天神囃子」が飲み放題、お土産に新米コシヒカリほか、入場料のもとがとれるほど。

テリー植田さんと須田泰成さんの司会。前半は十日町市など出品者の話し、おれは後半の出演で、この春訪ねた十日町コシヒカリの話をした。「魚沼産コシヒカリだからうまい」という原理主義じゃなくて、米のうまさ、米との付き合い方から楽しく考えてみようという話しをするツモリだった。だけど、前半のあいだに、けっこう「松乃井」「天神囃子」を飲んでしまっていた。おれが東京カルカルの壇上にいるときは、いつも酔っている。

酔ってしゃべったが、テリー植田さんがツイッターで、「大盛況で終了。十日町で食べるコシヒカリが一番上手い、というエンテツさんの言葉が、じんと残る満腹で大満足な夜になりました。ハイサワー田中社長も参加頂きました!(テリー植田)」と書いていたから、よしとしよう。

8日(金)は、18時半に上野の大統領支店だった。闇市研の井上さんが新潟から上京するのに合わせて、五十嵐さんとゼミ生ら。

昨年の2月、大統領本店で朝の10時からアメ横調査のキックオフてな名目で飲んで、2013/05/25「「アメ横から考える」を考えている場合じゃないのだが。」に書いたレポートをまとめたゼミ生のうち女子2人。めでたいことに来春卒業で就職も決まった。そして、この春にも会っている、めでたく大学院に合格したばかりの男子1人。

井上さんとは、かれが大学を卒業して新潟へ帰り就職したあと、赤羽で1度会っているが、ひさしぶりだった。まだ20代だけど、ずいぶんたくましく頼もしく成長していた。最近は、毎週のように上京しているとか。仕事と闇市研とで忙しいようだ。五十嵐さんは、あいかわらずの活躍。けっこうなことだ。

あれやこれや話は山ほどあり、元気のよい若い人たちと調子よくやっていたら、どんどん飲んで、23時閉店。上野駅で五十嵐さんと別れてから、あまり記憶がない。東大宮に着いて、コタツが開店4周年というのが気になっていたから、行ったのだが、何を飲んだかも記憶にない。とにかく、昨日は珍しく胃がやけて痛む二日酔いが残った。

さてそれで話は変わる。このツイートは7日のこと。

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大衆食堂の詩人にして、東大宮在住の遠藤哲夫さんの『大衆飯激動の戦後史』で知ったが、玉村豊男『料理の四面体』は料理についての本当の名著。構造主義入門としても、レヴィストロース神話論入門としても、そもそもすべてのレシピ本をてるとる前に<料理>という営みの入門でもある。
2013年11月7日 - 5:23
https://twitter.com/coppemkg/status/398470695639711746

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ツイートされたのは、猪瀬浩平さん(‏@coppemkg)。「すべてのレシピ本をてるとる前に」は「すべてのレシピ本をてにとる前に」だと思うが、 「<料理>という営み」という言葉づかいが、素晴らしいと思った。そうなのだ、玉村豊男さんの『料理の四面体』は、まさに「すべてのレシピ本をてにとる前に<料理>という営みの入門でもある」のだ。

そして、料理というと、すぐレシピ本になったり、栄養のことになったり、うまいもの談義になったり、あの店この店、あっちの料理とこっちの料理の比較になったり、いろいろだが、その前に「<料理>という営み」について、おれたちはどのていど知っているか、知ろうとしているかということだと思う。

考えてみれば、『大衆めし 激動の戦後史』も、「<料理>という営み」に関わることなのだ。

「<料理>という営み」は、「料理という生活」も含むことができるだろうし、これまでの料理の話しに不足がちだったところを埋める言葉でもあると思う。素晴らしいので、どんどん使いたいが、猪瀬浩平さんオリジナルって感じもあって遠慮がちに…でも、どんどん使いたい。

猪瀬浩平さんは、ツイッターのプロフィールに「見沼田んぼ福祉農園×見沼・風の学校事務局長。明治学院大学教員/明治学院大学国際平和研究所所員。文化人類学者。北浦和西口の商店街の街角で暮らしている」とある。北浦和は、ここに引っ越す前に住んでいたところ。見沼・風の学校のことは、以前からHPやブログなどで知っていて、当ブログからリンクを貼ったこともある、その方なのだ。しかも、もしかすると、今月中にお会いできるチャンスがあるかも知れない行事があるのだ。

とにかく、「<料理>という営み」に、興奮して、いろいろ考えている。

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2013/10/20

「見る・話す・書く料理」が盛んだから、もっと食文化論や料理論が必要。

最新刊の『大衆めし 激動の戦後史』は、「食文化論」や「料理論」に、かなり寄った内容になっている。

これまで、おれの単著の本では、汁かけめしと大衆食堂の二つの系統しかないのだけど、汁かけめしの本は食事と料理を中心に食文化論や料理論寄りであり、江原恵の『庖丁文化論』のブレイクダウン版のつもりで書いている。大衆食堂の本については、料理より食事が中心で、その空間や場所に寄っている。

「作る料理」「食べる料理」のうちは、食文化論や料理論など不要といえるが、70年代以後しだいに「見る・話す・書く料理」が増え、いまやインターネット上でもあふれている。多くの人が、「見る・話す・書く料理」に関わっている。

食通やグルメや評論や研究を気取る前に、食文化や料理について、基本的な「論」ぐらい知っていないと、とんだ間違いをしてしまう。

きのう、「見る・話す・書く料理」が盛んだから、食文化論や料理論が必要だと、シミジミ思うようなことがあった。

いま配信中の、ちょくマガ「週缶!さばのゆマガジンvol015」だ。

この号は、偶然にも「ありふれたものを美味しく食べる」に関係する話がほとんどだ。缶詰博士・黒川勇士さんと春風亭昇太さんのサバ缶で作るバラ寿司の話も、松尾貴史さんのオカルい悩み相談室「彼氏が急に食通気取りに。私の料理を不味いと言って食べません」も、須田泰成さんとおれのカウンターカルチャー「自分の舌を飼いならした先に、ささやかなオアシスが」は「味覚の主体化」に関係する話、そして、知られざる経堂の魅力探訪記は、ズバリ「ありふれたものをうまく食べさせる店!」だ。
http://chokumaga.com/magazine/?mid=106

なかでも、「彼氏が急に食通気取りに。私の料理を不味いと言って食べません」は、滑稽で切ない話だ。少し前に、何新聞か忘れたが、似た話があった。このテの話は、よくある。

彼氏が、トツゼン「このパン、天然酵母使っている?」「この卵は当然ながら農家の庭先を走り回っている元気な地鶏が生んだ卵だよね?丹波篠山かな?」「この野菜は、有機栽培じゃないの?噛んでも噛んでも、野菜本来の味がしない」「食をおろそかにすると、人生がおろそかになるよ」…こんなことから、恋人や夫婦の間がビミョーになってしまうのだ。

食文化や料理をめぐっては、ゆがんだり誤った知識や情報が多い。わかりやすい例をあげると、ウィキペディアに見られるカレーライスの歴史などは、ほとんどは「カレーライスという言葉をめぐる風俗」についての歴史であり、料理の歴史とはいえないのに、料理の歴史であるかのようにまかり通っている。風俗のレベルと料理のレベルの区別さえつかない知識が「常識」なのだ。

おなじように、「有機栽培だからおいしい」「野菜本来の味」「そのものの味」などというのは、なんら味覚を語っていないのに、語っているつもりになっている。

食べ物と食事と料理と味覚の区別や、「自然食」などのことになると文明のレベルと文化のレベルの区別のついていない話も、めずらしくない。

とくに食通やグルメを気取らなくても、普通にしていると、生産者やメーカーサイドあるいは料理人からの知識や情報に取り囲まれて暮らしている。

わかりやすく言えば、農水省つまり生産のなかの料理、経産省つまりメーカーや外食ビジネスや出版やメディアやレジャー(ホビー)のなかの料理、厚生省つまり健康と栄養のなかの料理、文部省つまりしつけと教育と文学のなかの料理、こういう「専門家」からの一方的な知識や情報が、食通やグルメの「常識」にすらなっている。

環境省のなかの料理もありますなあ。いまや、いんちきくさい「フードマイレージ」なんてのまで持ち出して、農水省も環境省も、エコやスローフードに熱心のようだ。

そこには、本来、料理がもつ役割の、生活からの視点がない。専門家は、いずれかの専門に偏っていても、とうぜんだ。それを鵜呑みにしていたら、とうぜん、どれかの分野の「論」にとりこまれやすい。

食や料理への興味が、食文化や料理の成長につながらず、簡単に消費主義に回収されやすい構造がある。その結果、味覚は、産業化企業化の支配下やグローバリゼーションの支配下に陥りやすいことになる。「化学調味料ダメ」「農薬も添加物ダメ」「安全・安心」「身体と心によいもの」だの「TPP反対」だのもよいが、それ以前の「味覚の主体化」が必要なのだ。

自分の舌は自分の好みで飼いならす。どんなに有名な料理店の料理より、おれにとってはおれの料理と好みが一番うまい、と言えるぐらい、ワガママな自分の味覚を持ちたい。それが野菜炒めだってよい。生活のリアルは、個人個人にあるのであって、専門分野や専門家にあるのではないのだ。

『大衆めし 激動の戦後史』は、表のテーマが「生活料理」で裏のテーマが「味覚の主体化」それに右のテーマや左のテーマ、タテのテーマ、ヨコのテーマや、斜めのテーマもあるかな。このようにいろいろなテーマをからめてしまうのは、おれの本の特徴で、ある記者さんや書評家さんなどに言われたが、紹介するのに泣けるほどまとめにくい。でもおれは、これを「ラーメン構造」の文章とよび、おれが「フリーライター」にこだわるのと関係がある。

それはともかく、『大衆めし 激動の戦後史』に書いたけど、生活料理の根幹は「ありふれたものを美味しく食べる」だと思っている。「ありふれたものを美味しく食べる」は、料理レベルと食事レベルを含めてのことだけど、『大衆めし 激動の戦後史』では、そこまで詳しく書いていない。「生活料理入門」だから。

「生活料理」は、1970年代に江原恵によって造語された。「タマネギを主材料にした、まったく新しい料理を、一つでも編み出すことのできる人は、美味学に必要な想像力を、かなり豊かにもっている人である」というあたりに、その思想があらわれている。

よりよい食材や製品を作るのは、生産者やメーカーの役割だとして、生活や料理は何をすべきかという課題があるわけだ。そこに「味覚の主体化」が関係する。一般には、産業や企業や飲食ビジネスや生産者や料理人のために料理や味覚が存在するわけではないのだ。

なんにせよ、ここ40年ほど、「消費の充実」を「生活の充実」と誤解してきた。そういうなかで、消費にゆがんだ料理や食事の知識と情報が蔓延している。だからさ、『大衆めし 激動の戦後史』が必要なのさ。と、最後は、自著のセンデン。「もくじ」などは、こちら→クリック地獄

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2010/07/28

『みんなの大衆めし』人気レシピ。

この数日、いろいろな人にあって、『みんなの大衆めし』を知らないひとのほうが、はるかに多かったのだけど、すでに買っているひともけっこういて、感想をいろいろ聞いた。

実際つくってみた人は、かなり少なかったが、作ってみたいも含めて、圧倒的な人気だったのが、「おとなのビンボーめし」119ページの「紅しょうがと魚肉ソーセージの天ぷら」だった。

おれはまだ作ったことがないのだが、これはビールのつまみにもよさそうな感じだ。それも、この暑い夏に人気のワケかも知れない。

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2009/07/15

ありふれたものをおいしく。「料理」は変わる。

時間がないから、ネットでみつけた、この記事だけメモしておく。ときどき書いてきたことだが、近年、料理は、あるいは料理に対する考えは、大きく変ってきている。「ありふれたものをおいしく」は、もともとキホンだったのだが、今後ますます語られるようになり、かつ磨かれていくことになるだろう。つまり、「あんなものは料理ではない」といわれてきた、生きること、働く生活のなかの料理が、やっと、「料理」として見直され、あたりまえに語られるようになる。この「変化」は大きい。告知してある連載「わははめし」も、この流れといえる。


(2009年7月14日 読売新聞)より
http://www.yomiuri.co.jp/gourmet/food/shinagaki/20090714-OYT8T00281.htm?from=yolsp

「卵掛けご飯」 コシノヒロコさん
創造力駆使 服も同じ


「手間がかからなくておいしい私の料理は、働く女性や一人暮らしの男性にぴったりじゃないかしら」(東京・渋谷区で)=菅野靖撮影 「ずっと仕事中心の生活。献立を考え、買い物をして、料理するなんてしたことない。ただ『窮すれば通ず』で、冷蔵庫にあるものや残り物で何か作ることは得意やな」と笑う。

 そんな自信作のひとつが卵掛けご飯だ。とても料理とは……と侮るなかれ。「私の顔を見るたびに、卵掛けご飯が食べたいと言う人がいるほどなんだから」

(略)

限りある材料と時間で、どうやって良いものを作るか? その点で、料理と服作りは似ているという。「違いは、舌で楽しむか、着て楽しむかだけ。良いもの作りには、創造力とコーディネート力が問われるわけよ」

 卵掛けご飯にとどまらず、湯がいたインスタントラーメンをいためて花がつおとザーサイをまぶした焼きそば、アンチョビーソースを生地の下味に使うお好み焼き……。発想は自由で、奇想天外。だが、その不思議な手料理は、食べた人をたちまちファンにしてしまう。

 見た目にもこだわる。「どんなにおいしい料理でも、食器や盛りつけなどのビジュアルが悪いものはダメ。味が変わってしまう」というのが持論。

 大きめの真っ赤な漆や土ものの風情あるおわんに、控えめに盛りつけられた黄色が映える。脇に置かれているのは、柄の長いスプーン。「きれいで、おいしそうで、どこの一流店の高級料理かと思うよ。ただの卵掛けご飯やけどな」。こだわりの一杯は、デザイナーとしての生き方そのものを表しているようだ。

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