2018/12/14

死者を送る。

きのうは、7日に亡くなったギンちゃんの葬式に行った。

小田急線千歳船橋から10分ほど歩いたところのホールで9時半に始まるというので、ラッシュのピークを避けるため東大宮7時20分ごろの電車に乗った。8時10分すぎに新宿に着き、東口のベルクへ。生ビールとホットドッグ、生ビールおかわり。演奏のバンドは知らないが、BGMにロック調の「インターナショナル」が流れた。

立て~飢えたるものよ~、ああ、いま立ってドッグを食べてビールを飲んでいます。しかし、この曲、これから葬式のギンちゃんにピッタリな感じがした。彼女は左翼ではなかったが、ウッドストックにいてもおかしくない感じだった。それにしても、朝からインターは、左翼なんか知らなくても、調子が出る。

会場に着いたら9時半を少しまわり、式は始まっていた。ギンちゃんは、もともとキチンとした計画的な人という評価が高かったが、葬式についても全部決めておいた。それに従い、無宗教、戒名なし、香典のたぐいお断り、家族と親しかったものたちばかりで静かに営まれた。

「あの当時」の関係者は、おれのほかはRちゃんとなお女のみ。高山のSさんがいたのには、おどろいた。ギンちゃんとは、かなり以前から仕事をしていたとか。おれはあまり付き合いがいいほうじゃないせいもあるが、そういう情報に疎い。なお女とSさんは火葬場まで行ったが、おれとRちゃんは葬列を見送り、お別れにした。

見送って、「ああ、いっちゃった」とつぶやいた。

おれとRちゃんがそのまま帰るはずもなく、すっかり冷えたし、蕎麦で燗酒を飲みたいねえと千歳船橋駅周辺を探したが見つからず、祖師谷大蔵なら駅近くに蕎麦屋があったと一駅乗る。だが、そこは牛丼チェーン店になっていた。ま、ここでいいかと入ったのが、日高屋。11時半近くだった。それから13時すぎまで、よく飲んだ。

「あの時代」というのは、70年代後半から80年代前半、あの会社でおれが経営権を握っていた数年間のことで、管轄下に彼らがいた。おれが一番年上で、いまは75歳、その次がRちゃんで70歳。Rちゃんがいうには、若死にが多いという。おれより数年年上だったクリさんは1980年代に49歳で亡くなった。あとえーと、ビンシュ、カミヤマ、アンザイ、カトウ、若いうちに亡くなり。事務所に何か悪霊でも棲みついていたか。そういえば自殺もあったな。ここ数年で亡くなったのは、クニコさん74歳、ミトメ60歳ぐらい、カツカワ70歳ぐらい、そしてギンちゃん69歳、というぐあいにあげて、それぞれの思い出を話したり。

ってえと、残っているのは、はーすけ、マコト、ノムラ、ユウタ、ヨネさん、なお女…みんな、いちおう、60代にはなった。あと…、ショウジさんどうした、カムラさんやポンさんは生きているか。ポンさんとイワノが殴り合ったのが懐かしい。

さらに、「あの時代」以前の、おれより一回り以上年上の人たちの話になった。この3人はクセモノだ、かなりヤバイ背景を持っている。話しながら忘れていたことまで思い出した。大陸にあった実質スパイ養成学校の某学院の関係者だった某、朝鮮戦争当時の共産党の地方幹部だった某と某、それに某研究所の某、半島を舞台にした人脈と某はいつから極右につながったか。ようするに「右」「左」などは、そんなにキレイにわかれているわけじゃない、二重三重に立場が入れ替わる。

てな、アノ人コノ人たちの話をしながら、ビールをぐいぐい飲み、笑う。ま、みんな知らないうちに、そういうヤバイ関係の重なりのなかで生きているのさ。自分だけは政治と関係ない、無色だ、と思いながら。そういえば、Mなどは、ずいぶん口の軽いスパイだったな、某CIAに取り入ったときのことをペラペラしゃべったり。でも、肝心なことはしゃべらなかったよ、そこがアノ人たちらしさなんだな。

うへへへと、話はアメリカへとんで、某氏がCIAのリストに載っていて嘘だと怒っているが、どうやらその噂を流したのは「あの時代」のMらしいぞ。あの頃、アメリカで一儲けできるところだったのになあ。ま、食べ物の話をしているぐらいが、いちばん無難かもしれないねえ。なんの進歩もないけどね。彼らから見たら、日本人は大甘ってことだろうし、たしかにおれたちは幼稚な大甘の日本人だけど、それを自覚していればいいんじゃないの、そうすればへんなところに首を突っ込まなくてすむんだが。やたら大人ぶるやつがいてね。大甘は増長しやすいから。がはははは。

そうして、最後はギンちゃんの話になり、あいつはほんとうに楽しいやつだった。深刻なヤバイことでも、あいつが話すと笑い話になっちゃうんだよなあ。ほんと、ほんと。

シングルマザーのまま、この妊娠だけは計画的でなかったにちがいない、生まれた子を育てあげた。その赤ん坊が生まれたあと、ギンちゃんは何度か背負って出社したのだが、それからこの子を見ていないおれは、この日初めて、喪主を務める成長した彼を見たのだった。

ギンちゃんのおかげ、といっちゃなんだが、こうして会っておもしろい話もできたし。じゃ、また誰かが死んだときに会って飲もう。おお、そうしよう。

で、祖師谷大蔵駅で、Rちゃんは下り電車に乗るし、おれは上りで新宿へ出るので別れたが、考えてみると、おれとRちゃんが年齢的には次に死ぬ確率が高いのだった。ほかの誰かが死んで、二人で飲める機会があるのだろうか。

当ブログ関連
2018/12/08
ギンちゃんが亡くなった。

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2018/12/11

『ハックルベリイ・フィンの冒険』の一大事。

『ハックルベリイ・フィンの冒険』は、ときどきパラパラ見たり、何度かはシッカリ全部読んだりしている。『トム・ソーヤの冒険』もいいが、ハックのほうが、おもしろいだけじゃなく、なんてのかな、あの開放的な自由の思想ってのかなあ、それがいいドラッグになってカツが入るのだ。

ところがだ、そうまで入れ込んでいたのに、といってもおれの「入れ込み」ぐあいはネチネチが嫌いだからテキトーなんだが、テキトーだから、いろいろ見逃している。

今回、おれにとっては一大事を見逃していたのに気がついた。だから、こうして書いている。

それは、新潮文庫版の33刷(1982年6月)だと、本文が始まってすぐ、2ページ目にあるのだ。

ハックが几帳面で上品で堅苦しいダグラス未亡人のもとを一度は逃げ出し、そしてトム・ソーヤに捜し出され連れ戻されたあと。

「またもや、元の通りのことが始まった。未亡人が夕食の鐘を鳴らすと、時間どおりに行かねばならず、食卓についてもすぐ食べてはいけない。未亡人が頭を垂れて食べもののことをくどくど言うのを待たねばならないのだ。別に食べものがどうかなっているわけじゃないのに、――ただ、なにもかも別々に料理してあるというだけのことだ。これが残飯桶の中だと話がちがう。いろんなものが一緒くたになり汁がまざり合ってずっと味がいいのだ。」

これはもう、ハックというより作者のマーク・トウェインに拍手喝采を送るべきだな。

別々に料理し別々の皿にもった、単品単一型の美味追求より、残飯桶の中で「いろんなものが一緒くたになり汁がまざり合ってずっと味がいいのだ」と、複合融合型美味追求のぶっかけめし・汁かけめしを語っている。

これをよろこばずにいられるか。

しかし、なんで、ここんとこを見逃していたんだろう。『ぶっかけめしの悦楽』(1999年)を書いたときも、『汁かけめし快食學』(2004年)を書いたときも、気が付いていなかったのか。気が付いていたら、ゼッタイ引用したもんな。どこに目をつけて読んでいたんだ。

ま、おれの頭も目もザルだけどさ。

いやあ、さすが「現代アメリカ文学の源泉」といわれるこの作品だ、と、こういうとこで評価したいね。書かれた、ふだんの食事にあらわれる思想は、その文学や文化の本質だ。

と考えると、夏目漱石だの森鴎外だのを奉り、文学というと上品に気取って人びとの上にそびえようという日本の近現代文学そしてその影響下のテキストどもは……おっと、これ以上はやめておこう。

とにかく、ハックルベリイは何度読んでも、たのしい。

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2018/12/10

「細分化」はどこまでゆくのかねえ。こわいねえ。

平成のはじめごろ、「蛸壺化」なんてことが騒がれ、「セグメンテーション」が生き残り戦略のようにいわれることもあり、そのあたりが「オタク」などにとばっちりしながらぐちゃぐちゃ、とにかくやたら「細分化」が進んだ。平成は細分化の時代だった、といえそうだ。

産業社会のゆきづまりの結果の情報社会のせいなのか、もともと日本人は「蛸壺型」なのか。

どうだ、いまや、出版の飲食の分野を見ても、カレー、ラーメン、丼物、餃子をなどは涙がたれるほど懐かしい古典的なテーマになり、どんどん細分化され、さぬきうどん、やきそば、たこ焼き、お好み焼き…、ラー油や発酵やスープや塩など続々、それぞれに「我こそは」という感じの情報通がいらっしゃって、なかなか鼻息もあらい。

きのうの話の「ナポリタン」だって、いまや「日本ナポリタン学会」なるものもあり、1995年ごろには「絶滅品種」かと思われていたハムカツにも「ハムカツ太郎」なる人物が活躍している。

パフェだのコーヒーゼリーだのという本もたくさん、もっと細かくは、ドコソコの有名店が一冊の本になってしまうのが続々。

細分化は、テーマだけじゃなく切り口にまでおよんでいる。食う飲むの本などは、テーマ×切り口で、際限なく細分化がすすんでいる。「立ち飲み」「センベロ」「一人飲み」とかとか、そこに酒器だの作法だのが交差して。

情報過多のなか、細分化し、わかりやすく、消費しやすく。アメ横の割りばしを刺して売っているカットフルーツみたいだ。カットフルーツ山盛り。デカイまんまのスイカを手で割ってかじりつきたいんだよ、と思っても、それじゃ「文化」になりませんという感じで、やたら細分化しては小ぎれいにし、知的に文化を気取っている。ま、なかには「闇市派」のようにキタイナイ系もないではないが。

おれの肩書も、「大衆食堂の詩人」とかいう、いくらか細分化されたものになっているが、「大衆食」や「大衆食堂」なんていう分類は大きすぎてカワイイものだ。

「分類」と「比較」は、人類の文化的所業の根幹であるにはちがいないが、昨今の「細分化」はそれとはちがうようだ。やっぱり、薄気味悪い「蛸壺化」の進行が、ますます深まっているんだろうか。ニッポン・スゴイからオレサマ・スゴイまで、わっしょいワッショイ。細かく知ることが深く知ることと錯覚されたり、いろいろ認知が歪んできている感じもあるし、とにかく薄気味悪い。

このあいだ、やはりある細分化された分野で有名な方が、「化学調味料は簡便さという最大の特長があり、それはそれで堂々と使えばいいのであって、自然のものなら何でも上という意識は、かえって魑魅魍魎の棲家となる。もっとシンプルに自分にとっての心地よさをみんなが追求するとよいと思うな」と言っていて、エッと思った。そういう話なの?

でも、こういうわかりやすそうな例が、わかりやすいからこそか、けっこう受け入れられるんだなあ。

「化学調味料は簡便さという最大の特長があり、それはそれで堂々と使えばいい」「自然のものなら何でも上という意識は、かえって魑魅魍魎の棲家となる」「もっとシンプルに自分にとっての心地よさをみんなが追求するとよいと思うな」。まるで別のことが、みごとにつなぎあわされて、なんだか「正しそう」になっている。

そして、こんな考えのなか、「自分にとっての心地よさ」を求め、さらに細分化が進むのだろうな。

ちょいと考えてみれば、「もっとシンプルに自分にとっての心地よさをみんなが追求」したら、やっぱり魑魅魍魎の棲家になることぐらいわかりそうなものだが、細分化された明晰な頭脳は、なんだかとても歪んでいる。

こうして、どんどん歪んだ認知が広がるのだろうか。うへへへへ、こわいなあ。細分化された魑魅魍魎だらけ。

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2018/12/09

「ナポリタン」ってのはね。

もう、ほんとうに、飲食ネタは花盛りだけど、デタラメが多すぎやしないかという話をしていた。まあ、売れれば天下、という時代だからなあ。

ナポリタンにかぎらず、まいどのワン・パターンなんだが、「プロの味」だのなんだのって。そりゃまあ、プロはプロでやっているでしょうけど、そういう話がにぎやきになるのは、いつごろからのこと? わりと新しいんじゃないの。「B級グルメ」が話題になりはじめた、1980年代の後半の「B級グルメ」の本などでは、ナポリタンなんかたいして話題になっていないよ。だけど、どんどん食べられていたよ。

おれが、おふくろがつくるナポリタンを食べていたころは、ってのは中学から高校のころのことで、小学校のころはハッキリ思い出せないのだが、もしかすると小学6年生のころには食べていたことがあるかもしれない、つまり1950年代後半ぐらいか。

そのころ、おれのまわりでどのていどの人たちが「ナポリタン」を食べていたか知らないし、友達と話題になったこともなかったが、とにかく、スパゲッティは売られていたし、高校の山岳部の合宿(1958年~61年)でもナポリタンをつくって食べたよ。

なにがいいたいかというと、「プロの味」だのなんだの関係なく、たぶんスパゲッティ麺メーカーやケチャップメーカーの包装の作り方や広告宣伝のおかげじゃないかと思うんだが、どんどん人びとの生活の中で勝手につくられていたのさ。

そういうことをまったく無視するように、飲食店の「プロの味」ばかりが流布される。それって、ナポリタンにかぎったことじゃないが、「歴史修正主義」じゃないの。ってか、飲食のことについては、まっとうな歴史とは何かすら疑わしい。これなんていうんだろう、「似非歴史主義」とでもいうんかなあ。「似非科学」は問題になるわりに「似非食文化」は話題にならない。そういう「劣化ループ」ね。

と、飲食ネタのいいかげんさを正そうとするようなことをいうと嫌われるから、やめておこう。みんなは「いい話」がほしいだけなのさ。

はあ、「崑崙」のナポリタンとミートソースは、よく食べたなあ。

とにかく、飲食ネタを、エラそうな、かっこいい話にするのはやめようぜ。ナポリタンってのは、貧乏くさい生活の中で、あれをすすりこむようにズルッズルッと食べると貧乏くささを抜け出せそうな、バタくさい「洋風幻想」を一瞬あたえ、うどんのような腹ごたえを残してくれる、まあ愛しいやつだったのさ。

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2018/12/08

ギンちゃんが亡くなった。

危篤状態で年は越せないだろうといわれていたギンちゃんが昨夜亡くなった。

2013年末にミトメが亡くなったとき知らせてくれたのがギンちゃんで、その翌年カツカワが亡くなったのを知らせてくれたのもギンちゃんで、そしてこんどは彼女が亡くなった。まだ60代半ばだし、一番長生きしそうだったのに、先月末、かなり悪いという知らせを受けカクゴはしていた。

70年代中ごろ、彼女は20代。細い体に、いつもジーパンはいて、ヘルメットでもかぶっていれば似合いそうな格好で(当時のウーマンリブ活動家みたいだった)、「おい、ひるめし食いに行こうゼ」なーんてやっていた。ある朝、痣だらけの顔で出社した。前夜会社の連中と飲み酔っ払い、夜中の新宿中央公園で、その辺に置いてあった自転車で滑り台を乗って下り、すっころがった。そんな酔っ払いを重ねているうちに、妊娠した。シングルマザーの道を選び、めでたく出産。乳飲み子を連れて出社した。などなど、いろいろ話題の多い女だったが、サバサバした気性で仕事もでき、みんなに好かれた。おれは同じ会社にいても(いちおう、おれが「上司」だったが)直接仕事を一緒にしたことはない。ま、ようするに飲んだのだ。ときどき(子供が少し大きくなってからも)シングルマザーの苦労話をおもしろおかしくしていたな。

最後に一緒に飲んだのは、いつだったか、カツカワが亡くなったあとだったような気がする。そのとき集まったメンバーは、彼女と同じ年ごろ、おれより10歳ぐらい下の連中ばかりだった。東中野で大いに飲んだ。70年代中ごろのようにはいかないが。

それはそうと、昨夜亡くなったのに、火葬場が混んでいて、13日まで火葬ができないのだそうだ。

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2018/12/07

ループの内と外。

きのうのエントリーに使った「劣化コピー」という言葉、最近どこかで見たような気がするなあと思って検索したら、あった。

「平成の終わりは、昭和末期の「劣化コピー」である〜ループする衰亡史」というタイトルで、與那覇 潤が書いている(2018年11月23日)
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/58542

これ、当ブログの2018/04/01「「福島」から遠く離れて。」に書いた、円堂都司昭が『戦後サブカル年代記』(青土社2015年9月14日発行)の、「戦後史をふり返れば、似たモチーフが時代を超えて何度も登場したし、私たちは「終末(スクラップ)」と「再生の(ビルド)」のある種のループに閉じ込められているかのようだ」「日本人はいまだにループの外部を上手に思考することができず、過去を反復しようとしてしまう」という話と少し重なるところがある。

「歴史は繰り返す」てな言葉があって、現在はかつてのあのころに似ているという話はよくあるけど、與那覇の「ループ衰亡史」も円堂の終末と再生のループも、そういうのとチトちがう。とくに円堂のは、ま、本も厚いけど、重層的に解き明かしていて、考えるもとになる。

しかし、なんでこういうループにはまりやすいんでしょうねえ。と、いちおう、ループの外側にいて、それなりに苦労が多いつもりのおれは、思うわけだが。

そりゃそうと、きのう書いたように『あれよ星屑』を読んでいたら、山田風太郎の『戦中派不戦日記』が気になり、たいして本がない本棚から講談社文庫のそれを簡単に見つけ出しパラパラ読んでいた。

これは敗戦の年の昭和20年の記録なのだが、後半には闇市がたくさん登場する。新宿、新橋、三軒茶屋など。山田風太郎はいい家のお坊ちゃんの医学生だから、金さえあればなんでも手に入る闇市でいろいろなものを買っている。映画も見に行っている。おなじ戦後でも、金がなければ飢えた地獄の日々とは、かなり違う暮らしだ。

けっきょく歴史なんてのは、どの時代のどの人たちをどう見るかで、ずいぶん変わるわけだ。それでループにはまったりもするんだな。

『戦中派不戦日記』は何度もぱらぱら読んでいるが、今回気が付いたのは、いま、きょうあたりから「明日は真珠湾攻撃の日」と騒がれているけど、この日記では、まったくふれられてない。

まだ「敗戦」の実感もわかずボー然としたり激しい混乱のなか、「ガダルカナルの生き残りです」という傷痍軍人が町にいるなか、日本が太平洋で戦争の泥沼にはまっていくことになったその日のことなど、誰もが思い浮かばなかったのだろう。

1956(昭和31)年、経済白書は「もはや戦後ではない」とうたったけど、なにも終わちゃいない。まだ大勢はループのなかなのさ。

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2018/12/06

星屑の行方。

『あれよ星屑』の山田参助さんに、ちょろっとお会いしたとき、あの話は、誰か自分の近親者などの体験談がもとになっているのか、というようなことを聞いた。については、2018/03/24「鬼子母神通りみちくさ市で「地下アイドル」世界を垣間見る。」に書いた。…クリック地獄

2巻の帯に、大根仁さんが「こんな話どうやって思いつくんだ?本物中の本物」と書いているのを見て、ヒザをたたいて笑った。まったく、その通りだ。

ちかごろは、たいがいの出版物なるものは、全日本的現象ともいってよい「劣化コピー」の繰り返しで、既視感ありありだし、ようするにオリジナリティはどこへ行ったと思うことが多いなか、ほんと「こんな話どうやって思いつくんだ?」と思っていた。

まだゆるゆる繰り返しながら読み進めているところなのだが、よく戦後の闇市と生活を思い出しては、すすむのが止まってしまう。といっても、もう70年以上前のことだし、おれは『理解フノー』にも書いたように、80年頃から前の写真は一枚もないので、手がかかりが少ない。

写真はなくなったが、覚えている写真は、何枚かある。

一枚は、母の一番上の兄と次の兄が出征する前に、一家で母の実家の前で撮ったものだ。その写真には、まだ1歳になっていないおれが、白い赤ちゃんの正装で、母の一番上の兄に抱かれて写っていた。

当時、母の実家は、現在の調布市つつじヶ丘にあった。父と母は結婚した当初、その近くに住んでいた。昭和16年におれの兄が生まれたのはそこで、その後、父と母と兄は父の実家のある新潟県六日町へ移住した。そして昭和18年に兄が亡くなり、入れ替わるようにおれが生まれた。おれが生まれたのは9月だから、写真はたぶん昭和19年のものだろう。

次の一枚は、リアカーに腰をおろしている、おれと母、それに母のひざの上には赤ん坊の弟がいた。弟は2歳違いの昭和20年生まれ。たしか6月生まれであり、この写真の背景は当時のわが家のサツマイモ畑だったから、芋掘りに行ったときのことだろう。20年秋のことではないかと思う。

この頃のことは、うっすら記憶がある。その畑は町の外にあり、何度も行ったし、サツマイモのほかにジャガイモもつくっていて、それらをよく食べていた。収穫しリヤカーに積んで家まで帰るときの興奮もまだ身体の片隅に残っているような気がする。

町に人影は少なかったが、しだいに国防服を着た男たちが増えた。いわゆる「復員兵」だ。隣の家の主は、復員して町に帰る列車で線路に落ち大怪我をして入院したというような話もあった。あそこのひとが帰ってきた、あそこのひとはダメだったらしい。静かだった町は騒々しくなった。

父は、母と結婚するころに、カメラを買ったと思われる。あるいは結婚する前、母を撮りたくて買ったのかもしれない。とにかく、うちにあったアルバムの最初の頃の写真には、母が一人で写っているものがけっこうあった。小さいころ、「どこか」と聞くと「深大寺だ」と言われたのは覚えている。そのあたりでデートをしていたのだろう。

食べ物の写真がドバッと姿をあらわすのは、戦後だ。ひとつは東京の闇市であり、ひとつは六日町での農作業のあいだのいろいろな人たちの食事風景だ。これらはたくさんあったし、子供心にも「いいなあ」と思う写真が多かったので、よく覚えている。

そう、『あれよ星屑』を見ながら、とくに闇市の写真を思い出していた。

父は自分で現像から焼付までやっていたので、大きな版のものもけっこうあった。闇市の全景、通りや雑踏、店頭の様子、人物や食べ物のアップ、しっかり目に焼き付いている。たしか新宿と新橋の闇市だと言った。

母の実家は、おれが小学校に入る年に、六日町で一緒に住むようになるまで、(当時は「金子」といった)つつじヶ丘にあった。出征した母の長兄と次兄は復員後戦地で罹ったマラリアのため死んだ、母の姉が肺病で死んだり、そういうこともあって父と母はよく上京したし、おれは母の実家に長い間あずけられることもあったし、父はそんなあいまに写真を撮ったのだろう。

そのころ、家族で普段の食事にどんなものを食べていたか、まったく思い出せない。思い出すのは、紙芝居の水あめとか、アイスキャンデー売りのアイスキャンデーとか、配給のパンとバターをトーストして食ったこと、それからどんどん焼。思い出とは、そういうふうになりやすいのだろうか。

写真がすべてなくなって、惜しいと思ったことはなかったが、あの闇市の食べ物アップの写真や、農作業の途中で草の上に重箱やにぎりめしを広げてかぶりついている様子は、「生きる」「食べる」の貴重な記録だったなと近ごろ思うのだった。

というのも、昔の暮らしのことになると、あいかわらず、普通の労働者のことより、作家とか文化人とかが書き残したかれらの暮らしや、彼らの目から見た暮らしの話が多いからだ。もう既視感ありすぎ。

ま、それが出版としてはラクだし売りやすいからだろうけど、もっと膨大な真実が眠っているような気がする。

と、また『あれよ星屑』を読み進めながら、ふりかえるのだった。

当ブログ関連
2015/09/02
新宿東口闇市に幼いころの自分の姿を探す。

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2018/12/05

「しあわせ」。

ことし亡くなった知人は、二人。いま、もう一人、おれより10歳若い女性が、病床で年を越せるかどうかわからない状態でいる。

亡くなった二人は男性で、一人は43歳という若さだった。4月、突然の訃報だった。大学を出たあと、「限界集落」だらけの山間の町で、両親と暮らしながら役場に勤め畑もやっていた。明るい活動的な人だった。訃報に接してから、サボりがちだったツイッターを見たら、亡くなる前に「頭痛がする」というツイートをしていた。そのとき医者へ行っていたら、と思うが、なんにせよ、もうもどらない。

もう一人の男性は、おれより10歳上で、「食堂のとうちゃん」だ。毎年1、2度は行っていたのだが、だんだん出不精になったこともあり昨年は一度も行かなかった。

8月に亡くなり、すぐ知人が知らせてくれた。半年ほど前から入退院を繰り返していたそうだが、おれは最近行ってなかったから知らなかったのだ。

創業のおやじの跡をついで妻と食堂を続け、すでに息子夫婦があとをついでいる。とうちゃんは夕方になると店のすみで酒を飲んでいるだけだった。

じつは今日、風呂に入りながら、ことし亡くなった人たちを思い出していたのだが、なぜだか、このとうちゃんの母上つまりばあちゃんを思い出した。

ばあちゃんが亡くなったのは、いつだったか思い出せない。とにかく2000年代後半で、92歳ぐらいだったはずだ。あるときそのばあちゃんが店にいて、近所のばあさんと顔をよせあってヒソヒソ話をしていた。二人とも、眉根にしわをよせ深刻な顔をしていた。

きくともなくきいていると、「まさこさまだって、あんなぐあいだからね」「なにがしあわせかわからんよ」「わたしたち東京の真ん中の大きな御殿に暮らしたことないけど、まさこさんよりしあわせだよ」「そうだよ、いじめはいやだね」「おかげさまで、こんなとしになってもしあわせだね」「ほったらかしだからね」といったぐあいだった。

「まさこさま」とは「雅子さま」のことで、当時は、帯状疱疹だのなんだのだと騒がれていた。その原因が周囲のいじめであるような報道もあって、ばあさん二人はそれで「しあわせ」を考えたのだろう。

それからしばらくして、ばあちゃんは寝たきりになり、亡くなった。

とうちゃんも、ばあさんたちが感じていたしあわせを生きたにちがいない。

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2018/12/04

いまさら、のようですが…。

五十嵐泰正さんの『原発事故と「食」』(中公新書)が発売になったのは、今年の2月のことだった。「あのころは」と遠くを見る目をしたくなるほど、この話題がけっこう盛り上がっていた。それからもっといろいろに議論が発展するのかと思ったが、そうはならなかった。

一部では、「識者」たちが群がり言論的な話題として消費されておわった感じがあるし、一部では、それぞれの立場にこだわり続け分断の解決に向かうより私怨を深めていったように見えるし、ほかに、あれはなんといったらよいのかシノドスというかフェイクナントカをめぐるジケンは一部の人たちをしらけさせた。

もちろん、おれのしらないところで、いろいろ議論になっているのかもしれないが、どのみち、コトはそうは簡単ではないのだな。

簡単ではないから、ときどきこうやってぶりかえして、「いまさら、のようですが…」といってみるのも、悪くないだろう。

いつごろからか、いつも利用している近所のスーパーには、「福島産」の野菜が普通にならぶようになった。米はないが、もともと福島産はなかったような気がする。

「風評」の払拭には、どれぐらいの期間が(人と金もからめ)かかるものか、その基準というのは、あるのだろうか。また今回は対策として、風評のもとになるデマが、クローズアップされることが多く、デマを叩くことが対策であるような感じもあったが、そのあたり、どうなのだろう。風評対策のあるべき姿に近づいているのだろうか。そういうことが、けっこう気になった。

とにかく一日も早く風評をなくさなくてはならないということで、デマを叩きまくるってことが対策であり、どれぐらいの期間をかけてどのように風評を払拭していくのがよいのか、検討が深まっている感じはなかった。というのは、おれの印象だが。

五十嵐さんの主張である「切り離し」つまり、福島県産を普通のマーケティングとして追求することについては、「風評とデマ」のほうが耳目引いて話題になり、あまり深まった感じがない。

けっきょく「××派」対「〇〇派」の枠組みが前面に出てきてしまう。「××派」対「〇〇派」があっても、それは見て見ぬふりして、オトナの対応でいきましょうねと取引に持ち込むという関係は、あまり見られなかった。といっても、これはインターネット世間の主には「識者」のことで、実際には、ウチの近所のスーパーにも福島県産がならぶようになった。どっかで、誰かさんと誰かさんがいがみあっているうちに。

「食べて応援」については、五十嵐さんは次期尚早だったようなことをいっていたと思うが、おれは、この件についは、もともと農水省がやるべき仕事だとは思っていない。「食べて応援」は、あってもよいが、「民間」が主導する仕事だ。そのへんのケジメのなさというか、デリカシーのなさは、ま、官僚だからね、ということにしておこう。食育基本法にしてもだが、何を食べるかは「個」に属する問題だという基本的な認識が足りない。

ともあれ、検証となれば、どれぐらいの予算措置で、どれぐらいの期間に、どれぐらいの成果を出すつもりだったか、気になるところではある。が、たいして気にしてないか。おれの知り合いには、「食べて応援」に職務で関わっていた人もいる。大きな組織が動いているのだから、そういうこともあるし、大きな組織だから「食べて応援」でよかったのかが問われる。

「まずは生活者・消費者として、2011年3月から自分が何に悩み、憤り、悲しい思いをしてきたのかを振り返ってみること。そのときどきに下した一つひとつの小さな決断が、どういう意味を持っていたのか、あらためて考えてみること。/原子力発電を、肯定するのであれ否定するのであれ、いまこの社会に必要なのは、一人ひとりのこうした省察と、日常的な場でそれを話しあってみることだと、私は強く感じる。」と五十嵐さんは述べている。

ちゃんと向き合えるだろうか。

少し話はズレるが、このあいだ知り合いと飲んだとき、共通の知人で原発事故の後、「西へ」移住した人たちの近況を話し合った。二組の夫婦、一組は子供が二人いる。それぞれ移住した田舎町で、東京にいたときよりうまく商売をしているらしい。もちろん最初は大変苦労したらしいが。「東京にはもどりたくない一心でがんばったって、それはそれよかったじゃないの」と笑った。

ほかにも、原発事故がきっかけで「西へ」移住した知り合いがいる。みな結婚しているし子供がいる家族も、何組か。あの事故がなかったら、東京にしがみついて生きていたかもしれない。彼らは、そうでない方向へ向かった。抱えた不安や不信は、一人ひとりちがうのだ。

とにかく、原発事故については、何も終わっていない。

当ブログ関連
2018/03/11
3月11日だから、五十嵐泰正著『原発事故と「食」』(中公新書)を読んで考えた。

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2018/12/02

ひさしぶりに風邪で休んだ。

ごほごほごほ。水曜日は朝からイヤな咳が続いた。

止まりそうもないので、午後からドラッグストアへ行って、浅田飴を買ってなめていた。

熱はないようだが、といっても体温計をあててみたわけではない、その必要は感じなかったというていどだった。

がぼっ、げぼげぼげぼ。背中中が蠕動し、生ぬるいかたまりが喉にのぼってくるのがわかった。

かーっ、ぺっ。そのかたまりを喉から口中に押し出すようにしながら、テイッシュをとり、吐き出した。

10円玉の倍ほどありそうな、薄茶を帯びたドロッとした痰だった。

どうも食欲がない、味もない。唇から口中は乾燥した砂の洞窟みたいだ。酒を一杯飲んで、家にあったルルを飲んで寝た。

木曜日、症状は回復しない。一日ベッドで過ごしていたが、夜は毎月最後の木曜日に居酒屋ちどり@北浦和で開催の円盤企画「URCレコードを全部聴く会」の日だ、予約はしてあるし行きたい、だが、身体は無理そうだった。だいたいこう咳が出ては、まともに聴くこともできないし、ほかのお客さんの迷惑にもなるだろう。あきらめて、予約はキャンセルした。酒は飲んだが、あまりうまくなかった。

金曜日、朝、いくらか身体が軽くなった感じがした。どん底を過ぎたか。でも咳は止まらない。ルルがなくなったので、ドラッグストアへ行って、ルルと野菜ジュースとプリンの類を買った。ベッドで過ごしていたが、夕めしの買い物に出た。食欲がないときの買い物は難しい。前夜の鍋の残りに水餃子と野菜を入れた汁をつくり、生ザケのムニエル。酒は一滴も飲まなかった。何十年ぶりかの快挙だ。

土曜日、ぐたっとしていた身体に力がもどってくるのがわかった。咳は続いているが規模は小さくなった。断続的な咳の間に、ときどき、がぼっ、げぼげぼげぼ、かーっ、ぺっがあるが、出てくる薄茶色の痰は10円玉ぐらいになった。食欲はイマイチだが、スーパーへ買い物に行く。とにかく、やわらかいもの、身体があったまりそうなものにしようと、豆腐とひき肉とピーマンと麻婆豆腐の素を買った。ピーマン入りひき肉多めの麻婆豆腐をつくった。酒は飲まなかった。

ひさしぶりに「風邪で休んだ」という気がした。これほどひどい咳が続いたことは、ここ20年はなかったし、その前は記憶にない。

日曜日、きょう。唇から口中の乾燥した砂の洞窟みたいだった感じがなくなり、もとのボクチャンの柔らかい唇にもどったようだった。鼻をかむと、ずずずずっと気管の奥から何かを引きずりだすような感じがして、テイッシュの中に、薄茶色の痰よりもっと濃厚な色の小さなかたまりが出るようになった。戦いは終わりに近づいているようだ。

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