料理批評といふこと
田中康夫さんが出てきたついでに。彼は料理店にかぎらず、自分の批評の態度あるいは方法などについて随処で述べているが、一番まとまっているのは『いまどき真っ当な料理店』だと思う。96年に刊行され97年に改訂版が文庫本になっている。文庫本は斉藤美奈子さんの解説で一層おもしろくわかりやすい。
『いまどき…』には「定食屋」の項があって「吉野家新宿一丁目店」が登場する。そこで田中さんは述べる。「批評とは、相対主義に基づく代物であるべき」だと。ま、絶対の尺度はない、つねに思考しなくてはならない、有名だろうと一流だろうと老舗だろうと、思考停止状態なら評価すべきじゃない。
そして、それを評価する自分自身も相対化されなくてはならない。いまの自分の尺度は、というのは、過去の自分ということになるが、絶対ではない。吉野家というきわめて日常的な店だって、行きつけないものにとっては非日常の場である。いつ、どう食べるか、そういうことをつねに考えろ、と言う。
非日常も日常も絶対ではない。だからこう言う「牛丼も朝定食も、例えば夜遊びの後に女性と連れ立って訪れなさい」つねに、時と場合を考えなくてはならないし、すべては時間と空間のなかで相対化される、そのことに注意を払い思考せよ、という趣旨のことを田中さんは何度もくりかえす。
ついでに、この新宿一丁目店に、おれはよく行っていた時期がある。深夜まで仕事をやり、明け方、そこで牛皿とビールをやるのである。それは、女性をともなっていなくても、非日常的な気分になれた。そのように時と空間は相対的なものであり、味覚もそこに存在する。
「とまれ、実践しながら思考し続ける食べ手たらんと心掛けなさい。料理の知識を修得することばかりに長けた口説の徒とも、訪れた料理店の数ばかりを誇る厭味な奴とも違う真っ当な食べ手へと近づかれんことを」
田中さんの料理店評価は直接的には、作り手、売り手(供し手)、食べ手、そして自分との関係で相対化される。つねに「自分」というものは環境のなかで相対化される。絶対的な尺度はない。「願わくは、このガイドブックをあなた方の知識、あなた方の評価を相対化するための一助としてお使い戴けます様に」
だから、このひとの本を読むときは油断できない。思考の停止が許されないのだ。批評とは、「真っ当」を考えることなのである。はたして、おれは、真っ当か?
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