生活と趣味
「生活料理」と「趣味料理」という言い方をしたが、「生活的味覚」と「趣味的味覚」ということもできる。また「生活的味覚」は「実質的味覚」ということにもなるだろう。
さらにまた民俗学者が好きな「ハレ」と「ケ」つまり「非日常」と「日常」という二元論にしたがえば、「ハレの味覚」「ケの味覚」ということになるだろう。
繰り返しになるが、このようにわけるべきだというのではない。わけられてきた断絶された二重構造の歴史がある、「趣味」が「実質」を峻別し見下し、日本料理史というと「実質」の存在を無視する状態が続いてきたところに「日本料理」の異常があるということなのである。で、これを日本料理として一つの体系にしなくてはならないというのが江原恵さんの「生活料理学」という名の「料理学」の発想だった。これが、これまでの整理ね。
で、同じような問題意識を持っていたかどうかわからないけど、「料理」という一つの尺度で合理的に料理を批評しようという人たちが、山本益博さんが「料理評論家」として登場する前後から活躍している。つまり玉村豊男さんと田中康夫さんだ。江原さんは、かつて「食べることが批評でなければならない」といったが、その意味では、このお2人さんは、食べることが批評であり、店とその料理に対する評価は、「こだわり」だの「職人魂」だの「妥協をゆるさない」といった神秘的なあいまいな観念的な言葉は用いず、合理的に食事や料理について批評している。
そしてそれを読んでいると、食事や料理はどうありたいか、どう楽しむべきかの主張が読み取れるのである。もちろん玉村さんと田中さんでは、表現はかなり違うが。かれらは、たとえば、何軒食べ歩いたなど自慢しない。あたりまえのことだが、批評においては、そんなことは問題にならない。
だいたい批評らしき分野で、関わった「件数」や、自分が料理もつくれることを、権威のごとく自慢するなんてグルメの世界ぐらいなものだろう。「おまえはこれだけ食べ歩いたか、歩いてないのにツベコベいうな」「おまえは、これを作れるか、つくれないのにツベコベいうな」という態度であり経験主義であり、批評に必要な合理的精神や論理は存在しない。そして、そういう人たちのいうことに感心しているひとは、玉村さんや田中さんの「グルメ本」をあまり読んでない、という傾向もあるように思う。
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