再び「割烹」といふこと
7日の夜、チェーン店の居酒屋に入った。客席から厨房のほうを見ると、疑う余地のない板前な姿がいた。「板前」とは「日本料理人」のことだね。居酒屋チェーンでも修業をつんだ板前がいるところがある、そういう店だった。
付き出しにイモの煮物。まさに「日本料理」だった。サトイモの小イモだが、六角切りという処理で皮をむき、かつ台形に整えるために、頭をスパッと切り落として。それが、内容物に対して大きすぎるぐらいの器に、ちょこんときちんと並べて盛って。
割烹つまり「割主烹従」は、4日の日記で「これは材料を切り割いてそのまま食べる生ものの料理が主で、煮たり焼いたりするといった火を使う料理は従であるという考え方です」という某氏の説明を引用したが、これだけでは正確でない。この小イモ料理のように、庖丁の跡を残すように「飾り切り」をし、その庖丁の跡を崩さないように煮る、というのもまた「割主烹従」の考えなのだ。
このイモ煮が「家庭料理」の「おかず」ではなく「日本料理」であるのは、その切り方と煮方の違いである。
しかし、そのイモは、とてもマズかった。安いチェーン店だから材料は知れている。それを、どう飾って切っても、また切り口が残るように関西風のうす味で煮たところで、味がよくなるわけではない。おれなら、普通にサッとむいて、濃い味つけで煮てしまうものだね、これは、と思った。
もちろん商売では、飾り切りで客を楽しませるのは、「仕事」のうちだろう。それが唯一「日本料理」であり、家庭料理は、それを見習うべきだということになると、はなしが違う。それに、材料のよしあしに関わらず、そのカタチさえ整っていればよしとする「日本料理」の割主烹従の考えは説得力がない。にもかかわらず、そういう料理が「本当」の「日本料理」であり、また「西洋料理」などにしても、レストランあたりで食べる「プロの料理」が「本物」の料理とされてきたのは、どうしたわけなのだろうか。
一方、料理人たちがふんぞりかえり、その代弁者のごときグルメ系情報がのさばるだけじゃなくて、日常の食事は、ただの「おかず」と思い込み、プロの料理人の料理や技法や話を本当の料理と信じ疑いをはさまなくなったフツウのひとが、家庭でいくら料理をつくっていても「素人」あつかいという状態になれきったフツウのひとが、少なくない。その状況は、だいぶ昔からのことなのだ。
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