日常にかえる。
2008/11/05「知識はあれど想像力は、ナシ。」から2008/11/07「安直で惰性な「こだわり」の舞台あるいは舞台裏。」2008/11/11「「ゆるゆる大陸」「脱星印脱印籠語」とか。」2008/11/12「真摯な姿。」2008/11/13「「公正を期する」こと。表現と、それ以前の判断や思考。」2008/11/15「虚実皮膜の間で「行きつけの店のある生活」。」2008/11/16「虚実皮膜の間、表現以前、神様になりたいのか人間でいたいのか。」とグダグダ転がってきた話だが、もとはといえば、伊丹十三さんの『ヨーロッパ退屈日記』の「想像力」から始まった。
2008/11/05のその引用をふりかえると、伊丹十三さんは、「これ以上安易で、投げやりな想像があるのでしょうか」という例をあげたのち、こう書いた。
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現在の映画が、撮影所製のだんどり芝居の域を抜け出て「実在性」を取り戻そうとするなら、わたくしの場合、その推進の軸となるものは「日常性」においてないと思います。
そしてまた、作家の想像力が一番あらわな形で出る場、というのも日常性の創造をおいてないと思うのです。
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もちろん「作家」は「表現者」そして「人間」と置き換えてもよいだろう。日常性を豊かにできるかどうかは想像力のモンダイなのだ。だけど、いわゆる「うまいもの好き」「酒好き」の食べ歩き飲み歩きのたぐいを読んでも、たいがいはそこに豊かな日常を想像することが難しい。「うまいものを求めて」歩きまわる著者の姿に、その書くことに、望ましい生活の姿を想像するのは困難であることが少なくないのではないだろか。俺は、アサマシイ、イジマシイと思うこともある。
ともあれ、大言壮語印籠語紋切り型の「うまいもの好き」より、想像力を磨く日常にかえろう。
で、2003年7月発行、河出書房新社の『文藝別冊 山口瞳』に木村衣有子さんが書いた「行きつけの店のある生活」だ。そこで冒頭、木村さんが引用するのは、山口瞳さんのこの文章。
「寿司屋とソバ屋と、酒場(私の場合は赤提灯だが)と喫茶店、これを一軒ずつ知っていれば、あとはもういらない。駅のそばに、気楽に無駄話ができる喫茶店があるというのは、とても嬉しいことだ。いや、もし、そういうものがなかったとするならば、その町に住んでいるとは言えない。私はそんなふうに考えている」(『行きつけの店』「国立 ロージナ茶房の日替わりコーヒー」より)
こうした「行きつけ」は、人によりさまざまだろう。もしかすると、いまでは、洒落たイタリア料理店やスタバやドトールであるひとがいるかも知れない。あるいは、魚屋や豆腐屋だったりとか。
俺が、大衆食堂を書くスタンスも、「名店を厳選」というものではなく、それがそこにあるかぎり、そこに必ず、その食堂を「行きつけ」にしているひとがいる、その存在の豊かさ、そこにある飲食の姿や生活の姿やまちの姿を知り、そしてできたら伝えたいからだ。それは生活を豊かにする想像力の源泉になるだろう。自分は「うまいもの好き」だから「うまいもの好き」が行く「名店」にはいかなくてはならないと、情報にふりまわされ強迫観念に追われるように食べ歩き飲み歩きするのは、想像力の貧困以外のなにものでもない。
それはともかく、木村さんは自著デビュー作『京都カフェ案内』と山口瞳さんの『行きつけの店』や『居酒屋兆治』との「関係」を語ったのち、こう書く。
山口瞳が「店」について書いた文章に私は惹きつけられる。『居酒屋兆治』では、モツ焼き屋の観察記を、熱もあり冷たさもある物語に昇華している。『行きつけの店』は、単に食べもの屋を羅列したガイドブックではない。どうしてそう書くのか、書けるのか。
生活、という言葉を山口瞳はよく使う(四、五〇年くらい前までは「生活」という言葉がいまよりも衿を正して使われていたのだと思われるが)。彼はたびたび、「行きつけの店のある生活」について書いている。それは、タイトルにも「生活」がついているはじめての小説『江分利満氏の優雅な生活』から、ずっと続いている。
で、最後のほうで、木村さんは、こう書く。前にも引用したが、大事なところだと思う。
10軒の店について知っていることよりも、好きな店が1軒あって、そこにいつでも行ける生活があることの方が贅沢だ。山口瞳は、小説家である以前に、まっとうな生活者なのだ。生活について、日常について、彼は匂わしたりはぐらかしたりせず、そのままを書く。私はその文章をとても信用して、慕っている。
このあたりのことは、現在の木村さんが『ミーツ・リージョナル』に連載の「大阪のぞき」を読むと、なるほど、と思うが、そこに至るには「障壁」もあり単純ではなかったようだ。そのことは、また後日の話として、『文藝別冊 山口瞳』の中野朗さんによる「作家になるまでの山口瞳」によれば、『江分利満氏の優雅な生活』の題字は、当時は伊丹一三だった伊丹十三さんであり、またなにかに書いてあったと思うが、山口瞳さんは伊丹十三さんの仲人かなにかでもあり親交が深かった。
食べ歩き飲み歩きするにしても、日常を豊かにする視点を持ちたい。
それゆけ30~50点人生。

きのう。
(追記)下記の記事を書いたのは朝だが、いま12時半過ぎ、デジカメを見たら「味とめ」の画像があった。撮影した記憶がない。上は、2階の窓を開けて撮ったものらしいが、昨夜は寒かったのに、なんでそんなことをしたのだろう。下の画像は、「味とめ」の前だから、閉会して出たところらしい。撮影時間が9時50分すぎ。ウへ~、味とめで6時間も飲んでいたってことか。そして10時頃三軒茶屋から地下鉄に乗って渋谷へ出て帰ったのだな。(追記、おわり)
画像。たったこれだけの量の文章なのに、2か所も「こだわり」を使っている。「こだわり」なんてのは、大量生産のセブンイレブンの食パンの言葉ですよ。ま、セブンイレブンの食パンだから悪いということはないのだけど、安直簡単便利生活の象徴のごとく揶揄されるセブンイレンブンの、大量生産の言葉ってことです。たしかに、そのように、安直簡単便利に、大量の出版物に使われている。その状況に対して、無自覚すぎるように思う。そこからどう脱却するかという課題があるんじゃあんまいか。
ヨツパライ深夜便、きのうのこと。2008/10/23「四月と十月展とスソアキコ帽子展とか。」に書いた、スソアキコ展の最終日。行けば、必ずや帽子を被ることになるだろうと、いつもはフケだらけの頭を洗って出かける。たしか13時54分東大宮発の電車に乗った。陽気もよいので原宿駅で降りて、表参道まで歩き、会場のスパイラル2階のスパイラルマーケットへ。もちろん、スソさんはいました。えーと、7月初旬の古墳部の旅以来。
きのう、11月1日発売の「ミーツ・リージョナル」12月号を郵送で頂戴した。転居先は連絡してあったが間に合わなかったのか、旧住所からの転送だった。まだゆっくり見てないが、ようするに「旨い旅」だ。藤本男さんらZAZENBOYSならぬJ-BOYSが、東京まで遠征して食べまくっている。
まだ何かと生活のリズムが整っていない。ちょっとしたものでも、あるべきところが定まっていなくて、右往左往したり。きのうとおととい、2日続け出かけたが、都心までの往復時間は変らないにしても、電車や経路が変ったせいか、グッタリ疲れて、ブログの更新をする気力もなく、パソコンの前に座るのもメンドウで、寝てしまう。
引っ越してから、都心へ行くのは初めてだ。以前の最寄駅は京浜東北線の北浦和駅で、電車の本数が多かったが、こんどは、ローカルな宇都宮線の東大宮駅で、時間帯によっては、1時間に4、5本になってしまう。イチオウ電車の時間を確かめて出かけた方がよい。駅までの徒歩は前より短くなったし、電車に乗ってしまえば停車駅は少ないから、都心までの時間はかわらない。新宿まで約1時間。電車賃が、380円から570円に。


鳥羽さんは、商学部長だったときに入試をめぐってだったかスキャンダルがあり、その責任をとるカタチで教授に退いていた。よく売れた『もう一つの韓国』(1976年)の著書があるなど、玉城さんとは韓国つながりが濃い、「経営史研究」の権威だった。ってことで、早大の経営史研究室の資料だけではなく、ウエイティングドクターで助手をしていた浅野俊光さんにも協力してもらえることになった。
俺は終わるころには、もうこの分野はアキタということでもないが、たいしたおもしろいチャレンジはないし説教くさい辛気くさいという感じで、チョイと別のことがやりたくなっていた。以前から仕事の付き合いがあった某大手ゼネコンから社史の編纂の話があって引き受けたが、そっくり玉城さんにわたし、玉城さんは浅野さんと作業をすすめた。
またまた引っ越し整理の中での「発掘」。忘れていたわけではないが、どうするか決めかねて、とりあえず、そのままにしてあった。




デレデレと酒を飲みながら、引っ越しの準備がすすんでいる。きょうの「発見」は、馬券。7月27日に大井競馬場で、博打ごっこ飲みをした。そのとき、ピンときた馬券を買った。
あの日は、荒れ模様の天気だったが、けっきょく降らないで、馬場もレースも荒れなかった。だけど、雲の姿は、どんどん変って、ちょっと大都会に似つかわしく思えたところを撮影した。
喜一郎さんが、親の喜三郎さんに、タンク一つやるから自分で好きな酒をつくってみろといわれて始め、5年目で売れるものができたという、その名も「喜一郎の酒」を試飲。「喜三郎の酒」というのもあるのだ。本醸造は「三本線能代」。みな試飲。「喜一郎の酒」は、一口でいえば「やさしい」。4号瓶を一本買い求める。ほかの出店各社の酒も試飲し、話を聞く。しかし、ササキ女史は、ほんと詳しい。ほんの少しずつ飲んでいるだけだが、なんだかよい気分になる。
きのう「わめぞ」で知った。これは、オススメだ。←左サイドバーの「アステア・エンテツ犬」を描いた、内澤旬子さんの「おやじがき」が本になり出版される。おれは以前に内澤さんが自家手製本で出したものを持っている。うーん、4、5年前か、谷根千あたりのどこかのカフェで内澤さんが個展をやったときに買ったのだ。3巻のうち1は売り切れで、2と3を買った。内澤さんの作品のなかで、おれがイチバン好きなんだな。
「スナック」といっても、「小さなスナック」という歌のような、けがれない清らかな美しいオシッコのようなカワイイ女がいるイメージのそれとはちがう、「スナック・バ-」のことだ。
おれも、この件については、かなりしつこい。また書く。何度でも書く、トコトン書く。それに、たぶん、前に書いていることを知らないひともいるだろう。

ボチボチ引っ越しのしたくをしている。持っていくものは、これでいいのか、とおもうぐらい、少ない。もともと、文字通り「裸一貫」という状態を、何回か経ているから、少ないのだが、さらにまた捨てるのだから、とにかく少ない。
パラパラ見ていたら、「維新派、琵琶湖畔で4年ぶりに野外劇を上演!」の見出しが目にとまる。それで、先夜の中原さん宅で話題になっていた、その話を思い出した。長浜市の琵琶湖畔に水上舞台をつくって公演するのだ。そのあたりは、すでにブログにも書いたが、先日ウロウロしてきた。きょうは、ついでにレプリカ長浜城から見た琵琶湖畔の画像を掲載しておこう。湖北方面を撮影した。10月2日開幕だから、いまごろは、この景色のあたり、どこかに舞台がつくられているのだろう。
なにしろ、「こだわりの中原さん」と言うと、嫌がるからますます言ってみたくなるのだが、「こだわりの中原さん」の手料理だ。この昔から祝い料理に欠かせない錦玉子なんざ、20年ぶりに食べたが、「あれっ、錦玉子って、こんなにうまかったかな」と思うほど、きめ細かく舌触りからまるで違う。
初対面のグリックスのアートディレクター、森田康史さんご夫妻がおられ、楽しくすごした。オモシロイ話があって、それをブログに書いてやろう、と思ったような記憶があるのだが、思い出せない。かなり酔った。
9月8日、愛媛・西条市の藤田さんを訪ねたとき、すでにアマゾンで購入されていた。九州の人も、北海道の人も、買っている。そうそう、おれの故郷の新潟・南魚沼市は高千代酒造の稲刈りに、これを買って行ってくださった兵庫の方もいるそうだ。ありがと~、うれしいね。みなさん、この方たちの熱意に続きましょうぞ。
瀬尾さんから、『おつまみ横丁 もう一軒』(池田書店)が届いた。ありがとう、ベストセラーおめでとう。
北九州の「市民プロデューサー講座」9月6日土曜日は、「街じゅうアートin北九州2008」が始まる日で、いつもなら講座に参加する大勢が、そちらのオープニングセレモニーに関係していた。そのなかのお一人、大野浩介さんだが、途中たしか高田酒店で角打ちをしているころに駆けつけた。そして、おれの手に「床漬」を渡すと、また忙しく街じゅうアートのほうへ去った。
持って帰って、そっと、おれだけで食べたいものだったが、そうはいかない。糠から出したら日持ちはしないから、はやくうまいうちに食べなくてはいけない。というわけで、そのあとすぐ、打上げで行った小倉の居酒屋で切ってもらい、みなで食べた。そのうまさ。みなは、おれが土産にもらったものだということなんか関係ないように、うまいうまいと競って食べる。たちまち鉢の底が見えてくる。おれも負けないように食べていたら、写真を撮るのも忘れ、このアリサマになって、あわてて撮影したのだった。
前に書いたが、北九州の9月6日の「市民プロデューサー講座」に行く途中、4日に滋賀県長浜に寄った。なにやら「まちづくり」関係者のあいだで話題になっているから、ついでに見ておこうというわけだ。
いま話題の「まぢづくり」は、駅東側の、東に向かう駅前通りの北側の地域。駅前通りと交差し、北へのびる北国街道(最初の画像)、その東側に並行する長浜御坊表参道通り(二番目の画像)が囲む地域が中心だ。
けっこう広い範囲に古い建物があるのだが、それを生かした「まちづくり」で、大手門通りと北国街道が交差するあたりは、「黒壁スクエア」と命名され、テーマパーク化が進んでいる。
が、しかし、まだ、フツウの商店や住居として機能している古い建物が大半を占め、その暮らしの落ち着きに味がある。長浜御坊表参道通りは、東京でいえば、柴又帝釈天前の通りに例えられそうだが、それより規模が大きい。そして、通りは柴又帝釈天前の通りほどは観光ムンムンではなく、むかしながらの時計屋や「田宮」の看板のある模型屋や、仕立て屋などがあって、模型屋では通りの「和」の雰囲気とはちがう「洋」の懐メロの音を鳴らしていた。一歩路地を入れば、朝顔のつるをはわした格子戸のある家など静かなたたずまいや、傘や、箒や、帽子などの店もあるのだった。
おれが入ったのは、この中島屋食堂だった。ここは、駅前通りにあって、しかも「まちづくり」が活発な北側ではなく、むかしのやや寂れた商店街がしのばれる南側なのだ。家屋にしても北側ほどの「風格」はないが、窓枠にいたるまで古い木造には、気どらない働く庶民の生活が磨きあげたような、あたたかい輝きがあった。いや実際、その窓枠には、ためいきをついた。めしの味わいも、そのようなものだった。
ところで、最初の画像は北九州市の小倉駅だ。頭上のレールはモノレールだが、この位置の左手、つまり小倉駅を背にして、すぐ右手は、いわゆる歓楽街あるいはピンクゾーンといわれるところだ。それも、歌舞伎町のように何階建てものビルが並ぶところではなく、低い、それこそ昭和30年代風の小さな営業店が多い。まさに昭和の歓楽街といったほうがよいだろう。
二番目の画像が、最初の画像を撮影しているデッキの左手下、駅前大通りに面してある、その一角への一つの入り口だ。いかがわしさムンムンの雑居ビル、「大丸ビル名店街」の看板。なるほどな~、世間には、いろいろな名店があるのさ。
いま、「まちづくり」「再開発」というと、こういう景色は「負の遺産」として始末されるのが前提になっている。
ああ、雨の八重洲裏通り。
飲み屋のおやじにまで「社長」とよばれる男、坊主頭で見るからにアヤシイ。色白の腰ぎんちゃくのような男も、やや長めではあるが、これも坊主頭。ダークの、高そうなスーツを着ている。悪いことをしているのだろう。社長の命令とあらば、ケツの穴まで差し出しそうだし、なんでもやりそうな男だ。ナントカという兵法学者のファンだそうで、戦略室長なんていうエラソウな肩書。
まだまだ、もう1軒、「ふくべ」。一年前ぐらいに牧野さんと入って以来だ。この時間帯のほうが空いているのかもしれない。閉店まで。かなり雨足が強くなっていたが、酔いも深い。東京駅で、アヤシイ社長らはまだどこかへ行くという。社長秘書が一緒だから、カラオケで乱交でもやるのだろう。あの男たちは、みな社長秘書に頭があがらなさそうだった。旅行旅館部門の部長女は従わず、おれと改札をとおる。もしかしておれとホテルへでも行く気かと期待したがさにあらず、部長女はおれとは別の電車に乗るため別れる。そのあたりで記憶喪失帰宅。
すでに書いたように9月6日の土曜日は北九州市で市民プロデューサー講座「エンテツと街を歩こう」だった。前夜、正体を失うほど飲んだが、なんらモンダイはなく、内容的に無事だったかどうかはともかく、無事に歩きまわり、4時半ごろには鉄なべでぎょうざとビールをやり、そのあと角打ち二軒はしごし、そのまま小倉の居酒屋で宴会的講座に入った。
「藤田家族」の畑。白い建物は小学校。小学校の左手の家の周辺の畑は違うが、小学校のところまであたりと、左手の画像からはみだしている奥までが藤田さんの耕作地。この夏、熱暑と降水不足に悩まされ、枯れてしまったものや、草とりが追いつかず草が野蛮にのびた畝もある。きのうのエントリーで藤田さんが写っている画像は、草が野蛮に伸び放置プレイ状態の畝の中に、もともと植えてあったゴーヤが実をつけ、熟れて種まではらんでいるのをみつけ、藤田さんがなんでかよろこんでいるの絵なのだ。藤田家族の畑は、ほかに2か所だったかな?
その畑を撮影したあたりから、畑と反対側を望んだ景色。西条市は四国山脈と瀬戸内海のあいだにあるのだけど、藤田家族の菜園は山側に近い、そして海に近い西条市街地にむかってくだる、緩やかな傾斜地にある。ハスの畑は藤田さんではなく、そのむこうに国道があって、国道のむこうの旧道らしきに家が連なっている。そのあたりに藤田さんの借家があり、そこと国道のあいだにも、藤田家族の畑がある。
畑横の道路の疎水。きのうのエントリーからリンクがあるザ大衆食のページに書いたが、西条市は湧水が豊富なまちで、飲めるきれいな水が、あちこちで湧いている。疎水にも、飲めそうなほどきれいで豊富な水が、音をたてて流れている。でも、畑には、降水が必要なのであり、豊かに流れる水をながめながら、天をにらみ「雨が降ってくれないかなあ」と胃が痛む思いをするらしい。
東京の実力ある出版社で編集者をしていた藤田敏さんが百姓になったことは、以前に書いた。9月8日、北九州で仕事を終えたあと、その地、愛媛県西条市の藤田家族を訪ねた。
長浜のことも書きたいし、西条のことも書きたい、六日町の万盛庵で食べたものも書きたい、あれも書きたいこれも書きたい。だから、北九州のことは、とりあえず打ち止めにしたく、きのうのエントリーに、「北九州市には、フツウの生活が胸張って呼吸している地域がたくさんあるようにおもう」と加筆し、もう加筆も修正もしないことにした。
若戸大橋をクルマでわたると、海側は工場地帯で、山側に広がる街の景観がパノラマ状に見られるのだが、その建物の色が、ほかの都市のように単調でない。そして、単調な中に、ときたま目立つ色がある、なんてものじゃないのだ。どうして、こんなに色をつかうの、こういう色づかいは街中にあまりないよな~、おもしれ~。なのだ。


「アートな若戸大橋の楽しみ方」だが、まえがき、能書きのようなものが長すぎた。今回で最後にしよう。
そもそも地元の人には「ポンポン船」と時代がかった呼び方で親しまれている、若戸の渡船だが、まったく装飾性イベント性のない生活の実用である。100円払って、これに乗れば、にぎやかな街を埋めつくす文化的野望や芸術的野望から自由になれる。そこに自転車をかかえて乗っている人びとは、ワレワレのように写真を撮ることもなく、ただじっと船の外を眺めている。日常の中で、なにもせず、静かにじっと景色をながめる時間、これも「アート」に追い立てられるあわただしい生活が失ったことではないだろうか。



まだ北九州の話は終わってないのだが。きのう、故郷の南魚沼は六日町の万盛庵で中学同期有志の飲み会。前日クボシュンさんからも電話があった。やることあるし疲れている感じだし、日帰りしようかどうしようか決められないまま行く。長いトンネルをぬけると、魚沼コシヒカリのたんぼが、稲刈り間近という感じで色づいていた。そういえば、明日の日曜日は、高千代酒造の酒造用自家栽培米の稲刈りだそうだ。
六日町に着いたら、やっぱり飲んでから帰る元気がない。ホテル宮又に宿をとる。朝食付き4500円。宮又と万盛庵は1分ぐらいの距離だから、万盛庵で飲んで泊まるに絶好。大きなホテルなら部屋と食堂を行き来するようなもんだから、おれにとっては、万盛庵は宮又の「食堂部」のようなものでもある。それに宮又の、外観にも漂う、「質実」がいい。なにもかも過剰な時代に、温泉があればよいという感じの湯量だけは贅沢に流れっぱなしの風呂場もそうだけど、山奥の湯治場のような雰囲気と、これこそ「実質というサービスです」といった感じの、装飾やひとの演出や干渉が少ない「素なほったらかし」がいい。80歳代なかごろだろうニタリのばあさん女将が元気なのも、なにより。
17時半ごろから飲み始める。生ビール。朝から腹も空いていたので、ラーメンも頼む。すぐコバとイサオがあらわれる。考えたら、六日町は、きょねん11月12日の飲み会以来だ。今年は、高千代酒造の蔵開きやファンの集いにも都合が悪くて行けなかった。ひさしぶりの面々は、シュンスケ、トシミ、モリオが加わり、もちろんエッチャンも。
恋愛小説より恋愛が先にあった。だけど恋愛小説ができると、人びとは恋愛小説のような恋愛を願うようになった。さらに恋愛小説がゴキブリのように増えると、いったいどのゴキブリが正しくおいしいのかを論じる評論が盛んになり、人びとは評論にみちびかれ恋愛小説を選び、その恋愛小説のような恋愛を願うようになった。そのようにして、恋愛小説より先にあったはずの恋愛は忘れられ、メディアがふりまく恋愛小説や評論に恋愛がふりまわされることになった。いまや恋愛は、メディアのハウツーに導かれるほどになってしまった。いったい、あの「場所」にあるはずの、自分の肉体で感じるべき「恋」や「愛」は、どこへ行ってしまったのか。
というたとえを出して、これは味覚についても、たいがいのことについて言えることなんだけど、もう一度、「場所」にかえる観光のススメが第二話なのだ。
もっとも存在の原初的なメディアである「場所」にかえろう。とくに活字メディアやテレビなどによって、脳に注入された諸々から自由になり「場所」にかえろう。若戸大橋の一部がある景色を眺めながらね。

戸畑駅のホームからは、街並みの中に若戸大橋が見える。やや高い位置のそこからは、見方によっては、大橋は街並みの上をまたいでいるようでもある。街並みの上をまたいでいるように見える橋というと、自動車道などの道路がフツウだとおもうが、そのほとんどどはつり橋ではない。だけど、大橋は洞海湾をまたぐつり橋であり、つり橋ならではの美しさがある。しかし、その美しい姿は、いくつかの建物にさえぎられ、部分しか見えない。そこがオモシロイとおもうのだが、全貌が見えない橋は、観光的あるいは芸術的な橋の景色としては失格なのか、写真や絵ではあまり見かけない。
おばさんの力強さに煽られ、キャベツがタップリ入ったチャンポンも食べ、たくましい男になった気分で八福を出た。大橋が見える。そのとき、大橋の骨太と、骨太に見える、その色が気になった。若戸大橋は、ちかごろ多い、白っぽい瀟洒なかんじすらするつり橋とは、ずいぶん趣がちがう。
まず色が赤茶色系、そうか、あれは労働者の赤銅色に日焼けした肉体の色かとおもう。その色と骨太な鉄骨は、鉄の街の象徴なのかも知れないが、洞海湾を臨んで、たくましく働き生きてきたひとたちの象徴なのかもしれない。この街の暮らしには、白っぽい瀟洒なかんじのつり橋より、この大橋の姿こそ美しい、それが日々の生きる力になる「アート」なのだろう。
北九州の報告じゃないが、きょう届いた2冊の雑誌は、いずれも大竹聡さんがらみなので、緊急宣伝させてもらう。どーせ季刊を謳いながら年刊の『酒とつまみ』11号。その大竹聡編集長は、ホッピーマラソンや酩酊マラソンをやっているだけじゃない。ナント、四国特集の『西の旅』19号(京阪神エルマガジン社)で、「遍路でさらば、煩悩よ」とありえない遍路さんをやっているのだ。
「市民プロデューサー講座」は北九州市の関連団体、ヒューマンメディア財団が主催している。仕組みの詳細は知らないが、『雲のうえ』を生んだプロデューサー中原蒼二さんが、コーディネーターのようなプロデューサーのようなことをしているらしい。
6日土曜日午後1時から、小倉駅北側のビルにあるヒューマンメディア財団の会議室で始まった。
小倉駅から電車で戸畑駅。戸畑駅から歩き始める。歩きの出発点になる戸畑駅の北側すぐには『雲のうえ』5号に登場の「まんなおし食堂」と「えだや食堂」がある。えだや食堂の女主人は、働きすぎではないかと心配だったが、やはり身体を壊されて引退、以前ここで働いていたおばさんが店を守っていた。渡船場へ向かう大通りを歩いて、蛭子神社、若戸の渡船場前を通り、海岸沿いに海岸食堂、若戸の渡船場にもどり渡船(渡船の料金は50円から100円になっていた)、洞海湾沿いに北へ小道を行く、小路に入り蛭子神社、小路を行き丸仁市場に裏側から入る、丸窓の天ぷら(すり身を揚げたもの)を買って食べる予定だったが着いたのが16時過ぎ売り切れ店じまい中、すきっ腹をかかえ明治町銀天街、料亭「金鍋」、山田食堂の前を通ってぎょうざの「鉄なべ」ここで食べかつ飲む。レトロ観光開発中の洞海湾沿いのバンドを歩き渡船で戸畑にもどる。角打ち田中酒店、高田酒店、「角打ちは街の学校だ」店主と楽しく会話しながら、得るものが多い。戸畑駅から小倉、打上げの居酒屋(名前忘れた)。途中から参加のひともあり、最後に駆けつけたひとは、この打上げ会場に午前1時ごろだった。プロデューサーというのは、人脈や人間関係が大事だから飲み会参加だけでも大切なのだ。
講座は先週6日土曜日で、おれは5日金曜日の夜にホテルに入っていればよい日程だったのだけど、どうせいくなら途中下車やまわり道のクセで、4日の朝9時ごろウチを出た。ちかごろ滋賀県長浜の「まちづくり」のウワサを聞くので、どんなアンバイなのかと新幹線の米原で乗り換え長浜へ。なーるほど、小樽や門司が、いわゆる近代赤レンガ遺産を活用した「レトロ・テーマ・パーク化」としたら、こちらは、飛騨高山、ちかごろの京都・祇園、関東だと小規模ながら川越の小江戸といった、「何風」というべきか「木造土蔵風レトロ」とでもいうのか、そんなアンバイの古い街並みを生かした「テーマ・パーク化」が着々とすすんでいる。
翌日の仕事があるから、あまり飲みすぎるわけにはいかない。講座の事務局である、北九州市で最も忙しい女2人のうちの1人というウワサの吉武あゆみさんが夜10時になったら、ワレワレの飲みすぎをチェックする電話をかけてくるから、それで切り上げる。イチオウそういうことで始まった。
6日土曜日、明日から詳しく書く。泥酔記憶喪失の深酒にも関わらず、目覚めはよく、かなり歩き、そして深夜まで飲み、快調にすごした。
小倉駅に着いて、時刻表を調べる。藤田さんチに電話する。天気がいい朝に百姓のウチに、トツゼン電話して、「いまから行ってよいか」。新幹線岡山経由、瀬戸大橋線に乗り換え、伊予西条駅へ。13時半ごろ藤田家族宅に着く。畑を見せてもらう。藤田さんの「食と農」の仲間たちと一杯やって、西条に泊まることにして、駅にもどりホテルをとる。そして画像のように、川原で「いもたき」をやった。いやあ、西条市民、平日、月曜日の夜というのに、こんなアンバイに川原で、「いもたき」をやるのだ。いいねえ。そのことや西条の詳しいことは、後日書く。トツゼンの押しかけ訪問なのに、藤田さん、西条市のみなさん、お世話になりました、ありがとうございました。
(来週まで更新はありません)


















