2019/12/16

最近の「入谷コピー文庫」と堀内さんのこと。

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知る人ぞ知る「入谷コピー文庫」、創刊はいつだったかなあ、2005年のようだ。ブログの2005/09/15「入谷コピー文庫と谷よしのと女中のウダウダ」に、こう書いている。

http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2005/09/post_3212.html
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入谷コピー文庫、聞いたことないだろう。編集発行、堀内家内工業、知らんだろう。

テーマは筆者の自由で、A4サイズ10枚以上30枚以下で原稿を仕上げ、堀内家内工業に渡すと、それを15部だったか17部だったかコピー製本して配布するという仕組みだ。「30枚以下」と決めてあるのは、それ以上だと「ホッチキスの針が通りませんので」ということなのだな。

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できあがった10数部は、発行人の堀内家内工業に選ばれたものたちの手元に届く。もちろん郵送料も含め、無料だ。おれも何度か書いているし、『大衆めし 激動の戦後史』に収録の「生活料理と「野菜炒め」考」は、入谷コピー文庫が初出で、その時のタイトルは「現代日本料理●「野菜炒め」考」だ。

身銭をきってのこの堀内家の所業、堀内さんがリッチな人なら道楽にすぎないのだろうが、どうだろうか。堀内さんはおれのことを「ビンボーを背中にしょった不器用さ」というけど、彼のビンボーもおれといい勝負なのであり、いや、おれは彼の方がビンボーで不器用と思っているが(なにしろ彼は、おれよりかなり若いのに手紙と固定電話以外の通信手段がない。ブログなどは図書館のインタネットを利用して見ているようだ)、とはいえ、どっちがよりビンボーかを争ってもツマラナイのであり、ようするに二人とも不器用なビンボーであり、おれはただの貧乏人だが、こんな所業を続けている堀内さんは「編集者の鏡」であり「出版人の鏡」なのだ。いや、そういう「職業的」な存在以上に、「人間の鏡」だろう。こういう人こそ「人間の鏡」とよんでいい。

この「入谷コピー文庫」、「知る人ぞ知る」と書いたが、おれは有名人をあげて権威づけるようなことは嫌いなのであげないし、そういう不器用者であるのだが、こんなのたかがコピーをホッチキスでとめた貧乏くさい冊子じゃねえかという姿からは想像できないだろう、とんでもなく有名人のファンがいる。だから、おれのような有名人でも、たまーにしか届かない。

最近届いた2019年10月1日発行の『勝手に忌野清志郎語録』は通刊119号であり、2019年12月3日発行の『みーんなの言葉』は通刊123号だ。つまり10月1日から12月3日のあいだに、4冊も発行していて、おれが頂戴できたのは2冊。

忌野清志郎。おれは、あまり自分の好みや正しさや趣味のよさを吹聴する方ではなく、そういう不器用者であるのだが、忌野清志郎は、けっこう好きであり、ブログにもたまーにそっと静かに清志郎のことを書いていた。だから堀内さんは、これを送ってくれたのだろう。

ロックもパンクもわからねえが、忌野清志郎の言葉は響く。ついでが、清志郎とどっちこっち言えないほど好きなのが峯田和伸だ。カラオケじゃ清志郎の歌はうたったことがないが、「銀杏BOYZの青春時代」は、よくうたったね。もうトシだから、カラオケには行かないけど。

そうそう、それで、最新の123号『みーんなの言葉』は、第一章「生まれけむ」、第二章「生き切るには」、第三章「生きてこそ」であり、この章立てからも、堀内さんの優れた才能がわかるだろう。

この第二章に、おれのオコトバが選ばれていて、だから送られてきたものらしい。そのオコトバは、こうだ。

「政治に限らない、「世のため人のため」を笠に、何かの中心に立ちたい、注目されたい、自分の名や生きた証を残したいなんて野心は、ろくでもないことを残す」

これ、どこに書いたか覚えがなく、ブログを検索してみたが見つからない。もしかしたら四月と十月文庫『理解フノー』かなと思うのだが、もうトシだから、と、なんでもトシのせいにして覚えていない。とにかく、いつも思っていることには違いない。ま、何かの中心に立つことも、注目されることもないのだが、その気もない。

「身を立てる」だの、「世に出る」だのなんて、とくに明治政府が鼓舞して続いている立身出世の封建思想であり、いまどきの「新自由主義」とは相性がよいようで、「自己責任論」と共に大通りで大手をふっているが、そういう思想は、ろくでもないことを残すことは、事例がありすぎて、目も当てられない。

ところで、同じ第二章に、車谷長吉の「小説を一篇書くことは人一人を殺すぐらいの気力がいる」という言葉があって、車谷長吉ならそうであろうと思って、笑って納得した。

「いい仕事のためにイノチをかける」ような言い方は腐るほどあって、腐っているが、「人一人を殺すぐらいの気力」で仕事をする人は、そうはいないだろうし、こういう言い方は車谷長吉のことだから真実味がある。

『勝手に忌野清志郎語録』の奥付に訃報の「ご挨拶」が載っていた。「8月8日に、母、堀内一子が他界しました。88歳でした。この号が堀内家内工業3人で作った最後の号となりました」とある。お悔やみ申し上げます。

東京で暮らしていた堀内恭さん夫妻が、病の父母がいる高知の実家へ介助や介護のために通うようになり、高知で過ごすことが多くなったのは、いつからだったか。もう10年以上たっているのではないか。

最初は、母の一子さんが病の床につき、付き添っていた父も病になり、そして父の方が先に逝かれた、と記憶している。なんにせよ大変な日常が続いていたのであり、堀内さんの身体の状態も悪くなり、その様子は『勝手に忌野清志郎語録』で堀内さんが書いている「はじめに 痛みと希望」からも、ひしひし伝わってくる。

なのに、このように入谷コピー文庫を発行し続けている。

「なのに」ではなく、「だから」かもしれないが。

どのみちおれのようなズボラな怠け者には、逆立ちしてもできないことだし、ちょっとでもやる気がしないことだ。ただ、「入谷コピー文庫」と堀内さんは、希望であることは間違いない。

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2019/11/03

『台灣漬 二十四節気の保存食』(種好設計著、光瀬憲子訳、翔泳社)で暮らしを考える。

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「レシピ本」という括りにはおさまらない良書だと思う。

正直なところ、いただいたときは、「ああ、また、例のアレね」と思ったのは、帯に松浦弥太郎さんの例の言葉があって、帯の背には「台湾の丁寧な暮らし」とあったからだ。表紙も、ソレっぽいし。

が、パラパラみていくと、ちがう。それこそ、「丁寧」に読みたくなって、じっくりしみじみ浸ってしまった。

二十四節気というのは、かつて日本の暮らしの中にも色濃くあった、いわゆる旧暦に従った暮らしだ。戦後「西暦」といわれるグレゴリウス暦が、すみずみにまで一般的になっても、1960年前後までは、おれの周囲では「旧正月」を祝う風習も姿を少し変えながらもあったし、どこの家庭にもあった「日めくり」には、旧暦の日付が併記されていたし二十四節気に従った生活の言葉などが印刷されていた。

おれの体験では1950年代後半ごろまでは、節句のほかに節気に従ってチョイとしたハレの気分の食事があった。といっても、モチ米を使った餅や餅菓子の類が多かったのだが、「ハレ」は旧暦の行事食の日だったのだ。いまでも、「小寒」「大寒」「立春」など言葉としては残っているが、食の方まではどうだろうか。

それは、見方によっては「農村的暮し」だったといえる。「農村的暮し」と見ていること自体を考え直し、イマを生きる「人間として」の生き方と、食べることや食べ物との関係の中に位置付け直す必要があるのではないかと思っている。そのためにも、この本は、思想レベルから保存食のハウツーレベルまで、たくさんの示唆に富んでいる。

これを、「台湾の丁寧な暮らし」としたのは日本人の側であり、そういう概念でとらえる日本人は少なくないだろう。しかし、この本の内容自体は「丁寧な暮らし」を謳っているわけではない。伝統回帰や自然回帰でもないし、「上質主義」でもない。もちろん、松浦弥太郎さんの思想ともちがう。読後、そこにあるギャップは、なかなか興味深いなあと思ったのだが、それはさておき。

著者プロフィールを見ると、「種好設計」は、「台湾のデザイン事務所。グラフィックデザイン、WEBデザイン、プロダクトデザインなどを手掛けるほか、体験をデザインする「ストーリーテリングデザイン」を提供」とある。この、「体験をデザインする「ストーリーテリングデザイン」を提供」ってのが、大いに気になった。

おそらく、この本も、先人たちの体験を「ストーリーテリングデザイン」したものではないかと思われる。そのことによって、先人の暮しの知恵は、かつてとは環境も生活も異なるイマに生きていくことが可能になる。

たとえば、保存食について「美味しさの蓄積。/新しい発見。/そして/変化という知恵。」と述べる。

保存食というと、とかく観光地の土産物の漬物のような古色蒼然としたイメージが漂うが、そうではない。新しい生が吹き込まれ生き生きとしている。

「暮しの知恵」は、とかく「ハウツー」に矮小化されがちだけど、この本は、もっと深いというか、ハウツーの背後にある普遍のレベル、宇宙に生きる生物としての人間の暮らしから考え、ハウツーと連動している。だから現代の暮らしの中にもデザイン化されるのだ。

たとえば、「立秋」の項は、「干しブロッコリー+干しキャベツ+干しサヤインゲン+干し筍+芥子菜漬け」であり、その立秋の暮らしを語る文章には、「太陽さえあれば」のタイトルで次のような言葉がある。

「万物は水から生まれたと言われますが/一方で水は万物を腐らせるとも言われます」

干し物の「宇宙観」とでもいうか、「料理」はつきつめれば水分のコントロールに至るわけで、それは、人間も食材も宇宙の生物として存在しているということに深く関係する。

おれは、この言葉から、按田優子さんの『たすかる料理』(リトルモア)の中の言葉を思い出した。それは「おかず 乾物と漬物に助けられる」の「乾物」の項にある。

「冷蔵庫が普及していなかった昔から、農作物は、時期が来たら収穫してその後すぐに加工して保存されてきました」と書き出し、「思えば料理に使う食材の大部分は、保存状態からスタートするのです。世界中の料理に共通点があるとしたら、だいたいの料理が塩で味つけることと、スタートラインが乾物や漬物だということなのでは? と思っています」

また、たとえば、「春分」の「古干し大根」の項では、「時間がもたらすもの」というタイトルで、「大根はお酒と同じように/古くなるほど香りが増し、旨味も増します。/これこそが、時間のもたらす価値。/急いでも、できることではないのです」

時間がもたらす価値、それに空間がもたらす価値を、どうとらえるかで、生き方も暮しと料理も変わってくるのだ。

とはいえ、おれは、この本を読んで、ただちに保存食に取り組み「丁寧な暮らし」をするつもりはない。まず、民俗誌あるいは生活誌あるいは食物誌としてこれを読んだ。のびのびとした暮らしの在り方を考えた。

おれのような怠け者は考えるだけで、やろうとしない。だけど、すぐやってみたいものが一つあった。「寒露」にある「丸鯵の醤油炒め」ってやつだ。正確には、丸鰺を炒め、保存するのだ。小さな鯵が山盛り安く売っていると買って、揚げたり、南蛮漬けがせいぜいだったが、これは保存して料理に使える。

マメな人は、もっとたくさんやってみたくなることだろう。

「作り方」の説明は、日本の一般的な料理レシピのように「丁寧」ではない。作り方を読んで、想像はつくが、作り方がよくわからないものもある。それぐらいがいい、だいたい日本の料理本のレシピは細かすぎるし、それに頼る人が多すぎるのではないか。

翻訳の光瀬憲子さんは、台湾と日本の両方の文化に造詣が深くなくてはできない、いい仕事をしている。以前このブログでも他の著書を紹介したことがある、こちら。
2014/07/05
台湾にもある大衆食堂パラダイス。光瀬憲子『台湾一周!安旨食堂の旅』は快著だ!
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2014/07/post-d270.html

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2019/10/04

おれも見沼田んぼのほとりで考えている。

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猪瀬浩平さんの著書『分解者たち 見沼たんぼのほとりを生きる』(生活書院、2019年3月)には、以前このブログにも書いたし四月と十月文庫『理解フノー』にも登場する「ダンゴムシ論」の根っこになることが書かれている。

「理解フノー」に書いたころは「ダンゴムシ=分解者」について十分に理解してなかった。そこのところが見えてきて、興味深いのだけど、なかなか重い内容が含まれているから、おれのような雑な人間には十分受け止めきれた自信がない。とりあえず5月2日に、概要だけ、ツイッターで紹介した。…と、2019/07/18「スリリングな読書と分解脳。」に書いてから日にちが過ぎた。

まだ十分受け止めきれた自信はないのだけど、書くことによって理解がすすむということもあるから、書き始めることにした。

見沼たんぼは、埼玉県の川口市から、面積の大部分はさいたま市に広がる農的緑地空間で、「東京の豊島区とほぼ同面積である」。

おれは、さいたま市の北のはずれ東大宮、見沼たんぼの北限域のすぐ近くに10年前に引っ越してきた。よく利用するスーパーの行きかえりには、そのほとりを歩いている。毎日のように見沼たんぼのほとりで考えているのだ。

そこに見えている芝川や見沼代用水西縁に沿って見沼たんぼを歩いて下ると、実際に歩いたことがあるが、1時間半弱ぐらいで、猪瀬さんが事務局長をしている「見沼田んぼ福祉農園」に着く。おれが猪瀬さんと初めて会ったのは、2013年11月25日、この農園でだった。

猪瀬さんは、明治学院大学の教員をやりながら、福祉農園のほかにも、NPO法人のらんど代表理事、見沼・風の学校事務局長などをしている。

猪瀬さんが、そのように見沼たんぼと深い関りをもち、「見沼たんぼのほとりを生きる」ようになったのは、猪瀬さんの6歳上のお兄さんが自閉症だったことに関係する。

この本は、自閉症のお兄さんと家族のことが芯になっているけど、「障害者と家族の物語」と「見沼たんぼの物語」がからみあいながら、「これまで」と「これから」を分解し紡ぎ直しているところに特徴がある。

その紡ぎだされたものが、序章「東京の<果て>で」の見出しに、「「とるに足らない」とされたものたちの思想にむけて」とある「思想」なのだ。

「私たちが、如何に雑多な存在と共に生きていけるのか、そのための思想を素描するのが、この本の目的である」

「「首都圏の底<見沼田んぼ>」は、1960年代あたりを境に、膨張する「「東京」の侵略」(©アクロス選書1987)によって「「とるに足らない」とされたものたち」の吹き溜まりになっていく。

その「ものたち」とは、「障害者」のような「者」でもあり「在日」といわれるような「者」でもあったり、廃棄物のような「物」や微生物のような「物」でもあるのだけど、猪瀬さんは、その者/物たちが見沼たんぼのほとりを生きる姿を描き、そこに「分解」と「分解者」をみる。

この「分解」という言葉と概念が、一般的な生活の中では、あまりなじみがないもので、おれの脳ミソでは咀嚼と消化に時間がかかっている。その「咀嚼」と「消化」も、分解の過程ではあるのだが。

「生きる」いとなみである、生産―流通―消費―分解―生産…というつながりの中の「生産―流通―消費」については、よく語られてきた。その中心には、いつの間にか、産業の思想がはびこり、そのもとで暮らすことに違和感を感じなくなっている。産業の思想は、より優れた(豊かな?)生産―流通―消費を基準に、さまざまな「とるに足らない」ものを排出した。そうして、「分解」も「分解者」も語られることなく、忘れ去られてきた。

JR東大宮駅の開業は、オリンピックがあった1964年の3月なのだが、その頃から、おれがいま毎日見ている見沼たんぼは、農村共同体的な風景から「東京の<果て>」へと姿を変えていったことになる。

猪瀬さんは、「私が見沼たんぼに惹きつけられるのは、首都圏/東京という歪に肥大化した身体の肛門から排出されたものたち」の存在があるからだと書く。「排出されたものたちが、思わぬ形で出会い、ぶつかり、交わる、すれ違う。そこでものとものとが交わり、熱が生まれる」

猪瀬さんがこの本で語る「分解」と「分解者」というのは、このことなのだ。

障害者たちは、見沼たんぼに引きこもっているのではなく、どんどん出かける。猪瀬さんもお兄さんと出歩く。「共に生きる」ためだ。いや、「共に生きる」ことを拒否し排出するものたちに向かって、「共に生きる」ことを理解させるためでもある。そういうときに、まわりの、自分たちを見る目や自分たちを見て話す言葉によって、「障害者」の兄といることを感じる。障害者は歪に肥大化した東京が広がる過程で「障害者」にされたのだ。

排出する側は、「とるに足らない」ものたちを「邪魔」や「障害」とする、排除の思想を持っている。そこにトラブルが生まれる。近頃、とくに排出された存在ではないはずの、子供をバギーカーに乗せて電車に乗ると、「邪魔」や「障害」とする排除の思想が働きトラブルになるニュースを目にすることがある。

子育てが、トラブルを起こす「闘争」の側面を持つようになったのは、子育てする人たちの問題ではない。「マナーがー」という見当違いの叩き方をする人たちもいるが、とにかく、そこにトラブルつまり闘争が発生する。

いま「トラブル」「闘争」と書いたが、それは片側からだけの見方なのであり、本書の第二部の「地域と闘争」の「闘争」には「ふれあい」というルビがあり、その扉には、横田弘『障害者殺しの思想』から「障害者と健全者の関わり合い、それは、絶えることのない日常的な闘争によって、初めて前進することができるのではないだろうか」という言葉が引用されているが、その「闘争」に「ふれあい」というルビがふられている。

この「闘争」つまり「ふれあい」も、「分解」なのだ。

ちょっとのはみ出しも許さないカタイ構造や、カタイ被膜で分断された構造を、分解し、「共に生きる」関係をつくりあげていくのは、容易なことではない。難儀なことだ。それを引き受けられるか、どう引き受けたらよいのか。とくに身近に障害者がいない身としては、考え込まざるを得ない。

「共生」「共食」「共考」といい、多様性を寛容を持って受け入れる、なーんていうが、実際はとても難しい。そもそも、「共」に、障害者や「とるに足らぬとされたものたち」は含まれているか、その顔が見えているか。

第三部「どこか遠くへ 今ここで」では、テーマはつながっているが、場所は見沼たんぼから離れる。

「やまゆり園で起きた凄惨な殺傷事件に、私は当惑した」と猪瀬さんは書く。

「容疑者は饒舌に語った。事件を解説する人、解釈する人も、饒舌に語った。(略)様々な言葉が、待っていたかのように溢れ出した」「私が当惑するのは、殺された人が語らない人であることにされている点だ(エンテツ注=「であることにされている」に傍点)。当然、殺された人は語ることができない。問題はそこではない。彼ら、彼女らは、殺される以前から「語ることができない人にされていた」」

そして「重度障害者の彼らには語るに足る人生があったと考えない空気が世間に存在していた」と指摘する。

この指摘は、おれのように「ライター」なんぞの肩書で、メディアがらみの仕事をしているものは、少なからぬ責任を持っていると思う。語るに足る、キャッチーな人や場所やモノなどばかりを、ネタにすることが多いからだ。それが、片方では、語るに足る人生がないかのような存在を生んだり、語らない人であることにされている人たちを生む、強い抑圧になっていることが少なくない。

かつて宮本常一は『忘れられた日本人』で、自ら語ることができない無字社会の日本人を発掘したわけだけど、猪瀬さんは本書で、別の意味で自らを語ることが難しい立場に排出され、忘れ去られようとしている人びとを描いているといえそうだ。

それだけじゃなく、「如何に雑多な存在と共に生きていけるのか」の思想を問うているし、読む者は問われている。

「分解」や「分解者」は、「食べる」と深い関係にあるのだけど、そのレベルのことになると、本書のあと7月に青土社から発行の藤原辰史『分解の哲学 腐敗と発酵をめぐる思考』を一緒に読んで、ますますおもしろくなっている。

藤原辰史さんは、3月に農文協から『食べるとはどういうことか 世界の見方が変わる三つの質問』という本を出していて、これが、食べることの入門書として画期的にすばらしい。分解と分解者の存在意義が一目でわかるイラストまであるのだ。それを見たとき、おお、そうか、分解の思想は、難しく考えずに、ここからスタートすればよいのだと思った。

三つの質問の中の一つが、「「食べる」とはどこまで「食べる」なのか?」だ。

イラストは、子供が食べ、糞尿をしている。子供のまわりを、糞尿が自然から生物へ、生物から食べ物になり、また食べ、という循環のイラストが囲んでいる。その、子供のお尻の下の糞尿のところに「スタート!!」の描き文字があるのだ。

食べるというと、例によって生産―流通―消費であり、排泄から先は「とるに足らない」あるいは見たくもない考える必要もないような生活をしているのだが、じつは、食べるのスタートは糞尿であり、その分解から食べるは始まる、という見方ができる。

肛門も膀胱もある人間として生きるなら、肛門や膀胱の「先」も考えるのは当然だろう。食べれば「出る」のだ。そして分解があるから、全体の「生きる」がまわっていく。もし分解がなかったら、糞尿に埋もれて死んでしまう。分解には、もちろん、分解者がいる。

おれたちは、「出す」ことを前提に、食べている。食べなければ死ぬように、出さなければ死ぬ。食べることが生きることなら、出すことも生きることなのだ。食べ物と糞尿は、等価。まさか、このことは、忘れてないよな。口が現在なら肛門は未来だ。排泄は、未来に連動している。その先に未来がある。未来は、遠くにあるわけじゃない。おれのケツの下にあるのだ。便所の便器の先。とるに足らないとされたものたちが存在するところ。

そんなことを、見沼たんぼのほとりで考えているのだが、「分解」と「分解者」の話は、まだまだ続く。今日は、ここまで。

当ブログ関連
2019/07/18
「スリリングな読書と分解脳。」

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2019/09/22

『たすかる料理』按田優子の推薦図書。

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「按田餃子」の按田優子さんによる『たすかる料理』(リトルモア、初版1月で2月には2刷り)は、かなりおもしろい。その画期性は、おれの『大衆食堂の研究』のはるか上をいくね。いわゆる「料理本」のたぐいになるだろうけど、単なる実用書でもない、生きること食べることに関する、なかなか教養深い書で、こういう傾向のものがなかったわけではないが、やっぱりなかったといえる。

『たすかる料理』(リトルモア)の最後には、「ふろく」として「按田優子の推薦図書」が載っている。このブログでその紹介をするつもりだったのに、すっかり忘れていたことを、按田さんと会って思い出した。

推薦図書は、「食べ物と体のヒントになる本」として、按田さんの紹介文付きで10冊あげられているのだが、そのラインナップがおもしろいのだ。

順番にあげてみよう。

『冷蔵庫いらずんのレシピ』按田優子著、ワニブックス
『ビダハン「言語本能」を超える文化と世界観』ダニエル・L・エヴェレット著、屋代通子訳、みすず書房
『雲南の照葉樹のもとで』佐々木高明編著、日本放送出版協会
『横井庄一のサバイバル極意書 もっと困れ』横井庄一著、小学館
『闘魂レシピ』アントニオ猪木著、飛鳥新社
『健康自主管理のための栄養学』三石巌著、阿部出版
『オナラは老化の警報機』荘淑旂著、祥伝社
『秘伝 発酵食づくり』林弘子著、晶文社
『内臓のはたらきと子どものこころ(みんなの保育大学)』三木成夫著、築地書館
『男前ぼうろとシンデレラビスコンティ』按田優子著、農山村漁村文化協会

最初と最後が按田さんの書で、この紹介文を読むことで、按田さんの生きる思想を知ることができる仕立てになっている。もちろん、その生きる思想は、食べる思想でもあるのだが。

この10冊のうち、按田さんの本を除き、書名すら知らなかった。『雲南の照葉樹のもとで』の編著者佐々木高明の本は、なにしろ「照葉樹林文化論」がにぎやかだったこともあり、何冊か読んだことがあるぐらいだ。

「食の本」は、ごまんとあって、いろいろな選び方があるけど、こういうラインナップになるのは、珍しいと思う。

「生きることは食べること」「食べることは生きること」など、近年ますます「食べる」と「生きる」が関連づけられて語られるようになったけど、その二つがシックリ包括されている感じの著述や実践は少ない。

按田さんは、著述でも実践でもシックリいっている、数少ない人といえるだろう。しかも、「按田餃子」のビジネスとしても成功しているのだから、ま、ビジネスとしての成功は、そこに現代の「流れ」を見るべきだろうけど、早すぎもせず遅すぎもせず、それにのれたのは、このラインナップに見られる、視野の広さと思想の柔軟性によるのかもしれない。

って、ことで、では、按田さんは、これらの本についてどういう紹介の仕方をしているかについては、面倒なので書かない。これからの「生きる」と「食べる」に関心がある人は、ぜひ読んでみてください。

当ブログ「按田優子」関連
2014/06/22
ku:nel クウネルの「料理上手の台所」、いいねえ。
2018/08/31
スペクテイター42号「新しい食堂」。
2019/04/16
充実泥酔。ありがとうございました、ヒグラシ文庫8周年トーク。
2019/04/30
ヒグラシ文庫8周年トーク・イベントのテープ起こしです。

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2019/08/28

「肛門都市東京」「生活と分解」。

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猪瀬浩平さんの近著『分解者たち 見沼たんぼのほとりを生きる』(写真=森田友希、生活書院2019年3月)と藤原辰史さんの近著『分解の哲学 腐敗と発酵をめぐる思考』(青土社2019年7月)を、とっかえひっかえしながらピンポンのように読んでいて、まもなく読了なのだが(『分解者たち』の方は、一度通読している)、おれのように学知のないものには、なかなか難解のところがありながらも、勝手に解読していると「分解」と「分解者」については興味はつきず、頭の中が分解し発酵かつ腐敗が進行し熱を持っている。

とりあえず、「肛門都市東京」と「生活と分解」というワードを思いついたので、忘れないうちにメモしておく。

東京は排泄するだけの都市なので、「排泄都市東京」でもよいのだが、あまり面白みがない。それに、機能的には「肛門」になるだろう。

でも、「東京者」は、肛門だなんて思っていない、美味しいものを食べるスマートで美しい口だと思っている。そこがまた、いかにも肛門的なのだ。口と肛門は直結しているが、東京は、それを感じさせない。美しい食べ方、美しい言葉、美しい呼吸の、美しい口があるところ。大衆食堂やゲロめしは、そのことを思い出させる。

「生活」というのは、わかったようでわからない言葉であり概念だ。衣食住のなかでも「食生活」は、わかりにくい。そこで、「生活は分解である」と考えてみると、たしかに、かつてはそうだったのだ。いまは、どうなのだろう、「生活と分解」の関係が気になるのだった。

ほかにも、「肛門メディア」という言葉も思い浮かんだし、「肛門ライター」という言葉も思い浮かんだ。「肛門都市東京」に不可欠な権威のための、言葉やイメージや情報などの排泄を担う存在。

とにかく、『分解者たち』と『分解の哲学』のおかげで、糞まみれになっている。おれはフンコロガシ・ライターへ変態しつつあるのだろうか。

当ブログ関連
2019/07/18
スリリングな読書と分解脳。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2019/07/post-81d708.html

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2019/08/08

「カレーを混ぜる、文化を混ぜる」

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かつてのフットワークのよさがすっかり失せてしまったおれは、近年の「スパイスカレー」や南インドやスリランカの料理あるいはカレーのブームを、遠くから眺めているばかりだった。

すると、どうしても「食べる」ときの「混ぜる」が料理として欠かせない「汁かけめし」の視点になるのだが、そういう視点からの話題は、ほとんど目にすることがないと思っていた。

ところが、やっぱり、あったのだ。

先日、2回ほど顔を合わせたことがあるferment booksのワダヨシさんが、「カレーを混ぜる、文化を混ぜる」と題した短いコラムに、拙著『ぶっかけめしの悦楽』から一文を引用したということで、『IN/SECTS(インセクツ)』という雑誌を送ってくれた。

ワダさんは、話題の『味の形 迫川尚子インタビュー』『サンダーキャッツの発酵教室』を発行しているferment booksの編集者で、身体的な視点からも「食」や味覚を考えたりする面白い方だ。

早速、そのコラムを読んでみた。

「カレーライスはかけめしが進化したものだ」という『ぶっかけめしの悦楽』からの文を引用しながら、現在の南インド料理やスパイスカレーのブームも、ぶっかけめしたるカレーライスの延長に存在するものという話をしているのだが、単にカレーだけのことにとどまらず、インド音楽の「混ぜる」文化にまで言及している。

そこでは、「食べ物を混ぜない日本人に、インド人側からカルチャーショックを受けた」というM・K・シャルマの『インド・エリートビジネスマンの「日本体験記」 喪失の国、日本』 (文春文庫) からの引用もあったりする。

そしてワダさんは、「カレーを混ぜることと、文化を混ぜることにはさらなる深い関係がありそうだ、とカレーを混ぜつつ思った」のだった。

いやあ、これは、なかなか面白い。

とりあえず、おれは、「日本の「伝統文化」にも、村田珠光の「和漢のさかいをまぎらわすこと肝要」という言葉のように、「混ざる/混ぜる」の文化」がありましてねウンヌンという話と、『ぶっかけめしの悦楽』の帯に「いま時代が動くとき、かけめし再発見」と書いたのだけど、ますますそのことを強く感じていると、御礼のメールに書いた。

するとワダさんから、「混ざる/混ぜる」と人間の肉体や料理の物理性とのかかわりにふれるメールがあって、おれはすっかりコーフンして、脳内は汁かけめし状態になっている。

一昨年の『スペクテテイター』40号「カレー・カルチャー」特集号のときは、「カレーショップは現代の大衆食堂である」というお題をいただいて書いたので、あえて汁かけめしにはふれないように書いたのだが、チョイと正直すぎたかという反省もあって、発酵しきらないモヤモヤが残っていた。

ワダさんには、よくぞ『ぶっかけめしの悦楽』のことを思い出していただき、感謝だ。

どこが「原産」のカレーだろうと、きのうの「ぶたやまライス」だろうと、混ぜまくる日本の食文化、とくに混ぜまくる大衆食文化に息づいているのだ。

最近のミーツもダンチューもカレー特集だが、当然ながら、カレーをめぐる「新しい動き」を知るにはよいが、毎年恒例の消費活動で終わっている。

それはそうと、『IN/SECTS』という雑誌、初めて見たが面白い。小粒ながら文化創造に意欲的な記事が多く、読ませる。こちら。
https://www.insec2.com/

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2019/08/07

『暮しの手帖』に、ぶたやまかあさんとぶたやまライスが登場。

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暑いからね、ということで、ほったらかしのブログだが、まずは、このことを書いておかなくてはならない。

先月末発売の『暮しの手帖』8-9月号、第5世紀記念特大号に、ぶたやまかあさん家族とぶたやまライスが登場した。

その見出しからして、こんなアンバイだ。

ハードルを下げれば
楽しく続けられる。
今日も一日のごはんを
「やり過ごす」ために。

ぶたやまかあさん。会社員、やり過ごしごはん研究家、40代。

この記事は、第5世紀1号記念企画「第1特集 ちゃんと食べてゆくために」の最初のテーマ「わたしが台所に立つ理由」の一つだ。

ぶたやまさん家族、勤め人の夫と子供3人の全員が登場、そして、「ぶたやまライス」をつくって食べる。

「ぶたやまライス」とは、ツイッターでも人気のぶたやまさんのやり過ごしごはんの代表作。いわゆる「汁かけめし」の亜種であるワンプレートクッキングであり、一つのプレートにごはんとおかずを盛合わせるのだが、ぶたやまライスらしい法則性がある。

「油っぽいお肉とさっぱりした酢漬けの野菜さえあれば、あとは何をのせても良し」というもの。これ、じつは、米のめし料理の基本を押さえているし、汁かけめしと大いに関係あることなのだ。そのことについてふれていると長くなるから、またの機会に書くツモリとして。

ぶたやまさんの、「大事なのは、毎日のごはんをやり過ごすことだから」という言葉と、「豚こま肉をゆでて、ポン酢をかける。人参はラペにし、ピーマンはグリルで焼く。私は決して器用ではありませんが、シンプルな作業ならムリなく同時進行できます。人参を切っていて時間がなくなったら、明日のスープに使えばいい」という考え方と方法は、かなり面白いと思うし、いろいろな可能性を秘めていると思う。

おれも最初の頃は、「やり過ごし」ということについては、よくわかっていないところがあったが、日々の暮らしにとっては、すごく大事なことで、ここで間違うと「呪い」にかかることになる。

料理に限らず、さまざまな「呪い」にとらわれやすい環境がある。自分は能力のない人間だ、自分の仕事も人生もツマラナイものだ、自分の住んでいるところはツマラナイまちだ、などなど「呪い」にかかりやすい。そういうことにまで、「やり過ごし」は効きそうだ。人によって程度のちがいはあるだだろうが、「呪い」からの脱走も可能ではないか。「まちづくり」とか「少子高齢化」とか、そういう社会的課題にまで、使えそうな「哲学」というか「思想」というか。

「シンプルな作業ならムリなく同時進行できます」については、野菜炒めなどを対比させ、具体的に述べているのだけど、なかなか深い。詳しくは、本誌を読んでもらうとして、とくに料理につきまとう「共時性」と「経時性」のさばきかたは、これまた、いろいろな作業につきまとうことで、とても面白い。

ところで、「わたしが台所に立つ理由」には、ぶたやまさん家族のほかに、二つの家庭が登場する。新聞社写真部に勤めるおとうさんと妻と子供一人、もう一人は、画家の牧野伊三夫さんで、おれが「理解フノー」の連載をしている美術同人誌「四月と十月」の発行人だ。

「台所に立つ理由」というと、チョイと堅苦しいが、日々のことには、それぞれが「個」の「事情」というものを抱えながら、あたっているはずだ。食事についていえば、その日その日によって異なる「個」の「事情」を抱えながらつくるひとはつくり、食べるひとは食べるのだ。

企業的組織的になるほど管理がつきまとい抑圧は強まり、「個」の「事情」は薄められ平均化や標準化されるし、「家庭料理」については相変わらず戦前からの「良妻賢母」モデルに組み込まれた抑圧が機能しているが、家庭では、家庭によりけりだが、「個」が比較的自由に表出しやすい。ぶたやまかあさんのように「私はいつも、自分が好きな味を貫いています」といったことが可能だ。

しかし、その「個」の「事情」が、さまざまにメディアにあふれるようになったのは、新しい。「とくにSNSの普及で、台所の料理の担い手が直接発信できるようになって、状況は大きく変わりつつある」と、おれは『現代思想』7月号に寄稿した「おれの「食の考現学」」に書いたが、従来の紙メディアでは、牧野伊三夫さんのような画家や文化的(クリエイティブ?)な職業の人たち、著名な方々など、あるいは飲食がらみの各種業の人たちなど、その仕事や肩書で耳目をひく人たちが登場し、チョイ「上」な「美しい」「上質な生活」を語ることが多かった。そういうところでは、「やり過ごしごはん」といった、生活の地声のようなものは、なかなか聞こえてこなかった。

それから、これだけいろいろなメディアがあるのに、住み分けがすすんでいて、それぞれが小さな水たまりに棲息し、越境やまじわることが少ない。例えば、牧野伊三夫さんと、共働き勤め人のぶたやまかあさん家族が同じテーマで並んで登場するなんてことは、「珍事」のたぐいだったと思う。交わることのない編集や制作、交わることのない読者、交わることのない生活が、割と広く存在した。

これからどうなっていくかわからないが、『暮しの手帖』の第5世紀の1号目にぶたやまかあさんが登場したことは、生活的に、希望がもてるような気がしている。

ぶたやまかあさんの記事に関して、ツイッターに、こんな感想があった。

からすねこ
@karasuneko_cat
ぶたやまかあさんの暮しの手帖入手。ゴハン作り大変だけど、ぼちぼちでいいよってユルさで良かった。暮しの手帖ってすごくストイックなイメージで、キチンと頑張らなくちゃって感じだけど。
午後10:25 · 2019年7月27日·Twitter for iPad
https://twitter.com/karasuneko_cat/status/1155107047072919554

当ブログ関連
2019/06/08
『暮しの手帖』100号、「家庭料理ってどういうもの?」。

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2019/07/18

スリリングな読書と分解脳。

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最近、スリリングな読書を楽しんでいる。

始まりは4月18日だった。見沼たんぼ福祉農園ほかで、主には飲みながら何かとお付き合いさせてもらっている猪瀬浩平さんの新著『分解者たち 見沼たんぼのほとりを生きる』(写真=森田友希、生活書院)を、大宮ジュンク堂で買い、近くのいづみや本店でビールを飲みながら読みだしたら止まらなくなり、とはいえ読み続けるわけにもいかず、家に帰ってパソコンに向かいメールを開けたら、『現代思想』の編集さんから初めてのメールで、「食の考現学」について原稿の依頼があった。

んで、何日かしたころ、以前から何かとおれのことを気にかけてくださっているようだが諸般の事情で仕事にはなっていない編集さんから、『フードスタディーズ・ガイドブック』(ナカニシヤ出版)という本に『大衆食堂の研究』が載っていますよ、というメールがあったので、早速またもや大宮ジュンク堂へ行って買い、またもやいづみや本店でビールを飲みながら『大衆食堂の研究』の評のところだけ読んだ。

その後、まずは『分解者たち 見沼たんぼのほとりを生きる』を一回読み切った。以前に、このブログにも書いたし四月と十月文庫『理解フノー』にも登場する「ダンゴムシ論」の根っこになることが書かれている。「理解フノー」の段階では「分解者=ダンゴムシ」について十分に理解してなかったところが見えて、興味深いのだけど、なかなか重い内容が含まれているから、おれのような雑な人間には十分受け止めきれた自信がない。とりあえず5月2日に、概要だけ、ツイッターで紹介した。

『フードスタディーズ・ガイドブック』のほうは、パラパラ見たら、いま読むと、これから書かなくてはならない「食の考現学」の原稿が影響を受けそうだから、原稿を書き終えてから読むことにした。原稿の締め切りは6月5日だった。それから読んだ。

『大衆食堂の研究』の評者は、藤原辰史さんだ。この方のことは、昨年夏ごろだったかな、『[決定版]ナチスのキッチン 「食べること」の環境史』(共和国)で知った。なんだか、すごいパワーの人があらわれたなあ、「食」に関する著者にこんな人はいなかったよ、と、ビックリボーゼンとした。いったい何者ゾと思ったのだが、そのままだった。そのうち、『トラクターの世界史』(中公新書)や『給食の歴史』など、気になるタイトルの本が並んだが、おれにはナチスのキッチンで十分だと思っていた。

しかし、『大衆食堂の研究』の評が、すごくおもしろい。とにかく、「食の話」というと「食べ物」に偏りがちだけど、藤原さんは、そうではない。

全体を見渡し、視野が広いし学識が厚いだけでなく、この人の専門は何かというぐらい、縦横無尽に越境する視線がおもしろいのだ。京都大学の教員で専門は「歴史学」のようだが、かなりジャンル横断的かつ上下縦断的に、四方八方目配りも学知も豊富で、軽やかに越境しながら真実に迫っていく。そう、そこが、スリリングなのね。越境は、スリリングだ。ハエを追いかけていたら蚊になり蚊を追いかけていたら鷲になり鷲を追いかけていたらワニになりワニを追いかけていたらバラになり…てなぐあいに世界や人間どもが見えてくる、という感じかな。

『大衆食堂の研究』について、最初の方で、こんなふうに書いている。「文章のなかに散りばめられている罵詈雑言も強烈であり、著者自身もジャンクな本でよいと考えている節があるが、そう読むだけではもったいない。そう読んでも十分に楽しめる本なのだけれども、本書の到達した食の理論から目をそらすことになる」

こうして、大衆食堂の研究に書かれた「生簀文化論」や「「ロクデナシ」の食い方」や「大衆食堂は家庭的ではない」「食の自立性」「味覚の民主化」などが料理される。

で、藤原さんの新著の『食べるとはどういうことか 世界の見方が変わる三つの質問』(農文協2019年3月)が、気になった。「食べるとはどういうことか」と、真正面からの切り込みだ。ナチスのキッチンのタイトルにも、「食べること」とある。

おれは、このブログでも何度か「食べ物」と「食べること」の話の混乱についてふれてきたが、ようするに、「食べ物」の話ばかりに偏っていて、「食べること」については、あまり考えられていないのだ。

「食の話」というと、おいしい楽しい食べ物の話が好まれる風潮、それをまた押す風潮(なぜなら、食べる飲むの商売と直結する人が多いからね)。「食べること」が好きな人は「食べること」を考えるより、話題になる食べ物に群がる、という風潮が、あれやこれやのメディアと周辺にマンエンし続けている。

その兆候は、すでに『大衆食堂の研究』を書いていた1993年頃にあった。おれは、「あとがき」でこう書いている。「この本でくそまじめに食生活を考えてほしい、といったら笑われるだろうか。/でもおれはくそまじめにくうことを考えていた」

考えることはスリリングだけど、そんなスリルより、誰かさんが押す食べ物や「みんな」が話題にする食べ物を期待している人たちが大勢だ。ワタシ押す人、ボク群がる人。その立場は入れ替わりながら、消費のコンテンツは花盛りだが、「考える種」は育たない。

しかし、真正面から「食べるとはどういうことか」だから、この本は買った。

京大のフジワラ先生と12歳から18歳の8名の中高生による「ゼミ」をまとめたものだ。ほかの厚くて細かい字のアカデミックな言葉の本と比べると、この本はおれのようなジジイにとっては文字も大きくなんと読みやすくわかりやすいことか。ってのは、どうでもよいことで、フジワラ先生は、生徒たちに三つの質問を発し討議する。

1、いままで食べたなかで一番おいしかったものは?
2、「食べる」とはどこまで「食べる」なのか?
3、「食べること」はこれからどうなるか?

1番目は、うまいってなんだ、ってことに関わる質問ともいえる。

あいだにフジワラ先生の解説やコラムが入ったりするのだが、「対話 『食の哲学』という本をみんなで書くとしたら?」なーんてのもあって、みんなで『食の哲学』の目次までつくっちゃうのだ。

これまで、食に関心を持ったらまず読む本のオススメの決定打がなかったが、これからはこれだ。

討議のあと、フジワラ先生は、今日の議論には答えはない、「答えを探すことが目的ではなくて、みんなに「考える種をまく」というのが今日の目的だった」という。そして、「あたりまえのことを問い続けるスリリングさ」ということで、哲学ってのは無味乾燥でメンドウなものでなく、「スリリングな知的エンターテイメントなんだ」という。

なるほどね~、おれももっと見習おう。あと「身体感覚を伴う問いの大切さ」についてふれているが、おれはもともと大学で学知なるものを身につけていないこともあって、体験や体感をもとに考えるのだが、近頃は、SNSの普及もあって、とくに「身体感覚を伴う問いの大切さ」について痛感している。

『分解者たち 見沼たんぼのほとりを生きる』と『フードスタディーズ・ガイドブック』と『食べるとはどういうことか 世界の見方が変わる三つの質問』については、もっとよく読みこなしてから、このブログに紹介するツモリだ。

ところが、まだあった。

『現代思想』7月号が出来あがって、発売日は6月28日だったのだが、その前夜、編集さんが届けてくれるというので大宮で会った。ま、もちろん、いづみやへも行ったのだけどね。そのとき、フジワラ先生の新著も持って来てくださったのだ。そのタイトルが、『分解の哲学 腐敗と発酵をめぐる思考』だ。

これは『現代思想』に連載のものに加筆してまとめたものだ。いただいて、パラパラ見て、おお、またもや超越境の書ではないか、それに「生産者・消費者・分解者」など、猪瀬さんの『分解者たち』と深くリンクする内容のようだ。どうやら、「分解」は、近代の桎梏を超える(分解する)何かのようで気になる、と思ったまま、トシのせいもあるだろう、越境するスリルが続くとくたびれるから、少し休もうとほってあるのだ。

いやいや、しかし、近頃めったにないオベンキョウをしている。そして、おれの脳は、ゆるやかに分解している、か。

『現代思想』の件については、すでに雑誌も出来あがり、このブログで紹介済みだ。
2019/07/02
『現代思想』7月号に「おれの「食の考現学」」を書いた。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2019/07/post-624cb2.html

『フードスタディーズ・ガイドブック』の件についても、すでにこのブログに書いている。
2019/05/13
自分の本が載っているからではない、食の「知」のための一歩、『フードスタディーズ・ガイドブック』。
http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2019/05/post-0aa567.html

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2019/05/13

自分の本が載っているからではない、食の「知」のための一歩、『フードスタディーズ・ガイドブック』。

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食の話は好みや趣味に偏りやすい。どう知識を身につけるか考えよう。その一歩。安井大輔編『フードスタディーズ・ガイドブック』ナカニシヤ出版 →「食と文化・社会、食の歴史、食の思想、食をめぐる現代の危機を知るための、初の総合的ブックガイド。食について考えるうえで欠かせない49冊を徹底紹介」。

ある編集さんから、『フードスタディーズ・ガイドブック』(ナカニシヤ出版)という本に『大衆食堂の研究』が載っていますよ、というメールがあったので、なんだろうと思いながら、大宮ジュンク堂へ行ったら一冊だけあった。

買って、とりあえず近くのいづみやに入ってビールを飲み、パラパラ見た。驚いた、これは、まじ学術的な「フードスタディーズ」つまり「食研究」のための本のガイドブックなのだ。

だってさあ、第1章の最初に登場するのが、クロード・レヴィ=ストロース様の『神話論理Ⅰ 生のものと火を通したもの』なんですよ。

表紙の腰巻には「食をめぐるブックガイド」「食と文化・社会、食の歴史、食の思想、食をめぐる危機を知るための49冊」」とある。本文は4章にわかれ、『大衆食堂の研究』は3章の「食の思想」のところにあるのだ。

おお、あのジャンクな『大衆食堂の研究』が、「食の思想」だと。しかも、評者が、藤原辰史さんだ。

ビールを飲みながら、自分のところだけ読んだ。藤原辰史さんのレヴューが、すごくおもしろい。『大衆食堂の研究』本書を読まずに、これだけ読んどいたほうがよい、という感じ。「読みこなす」って、こういうことか。自分が資料を読み評価するときの反省にもなった。

以前、『汁かけめし快食學』が出たあと、玉川大学の学生から、リベラル・アーツの授業で『汁かけめし快食學』がテキストになっているのだが内容について質問があるというメールがあった。

なんでだ。おれの本を大学の授業のテキストにするなんて間違ってるだろと思ったが、著した本人が想像もしてなかったことが起きるんだなあ。そうそう、おれはそのとき「リベラル・アーツ」って言葉を知らなかったから、なんじゃそりゃ、と思ったものだ。

『大衆食堂の研究』は出版したばかりのころ、本屋で中身を見て買ったのだが読むうちに自分の書斎に置くのもけがらわしくなったと怒って送り返してきた人もいた。同封されていた手紙から、プライドの高いインテリさんのようだった。

本も味覚も、本人の好みや興味と学習しだいということもあるからねえ。

それにしても、おれの書き方は、自分で「ラーメン構造」と名付けているもので、怒らないまでも忌避する人が多いだろうことは承知して書いている。嫌いな人は怒りが増す作用がある。

それに、学術関係の洗練された「専門知」と違い、おれは野良猫や野良犬と同じ「野良知」+「野暮知」なのだ。街の雑菌が書いていることですよ。

「はじめに」では、「本書の切り口」が三つあげられているが、その一つに「食研究の範囲自体をひろげる  必ずしも研究だけに収まらないものも広く含んで読みこなしていく」とあるから、そのあたりで、街の雑菌が書いたものも読みこなしていただけたのだろう。

『大衆食堂の研究』は1995年の発行で、遠い昔のことになったが、20年以上が過ぎて、こんなにおもしろいレヴューをいただけるとは、書いてよかったと、へそ曲がりのおれだが素直にそう思った。

ところで、このブックガイド、まだ全部を読んでないのだが、安井大輔さん編著で、24名の方が執筆している。パラパラと見たところ、49冊の選書は大変だったろうと思われる。

このブログにも時々書いているが、近年はインターネットで大学の紀要などに載った論文や卒論などが見られるし、食についてはいろいろな分野で研究がすすんでいる様子がわかる。一方、とにかく、飲食については、飲み食いして文章を書ければ誰にでも書けることもあって、インターネットも含め供給過剰気味に多いし、野放図状態で玉石混交のカオスだ。

「食」と簡単にいうが、体外の宇宙と体内の宇宙の接点にあり、もちろんウンコまで食の一環であり、幅広い研究分野が関係する。

研究者でなくても、食に関わっている人たち、もっといろいろな「専門知」や「野良知」が入り混じりながら食について考えていかなければならない現実だ。なにしろ「生活」の根本に関わることなのだ。そして、近年は食の様々な場面で、課題・難題が多い。狭い「学術村」や「出版村」などで権威・権力争いや派閥争いをしている場合じゃなく、まさに「知のネットワーク」が必要なんだなあ。

こういうガイドブックが出ることで、さまざまな「知」が混ざりあい、これからの食に関する見識の基礎が積み重なっていくのだろう。そういう出発点のような気がする。「あとがき」によれば増改訂もあるようだ。

こちら、安井大輔さんの「日記」に目次などの案内があります。『フードスタディーズ・ガイドブック』(ナカニシヤ出版、2019年3月)
https://daisukey.hatenadiary.jp/entry/2019/03/26/164525?fbclid=IwAR3qXnlcFzSs9ivJ-R2qKCD55E3NaIuW2o230-fpbnh9jiqA-CL11XPmmcY

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2019/03/23

スペクテイター43号「わび・さび」を見たあとは、地球の景色が違って見える。

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先日、スペクテイター編集部の赤田祐一さんから、最新2月発行の43号「わび・さび」をいただいた。

ちょうど、ある写真家と、いま最も刺激的で面白いのはスペクテイターだと盛り上がったあとだった。

いやあ、今回もまた、刺激的で面白い。というぐらいでは足りない。

巻頭の「Dear Readers」で、編集部の青野利光さんが「わび・さび――このたった四文字のことばの奥に広がる宇宙を巡る旅へと皆さんをお連れしたいと思います」「旅から戻る頃には月面旅行を終えた宇宙飛行士のように、これまで見てきた地球の景色がまるで違ってみえる。そんな不思議な気分が味わえるに違いありません」と書いているのだが、ほんとうに、その通りだった。

「わび・さび」については、とくに懐石料理以後の日本料理と大いに関係があるので、それなりに、その文献の類に目を通してきたつもりだが、またそれだけに、本書を読んだら興奮の連続で、読んでまた読んで、ウームと考え、気になる景色を見に行ってきたりして、また読んで、というぐあいで、なんともはやすごい読書体験をした。いや、まだ読書体験中なのだが。

何度も、その手があったか! と思った。

最初の、赤田祐一さんによる評論「〝わび・さび〟はどこからやってくるか?」にしてそうだが、「〝わび・さび〟といって自分が連想させられるのは、水木しげるの描く漫画である」と始まるのだ。そして、水木しげると水木作品を手掛かりに、〝わび・さび〟に接近してゆく。

「〝わび・さび〟は、「見つける」ものというより「見つかってしまう」ものであり、知識や理屈ではなく、むしろそこからはずれてしまうということのようだ」(「はずれてしまう」に傍点)

「天才もアホも、美人もブスも、金持ちも貧乏人も、人間であるかぎり不完全さから逃れることはできない。そのダメな部分を削って捨てようとするのではなく、ダメをどう快感に転じていくか、〝わび・さび〟とは自然の中でそのような回路を見つけ出す作業だと思う」

この「〝わび・さび〟はどこからやってくるか?」は見開きページなのだが、下の欄外に「わび・さびの直観的理解」として二つの図表がついている。

一つは「交点」であり、「わび」と「さび」の二つの輪があり、それが交わる中間が〝わび・さび〟であると。

もう一つは、BETH KEMPTON『WABI SABI』(2018・piatkus)からの「座標」だ。「複雑」と「簡素」のあいだに、「派手」「いき」「渋い」「わび・さび」「地味」がある。

これだけでも、〝わび・さび〟に関する、さまざまなインスピレーションがわき、日本料理や懐石料理、それに、おれが「生活料理」や「大衆めし」といっていることがらについて検討すべきことや、検討しなおさなくてはならないことが浮かんでくるのだった。

編集部は、さまざまな角度から、とくに「現在進行中の事象である」ものとして、〝わび・さび〟を探っていく。編集部の知る写真家、スタイリスト、イラストレーターに依頼し「わたしが感じた〝わび・さび〟」を撮り下ろしてもらった作品を、ページのあちこちに散りばめながら。あるいは、「いろいろな人が語る〝わび・さび〟」や「〝わび・さび〟を感じる瞬間」などを書物に探ったり。

〝わび・さび〟の歴史を漫画でまとめたり、「〝わび・さび〟を知る上で欠かせないキー・パーソンを十名に絞り込み」その略歴と東陽片岡さんによる肖像画。ここに東陽片岡さんのイラストが登場するのも、おれにとっては「その手があったか!」の一つだった。

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〝わび・さび〟といったら千利休ってわけで、漫画で「利休伝説」。

とにかく、サブカル的手法も縦横無尽に駆使して、楽しい、面白い。〝わび・さび〟は感覚のことだから、「とは何か」の理屈で正解を求めようとするより、漫画や写真なども使って、ああだこうだ、ああでもないこうでもないと探りながら、〝わび・さび〟の感覚に慣れていくのもよいのだな。

なんといっても焦眉は、二つのインタビューだ。

一つは、「サンフランシスコ郊外に‶わび・さび〟をさがして」ってことで、カリフォルニア在住の『わびさびを読み解く』の著者レナード・コレンの話を聞きに。

一つは、原研哉登場で「「人工」と「自然」の波打ち際にあるもの」。おれは、「シンプリシティ」と「エンプティネス」をめぐる話が、最も面白かったし参考になった。

「現代の〝わび・さび〟は、どこにある?」と中矢昌行は、「聖林公司の〝わび・さび〟」を撮っている。

続いて、まいど充実している「ブックガイド」は、桜井通開による10冊。ここに谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』があって、おどろいたが、読んで、なるほどなあ。

そして、最後は、つげ忠男の「懺悔の宿」。

以上が特集〝わび・さび〟で、これからまだしばらくは、この余韻というよりナマの刺激が続きそうだ。

こちらに案内があります。

http://www.spectatorweb.com/

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特集とは別に、「追悼 細川廣次」というページが付いている。 赤田祐一さんが「カウンターカルチャーの先行者 細川廣次氏をいたむ」という文を寄せ、細川廣次による「ビートニクたちが求めた悟り」と「八切止夫の裏返し日本史「原日本人」の許されざるルーツ探求」と「細川廣次インタビュー」が再録されている。この追悼が載るのもすごいが、これもたいした読み応えだ。

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