2018/06/10

日常食と食堂の楽しみ。

2018/06/03「Hanakoさんの冒険。スノッブからオムニボアへ?」あたりから考えているのは、「日常食と食堂の楽しみ」という感じのことだ。いろいろ調べているうちにわかったことは、1980年代後半から「B級グルメ」がにぎやかだった割には、日常食の楽しみや食堂の楽しみについて、まとまった本がない。

拙著『大衆食堂の研究』が、必ずしも日常食と食堂の楽しみをテーマにしていたわけではないが、「食堂」を対象にした本邦初の一冊といってもおかしくない。ということは、ひとに言われて気が付いた。

なにしろ自分の興味を興味のままに書いたもので、書くとき、確かに食堂の歴史について書いたものがなくて苦労したのは覚えている。当時はインターネットもなかったから、国会図書館と東京市政会館の図書室などへ足を運んで一次資料から探したのだった。

もともと日本の文化的土壌には「必要」を見下す「美的性向」があり、「必要」から離れるほど「文化」だの「カルチャー」だの「芸術」だの「アート」だのということになった。

日常食や食堂は「必要」を満たすための、いわば「低級」という位置に立たされていた。日常食を「エサ」よばわりしたり、食堂は労働者のような下賤なものたちが行くところという見方があった。

1980年代ぐらいから、そのあたりの事情が微妙になってきた。その事情は省略するが、80年代後半から盛んになるB級グルメは、日常食や食堂を楽しんでいたわけではない。「必要」をステージに、「必要」とは距離を置く楽しみ方だった。その意味では、根本的な変化はなかった。

一つは数をこなすゲーム、一つは「究極」や「職人技」など「高度な文化」にふれ評価する選民意識の満足(これはA級グルメの廉価版といえる)など。ほかに、レトロブームや昭和ブームなどが絡むが、とにかく、消費に忙しく、「日常食と食堂の楽しみ」の探求や創造には向かわなかったのがB級グルメだ。

ところが、いつごろから、どういう流れか、B級グルメとは違うあたりから、日常食の楽しみや食堂の楽しみを追求したり創造する人たちが増えてきたし、日常食の楽しみや食堂の楽しみを語る人たちが増えてきた。もともと、「低級」な生活だろうと「高級」な生活だろうと、それぞれの楽しみがあったのだけど、ようやっとそのことについて語られるようになってきた。

まだ確かなことはいえないが、80年代から盛りあがるイタリアンやエスニックの流れ、エコロジー思想の影響の広がりの流れ、それらと関係があるかも知れないが、フランス料理を最高の位置に置いてきた価値観(これは料理に限らない全体を貫いていたモノサシ)がそれほど力を持てなくなった流れ、ほかにもあるかも知れない、いろいろな大きな流れが、日常の食の実践の場にあふれるようになったのだ。いわゆる、多様化や多元化。

社会的、経済的、文化的などの上下や優劣など関係なく、味覚のあるところ快楽あり、という感じの勢いもあるようだ。とても、かつてないほど、民主的で自由で公正ですね。

という、これは備忘メモです。

11日追記 「必要趣味」と「自由趣味」

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2018/06/09

カントもマルクスもサヴァランも終わってはいない。

近頃「右でも左でもない」という言い方が一部の人たちのあいだで流行っているらしい。

昔からそういう人たちはいて、たいがい「反左」なだけだった。近頃のそれは、そのあとに「普通の日本人」というのがついて、とにかく中国や韓国が嫌いで、知性のかけらもない差別的言動が目立つ。これを「ネトウヨ」という人たちもいるのだが、「ネトウヨ」という言い方はよくないという人たちもいる。

昔からいた知性もあるが「右でも左でもない」といいながら「中立」の立場を確保しようとする人たちは、公正であるかというと必ずしもそうではなく、「左」を批判する割には「右」を批判することは、まったくないとはいわないが、ほとんどない。

ようするに「左」が「嫌い」なのだ。そして、結果的に「ネトウヨ」という人たちの言動や行動を支持しないまでも容認している。という感じかな。こういうのは「外堀派」とよびたい。

この「嫌悪」は、ある種の知的な階層に特有なもので、彼らは「嫌悪」と「排除」で、自分たちの正統性を守ろうとする。ついでにある種の権威も守るのだが。という分析と指摘は、かなり以前から公正な学者などによってやられている。

「中立」にも本当はいろいろあるはずで、「右」も「左」も排除する中立もあれば、「右」も「左」も包括する中立もあるはずだ。ところろが、どのみち「反左」でありさえすればよい人たちは、そのあたりのことはあまり考えない。

ようするに考えなしの「右でも左でもない」「中立」には、けっこう知的な人が少なくない。「考えなし」だから「知的」といってはいけないのだが、けっこう知識があり知的な職業についている。そういう「ジャーナリスト」のような人たちが「マルクスは終わっている」と言ったりする。

どうやらソ連邦の崩壊をもって終わったということらしいのだが、もうそういう言い方だけで、この人は「思想」についてはまるでわかっていないということがわかる。

前に紹介した『復興に抗する』の終章「「復興に抗する」経験を生きる」は、この本の編著の中心メンバー中田英樹が書いている。そこでは、『原子力戦争の犬たち』と著者釣崎清隆の主張が2ページほどにわたって紹介されている。釣崎は「自らイチエフに労働者として入り、イチエフ構内にて経験したことに基づいてこの著を書いた」。

田中は、「この本を読んだ時の所感としては、釣崎は、(本の帯には「右も左も関係ない」(読者が右翼でも左翼でも関係ない)とあるが)きわめて国家主義的、国粋主義的な思考スタイルに徹底しているように思える」と書いている。

その見方はアタリだと思う。以前このブログに書いたが、みちくさ市の打ち上げ飲み会のとき、改憲をめぐって激論になった相手というのが釣崎さんなのだ。彼は「中国の脅威」と「改憲」を抱き合わせで主張する人だ。そして、おれは田中さんとも一度だけ飲み会の席で一緒になったことがあるが、田中さんは釣崎さんと異なる立場の人だと思う。

田中さんは釣崎の苛立ちの主張を紹介し、「筆者は、この釣崎の主張に決して賛同はしない」としながらも、それを「補助線」として、問題の核心に迫る。なかなかスリリングな展開だ。

ようするに、「右」の言っていることだからダメとか、「左」の言っていることだからダメというのは、レッテル貼りをやっているだけで、中身の検討を加えてない思考の怠け者にすぎない。「マルクスは終わっている」という人たちは、マルクスの主張と影響がどのようなものだったか、たいして追いかけてもいないだろう。

脳内知識のアップデートは容易じゃないから仕方ないにしても、「○○は終わっている」とか「○○は古い」とかいって、知ったかぶりで切り捨てるのは、どうかと思う。恥をさらしているようなものだ。

では、カントはどうなのだ。あの「カントの美学」に、久しぶりにいきあった。終わってはいないのだ。もちろんマルクスも終わってはいない。飲食をめぐるあれこれの思想には、カントの影響もマルクスの影響も見られる。

もう書くのが面倒になった。イキサツは抜きにするが、ネットで、「料理芸術本質論――その1――」というのに出合った。

放送大学研究年報第27号(2009)に掲載の、放送大学教授(当時)青山昌文さんの論文だ。PDFをダウンロードできる。いいねえインターネットは。

サブタイトルに「ブリヤ=サヴァラン美味学の美学的・哲学的考察」とある。サヴァランの『味覚の生理学』(翻訳題は『美味礼賛』)の最初の「アファリズム」の項の一から九までに、考察を加えたものだ。

これを読んで考えているうちに「カントの美学」を思い出し、またネットで検索していたら、面白い文章にぶちあたった。

ヒットした「芸術とは、どんな〈出来事〉なのか?」が、面白い。まだほかの全部を読んでないが、いくつか拾って読んだ。どれも面白い。よくチェックすれば誰が書いているかわかるはずだが、そっちまで手がまわらない。京大を出て、どこかの大学の先生をしている、60代中頃の方のようだ。有名な方と思われるが、有名無名関係ない、書いていることが面白いし、文章も面白い。

こちら。
http://chez-nous.typepad.jp/tanukinohirune/2017/03/170311_kanazawa.html

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2018/06/08

食べる、客体と主体。

「料理評論」なるものも含め、料理の批評は存在するが、その方法というのは、とくに研究されてこなかったし、あまり明確ではない。

ただ、世の中には、おれもやっているけど、飲食店などを取材して、料理や食べ物あるいはサービスや店などについて、どう書くかはともかく、書く仕事をしている人はいる。

その書かれたものを集めて傾向や特徴を知ることはできる。ヨーロッパには、そういう研究をして本にしている学者もいる。

日本でも近頃は、ぼちぼちやっている研究者がいるようだ。その一端はインターネットにも公開されていて興味深い。

それらを拝見しているうちに、「書評」なるものが気になった。おれもちょっとだけ「書評」らしきものを書いているが、対象が飲食店と本の違いはあっても、かなり似ている感じがする。

では、書評の方法は存在するのだろうか。それが存在すれば、飲食に応用できるのではないか。

というあたりを、目下のところウロウロしている。

とにかく、飲食についていえば、対象となるブツがある。ま、「客体」というのだな。それを飲み食いする「主体」がいる。

この「客観的関係」または「科学的な関係」を把握できると、科学的な方法にたどりつくハズ。リクツでは、ということになる。

ここでモンダイなのは、客体の質と主体の質の関係だ。

これは本と書評に例えると、わかりやすい。料理の場合は、食べるとなくなってしまうから面倒だ。

客体の質がよくても、主体の質がそれより低い場合。
客体の質はよくなくても、主体の質がそれより高い場合。
どちらもよい場合。
どちらもよくない場合。

ということがあって、これは本の場合は、本と書評を読めば、けっこうわかる。ま、自分が「わかる」能力があればだが。イチオウ、そうなのだ。

料理の場合は、難しい。そこで、たいがい、感覚的な話に逃げて、どう、私の感性って素晴らしいでしょ、てなことで誤魔化して、これがけっこう効くのだ。それは、読者のリテラシー能力の問題でもある。

書評の場合でも、かなりおかしな書評がまかり通っていることがあるが、そのへんはあとでも検討が可能だ。この評者に、この本はレベルが高すぎるよ、まるで消化できてない、たとえばここんとこだけどね、とか、ああだこうだ言える。

だが料理の場合は、同じものを一緒に食べでもしなければ、検証が難しい。

難しくても、少しでも科学的にしなくてはならない。いま、そのあたりには、きているようだ。これから、さらに進むだろう。

批評が科学的でなければ、おかしなことがまかり通り、拡散する。いま世の中がオカシイといわれるのは、アンガイ飲食の批評や書評が、科学的ではなく特定の人たちの感覚に左右されているからではないか。とまではいえないが、批評が狂えば、大いに道を誤る。

「味わう」ことは、メディアリテラシーでもあるのだな。

今日、いろいろな資料を見て考えた感想でした。

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2018/06/04

ラーメンはカルチャーではなくなった。

昨日のHanakoさんの冒険、特集タイトル「食堂ラプソディ」の大扉にあるリード文について、書き忘れていた。

「近頃、街を歩いていると、「食堂」と名のついた店を目にすることがよくありませんか?/少し前ならカフェと呼ぶようなお店も、今、あえて「食堂」と名付けていたりするんです」

そういえば、街に「食堂」の文字が増えているなあと思ったが、まずすぐ頭に浮かんだのは、日高屋の「中華食堂」の看板だった。ただの中華屋のチェーン店が、考えてみれば、あれは斬新で先進だったのだなあ。

斬新といえば、料理本のタイトルに「食堂」を使った、長尾智子の『長尾食堂』がある。あれは、料理本の棚で目立っていたし、鮮明に記憶に残った。『長尾食堂』は1999年の発行。あの頃は、街にも本のタイトルにも「食堂」の文字は少なかった。

日高屋が「中華食堂」の看板を掲げ始めたのはいつのことか。日高屋のサイトの沿革には、とくに明記されていないが、「平成14年 6月  現在の主力業態である「日高屋」の展開を開始。第1号店を「日高屋新宿東口店」として開店。」とあるから、この頃からだろう。

平成14年は、えーと、20002年だ。

記憶しておこう。この2000年前後というのは、いろいろ踊り場のような変化があるようだ。

ところで、大扉のリード文は、まだ続きがあって、「そこにはまるで映画や小説のような、カウンター越しにきびきびと働く店主の姿が。器やインテリアにもこだわりが窺え、心づくしのやさしい料理にも身も心もほどけます。/レストランのように豪華じゃないけど、居心地よくおおらかで、自由で個性的。」というぐあいなのだ。

「身も心もほどけます」や「居心地よくおおらかで、自由で個性的」はいいけど、「まるで映画や小説のような、カウンター越しにきびきびと働く店主の姿が。器やインテリアにもこだわりが窺え」なんて、吹き出したよ。

そういう店もあるだろうけど、そういう見方は価値観の押しつけだろう。こんな客が増えたら、店は客にあわせているうちに、おおらかさや個性を失うことになる。残るのは、Hanakoさんたちがよろこびそうな店ばかり。Hanakoさんたちは、そうやって街をつまらなくしてきたのではなかったか。そうでなければいいけどね。とか、思ったのだった。

Hanakoさんたちは、食堂へ、何しに行くんだ。めし食いに行くのじゃないんか。映画や小説を鑑賞するのと同じつもりで行くのか。生身の人間が仕事をしているというのに。

人様の働き方を評論するような態度をとる前に、以前から街にあった「大衆食堂」の看板にビビッとこなかった、自分のセンスを反省すべきじゃないの。

Hanakoさんたちが街をつまらなくするだけではなく、近頃のラーメンもねえ。ある人が「ラーメンはもうカルチャーじゃなくなった」といって、そこのところまだよく理解できていないのだが、なんとなく感じている。

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2018/06/03

Hanakoさんの冒険。スノッブからオムニボアへ?

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2018/05/26「「焼け野原」に咲く雑草のような食?」に書いたように、料理と食事の分野は、すごく面白いことになっている。

いまやっている論考原稿の関係で編集さんに教えてもらった、『Hanako』の「食堂ラプソディ」という特集、予想を裏切る面白さだ。

「時代は、カフェから「食堂」へ!」

ちゃんと大衆食堂も載っている。「大衆食堂でのバカンスならこちらでどうぞ」だってさ。

中とじの「食堂冒険BOOK」の扉では、「大衆食堂に学食、社員食堂、果ては国会議事堂の食堂まで。食堂の世界はまだまだ果てしなく広がる。まだ見ぬ新しい出会いを求めて、多彩な食堂巡りの冒険へ、いざ出発!」というぐあいだ。

Hanakoさんのことなので、消費的冒険に忙しく、「時代は、カフェから「食堂」へ!」のナゼは探求してないが、見て読んでいるうちに、オムニボアの存在がはっきりしてくる。

食のオムニボアの存在については、すでに学者さんたちの論文などで指摘されているが、いまやトレンドなのか?

複雑化多元化する食。はて、どう動いていくのだろう。なかなか面白い。

当ブログ関連
2018/05/25
「前」は、どこにある。

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2018/06/01

誰かを誘って福島に行こう!

今日のタイトルは、2018年6月8日(金)にあるイベントのタイトルだ。


誰かを誘って福島に行こう!

「誰かを誘って福島に行こう!」
そんな計画を、みんなで考えてみませんか?
あなたにとって福島に誘ってみたい誰か……家族、お友達、仕事仲間……あなたの頭に浮かんだ「誰か」を誘うためにどうしたらいいのか?それをみんなで考えるワークショップです。
 ………………………………………………
福島で「うみラボ」のアドバイザーを担っている五十嵐泰正さんを専門家として迎え、ワークショップの輪の中に入っていただき、出席者全員で話し合いをする参加型イベントです。

とのこと。
渡部真さんが司会なのかな?

これはいい企画だと思う。

おれは行けないので、誰か参加してくれ~。

2018/04/19「土浦+水俣から高円寺、「食」と「開発」と「復興」。」以後は、誰かと会うたびに、福島の話になった。

知り合い関係の顔を思い浮かべ、3つほどのアイデアを持ちかけた。そのうちの、いちばん反応がよかったのが、「福島旅をやろう」だった。おれの周辺には旅人が多いこともあって、これは実現しそうだ。いまほかの忙しいプランに追われ企画が煮詰まっていないのだが、ちょっと面白いアイデアも出ているから楽しみだ。

ほかのふたつのアイデアは、いろいろ根回しがいるので、時間がかかりそうだ。そう、まだやはり「福島」は、簡単ではないのだ。会社員としては、できたら避けたいと思っている人が、けっこういるらしい。ま、なんとなく、わかるんだなあ、うにょむにょ避ける気配。旅は個人が主体だから進めやすいということになるか。

しかし、そういうことも、まわりの人に福島を話題にして具体的なアイデアをぶつけることで初めて見えてくる。これまで、福島のことを話題にしなさすぎたと反省した。

また、そういう話の中で、お互いの知り合いで西へ移住した人のことも話題になり、最近の消息を知った。東京ではあまりうだつがあがらない感じの人だったけど、移住した先の田舎もよかったのか、すっかり人がかわったように地域でいろいろやっているという話を聞いた。それもまた「福島」なのだなあ。

福島は、いろいろな意味で、「これから」だ。暮らし方とか、働き方とか、東京と地方とか、たいがいのことに関係する。

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2018/05/31

バラバラ。

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近頃の諸々の現象を眺めていると、「BARABARA」が頭でプカプカする。

「バラバラ」は向井豊昭の、とてつもなくアナーキーで面白い小説のタイトルだ。「BARABARA」と表記し、1999年に四谷ラウンドから出版された本では、「BARABARA」のそれぞれの文字はバラバラ勝手な方向を向いている。タイトルの見た目からしてアナーキーだ。

バキッ、ゴキッ、あらゆる規範が抜け殻になっていく。いま時代はアナーキーへ。

そのことではない。

最近、チラッと見たツイッターに「クックパッドはレシピではない」というのがあって、気になったので検索してみたら、どうやら、このへんのことらしい。リツイートも多く、いろいろなコメントがぶらさがっていた。

https://twitter.com/showchikubai/status/999999785569431552
松5/27閃華6号館A ヒ15a
? @showchikubai

料理できない人へのアドバイスは
・レシピを見ろ。クックパッドはレシピとは呼ばない。栗原はるみ、土井善晴、小林カツ代は神
・火は弱く。強火でさっとは弱火でゆっくりやっても効果は同じ
・自分自身を信じるなレシピを見ろ
・念のためとかいらない自分自身を信じるな

22:05 - 2018年5月25日


ツイッターでは、こういう断定的な言い方が受ける傾向があるようだが、「栗原はるみ、土井善晴、小林カツ代は神」とするならば、クックパッドはクソみたいなものだというリクツはわからなくはない。

2018/05/26「「焼け野原」に咲く雑草のような食?」に「料理本やレシピ本といわれるものも、どんどん変わっている。企画進行中と聞くものにも、楽しみのものが多い。はたして、どのような人たちに、どう受け入れられていくか。」と書いた。

これらは、神でもないし、クックパッドでもない。これまで主流だった、いわゆる「料理家」とか「料理研究家」とは、まったくちがう流れなのだ。

ついでに、料理本やレシピ本を大別してみているのだが、いろいろ相関関係があって、なかなか難しい。

大きな権威的な流れとしては、近代以前からの、いわゆる「伝統的」な流派料理人と、彼らが腕をふるう料理店の系統がある。

明治以後に家政学や栄養学の系統が加わる。家政学や栄養学は料理学ではなく、料理的には、流派の系統の影響を強く受けている。流派の系統の人たちが、時代の変化を読んで家政学や栄養学と関係を深くする動きもあった。ま、抱き合う関係といえるか。

これらは、料理学校業界や学校教育業界あたりで混ざりあい、大きな権威として成長する。

レシピの著者は、たいがい、料理業界や学校業界に基盤がある人たちで、肩書もその所属や職階を示すものがほとんどだった。

1980年前後から目立つようになった「料理家」や「料理研究家」は、学校の先生ではなくプロの料理人でもなく、雑誌やテレビなどのメディアの力で「料理の先生」になった人が多い。出版社やテレビなどメディアによって育成された人たちだ。

以前から料理の先生として活躍していた人の弟子筋のほかに、メディアの周辺で仕事をしていたか、メディアの周辺で仕事をしている縁故者がいて、編集者などに見出された人たちといえる。

料理の先生とメディアは持ちつ持たれつの関係であり、そこに食品メーカーや関連企業が深く関わっていることも少なくなかった。

それぞれの先生の個性や特徴がありながらも、レシピについては、あるていど基本となる、はずしてはならない著述の仕方が見られる。

読者も含めた、支配的な規範が機能していて、それは人びとの生活観や価値観と結びついていた。と、みることができそうだ。

ところが、2000年頃から、その流れと構造に大きな変化が生まれた。

クックパッド現象も、その一つ。ほかにも、もっといろいろある。例えば、「時短料理」「時短レシピ」といわれるもの。あるいは、生きた方を提案する、哲学書のようなレシピ本など。ようするに食事や料理に関する概念の変化につながること。

そうだ、やっぱり、これまでの規範は、バラバラになってきたのだ。これは味覚にまで及んでいる。

いま世界を動かしているのは、なんだ。

とか、バクゼンと、思考している。

バラバラは、バラバラと、どこへ行く。

そしてまた今日もめしを食べる。

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2018/05/28

「食文化」とは。

きょう、大宮のジュンク堂で、思文閣出版のPR誌「鴨東通信」を入手した。

思文閣出版は、伝統の香りの高い、つまりハイカルチャーな日本文化に関する出版が多いようだという、偏ったイメージをおれは持っている。

今回もらった、「鴨東通信」2018年5月「春・夏」号の表紙の目次を見ると、トップのメインの座談会は、「近代数寄空間を煎茶文化でよみとけば」だった。それには、あまり関心がなかったが、江原絢子のエッセイ「ユネスコ無形文化財に登録された「和食」を知るために」があったのでもらってきた。

なんだかんだいっても、江原絢子さんは学術業界に身を置きながら、「食文化」について研究的に語ってきた、数少ない一人だ。

そのエッセイはA5判見開きにおさまっている。

「食文化ということばは比較的新しく、一九六〇年代に使われ始めたが、一般化するのは八〇年代以降といえよう。私が調理学の実験的世界から食生活を歴史的な視点で研究しようと方向転換をした一九七〇年代は、家政系大学ではまだ、食文化という科目はなく、食物史または食生活史の科目名で呼ばれていた」

この話は、おれの体験としてもとてもよくわかる。「食物」も「食生活」も、そして新参の「食文化」も区別がついていない「識者」がほとんどだった。

「それが、今は食文化ということばを知らない人はいないほどになった。二〇〇五年の食育基本法制定により「食文化の継承」などにも使われ、家庭科の教科書でも、また多くのメディアでもしばしば「食文化」は定義のないままではあるが使われて市民権を得た」

市民権を得たが、定義はない。

江原恵(江原絢子とは何の関係もない)は、一九七〇年代から、「食文化研究」を標榜し、とくに「食物史」と「食文化史」の混乱を批判しながら、自分が標榜する「食文化」については、定義していた。

おれのばあい、いちおう、その江原さんの定義のセンを意識しているが、まだ「主観」のうちだという自覚はある。

とにかく、市民権を得たが、定義はないことばは存在する。

「二〇一三年、ユネスコ無形文化財遺産に「和食;日本人の伝統的な食文化――正月を例として」が登録された」というぐあいに。

しかも、「正月を例として」なのに、「和食文化」全体がユネスコ無形文化財遺産に登録されたかのように拡大解釈喧伝され、ラーメンやカレーライスも「和食」であるような話もある。

「正月を例として」というのは、厳密に解釈すれば、「非日常」かつての「ハレ」の食事ではないのか。

さらに困ったことに、「生活」や「日常」についても、国語的解釈はあっても、概念はかなりアイマイだ。

「生活」とか「日常」というのは、そういうものかもしれない。

では、「食文化」は、どこに存在するのだろう。労働者の日常の食生活には食文化はないのか。

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2018/05/26

「焼け野原」に咲く雑草のような食?

きのうの続きのようなことだが。

料理と食事の分野は、すごく面白いことになっている。

江原恵さんが、かつて70年代の中ごろに、「日本料理の未来史はどうあるべきか。(略)結論的にひとことでいうなら、特殊な料理屋料理(とその料理人)を頂点とするピラミッド型の価値体系を御破算にすることである。家庭料理を料理屋料理に隷属させる食事文化の形態を、打ちこわして、根本的に作り変えることである」といって、「生活料理」という概念を提起したころと比べると、「革命的」といってよいほど変わったし、変わりつつある。

あのころは「古色蒼然」としていた、と、懐かしく思い出すぐらいだ。

ということをおれが話すと、食の分野だけは「民主化」がすすんだわけですね、といわれた。

そんな感じもする。ピラミッド型の価値体系に従わない、自己の「自由な表現と創造」としての料理と食事が、大衆食あるいは大衆めしあるいは生活料理あるいは日常食といわれる分野で、とても元気だ。外食の分野でも家庭の分野でも惣菜や弁当などの分野でも、新しい動きがどんどん生まれている。

それらを、戦後の「焼け野原」での活力と比較する見方もある。なかなか面白い。現在の「焼け野原」は、戦争の物理的な焼け野原とはちがうが。

これは直接的には、2008年のリーマンショックの影響が残っているなか東日本大震災が起きたことも関係しているようでもある。

ようするに価値観や価値体系のアナーキーなほどの変動だ。

そういう食から、「これから」を考えると、「ローカル」や「民主主義」なども、大変面白いことになっているように見える。

料理本やレシピ本といわれるものも、どんどん変わっている。企画進行中と聞くものにも、楽しみのものが多い。はたして、どのような人たちに、どう受け入れられていくか。

目下、取材したり資料を調べたりしながら、思案中。

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2018/05/25

「前」は、どこにある。

今月になっていろいろ進行しているのだが、簡単ではないことばかりだ。ま、政界もゴタゴタしているが、政界だけじゃない、政界の動きなんか上っ面のことであり、身体でいえば皮膚の表面のことだ。皮膚に包まれた身体の中では、大きな変化があるようだ。ほんに、日本は、大変なのだなあ。

おれはトシだから現場にからめない、体力が衰えているからねえ、トシだなあ。

現場にいれば力技もつかえるが、そうもいかないから、相談にのって次のステップまで、ジッと待っている。うまくいかないかもしれない、うまくいくかもしれない。どのみちマイナスにならないことがカンジンだ。いまどきは。

そう思ってジッと待ちながら眺めていると、けっこうよく見えてくることもあって、なかなか面白い。

「前向き」というが、どの方向が前なのか。積極的な人ほど、じぶんの「前」が正しいと思っているようだ。

あと情報処理のスピードは、早いほどよいと思い込んでいる人も、積極的な人には多いようだ。

「適切」とか「適正」という概念がない。積極的に見えるのは、あんがい「意識が高い」とか欲張りなだけだったり。

複雑な状況への対応や姿勢は20代30代のほうが「シッカリしている」と、ある人が言っていた。確かに、そんな感じもある。

40代ぐらいになって、多少なりとも人の上に立ち、小さくても権力や権威が手に入ると、それを見せたがり、ふるいたがる、好きなようにやりたがる。そのダメさ加減を、下のものは、シッカリ見ている。

ということは、かつて、団塊の世代とその下の世代のあいだにもあったが、その当時といまの20代30代が大きく違う点は、この年代から人口の年齢構成がしりすぼみになっていることだ。それと、かつてなかった社会や経済のシステムや制度の疲弊、行き詰まり、これらがモロに20代30代にかぶっている。

そんな話を聞いたり、したり。

そうそう外国人労働者のこともあった。たいがいの仕事が外国人労働者を現場で抱えているようになっている。彼らへの対応も、20代30代のほうがうまいらしい。

これらは、ライター稼業、出版業界以外のからみのことだが、某編集者が言っているように、出版業界は「権威主義が蔓延している世界」だ。どこの出版社から本を出した、どういう出版物に書いている、その出版社や出版物、著名な人物や編集者などとの仲良し具合まで、誇らしげな権威や特権になる。そして「世界を把握している気分になる」。そういう権威をふりまわしたがるのは、やはり40代ぐらいからのようだ。

うっとうしいことだ。いまの日本、権力や権威に拘泥しているバヤイじゃないだろう。だけど、政界もちろん、いたるところ大勢は、そんなアンバイなのだな。

おれは別の方向にいる。

面白い刺激的な仕事の打ち合わせをした。これはライター稼業のことだ。またもや論考の原稿の依頼なのだが、テーマも含め、なかなか刺激的な企画だ。

ビビットな情報は、誰でも手に入れやすくなっている。モンダイは、それをどう咀嚼し企画化するかなのだ。権力や権威でやれるわけではない。権力や権威をかざすような精神では、うまくいかないだろう。「上」ばかり見て「前」を間違えてしまう。そういう人が多いことは、おれにとっては都合がよいのだが、彼らは自分の実力ではない力を持っているので困る。出版業界に限ったことではない。


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