「反グルメ論」続
われわれ反グルメ人間は食べ物になんの魔力も感じない。
とボブ・グリーンさんは述べたあと、こう続けている。
人間と食べ物の関係は車とガソリンの関係だと思っている。空になれば、最寄りのスタンドへ行って、補給する。そしてまた空になるまで走りつづけ、空になったら、ふたたび都合のいいスタンドへ行って満タンにする。一時間十分もかけてある特定のガソリンスタンドまで出かけていくようなことは断じてない。同じようにわれわれは、同じ時間をかけて特定のレストランまで出かけていくこともない。5ドル分のレギュラー・ガソリンを入れて送り出してさえくれれば、それで十分なのだ。
と、ここまで読むと、さすがファーストフーズの国の売れっ子コラムニストだと思わなくもないが、かれは「”世界一のピザ”を食べてみないか、と何人かの人間に誘われ」「なにを血迷ったのか」車で一時間十分走ってそこへ行ったすえに、食べたかったペパローニがメニューになかったという体験をしたあとだということを、考慮にいれなくてはならない。
それにカンジンなことは、やはり「5ドル分のレギュラー・ガソリン」にありつけなくてはならないのである。そのガソリンが、水でうすまっていてはいけない。ボブさんは、こういいたいだけなのだ。
誤解しないでほしい。もちろん食べ物は人の味覚を満足させることもできる。だがそれは、大騒ぎするほどのことではない。
と。
ほとんどの料理や食事というのは、つまり大衆食というのは、そういうものであるはずなのだ。であるがゆえに、1980年代からの「グルメ」という大衆文化は、文化というにはお粗末な、何軒食べたと数を誇り、そのために遠くまで旅をし、その愚劣をごまかすために、大げさな表現で「料理の魔力」について述べなくてはならなくなった。それはまた「フレーバー系」料理や食品を、きらびやかな色と言葉で装飾する時代に対応している。
「有名人ブランド」「有名店ブランド」のインスタントラーメンやレトルトカレーの登場は、その馬脚のあらわれともいえるだろう。しょせんインスタントでありレトルトであるものを「グルメ」な装いにして二百数十円で売るなんざ、水増しのガソリンと同じじゃないか。ボンカレーとチキンラーメンやチャルメラがあれば十分である。「グルメ」とは、そのていどのものだったのである。
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