昼飯
真っ当といえば、かつては全国民的に3食を真っ当に食べていた時代があったと思う。いまは、全国民的に真っ当な食事というと昼飯ぐらいだろう。ほかは成り行きまかせ。
で、その昼飯だが、真っ当に食べているうちの多く、ガキは給食であり、仕事しているひとは外食か中食というものだ。つまり、自家製弁当はかなり少ないと思う。おれの場合でも、30歳というと1973年だが、そのころを前後して弁当を持たなくなった。それまでは弁当が普通だった。そしてまだ給食が普及しないうちに中学を卒業したから、テスト的なそれを小学校のとき数回食べた記憶があるだけだ。
最近2回ほど中学校で給食を食べる機会があり、どうも考えてみると給食というのは、おかしな制度だと思った。まずいうまいではなくて、その時間になると機械的に、何百人が同じ時間に同じものを食べる状態になるということについてだ。まったく本人の意思が介在することなく昼飯を食べるのである。あなた任せだ。どうも不気味な景色である。
真っ当な昼食のなかに、そういう人間が、ガキであるが、たくさんいる状態は、真っ当なのだろうか。給食の子供は自分の意思で真っ当なめしを食べる人間に育つだろうか。めしを食べる意思は、生きる意志でもある。そのはたらきが、わずかに残った真っ当な昼飯の場にない。昼飯以外は成り行きまかせになっている状態を考えると疑問がわく。
私立学校の場合は給食がないから親がつくる。自分もかつては、いちおう子育てをやったことがあり、共働き状態のなかで子供に弁当を持たせ、親も持って行った。
一見、いちばん真っ当に食べているようにみえる昼飯のなかにも、かなり真っ当でない状態がある。真っ当にめしを食べることもできないで、何事かなしたとしても、それは一方で異常をしているのだから、とくに偉そうにできることではない。めしを真っ当に食べて、物事をなしてこそ普通の人間としての意味がある。日本は真っ当なめしを犠牲にして、その犠牲を子供にまで押し付け、先進国グルメ顔している、どこかゆがんだ精神の漂うところである。と、思うのだった。そういえば、おれもおかしいな。
| 固定リンク | 0
この記事へのコメントは終了しました。
コメント