2019/04/21

トークも写真も記念碑的。

去る13日のヒグラシ文庫8周年トーク、考えれば考えるほど貴重ないいトークだった、登壇者の写真がほしいと検索したら、星羊社さんのツイートにあった。しかも、いい写真だ。

「消費者」や「ユーザー」として「いいもの」「いい店」を追いかけ鑑賞採点消費する文化は、あいかわらず強力だけど、それとは違う「自らつくりだす」生き方と可能性がある。最近の食事や料理をめぐる発言や動きにも、そういう傾向が、はっきり見えるようになった。

そういう状況のいま、この顔ぶれでトークができたのは、「これから」へのステップになるようで、ほんとうによかった。

 

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2019/04/17

ヒグラシ文庫8周年トーク。配布資料の続き。

昨日の続き。配布した資料のテキストに、少し改行などを加え読みやすくしただけで載せておく。

トークの前半は、登壇者のプロフィールと時代背景について。

(「新しい食堂」より)とあるのは、スペクテイター42号「新しい食堂」を参照している。

◆印は、時代背景を、大きな力に寄らず「自ら生んでいく、自らつくりだしていく」インディーズ・カルチャーの視点からピックアップしたもの。

 

(前半 プロフィールと時代背景)

丸山さん 1969年 吉祥寺のbe-bopでアルバイトを始める「大学は七〇年安保前夜、闘争闘争で講義なんてほとんどない。僕自身も勉強なんかより街に出て、外でのいろんな出会いの方が何倍も面白いって気持ちもあって」。1年後ぐらいに高円寺にムーヴィン開店した。丸山さん「ムーヴィンの雇われ店長になる」

75年大学を卒業し「保父さんになる」「『ロック喫茶も保育園も同じ、まったく違った考え方や才能を持っている人がゴチャゴチャに集うからこそ面白い』——この丸山さんの発想が、無国籍食堂カルマを生んでいく」(「新しい食堂」より)

中原さん 69年『檀流クッキング』檀一雄、74年『庖丁文化論』江原恵を読む。「檀一雄と江原恵から教わったことは、権威に頼らなくとも、料理本なんかに書いてある通りに作らなくても、それはそれなりに旨いよ、自分が食べるものは、それでいいんだ、ということであった」(『わが日常茶飯』星羊社より)

◆インディペンデントなカルチャーの胎動と躍動…60年代後半~70年代、アングラ、ヒッピー、サブ・カルチャー、カウンター・カルチャーなど、既成の文化や業界に寄らない、自ら別の可能性をひらく生き方が若者のあいだに広がった。◆1969年~75年インディーズレーベルの先駆けURC(アンダーグラウンド・レコード・クラブ)◆謄写版印刷、リソグラフ、コピーなどを利用した「自己表現」など。

1976年 按田さん生まれる。

1980年 丸山さん 中野にカルマ開店。「僕たちの頃って、とにかく始めちゃおう、やってみて、ダメなら仲間どうし頭を突き合わせて工夫してみようみたいな雰囲気があったよね。それは決して料理に限らずだけどね」「ちょうどカルマを始めた年、玉村豊男さんの『料理の四面体』(鎌倉書房)という本が出たんですよ」

「つまり世界は広いけど、同じ人間だから、決してまったく違ったものを食べるわけじゃないんだよね」「結局、系統立てて料理の勉強なんかしたわけじゃないメンバーが集まって、自分ができる料理をそれぞれ「これだぁ」って作ってメニューにしていくわけだよね」「僕の中には家庭料理というのが根本にある気がする」「料理を通してその日の一日の何かが交わされるっていうようなのが基本なのかなあ」(「新しい食堂」より)

◆「無国籍料理」が知られていく…カルマのほかにも渋谷のスンダなど。既成の「和洋中」の概念から自由な、型にはまらない。「第三世界の」あるいは「第三世界的」料理。84年、エスニック料理ブームはこの一冊から始まったといわれる、『東京エスニック料理読本』(冬樹社)刊行。美術家集団「キュール」のケータリングなど、とくに料理について体系だった修業をしてない「素人」による料理の営業が活発になる。カルマでは、のちの料理研究家、高山なおみと枝元なほみなど。「無国籍料理」つまり「国籍」より「人間」の視点からの料理。

◆すでに昭和の初期に、このようなことを言っていた日本料理人がいたのだが→「どこの材料を用いて誰がつくらうと、日本国内で成す料理はみんな日本料理となり、もう一段進むと、日本料理も支那料理も西洋料理も無く、そこには人間の料理があるばかりとなります。」(『日本料理通』楽満斎太郎、四六書院・昭和五年(1930)刊、「料理概念の巻」の「(一)料理にも国境が必要か?」)

◆80年代~90年代、消費主義の繁栄の一方で、自らつくりだすインディーズ・カルチャーの広がり。DIYやシェア、普通化するエスニック料理など。
◆21世紀の幕開け、2001年頃…「手づくり(DIY)ブーム」、シロートの台頭、月刊誌『MUTTS』(マガジンハウス)。ウマイ/マズイではなく、自分の好みを自由に料理で表現する。餃子が家庭料理の人気、定番化。「カンブツ・キュイジーヌ」「カフェごはん」などの動き。東京の新進人気カフェの担い手が語る…森田大剛(1973年生まれ。吉祥寺「FLOOR!」店長)「今カフェといわれるものは、大企業や大資本がつくり出したものじゃなくて、個人が本当に好きなことをやっているだけですよ」「ブームっていったって、普通のことを当たり前にやっているだけなんだけど」
◆2008年、リーマンショック。大阪から「間借り営業」の飲食店が広がる。「間借りカレー店」が急増、スパイスカレーブーム第三世代を担う。「ここ、20~30年の料理は自己表現の時代だと思います。5千円以上の世界だったのが、カレーなら千円前後で表現できる時代に」(定食堂金剛石、ミーツ・リージョナル2018年9月号「大阪スパイスカレー」特集)

 

2011年3月、東日本大震災と東電福島原発事故。

同年4月 中原さん、鎌倉に「ヒグラシ文庫」開店。のち大船にも出店。
同年8月 按田さん、『冷蔵庫いらずのレシピ』(ワニブックス)出版。写真を担当した鈴木陽介さんと、2012年「按田餃子」を代々木上原に開店。のち二子玉川にも出店。

 

(休憩を10分はさんで、後半)

「場」や「場所」と料理や食事をめぐって。

鈴木「放っておいてくれる関係がよい」「僕は普段の生活をしていく上でも無理をせず、自分たちが今できることをやればいいんじゃないかと思っているんで。無理をしている人は格好悪いというか大変そうだなぁ」「大事なことは吉野家で学んだ」

按田「(吉野家でのアルバイトから)お客さんと店員さんとの距離もそんなに縮まらないところも良いんです。その感じが銭湯にも似ていて、そこが自分の性に合っていたと思います。必要だから、そこに来ている感じというか。私たち按田餃子も、お客さんのお腹を満たすためにやっている。そこは似ていると思います」

鈴木「人間一番淋しい時って、居場所がない時じゃないですかね」「誰のものでもないし、特別な場所でもありません。たかが餃子屋ですが、どんな方にもご飯の時間と場所を提供したい。それが『助けたい包みた按田餃子でございます』ということになります。だから、ひとりでも、誰かとでも、今日はもう面倒だから按田餃子でいいか。そうだな、それでいいか。という時に、お店に来てもらえたらとっても嬉しいです」(「新しい食堂」より)

按田「ふだんの食事はしびれ旨くなくていい」「『ふつうの味』を作りたい」「だいたいの人の実家は頓珍漢でカオスに違いないと思っています」「鈴木さんも『家っぽく』『生活の邪魔をしないように』と思っていたのでした」「気取らず食事ができるように」(『たすかる料理』リトルモア、より)

中原「家と仕事先だけではなく、もう一つの『場所』が必要だ。それを自分で作ろう、と思った」「店はせまい、でも遠くへつながっている」「メインのスタッフも、誰ひとり包丁修行などをした経験者はいない」「メインスタッフが代わるたびに肴も変わる。しかし、時間が経って「名物」とでも呼びたいものが出てくる」(『わが日常茶飯』(星羊社)より)

丸山「いろいろ日々混じりあっている」「八十年代にはフュージョン(融合)って言葉が流行ったでしょう?」「食堂って場だと思うから、美味しいものを出すのも大切だろうけど、やっぱり楽しいところじゃないと、というのがあるよね」(「新しい食堂」より)

 

飲食店→産業や業界に位置づくためにがんばったり無理をするのではなく、大きな力のヒエラルキーの外側で地域に位置づくことで自由にやれる余地がある。→本当の自己責任。

 

20分ほど質疑応答のち終了。

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2019/04/16

充実泥酔。ありがとうございました、ヒグラシ文庫8周年トーク。

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去る13日の鎌倉「まちの社員食堂」での、ヒグラシ文庫8周年トーク、ありがとうございました。

定員以上の集まりで、立ち見も出てしまいましたが、トークのあとの蕎麦屋での懇親会、そのあとヒグラシ文庫へ移動しての懇親会まで、たくさんの方にお付き合いいただきました。

人前で話すのは今回が最後になると言っていたヒグラシ文庫主宰の中原蒼二さんも、元気そうな姿を見せてくれてうれしかった。

按田さんとは、ずいぶんひさしぶりだった。彼女が7年前に按田餃子を出すことなど空想にもなかったころ、中野で数十秒ぐらい言葉を交わした以来だったが、二人とも覚えていた。「こういうところでお会いすることになるとは、想像もしてなかったですねえ」と、お互いに。

丸山さんは、中野にあったカルマに1990年前後だったか、入って食べたときチラッと見かけた以来だった。

なんだか、ここで会うのは必然のようでいて、やっぱりスペクテイター42号「新しい食堂」がもたらした偶然なのだ。

トークは、13時半開場で14時スタートだったが、スタッフのみなさんは10時に集合し準備をしてくださった。

登壇者のみなさんも12時に集合だった。みなさん、懇親会まで、長時間お疲れさまでした。

おれは司会だったけど、もともと起承転結が苦手のいい加減な人間なのでキッチリしたことはできない。登壇者の方と茶のみ話をしているところを見てもらう感じでということで始めた。

それに、じつは、東大宮を10時ごろ発ち、鎌倉までの2時間ほどのあいだ飲み続けで、会場に着いて打ち合わせの時も、みなさんはコーヒーなどだったが、おれだけ酒だった。すみません、アル中なもので。

このトークは、とくにこれから飲食店をやりたいと思っている方に聞いてほしいという企画だったから、最初に「飲食店をやりたいと思っている人」に手を挙げてもらったら、半数近くいたので、正直おどろいたし、うれしくて調子にのった。

懇親会のヒグラシ文庫の途中から泥酔意識喪失、その状態で2時間ほど電車に乗って東大宮の自宅まで帰った。どうやって帰ったのかわからないが、とにかく無事に帰っていた。

いい集まりだった。

おれは、司会のために、イチオウいろいろ読み返し準備をしたのだが、だんだん面白くなってメモにした。それを簡単にまとめたものを50部ほどコピーし会場で配った。

1ページ目だけを、ここに載せる。これは、トークの最初の出だしで、登壇者の方々を紹介するためのメモだ。

このあと4ページほどあるのだが、トークの内容に関係することで、これがけっこう面白い、と自分では思っているので、もしかすると明日以降に、ここに載せるかもしれない。

とくに丸山さんが関わっていた1960年代中ごろからのインディーズ・カルチャーの台頭と、当初は「無国籍料理」などと自称したり他称されたりした食文化の動向は、おれも意識していなかったが、もっと検討されてよい。カルマのスタッフだった高山なおみさんなど、按田さんの料理もそうだし、この流れは脈々と存在する。

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2019年4月13日(土)ヒグラシ文庫8周年トーク 司会資料(エンテツ作成)
「飲食店ラプソディ——何の飲食哲学の欠片もなく」

スペクテイター42号「新しい食堂」が縁になってのトーク。「新しい食堂」「これからの食堂」を始めたい人のために。トークを参考に、自分がやりたい食堂を自分なりにイメージしてもらえたらいい。

丸山伊太朗さん(ウナ・カメラ・リーベラ)
 1950年生まれ。1980年、無国籍料理「カルマ」開店。2014年「カルマ」閉店のちシェアカフェ「ウナ・カ メラ・リーベラ(ウナカメ)」発足。
按田優子さん(按田食堂)
 1876年生まれ。2012年、「按田餃子」開店(写真家・鈴木陽介さんと共同経営)。代々木上原と二子玉川。
中原蒼二さん(ヒグラシ文庫)
 1949年生まれ。2011年、立ち飲み屋「ヒグラシ文庫」開店。鎌倉と大船。

三者三様
シェア、共同経営、ワンマン、性格や好みなどの違いによる料理と運営→丸山さん複合融合的、按田さんファンタジー的、中原さん私小説的。

だけど、共通点があるようだ。
◆「新しい」からよい「古い」からよいではない。◆ボヘミアン―旅人的—より自由、解放的かつ開放的。きちっとした生き方(「特定の業界」に位置づいていく)からの逸脱。出たとこ勝負に強い。◆素人からの開店(料理について系統立てた勉強や修業をしてない)◆それぞれの日々の生き方としての料理や食事…家庭料理、日常性、「ふつう」を基本にしている。

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トークのあとアンケートをお願いしたのだが、片づけでワサワサしているにも関わらず、多くの参加者のみなさんが熱心に書いてくださり、感動した。一部をここに紹介する。

・大学を卒業して、何をなりわいとして生きていくか悩んでいたところ、参加しました。食堂、飲食店に関わらず、人の集まる場づくりを、自分の地元、鎌倉で開業したいと思いました!
・食堂や場所つくりに興味があり参加しました。どうしても、お店をつくるというとなんとなく難しいコンセプトを考えつめなければいけないような気がしていたのですが、お三方のお話、特に丸山さんのお客さんの意見でお店をつくっていくという話に、大切にする部分を忘れないようにしながら、色んな意見をとりいれて、やっていけばいいのかと少し気が楽になりました。
・今、何かをはじめたいと思っているところです。(家以外の、ひらけた場所を使って皆が幸せになるところをつくりたいと思っている)皆の話をきいて、すぐ私でも始められると嬉しい気持ちになりました!
・ほったらかしの話がよかったです。暇でも大丈夫なのは能力なのだと思いました。私もようやくそうなってきました。
・生のお話が伺えてよかったです。多分語りつくせぬほどのご苦労があったと思うのですが、それを感じさせない内容が強い生き方だと思いました。
・司会の遠藤さんも含め、四人四様の面白さを楽しめました。
・皆さん個性的で楽しかったです。
・とても楽しかったです。またやってください。
・最後の苦労話のところが面白かったです。私は専ら客の側なので、居場所としている店がこういうふうにできている、的に聴いていました。
・自分の今に丁度良い内容でした。

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2019/03/31

4月13日(土)、トークの告知。

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きょねん9月発売のスペクテイター「新しい食堂」が縁で実現したトーク。これはもう、めったにない強力な顔ぶれだ。

登壇者は、「ウナカメ」というより「元カルマ」といったほうが通じるような丸山伊太朗さん、それに按田餃子の按田優子さん、そしてヒグラシ文庫の中原蒼二さん。

司会は、不肖エンテツがやらせてもらいます。うれしいけど、この顔ぶれには、チョイと緊張しますな。

とくに、これからの新しい飲食店を志す若い人たちのためのトークになるはずです。

場所も、新しい食堂である、鎌倉の「まちの社員食堂」。

ヒグラシ文庫は、8年前の大震災がきっかけで中原さんが発起され、4月に開業した。このトークは、8周年記念の企画として行われる。中原さんの尽力のおかげです。

「新しい食堂」に寄稿したおれの「結局、食堂って何?」では、中原さんの著書『わが日常茶飯 立ち飲み屋「ヒグラシ文庫」店主の馳走帳」を参照しながら、このように紹介している。

「ヒグラシ文庫は中原の大震災の日の体験が開業の動機になっている。「2011年3月11日の東日本大震災という天災と、その後の人災は、多くの人に本当の意味で大きな影響を与えた、と思う」と書く中原は、「家と仕事先だけではなく、もう一つの場所が必要だ。それを自分で作ろう」と開業を思い立った。ヒグラシ文庫のキャッチフレーズは、「店は狭い、でも遠くへつながっている」。うまいねえ、いいねえ。」

このトークも8年目の「新しい復興」ですね。

詳細は、ヒグラシ文庫のフェイスブック、こちら。
https://www.facebook.com/events/366947217235181/

入場は、当日先着順となります。
・ネット・電話で予約や申し込みはできません。
・開場13:30 開始14:00 ※12時半から整理券を配ります。
・30名以降は可能なかぎり、立ち見でご対応いたします。
・建物の構造上、立ち見では登壇者が見えない場所もございますが入場料は1000円均一です。ご了承ください。

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2019/03/29

今年初の大宮いづみや本店。

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昨日、大宮で時間が半端になったのでいづみや本店に寄った。今年始めてだ。18時半すぎから19時15分ぐらいまでいた。

19時頃までは半分ほどの入りだったが、19時をすぎるとドンドン客が入ってきた。

おばさんたちは、シフトの関係なのか、初めての顔のほうが多かったからそれだけじゃないだろう、ほどよく若返った感じだ。「ほどよく」というのは、いづみやの場合、あまり若すぎてもよくない。ほどほどの「老い」が必要だ。

だけど、前の人たちは、しだいに仕事がキツイ感じになっていた。客が混んでくると「必死」な「一所懸命」という感じが漂った。おれも75歳だから身体がきつくなると余裕がなくなるのはわかる。

昨日のおばさんたちは、「老い」を持ちながらも、余裕で客をさばいていた。

それはそうと、客層もだいぶ変わった。若返ったし女性も増えたが、悪くはない。いづみやでのくつろぎを楽しんでいそうな人たちばかりだった。

そのせいかどうかわからないが、ホッピーを飲んでいる人がほとんどいなかった。その場の感じでは、レモンサワーに押されていたようだ。それにいづみやの場合は、赤星が安くて人気ということがあるかもしれない。

しかしスーパーのホッピー売り場も、一時ほどは棚を占めていない。ブームは去ったということかな。

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2019/03/26

食堂のおばさんの「石けり」遊び。

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ある食堂で糠床の話になった。食堂のおれと同じ齢のおばさん、客が四人。糠床をだめにしないで長持ちさせるのはけっこう難しい。この食堂の糠床は四十年ほどは過ぎている。

女の客の一人が「かんます」と言った。「かんまわす」だったかもしれない。「糠床を、かんま(わ)す」という感じだ。

すると食堂のおばさんが、「おや、あなた、どこのひと、わたしは「かんます」で育ったんだよ」と言った。女の客は、北区の隅田川沿いで育った。食堂のおばさんは墨田区の京島の育ちで、そこからチョイと南へ下ったところにある食堂へ嫁いだのだった。

いわゆる「下町」のことだ。そのあたりじゃ「かきまわす」という「東京言葉」は使わないで「かんま(わ)す」だというのだ。

という話をしていたら、おばさんは京島の子供時代を思い出して、「石けり」の話を始めた。

おばさんは食堂の客席を担当している。厨房と客席のあいだに、食事の上げ下げをするカウンターがあって、その端に小さな三段の引き出しがついた小箱があり、そばに鉛筆と小さなメモ帳と古い文鎮や昔の重い栓抜きがある。

そこがおばさんのホームポジションで、客が来ると、鉛筆とメモ帳を持って注文を書き取り厨房の主人に通す。注文を通したメモは、文鎮の下に置かれる。食べ終わった客は、おばさんに勘定をする。勘定が終わったメモは、ホームポジションの足元にある糠床の上のアルミのお盆に載せられる。

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アルミのお盆は見るからに古く、おばさんが四十年ほど前に嫁に来た時には、すでに使い込まれていた。おばさんはアルミ盆と糠床を引き継いだ。

おばさんは、手のひらにのる小さなメモ帳に子供の頃の「石けり」遊びの図を書きながら、話がとまらない。

おれも子供の頃は、生まれ故郷の田舎町で石けり遊びをした。いくつかやり方があって、ほんとんど忘れていたが、おばさんの図を見ながら少しずつ思い出していた。

だけど、おばさんの図は、どんどんいろいろな線が書き込まれ複雑になっていく。一番上に横線が引かれ「上り」とある以外は、おれの知らない世界になった。都会の子供は、ずいぶん複雑なルールの石けりをやっていたのだなと思った。

「ゴムとびもやったね」「やった、やった」

「男の子も女の子も、大きい子も小さい子も、一緒に遊んだよ。たいがいの家は子供が何人かいて、いつも一緒だったからね、男の子も女の子も一緒に遊んだよ」とおばさんは言った。

ところで、「かんま(わ)す」について、おれの田舎でもそんな風に言っていた記憶があるので、ネット検索してみたら、仙台、福島、長野、栃木、群馬、埼玉などの方言に登場し、新潟でも使われていた。東京の東北地域と、その延長線上の地域が関係しているのかもしれない。味覚も関係あるかな。

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2019/03/23

スペクテイター43号「わび・さび」を見たあとは、地球の景色が違って見える。

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先日、スペクテイター編集部の赤田祐一さんから、最新2月発行の43号「わび・さび」をいただいた。

ちょうど、ある写真家と、いま最も刺激的で面白いのはスペクテイターだと盛り上がったあとだった。

いやあ、今回もまた、刺激的で面白い。というぐらいでは足りない。

巻頭の「Dear Readers」で、編集部の青野利光さんが「わび・さび――このたった四文字のことばの奥に広がる宇宙を巡る旅へと皆さんをお連れしたいと思います」「旅から戻る頃には月面旅行を終えた宇宙飛行士のように、これまで見てきた地球の景色がまるで違ってみえる。そんな不思議な気分が味わえるに違いありません」と書いているのだが、ほんとうに、その通りだった。

「わび・さび」については、とくに懐石料理以後の日本料理と大いに関係があるので、それなりに、その文献の類に目を通してきたつもりだが、またそれだけに、本書を読んだら興奮の連続で、読んでまた読んで、ウームと考え、気になる景色を見に行ってきたりして、また読んで、というぐあいで、なんともはやすごい読書体験をした。いや、まだ読書体験中なのだが。

何度も、その手があったか! と思った。

最初の、赤田祐一さんによる評論「〝わび・さび〟はどこからやってくるか?」にしてそうだが、「〝わび・さび〟といって自分が連想させられるのは、水木しげるの描く漫画である」と始まるのだ。そして、水木しげると水木作品を手掛かりに、〝わび・さび〟に接近してゆく。

「〝わび・さび〟は、「見つける」ものというより「見つかってしまう」ものであり、知識や理屈ではなく、むしろそこからはずれてしまうということのようだ」(「はずれてしまう」に傍点)

「天才もアホも、美人もブスも、金持ちも貧乏人も、人間であるかぎり不完全さから逃れることはできない。そのダメな部分を削って捨てようとするのではなく、ダメをどう快感に転じていくか、〝わび・さび〟とは自然の中でそのような回路を見つけ出す作業だと思う」

この「〝わび・さび〟はどこからやってくるか?」は見開きページなのだが、下の欄外に「わび・さびの直観的理解」として二つの図表がついている。

一つは「交点」であり、「わび」と「さび」の二つの輪があり、それが交わる中間が〝わび・さび〟であると。

もう一つは、BETH KEMPTON『WABI SABI』(2018・piatkus)からの「座標」だ。「複雑」と「簡素」のあいだに、「派手」「いき」「渋い」「わび・さび」「地味」がある。

これだけでも、〝わび・さび〟に関する、さまざまなインスピレーションがわき、日本料理や懐石料理、それに、おれが「生活料理」や「大衆めし」といっていることがらについて検討すべきことや、検討しなおさなくてはならないことが浮かんでくるのだった。

編集部は、さまざまな角度から、とくに「現在進行中の事象である」ものとして、〝わび・さび〟を探っていく。編集部の知る写真家、スタイリスト、イラストレーターに依頼し「わたしが感じた〝わび・さび〟」を撮り下ろしてもらった作品を、ページのあちこちに散りばめながら。あるいは、「いろいろな人が語る〝わび・さび〟」や「〝わび・さび〟を感じる瞬間」などを書物に探ったり。

〝わび・さび〟の歴史を漫画でまとめたり、「〝わび・さび〟を知る上で欠かせないキー・パーソンを十名に絞り込み」その略歴と東陽片岡さんによる肖像画。ここに東陽片岡さんのイラストが登場するのも、おれにとっては「その手があったか!」の一つだった。

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〝わび・さび〟といったら千利休ってわけで、漫画で「利休伝説」。

とにかく、サブカル的手法も縦横無尽に駆使して、楽しい、面白い。〝わび・さび〟は感覚のことだから、「とは何か」の理屈で正解を求めようとするより、漫画や写真なども使って、ああだこうだ、ああでもないこうでもないと探りながら、〝わび・さび〟の感覚に慣れていくのもよいのだな。

なんといっても焦眉は、二つのインタビューだ。

一つは、「サンフランシスコ郊外に‶わび・さび〟をさがして」ってことで、カリフォルニア在住の『わびさびを読み解く』の著者レナード・コレンの話を聞きに。

一つは、原研哉登場で「「人工」と「自然」の波打ち際にあるもの」。おれは、「シンプリシティ」と「エンプティネス」をめぐる話が、最も面白かったし参考になった。

「現代の〝わび・さび〟は、どこにある?」と中矢昌行は、「聖林公司の〝わび・さび〟」を撮っている。

続いて、まいど充実している「ブックガイド」は、桜井通開による10冊。ここに谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』があって、おどろいたが、読んで、なるほどなあ。

そして、最後は、つげ忠男の「懺悔の宿」。

以上が特集〝わび・さび〟で、これからまだしばらくは、この余韻というよりナマの刺激が続きそうだ。

こちらに案内があります。

http://www.spectatorweb.com/

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特集とは別に、「追悼 細川廣次」というページが付いている。 赤田祐一さんが「カウンターカルチャーの先行者 細川廣次氏をいたむ」という文を寄せ、細川廣次による「ビートニクたちが求めた悟り」と「八切止夫の裏返し日本史「原日本人」の許されざるルーツ探求」と「細川廣次インタビュー」が再録されている。この追悼が載るのもすごいが、これもたいした読み応えだ。

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2019/03/20

東京新聞連載「エンテツさんの大衆食堂ランチ」77回目、佐竹・武井。

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先月の第3金曜日、15日に掲載の分だ。すでに東京新聞のサイトでご覧いただける。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2019021502000192.html

Dscn9971 武井のある場所は、住所表示では台東区の「台東」だが、最近は御徒町地域に含まれることが多いようだ。かつては、というのは80年代ぐらいまでか、このあたりは「佐竹」で通じた。70年代が絶好調だったのではないかと記憶するが、賑わっていた「佐竹商店街」が、このあたりの地名を代表していたのだろう。都電が廃止されるまでは、清洲橋通りに「竹町」という停留所があって、土地のひとは、その「竹町」を、このあたりの呼び名にしていたらしい。伊東四朗が竹町の出身といういわれかたをする「竹町」はこのあたりのことだ。

 おれの記憶では、そういうこと。

とにかく、都電が廃止されても、まだ賑やかだった70年代、JR御徒町駅から徒歩10分ぐらいの佐竹商店街を通りぬけ清洲橋通りを渡り、「おかず横丁」とよばれるようになった鳥越の商店街をぶらぶらし浅草橋駅へ出るというのが、おれの仕事をかねた散歩コースだった。

90年代の後半、つまり『大衆食堂の研究』を出したあと、佐竹商店街へ行ったのだが、あまりのさびれように驚いた。繁栄の象徴だった、東京では珍しいアーケードが、かえって仇になった感じで、暗い大きな廃屋になりかかっている印象だった。

2000年に、佐竹商店街の北側の入り口そばに都営地下鉄大江戸線新御徒町駅が開業し、2005年にはつくばエクスプレスが開業し乗り換え駅になった。そのおかげだろう、人通りが多くなり、まだかつてほどではないが、アーケードに人通りと明るさと活気がもどった。

いわゆる「下町商店街」の昔が偲ばれる商店と、ベーカリーなど新しくできた商店が混在しているのも面白い。

武井は、佐竹商店街ではあるけど、アーケードを南側へぬけたばかりのところにある。じつは、『大衆食堂の研究』を書いたころ、ここにあるのを気づいていなかった。ちょっとした視線の関係だと思うが、アーケードを南側へぬけると、すぐ左側が清洲橋通りでそちらへ向かったからだろう。武井は、アーケードを抜けた位置から、すぐ右前にあるのだ。モノゴトは、少しの視線のズレで、見えたり見えなかったりする。

食堂でドライカレーを食べたのは、ずいぶん久しぶりだ。おれがこれを初めてつくったのは中学3年か高校生のころだが、いまでも一年に何回かは家でつくる。割と好きなんだが、食堂に入ると、おかずとめしになることが多い。それに、ドライカレーがメニューにあるかないか、よく確かめたことがない。

武井のメニューは、シンプルでわかりやすい。壁面の二枚の板に書かれてあり、一目で、全メニューがわかる。そこにドライカレーがあった、すぐ、懐かしさもあってこれにした。

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おれが食べだすと、あとから体格のよい若い男が入ってきて、ドライカレーとハムエッグを注文した。その声をきいて、そういえば、ドライカレーに目玉焼きをのせて混ぜながら食べるとうまいんだよな~と思い出した。

ドライカレーは、焼きめしのカレー味のようなものだから、めし粒についたカレー粉の粒粒が、熱に解け切らずに残留し、それが舌にあたったときのピリッとした味わいがよい。これと目玉焼きの味がミックスされるとうまさが広がる。

こんど食堂ではドライカレーがあるかどうかメニューをよく見ることにしよう。あったら注文し、一緒に目玉焼きかハムエッグを注文しよう。

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2019/03/15

「おかず」の世界観…地味でも、ひとりでも、幸せになれます!

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料理にも世界観がある。

いわゆる「日本料理」に世界観があるように「おかず」にも世界観がある。

ただ「おかず」の世界観は無名の無数の人たちによって成り立っているから、「どんな」といわれても、なかなかとらえどこがないと思っていた。

ま、じつは、あまり真剣に考えたわけじゃないのだが。

ところが、最近「おかず」について考えているうちにひらめいた。

というのも、ある高名な雑誌の編集者から、生活のなかにある料理というところをもっと現実的に見つめたいと思うが、「欲望を満たすゴチソウ料理のほうが、どうしても華があり」、編集はそちらに傾いてしまうという話を聞いたからだ。

それは、いまどきの世間の余裕ある「読者階級」の関心や思想の反映でもあるだろうけど、おれは、そういえば日々の暮らしのおかずには楽しみはあっても「華」がないかもなあ、たとえ「華」があっても料理そのものというより「食事」の興奮だろう、大衆食堂のおかずは地味だしねえと思ったのだった。

その瞬間、頭のなかに「津村記久子」がひらめいた。地味といえば津村記久子、ってわけじゃないが。

津村記久子の作品のなにかに、「おかず」の世界観に近いものがあったような気がして、本を引っ張り出してみたら、簡単に見つかった。

津村記久子の『二度寝とは、遠くにありて想うもの』(講談社)の帯にあったのだ。

「地味でも、ひとりでも、幸せになれます!」と。

これは編集者がつくったコピーかもしれないが、そのまま「おかず」の世界観ではないか。

だいたい、これまで津村記久子の作品を読んだところでは、その世界観は「おかず」に近いし。

しかし、「地味でも、ひとりでも、幸せになれます!」を、そのまま「おかず」の世界観をあらわすキャッチフレーズに使うわけにはいかない、困ったなあ、と思っているのが、今日なのだ。

思案しながら、当ブログで、『二度寝とは、遠くにありて想うもの』にふれたエントリーを検索してみたら、過去4回あった。「津村記久子」への言及は、もっと多い。津村記久子に惚れているからね。

「おかず」の世界観に最も関係ありそうなことは、このエントリーでふれていた。

2015/10/05
「数値化したらプラスになる物事だけを良しとする傾向。」

これは、2019/03/01「「下手味」と「下手糞」。」にも関係あるね。


ほか「二度寝」関連。

2015/06/21
「生活の底」と「労働の底」。

2015/06/22
津村記久子が気になっている。

2015/08/02
「川の東京学」メモ 大衆食堂から見たなくなったもの。

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2019/03/14

おかずをパンにはさんで食べる。

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おかずをパンにはさんで食べるということは普通にやられている。ただ「洋風」のおかずが多いようだ。「サンドイッチ」という呼び名が「洋風」だからだろうか。

やきそばは、コッペにはさんで「やきそばサンド」になるが、あれは「何風」なのだ。

林真理子の『食べるたびに、哀しくって…』には、たしか、ひそかにあこがれていたか尊敬していた美人の女性が、納豆を食パンにはさんで食べるのを見て失望した、というような話があった。

「和風」の納豆をパンにはんさで食べるのは、おれは昔、そうだねえ高校のころからやっているが、うまい。バターをぬったトーストにはさんだり、マヨネーズをちょっとたらすのもいいね。いろいろなものを一緒にあわせられる。

なんでもパンにはさんで食べられる。切干大根の煮物だって、糠漬けだって。

ただ、ごはんを食べるために作られたおかずは、パンにはさむには味付けが濃すぎることが多いから、ほかに野菜などを合わせて塩味加減を調節する工夫が必要だ。

糠漬けと生野菜にオリーブオイルをたらしたりするのもいいね。

とにかく、「和風」「洋風」なんか関係ない。たいがいのおかずは、ごはんでもパンでも一緒に食べられる。そこがまたおかずのよさだ。さば味噌煮サンドなんか、缶詰でもいいが、いい酒のつまみにもなる。タレまでパンにつけて食べる。

もっと自由にやって、普通からの逸脱を楽しむのもいい。そこからまた何か開ける。

てなことを話していた。

おかずの世界は、作るのも食べるのも、自由で広い。それを生かし切っているだろうか。へんな観念にとらわれていないか。

サンドイッチ食べながら味噌汁飲むのもいいさ。

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