「不潔恐怖症」
資料を整理していたら、面白いものが出てきた。2000年9月3日毎日新聞「時代の風」で養老孟司さんの話。見出しは「清潔行過ぎた日本人」「『きたないもの』扱い忘れ」
「売り物のサンドイッチにハエだかカだかが入っていたという苦情があり、製造元が商品を回収したという。雪印問題の続きみたいなものである」「私は、口に入るものにあまり神経質になっても意味がない、という意見である」「いまの人はどうして食べ物に異物が入るのを、極端に嫌うのだろうか。こちらのほうがよほど面白い現象である」
「消化管は体の外であって、内部ではない。だからカイチュウがすんでいたり、さまざまな細菌類が常時滞在している。O157も毒素を出す一部の大腸菌で、大腸菌といえばだれの腸にもいるはずである。昔風にいうなら、そんなもので中毒するようでは、ある意味では体が使いものにならなくなっているということであろう」「私は人糞で育った年代だからそんなものは怖くない」
「清潔好きそれ自体は、べつに悪いことではない。しかしそれが行過ぎると、妙なことになる」「私個人の基準からすれば現代日本人はほとんどが不潔恐怖症である」「きれいきたないはじつは主観の問題である。はっきりした客観的根拠がないから、それが社会問題を起こす。日本人の清潔好きは、人糞肥料にも見られるように、きたないものを上手に取り扱うという本来の原理があって、そこから生じていると思う」
もちろんおれも人糞世代。市場流通の面からみると60年代ぐらいを通して、人糞肥料食品は、ほとんどといってよいぐらい姿を消す。かつて八百屋の店頭には大きな太文字で「清浄野菜」と書かれた看板が見られた。「清浄野菜」とは人糞を使わない野菜のことである。最初はレタス、セロリーなどの「新洋菜」のことだったようだが、なんでものことになり、みごとに虫も味もない野菜が普通になる。
そのこと、そしてそういうものを歓迎するココロあるいは主観が、味覚に影響をおよぼさないということはないと思う。ましてやアジノモトが、さらにその均質的無菌状態を維持するのに機能していたともいえるぐらいなのだから。つまり、猥雑な食堂や猥雑な味を嫌い、スッキリしたキレイで上品な店や味を好み、おれのような男を下品というのである。クソッタレ!
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