2003/03/31
ま、とにかく古い話だよ。奈良時代その前の飛鳥時代もそうだったと思われるが、天皇家の飲食を担当する職掌「内膳司(ないぜんつかさ)」があった。それは役所の部署みたいなものだから長官や副長官がいるね。ついでに、内膳司は「天皇家」の飲食担当で、「朝廷」つまり大和の国の役所のほうには別に「大膳司(だいぜんつかさ)」があって飲食を所轄し、朝廷につめる人たちの昼飯をつくったり朝廷主催の儀式宴会を担当した。余談だけど、そのころの朝廷の昼飯は給食で、ハシとスプーンでめしをくっていたらしい。
ところが、その「内膳司の構成は、長官である奉膳(ぶぜん)が二人、判官である典膳が六人となっていて、律令制下の官司構成のなかではまったく異例」だったんだな。それは律令制前から天皇の飲食担当を高橋氏と安曇氏の両者がやってきたのを、そのまま組み入れたからだと推測されているが、とにかくそれで、律令制になってからも両家のあいだに対立抗争が絶えなかったのだね。で、ついに対立抗争が頂点に達したと思われる、792年(延暦11年、桓武天皇の時代、平安遷都の直前ごろ)ついに安曇氏が失脚し、内膳司の長官は高橋氏が独占することになった。そのジケンで、イワカムツカリノミコトが「料理人の祖神」になることが決定的になったんだね、なぜかというと……。
ってことで今日は忙しいから、これで
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2003/03/30
2003/03/29
「庖丁一本さらしに巻いて……」と歌にもあるが、刃物とストイックでナルシックな日本の男といえば、武士と料理人が代表的な存在だと思うね。武士はいなくなったのに、料理人は「料理道」だの「庖丁道」だのと。彼らはナゼかくも刃物に魅せられてしまったのか、その切れ味にウットリしたり、ドスをさらしにブチこむやくざ渡世人の気分で「庖丁一本さらしに巻いて……」とくらあ、カワイイというかオモシロイというかの現象だ。ナゼだ。
以前にも引用した『小説 料理の鉄人4』(小山薫堂著、扶桑社)の一場面。
「さて、どうや」
道場には、神棚があった。そして、床の間に「盤鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)」と書かれた掛け軸が吊るしてあった。それは、千数百年の歴史をもつ庖丁人という職種の、主護神(原文ママ)でもあった。
さて、どうや、といったのは、床の間を背負って座る、一人の男であった。(略)
道場主、神田川俊郎である。
「主護神」とあるのは「守護神」の間違いかな? どちらにせよ、もったいぶった大げさな表現で、普通は「祖神」といわれる。昔の職業には、それぞれ職業の神様がいて、そうした「職業神」信仰の一つと思われるね。で、料理人の祖神が盤鹿六雁命(イワカムツカリノミコト)だ。かれを祭る神社があって、それが近頃は料理人・庖丁人の神様、つまり職業神から「料理の神様」「食の神様」と拡大解釈されている傾向があるのさ。伝統は古風を守るフリをしているが、後世の欲の深い人間が都合のよい解釈をくわえて改竄している証拠。
イワカムツカリノミコトが料理人の祖神になるにあたっては、そういった、じつに人間同士の生々しい闘争があって、この話はけっこう面白いよ。神様は人間がつくったのであって、それもじつにドロドロした成り立ちだ。ま、神様にはゼニや利権がからむからね、当然だろう。
前にチョット登場した児玉定子さんの『日本の食事様式 その伝統を見直す』。「景行天皇の五十三年、天皇の東国巡幸にお供をしたか膳夫(かしわで)の盤鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)が堅魚(かつお)と白蛤(うむき)のなますを差し上げたことが『日本書紀』に見え、この人物が日本料理の祖神とされ」とある。が、いつから「祖神とされ」たかが、とてもおもしろく、幸か不幸か、かれが祖神になるジケンは「第一級史料」とわれるもので残っているんだな。アリャ
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2003/03/28
プロとアマ、クロウトとシロウト。どの世界にも、この違いはあって、プロはソノ道に精通していて当然である。が、プロが上で、アマが下、ということではない。プロはプロであり、アマはアマなのだ。ところが、プロが上で、アマが下、ま、プロが正しくて、アマが間違っていて何か足りない、と、お互いに思い込んでいるところがある。
プロは正しいか? たとえば、ある魚市場つまり魚問屋のオヤジが、もっと家庭で魚を食べてもらおうと主婦を集めて、「魚料理」の講習会をやった。どういうものだったかというと、庖丁の研ぎ方と魚の下ろし方なのである。庖丁を研いで魚を下ろし、切れ身や刺し身にする。なるほど、その庖丁の研ぎ方も庖丁さばきもミゴト、さすがプロとしか言いようがない。しかし、そんなことして、それは見る分にはミゴトだけど、いまの家庭でそんなことをするだろうか、できるだろうか。しないし、できないから、そういう講習会があるのだと言われるかもしれないが、それはシロウト考えだろう。魚がさばけても家庭の台所のプロではないのだ。
魚をさばくには、それなりの大きさのシンクのついた台所が必要だ。大きなまないたをシンクの中において、水を随時ながしながらさばかなくてはならない。しかし、現実の台所のシンクは、普通は小さなアジやイワシやサンマをさばくぐらいが限界の大きさで、サバも大きめになるともうやりにくい。そのように台所の構造が変わっている。とうぜん庖丁も、魚庖丁や菜切り庖丁を揃えるなんてことはない。だけど、プロは必ずしも、そういう事情には精通しているとは限らない。それは、その道のプロというのは、専門化された分野のプロにすぎないのだから当然なのである。
ところがプロが上である。自分は正しい、アマは従うべきだ。という関係が続き、こういう事例の問題点は1970年代から「プロのあいだ」では指摘されているのに、なかなか改善されない。自分がやっていることをやってみせる、それでいいのだ、見て覚えろ、できないやつは根性が悪い、そういうことで、とにかく家庭の主婦は、どうしようもない怠け者のバカという関係が、プロとアマのあいだで繰り返されてきた。とりわけ、庖丁つかって魚がさばけないなんて「日本文化の堕落だ」ぐらいのことが言われてきた。そのことと、四條流のような料理流派の「思想」とは無縁ではない。オギョッ文字制限
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2003/03/27
もうアサヒグラフも四條流もアキたので、チト繰り返しになるけど、まとめをして次へと。
そのアサヒグラフの最初の見開き、大きな一枚写真の『四條家流庖丁書』の記事と写真解説はこうである。「四條中納言藤原朝臣山蔭が日本料理道、庖丁道の基礎を確立したとされるのは平安朝の初期であった。以来、四條司家は、千年以上にわたり、日本料理の粋を継承しつづけてきた。限りなく多様化する日本の食文化の精華がここにある」。そして写真解説は「『四條家流庖丁書』。日本料理の祖神、四條中納言藤原朝臣山蔭が庖丁儀式における鳥や魚のさばき方を解説した書」だ。これらを読めば、ま、この通りに普通の人は信じるだろう。その写真の『四條家流庖丁書』は四條中納言藤原朝臣山蔭が解説した書であり、四條流は平安初期から存在した。ということになる。
しかし、原田信男さんも指摘のように「藤原山蔭を、四條流の祖とする説に関しては、同時代の史料や信頼しうる所伝にはまったく登場せず、家伝にとどまっている」のであり「四條流庖丁書」も、平安時代どころか「室町時代まで遡ることは出来ない」のだ。「四條流という呼び方も」「おそらく中世後期に用いられるようになった、と考えるべきだろう」。ついでに繰り返しになるが、「中納言藤原朝臣山蔭」のうえに勝手に「四條」をつけたのは、後世の誰かの仕業で、その呼び方は日本料理関係者ぐらいにしか通用しないものだ。なぜそこまで飾りつけをしなくてはならないのか。また、「四條司家は、千年以上にわたり、日本料理の粋を継承しつづけてきた」というが、当主の隆彦さん自らが「四條家の人間が庖丁儀式を執り行うことが跡絶えていたのを、私が再興したのであり」といっているように、その実態は「精華」というには、他の伝統の分野と比べても、かなり雑な継承の感じは否めない。それをなぜ仰々しく「精華」としなくてはならないのか。あまりにも虚と実のあいだのギャップが激しすぎる。
料理流派が、ナンダロウアヤシゲと思われるワケは、そういうコジツケがまかり通っていることに対する疑念だろう。それは日本料理の歴史にとって不幸なことではないだろうかと思う。もうどの業界も業界内事情や体質では、やっていけない時代というのに。
そういう四條流や四條司家については、関係者におまかせして、そろそろ、「われわれの日本料理」に移ろう。文字制限だだだ
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2003/03/26
続き。ま、というわけで、「四條流」は必ずしも日本料理の主流というわけではないし、「四條流」だから「四條家」だか「四條司家」が特別な位置を占めていたという根拠はない。煩雑になるので詳しい説明はしないが「四條流の総本家は高橋家」という説もあったし、近年は石井家が四條流継承者として活躍した。そしていまや、四條流、進士流、生間(いかま)流、大草流、四條園部流、四條園流、四條真流、生心流……、どれだけあるのだろうか。かつて江原恵さんは『庖丁文化論』で「こころみに、そういう人たちに向かって、あなたの流派に何か独特の料理でもあるのか、……問うてみよう。しかし答えは何も返ってこない」と述べた。
が、これら料理流派は、原田信男さんの指摘に立ち返れば、「儀式料理」である。「権力者集団の食事」に関わることなのだ。で、そこで「本膳料理という優れた料理様式を成立せしめ」たし、それは「懐石料理のような単に楽しみを目的とした飲食とは異なり、基本的には大なり小なり儀礼のためのもので、伝統や吉凶を重視することから、実に細かな約束事が多いが、そこには逆に日本料理が、長い年月をかけて積み上げてきた知識や技術および価値観が、如実に反映されている。いわば歴史的格式が高いところから、懐石料理が発達した江戸時代においても、幕府や諸大名レベルでは、こうした作法にこだわる必要があった」
それが、武家屋敷や江戸城の奥だけのことで、近代に時代の変化に応じた発展をとげたのなら、それはフツウのことだからよい。しかし、アサヒグラフのように、そうではない。
ホテルの料理人の肩書に「ナントカ流師範」とついているとありがたがるひともいる。それよりなにより、それら流派が国家レベルのものであったがゆえに、その機構を通して、あるいは権威をもって普及し、知らずしらずのうちに人びとに滲みこんだ「食事観」や「味覚観」がある。そのワザワイが問題なのだ。
たとえば、先の原田さんは「懐石料理のような単に楽しみを目的とした飲食とは異なり」とサラリ言っているが、食事を楽しむ文化が育たなかったのは、それと関係するだろう。つい近年まで食事といえばお父さんは上座に座って、みんなで黙って食べるものだとシツケられた。また味覚における「素材主義」あるいはドコドコ産だからウマイとする「観念的味覚」など、いろいろなところにワル影響を残している。ドハッ文字制限
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2003/03/25
2003/03/24
そもそも「四條司家」のモトである「四條流」の登場のモトもはっきりしてない。アサヒグラフの最初の見開きにウヤウヤしく登場する『四條家流庖丁書』は、これまで一般には「家」のない『四條流庖丁書』だが、そして「四條流」が料理関係に現れるのは、この書においてなのだが、原田信男さんは「長亨三(一四八九)年に伝授された内容を記したもので、室町時代まで遡ることはできない」と指摘しているし、『日本料理史考』(柴田書店、1977年)の中澤正さんは、「この庖丁書の作者は四條某ではなく多治見備後守とある。たぶん門人の一人なのであろう」と推測する。
ナゼそれほど根拠のないものをウヤウヤしく飾り立てなくてはならないのか。まだある。アサヒグラフの次の見開き右ページ、例の家紋付き見出し「四條流庖丁式」で当主の庖丁儀式の写真があり、その説明には「平安初期、藤原山陰は光孝天皇から生類供養、悪霊払いのための式と作法をつくることを依頼され、神道、仏教、陰陽道などを取り入れてこの庖丁儀式を完成させた、といわれる」である。最後に「といわれる」とあるあたり、じつにズルイ。こういうズルイ飾りつけをしなくてははならない「四條流庖丁式」そして「四條司家」とはナンナノカ、と思わざるを得ない。
このことについて原田さんは「藤原山陰を、四條流の祖とする説に関しては、同時代の史料や信頼しうる所伝にはまったく登場せず、家伝にとどまっている」である。そして中澤正さんは「またこれまで、四條山陰が庖丁式の祖であるとか日本料理の祖であるということが、料理人やそれを生業とする者達のあいだで信じられてきた。けれどもよく調べてみると、山陰中納言が庖丁式をやったり、日本料理の祖であったとする確証はどこにもないし、四條(エンテツ注=この「四條」には丸印がふられ強調されている)山陰とする根拠もない」という。これは、それ以前に江原恵さんが『庖丁文化論』で指摘したことだが。「四條」はあとで誰かが載せたものなのだ。
が、だからといって「四條家」だか「四條司家」だかは「日本料理」とは無関係ということではない。問題は、ナゼそんなにゴテゴテした虚飾の権威がなければ「日本料理」ができないのかなのだ。そしてそのことは、80年代以後の「グルメ」にも、大いに関係すると思われるのですね。グルメも巻き込んだかたちで料理界には根深い権威主義がはびこっている。文字制限だ~
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2003/03/23
「本膳料理って、なに?……」と質問メールがあったが、まずは昨日の原田信男さんの続きから。
四條流の「日本料理」は「儀式料理」であると。それも「国家レベル」の儀式料理であり「すなわち権力者集団の食事が、どのような人々に任されていたのか、という問題から入る必要がある」ということで、まずは古代におけるそれを述べる。景行天皇の時代つまりヤマトタケルのオヤジだが生没不詳、その時代に、「魚介と膾(なます)・煮物・焼き物といった日本料理の基本パターンが成立していたことが分かる」「おそらく8~9世紀までには、今日の日本料理の原型が出来上がっていたものと思われる」
さて四條家がこだわる平安期は。「しかし平安貴族の大饗などで供される台盤料理は、膳を用いる日本料理のスタイルにはほど遠く」である「生ま物や干物・焼き物などを適当な大きさに切りそろえて皿に並べ、これらを四種器と呼ばれる四つの小皿に添えた調味料で、自分で味をつけて食べる、といった形が採られていた。それゆえ調理といっても、素材自体に複雑な味を加えて供するわけではなく、むしろ切りそろえて皿に据えるため、切り方が重視されることから、庖丁が料理の代名詞となった」「儀礼に用いられる台盤自体は中国からのものであったが、切り方を重視する台盤料理に、今日の刺身や剥き物といった伝統的な日本料理の萌芽が認められ、この頃から、いわゆる庖丁名人が登場するようになる」
「大饗」とは貴族たちの定例行事や任官昇進などの儀式宴会、「台盤」は横長の大きな縁のある台である、と理解しておこう。とにかく、この言い回しには、苦労がにじんでいる。要点はこうだ「8~9世紀までには、今日の日本料理の原型が出来上がっていたものと思われる」「しかし平安貴族の大饗などで供される台盤料理は、膳を用いる日本料理のスタイルにはほど遠く」「儀礼に用いられる台盤自体は中国からのものであったが、切り方を重視する台盤料理に、今日の刺身や剥き物といった伝統的な日本料理の萌芽が認められ」。つまり平安期の「伝統的な日本料理の萌芽」については「刺身や剥き物」以外はふれてないのだ。さきに、遠藤十士夫さんが「四條流の料理は、すでに平安時代にはこれ以上、付け加えることができないくらいに頂点を極めていました」と言い切ったのと比べると、ずいぶんトーンが違う。そのナゼは、ゲボッ、文字制限だああ
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2003/03/22
昨日の続きだが、児玉定子さんの『日本の食事様式 その伝統を見直す』は、伝統の日本料理に科学的根拠を与えようと苦心サンタンしているのだが、彼女の「日本料理」とは四條流の料理のほかなく、なかでも本膳料理なのである。懐石料理なんか含まれない。
児玉さんは「日本料理四條真流師範」だからね。四條真流というのは、「四條眞流儀式庖丁縁起」によれば、「戦後、四條流第九世石井康次郎翁、正式なる後任者を定めざるまゝ急逝。ために自称家元なる者続出し斯界に混乱を招く。直門に獅子倉(ししくら)祖(そ)憲(けん)師範あり、是れが恥辱の渦中にあるを好まず、昭和二十五年秋、祖神の真意を尊び敢然『四條真流』を創設す」とあるように、戦後の後継者問題を発端に新しくできたものだ。家元なるものが君臨している伝統業界には、よく見られるゴタゴタの果てらしい。と、ここにまた「四條流第九世石井康次郎翁」なるものが出てきて、これはなんじゃ?と思いたくなる人もいるだろう。
とにかく、一昨日かな?書いたように、アサヒグラフの堂々25ページの巻頭カラー特集「四條司家 日本料理道・庖丁道の精華」は、まったく内容がなく仰々しい見出しに裏切られた思いで、最後の見開きを開けると原田信男さんの、「四條流が料理史に果たした役割」である。
原田さんは、「懐石料理に代表されるような日本料理は、見た目にも美しく盛り付けにも工夫が凝らされているが」と書き出す。先の児玉さんとは違う、原田さんは四條流のひとではない。「札幌大学女子短期大学部教授。日本中・近世の村落史・生活史」という方だ。
「いわゆる日本料理がいつ成立したのか、というのはかなり厄介な問題で、何を日本料理と定義するかによっても大きく異なる」このへん、じつに、やっかいで腐心して書いておられるようだ。フツウのひとは毎日食事をしながらどう思っているか知らんが、「日本料理」となると、いちいちこういう注釈をつけなくては始まらない状態がある。ま、文明的な統一国家ではマレなことだろうと思うが、苦労して原田さんは書き出している。「料理流派という観点からすれば、これは明らかに儀式料理にかかわるもので、まずは国家レベルで用いられる料理の性格が問われることになろう」ここに「儀式料理」なる言葉が登場する。ダア、文字制限ダア~続く。こんなの読みたい人いるんかねえ、ま、とにかく書くけどね。
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2003/03/21
サテ、それで「四條流が料理史に果たした役割」である。ま、別に論文を書いているわけじゃないが、ここからが本論の核心部なのだ。
たとえば児玉定子さんの『日本の食事様式 その伝統を見直す』(中公新書)がある。「その伝統を見直す」というのはサブタイトルなのだが、わが日本においてはこういう議論が「好き」としかいいようがないほど好きで、とくに食系では目だっている。なにかというと、すぐ「伝統」が問題になり、伝統でないものは「伝来」という単純化された思考のもとに、それだけでは割り切れないものとして近代、「和洋折衷」があり、それは「和魂洋才」なのである。ま、たいがいの日本の料理の歴史は、よく見られる「カレーライスの歴史雑談」のように、「伝統」と「伝来」と「和洋折衷」という言葉で整理がついてしまうのだ。そして、それは決まって「起源説」、ルーツの話になる。日本の「歴史」も「紀元節」が問題になるのと似ている。けっして、歴史や民衆のダイナミズムは問題にならないという際立った特徴がある。
その何故かは別にして、はやい話、われわれの日常のメシとミソシルとオカズという食事様式についても、それを歴史のなかで把握するより、これは伝統じゃ!ということで、そのルーツはどこか、それは四條流の本膳料理だよん、だから四條流はエライんだよん、民衆の食事なんか粗悪すぎて問題にならんのさ。テナ、考えが根強い。まるで四條流がなかったら、これはなかったといわんばかり。今日のメシを主食とする、全世界にこれ以上のスグレモノはない毛沢東さま金日セイ(すまん、セイの漢字を忘れてしまった)さまブッシュさまより独裁が許される敬愛すべきスグレモノである。それを捨てて洋食や中華に走るとはナニゴトか!というヨウナ主張は根強い。ついでにいえば、懐石料理の流派は、四條流などじゃなくてウチから日本のメシの伝統が始まったと言い張っていましたな。
おれもメシにはこだわりがあるが、左様な考えは、まったく妥当性がなく、そのような考えでエラソウにやってきたから、日本料理は崩壊したのだと思うのだが。とにかく、その児玉定子さんは、1913年生まれで、日本料理四條真流師範という例によってイカメシイ肩書を持ちながら、家政学会の重鎮として活躍され、伝統的な料理流派のなかでは、広い視野を持った「理論派」と評価していいのではないか……、グエッ、文字制限だぁあ~
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2003/03/20
さて、41代当主は、「私は日本料理業界並びに伝統文化のより一層の発展に寄与するために日本料理文化財団の設立に日夜奮闘しております。それが父の望んでいた考えであります。」と話を終える。ここで、この父子の考える「日本料理」とは何か、と思わざるを得ない。そして、それは、「平安時代でこれ以上、付け加えることができないくらいに頂点を極めていた」四條流を崇め奉る「宗教」なのね、ああそうか、それならわかる、と思い至る。
当主は料理をしない語らないでも、四條流を象徴する家紋入りの庖丁を持って庖丁儀式を執り行えば、それがいわば四條流の「神事」であり、当主は神事を司る神主の役割が果たせるのだし、事実、当主はそういう神事にしか関心がないようである。そしてそれを「ハハァー」「へへェー」とありがたがることで成り立つのが「日本料理」なのだ。アサヒグラフは、そのことを伝えたかったのだろう。と解釈できる。
で、その次の見開きを開くと、その解釈に確信をもつのである。つまり、右側に大きい一枚写真、「四條流の祖とされる四條中納言藤原朝臣山陰卿」の古めかしい坐像が、ドーンと。そして左が、これまた一枚写真で、むむむむ、これが、「38代、隆英(1876~1936)。農商務次官、貴族院議員なども歴任した」と説明のスゴイ写真なのだ。つまり、百人一首などにある平安時代の公家のサムライの正装を御存知だろうか、あの姿の隆英さんである。なぜ38代が登場するのかも唐突なのだが、その恰好は、もっと唐突で、こりゃ、これが日本料理とどういう関係なのか、厨房で庖丁を握っている写真はないのか、どんな料理をつくっていたんだ、と思いたくなるのだが、その姿が平安貴族風だというところで、宗教活動として理解すれば納得できるのだ。
こうして、日本料理道や庖丁道は宗教であるがゆえに、その「精華」は神秘的なベールに覆われたまま、チンプンカンプンで、おわる。
いや、おわらないのだ。最後の見開きに、「四條流が料理史に果たした役割」という一文がある。これを書いているのは原田信男さんで、『木の実とハンバーガー』など、まっとうな日本料理史の本が少ない中で比較的まっとうに料理史を書いているひとである。これは面白い配置だ。ま、そういうことで、こういう平和な料理の神様と比べたら、はるかにタチの悪い厄病神のようなブッシュが戦争を始めるらしいから、文字制限だ~
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2003/03/19
えーそれで、つづきですよ。家紋入り見出し「四條司家当主 四條隆彦(1953~)」が語る、日本料理の精華ではなくて、「四條家に生まれ育って」である。
この見開きには、一昨日も紹介したような半ページサイズの、四條司家と皇族との過去になった古い関係を示す写真のほかは、当主の写真そして小さい写真が3点。一つは、当主が明治神宮神楽殿で「庖丁初め俎開き」で、またもや庖丁儀式の写真。それから、東京・霞会館で「四條司家の料理道・庖丁道を一般に人びとに講義する」写真。といっても、これが、いかにも「よそいき」な着物姿のご婦人(そのへんの一般婦人にはゼッタイ見えない)、それもたった4人に囲まれた当主である。そして、もう一枚は、本文に関係がある。しかも、これは、おおいに日本料理と関係がある。
本文に、こうある。「四條司家では毎年四條祭・顕彰授与式を執り行っていますが、これは日本料理の調理師で、料理道・庖丁道への精進、食文化の発展に寄与された方を顕彰するとともに調理師の地位向上を考えた制度であります。第一回には宮様にもご臨席を賜わりまして父も大変喜んでおりました。」という東京・霞会館での、顕彰授与式の写真なのだ。その中央には、当主だけが、またもや、いつも同じ平安貴族風の姿で、その両脇にメダルをぶらさげた、たぶん顕彰を受けた方々であろう、背広姿の男たち。
ところで、ここで、当主は、こうもいっているのだ。「四條家の人間が庖丁儀式を執り行うことが跡絶えていたのを、わたしが再興したのであり」と。な、なんと、これはどういうことなのだ、続いていたのではないのか。しかし、ずいぶん、この伝統は、雑なのだなあ、と思わざるを得ないだろう。
そして、そういう「四條司家」の人が、いとも簡単に日本料理界の調理師を顕彰する立場になれるという事実に驚くばかりである。
であるからか、当主の料理の話は、ほとんどない。そして彼は自宅の敷地内に、「四條神社を自身で建立してしまったのです」とこともなげにいう。そして通信教育で神職の資格をとったのである。このへん、日本料理についても、神道なる伝統についても、どう考えているのか、まったくわからん。ああ、これ「日本料理の精華」かあああ、編集者は、どういうコンタンなのだ。しかし、あの株式公開のフランス料理シェフ平松さんとは、ずいぶん違うではないか。って、ことで、文字制限ですね。
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2003/03/18
2003/03/17
「頂点を極めていた公家の料理」という見出しの遠藤十士夫さんの話の「公家の料理」とは平安時代のことである。そのことだけ記憶して、次へいこう。ま、ほかに内容がないのだし。さあ、次の見開きを開くと、いよいよ41代当主、四條隆彦さんの登場だ。ここまでは露払いのようなものだったのだ、さあ、四條司家の料理を、「日本料理の精華」を当主自らが語ってくれるのだ。なにしろ「日本料理」千年の歴史を背負っているのですからな。
と、このまたもや家紋入りの見開きは、「四條家に生まれ育って」であり、ほとんど料理の話はないのだ。元皇族とのつきあい、兄2人は学習院だったが自分は受験に落ちて別の私学へ行った、そしてビートルズと出あって音楽にのめりこみプロのミュージシャンをめざし、20代半ばまでプロのドラマーとしてレコードも何枚か出したが、ある日父からの一言で、その道を断ち「四條流庖丁儀式」を継ぐことになった。その理由は料理に才能があったからではなく、兄たちはサラーリマンになっていて継ぐのは無理だから、「いま一番自由であるのはお前だから修業して跡を継げ」というものだった。ま、それで、彼は修業して「やはり自分の中に流れている四條家の血というものを感じました。公家から始まった伝統文化を公家の家の自分が守り、また、公家の優雅さ、雅を醸し出さなければならない、と自然にそれらを身につけるようになったのです」
そして、この見開きの4分の1を占めるセピアな写真は、「1960年(昭和35)年ごろ、皇太子と美智子妃を祝うご親戚の会で……」という、つまり美智子妃、皇后と、隆彦さんや家族が一緒に写っているものなのだ。本文には「母は、三條西家の出で、私にとって母方の祖母は今の皇太后陛下の妹、久邇宮信子であったので、母は今上陛下とはいとこにあたり、私が幼少の頃には父がいろいろとプロデュースをして、両陛下や皇族、元皇族、縁戚の方々などが集まる会を開催していましたし、私も出席しておりました。」
こういう話と写真が延々、誌面を埋めるのだ。こうなると、編集の能力を疑いたくなる。真面目に日本料理道や庖丁道の精華を伝える気があるのか。と、思いたくなるのだが、いやまて、この編集は、「精華」の無内容の現実、天皇家の権威のまわりでうごめく四條流「日本料理」の現実を、こういう手法で伝えたかったのかも知れないなあ……、あれっ、文字制限だぁぁぁぁぁぁ
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2003/03/16
とにかく「日本料理」というのは謎に包まれている。多くの人びとの日常とは、あまり縁のない「高級」な料理屋料理のことだが。ベールのむこうの御神体みたいなもので、本来身近なはずの「日本料理」は、じつはよくわからない、「四條流」すら知らなかった、考えてみたこともないという人が、けっこう多いのである。ま、そういうことで、遠藤十士夫さん。この方は、ウエブで検索してみると「宮内庁御用達萬屋調理師会 会長」「国家検定技能評価試験委員 副首席」「日本料理研究会 師範」「四條司家最高勲位料理指南役」という肩書の方である、どうですスゴイでしょう。そうイカメシイ肩書じゃなくて、普通の表現の肩書が考えられないのか、なんて思ってはいけない。これが伝統というものなのだ。遠藤十士夫さんの責任ではない。日本料理界というのは、そういうところだと思えばよいのです。
とにかく「四條司家最高勲位料理指南役」が登場した。復習すると、表紙、扉、そして、8見開き目である。このページにも、再現料理が2点と3点一組ある。そして、やっと「日本料理の精華」について、写真は撮り方がヘタだったのか印刷が悪いのか、とても「精華」とは思えなかったが、お話がきけるのだ。遠藤十士夫さん、この時点では、単に「四條司家料理指南役」で「最高勲位」はついてない。だけど偉いのだ。彼は言う。
「四條流の料理は、すでに平安時代でこれ以上、付け加えることができないくらいに頂点を極めていました。現在の料理界で、私たちがあらためて発見したりする技術はもうないと言ってもいいほどで、いまは平安期の技術をアレンジしているだけです」「味つけも実にすぐれていたと思います。水も素材もすばらしくおいしかったでしょう。コメも野菜も当然完全無農薬ですし、かなり美味だったはず」「栄養の面でも大変にバランスがとれていた」
であるから、再現料理でよかったのだ。もう平安時代に、日本料理は完全に完成していた、その写真だったらしい。
いつも思うのだが、平安時代という歴史の世界でもわからないことが多い時代を、そのころまるで生きていたかのように簡単に語るひとが、料理の世界には少なくない。ま、でも、そうなのだそうです。たとえば、いまのコメ、みなさんが喜ぶようなコシヒカリよりうまいコメが平安時代にはあった。そういうことにして、話をすすめよう。
がああああ、文字制限じゃあああああ
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2003/03/15
とことん四條司家だが、他意はない。「日本料理道 庖丁道の精華」を知りたいだけなのだ。しかし、家紋入り庖丁刀の写真や、平安時代かなにかの貴族らしい恰好をしてコイを切ってる写真みせられても、刀鍛冶や試し切りに類するものではないか。それが「日本料理の型」だとしても、まったく中味がない。剣道の型や舞や能の表現の話のたぐいのことでもあればまだわかるが、そうでもない。では、一体なんなのか。これが料理界に君臨してきた四條司家なのかと、考えざるを得ないのだ。
ともかく昨日の続き。アサヒグラフの紙面を測ってみた。ヨコ232ミリ、タテ297ミリ。表紙、扉、第一見開き、第二見開き、そして昨日はすでに第三見開き、見出しは「談山神社と嘉吉祭」の途中だった。その細工工作のような神饌の大きな写真と、昨日は説明できなかったが、あと小さな写真2点。それぞれの写真説明は「神饌は、村人たちなどの間で手渡されながら神殿に祭られる」「本殿の西に桧皮葺き朱塗りの十三重の塔がある(16世紀の建立)」それだけだ。
そして第四見開き。やあ、やっと出てきました、見開き一杯の料理写真。見出しは、またもや家紋入りで「四條流本膳料理」である。おやあ、なんだか「四條流」と「四條家流」が使いわけられているようだなあ。ま、いいだろう。この料理写真は「帝や公家が五節句に食した料理を再現した」、なんと、再現料理なのだ。といっても、いつの時代かはわからない。とにかく、そう書いてあるだけなのね。お膳に7品のって「5月の一の膳」だそうだが。なんだか最初から虚仮おどしのような連続で、まじめに「日本料理道 庖丁道の精華」を知りたいおれは、やになっちゃうねなのだ。つぎへいこうと、開く。。
ぎゃあああああ、すごっ。見開き一杯の大写真に、写っているのは一品だけ。ド、アップ。つまり実物よりはるかにデカイのだよ。「3月の椀盛。蛤、車海老、たこ、梅にく、芹、うど」だってさ。これのどこに精華を見ろというのかね。ああ、もう次、同じように再現料理の写真3点、つぎの見開きも、同じように再現料理の写真1点。はい、つぎ。
おっ、やっと真打登場か。おおっ、有名人の遠藤十士夫さんじゃないか。おれの親戚じゃないよ。知る人ぞ知る、青山クラブの遠藤十士夫さんだ、肩書は青山クラブじゃなくて「四條司家料理指南役」とある。ふーむ。
だあああ、文字制限だあ~
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2003/03/14
昨日の続き。ヘンなことはあとで考えよう。次の見開きを開ける。まだ料理は登場しない。右ページは「四條流庖丁儀式」の見出しで、なんと、見出しの上にも家紋がある。家紋入り見出し!写真は当主が庖丁儀式をやっている6枚。そして見開き左ページの見出しは「四條家流庖丁書」とあって、この記事の流れからいえば、山陰が書いたか監修したかのはずの、コイやキジの切り方の図が5枚、最後に当主が実際にコイを切ってまな板の上に飾った写真である。表紙を含めれば6ページ目だが、まだ料理の写真も図もない。いったい「日本料理道の精華」とは何なのか、つぎを開こう。
ぎゃあああ、もう驚いた。これが「日本料理道の精華」なのか。見開きの見出し、右ページに「談山神社と嘉吉祭」じゃ。これが「日本料理」と、どういう関係なのだ、はやく料理を出せ!料理が勝負じゃないのか!といいたくなるが、ま、はやまってはいけない。まずは「談山神社と嘉吉祭」の見出しの横についている文を読もう。「談山神社(奈良県桜井市多武峰)、四條流の祖、魚名の曽祖父であった藤原鎌足を祭っている。毎年十月の第二日曜に開かれる嘉吉祭は、嘉吉元(1441)年に鎌足の御神像が神社に戻ってきたのを村人たちが祝ったのが始まりとされる。」とある。
これは、なんじゃ、と思う。鎌足を出して、どうしようというのか。この見開きを見ただけでは、さっぱりわからん。左ページは、そっくり写真、その説明が「拝殿に飾られた神饌。神饌には35種類ほどがある」と。だけど、その写真にある、ようするに、ナスに割り箸をさしたりして動物の形をした供えものをつくりますわな、あれと変わることない、少し手の込んだ、素材を使った飾り細工のようなものが、祭壇らしきに並んでいるのである。これが「日本料理の精華」なのだろうか。
わからんなの気持。だってね、その右ページ、見出しの横には、大きな写真があって、それが左ページの祭壇らしきにある一つの大写しで、なんとも奇妙な。写真説明にはこうある。「神饌のひとつ。籾のついた穂で作った荒稲御供(あらしねごく)と平均2347粒の米を円筒の和紙に張りつけて作る和稲御供(にぎしごく)。米は彩色され、さまざまな模様や文字が描かれる。」なのだ。これはもう工作ですよ。と、そこで、そういえば日本料理って……
ああ、文字制限だあああ~。まだまだおどろく事態は、これからだ。
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2003/03/13
以前ちょっとふれたまま、ほっておいた。『アサヒグラフ』の、99年2月26日号「四條司家」の記事である。
まず表紙。紙面一杯にドーン、41代目当主の四條隆彦さんの「庖丁式」の写真。まな板を前に、衣冠束帯の当主が右立ちひざで、右手に「庖丁」ではなく「庖丁刀」と呼ぶものをかざし、左手に「真魚箸(まなばし)」なるを持ち、顔はジッと庖丁に見入っている。その左側、「アサヒグラフ」のタイトル文字の四倍はあろうかという大文字で「四條司家」、その下、やや小さく「日本料理道 庖丁道の精華」とある。
じつに、その当主の容姿といい、まな板の上に切られて転がっているコイも含め、一片の美的センスも感じられない、洗練とはほど遠いグロテスクな写真。
そして表紙をあけた本文扉が、また一面写真、「庖丁刀」の大写し。見出しは、またもや「四條司家」そして「日本料理道・庖丁道の精華」。小さな写真説明に「庖丁儀式に使われる庖丁刀。鞘に四條司家の家紋がある」。いやあ料理も登場しないうちに、いきなり「家紋」様の登場ですか。それに、この庖丁刀、いかにも家伝の古いものらしいが、説明はない。それもそうなのである、じつは、新しくつくったと思われるものなのである。そのことはヨシとしよう、わざと古い格式ありげな演出のために、この家紋入りの庖丁刀を使っているとは、いわないことにしょう。
その扉をあける。するとドドーン見開きで「四條家流庖丁書」を開いた写真なのだ。右肩の記事に「四條中納言藤原朝臣山陰が/日本料理道、庖丁道の基礎を確立したとされるのは平安初期であった。/以来、四條司家は、/千年以上にわたり、日本料理の粋を継承しつづけてきた。/限りなく多様化する日本の食文化の精華がここにある」と。そして、これは写真説明になるだろう、左下に、「『四條家流庖丁書』日本料理の祖人、四條中納言藤原朝臣山陰が庖丁儀式における鳥や魚のさばき方などを解説した書」とある。
そのまま素直に見れば、この写真は「四條中納言藤原朝臣山陰が庖丁儀式における鳥や魚のさばき方などを解説した書」と思われるだろう。しかし山陰は、そのような書は残していないはずだ。それに、ちょっと知っているひとなら、これまでは「四條”家”流包丁書」ではなくて「四條流庖丁書」だったと気づくはずだ。だけど、この写真は「四條”家”流」なのである。うーむ。
と、ちょうど文字制限となりました~
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2003/03/12
昨日「あまり酒系の話をするつもりはない」と書いたのは、酒は嗜好品だからで、これで味覚を論じても嗜好品の味覚のことで、メシの味覚とは違うと思うからだ。ただ、「三増酒」ってなに?という質問があったし、さらに昨日の続きをやろうかな。
「三増酒」は公式には存在しないと思うのだが、ま、「清酒」と書いてあるうちの普通酒、めんどうだなあ、本醸造だの純米酒だの吟醸酒だのという「高級酒」のたぐいでない、安い普通の酒だね。このなかには、原材料の表示に、「米、米こうじ、醸造アルコール」以外に「糖類」などの表示があることで判断できることになっている。が、問題は、なぜそんなものができてしまったかなのだ。
それは、はやいはなし、戦後のモノ不足、これは敗戦による生産力低下による不足と、その後の復活から高度成長の過程で、つくっても需要に追いつかない不足の時代に、「混ぜ物」で増量することが広く行われた。酒だけじゃなく、酒類全般、加工食品もかなり広い範囲で行われた。これには、例によって、アジノモトが絶大な力を発揮したのだけど。
近年のウソや不当表示問題、雪印、日ハム問題などで、「むかしは正直で、こんなことはなかった」なんていう人がいたけど、それはウソ。そうじゃなくて、むかしはかなりイイカゲンで、その感覚がまだ残っているということにすぎない。いまの飲食系大メーカーなどは、それで大もうけして成長したのだから。そのウミが、いま出ているにすぎない。
で、「三増酒」も、そのような歴史のなかで生まれた。おなじ量のコメから、マットウにつくったときの三倍の量の酒がつくれるから通称「三増酒」ってわけだ。片方でコスト高の高級酒をつくり、そのコスト高を「三増酒」で補う、というようなおかしな構造もあるようだ。そして、現実には、これがないと、なにしろ、それでなくても普通酒は高いのだから、おれのように困る消費者も多いだろうね。そういう構造で、ブレンドの上手な「混ぜ物」技術と文化が成長し、発泡酒なんていう見事な製品までつくるようになった。
んで、日本の酒造メーカーは、ウィスキーにしても日本酒にしても、そういうやり方でやってきたから、マットウな、しかも安い輸入物に苦戦するのは当然なのさ。消費者も含め、普通にうまいものを安くする努力や文化は育ってないんだなあ。と思わざるを得ない状況があるんだなあ。
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2003/03/11
あまり酒系の話をするつもりはないのだが、ついでだから昨日の続き。
で、しかし、酒系も妙なことになっているし、それは必ずしも酒系だけのことじゃない問題があるように思うのだ。たとえば「清酒」における「三増酒」、それから「発泡酒」だ。昨日の話の「普及酒」「普通酒」に、それを含めているつもりはない。むしろ、まっとうな普通の清酒やビールが、もっと普通に安く飲めなくては、ということである。
だけど消費の現状は、三増酒や発泡酒が普通レベルになっているようだ。三増酒の場合は表示も「清酒」である。たぶん三増酒と知らないで安いだけで選ばれていることも少なくないだろう。発泡酒の場合は、これは発泡酒とわかって買われているだろうが、売り上げが伸びている。
たしかに三増酒も発泡酒も、それなりの味わいがある。好みのものを選ぶということはあるだろう。が、その場合の味覚の基準というのは、なんなのかと思わざるを得ない。
カップラーメンにも「うまいまずい」という好みの選択があるのだから、なんについても、コッチよりコッチがうまい、という話はあるだろう。だけど、それが、どういう文化なのか、まっとうな普通の味覚文化なのか、と思うのだよ。
でも、ま、おれも、大関の三増酒やもっと安い三増酒や各メーカーの発泡酒を飲むね。それは、ま、アルコールならよいということで、無いカネをケチして選ぶのさの気分で、だけど、そのとき、やはり、まっとうに安く普通の酒を飲めない国の大衆の「グルメ」とはなんなのか、考えざるを得ないのだ。
んで、やっぱ、こんなものがよく売れる現状は、味覚文化の衰退だな、でも、キュウリもトマトも、たいがいこんなものなのだなあと思うよ。んで、そういうことに文句の声が出ない、グルメでオリコウな消費者が増えたから、これが成り立っている、80年代以後のグルメ時代なのだと思うのだ。そういうのが平気状態だから、一方で「何軒くいたおした」式の「女千人切り」みたいなグルメが跋扈するんだなあ。
で、なぜか、アル中の抑制のために酒税を上げようという屁リクツをつけるバカ政治家が選ばれるのも、そういうアホバカグルメのせいにしたくなるのだよ。すまんな。
もっと清酒やビール、普通にうまい酒類を安くすれば、三増酒や発泡酒はいらんよ。そうじゃないのか。これは酒だけの問題じゃないよ。と、いいたいのだ。
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2003/03/10
これだけグルメ談義がうるさいのに、「普通のうまさ」が話題になることが、ほとんどない。話題になるのはマズイにせよウマイせよ「究極」なのである。以前、ある雑誌の企画で、「究極の銀シャリ」を食べさせる食堂を上げて欲しいという話があって、おれは逃げた。生活を楽しむためには、究極などは必要ない。むしろ普通にうまいということが、重要なのだ。というのが、おれの考えだ。
しかし「究極」が大手をふっている。グルメな動向は究極を求め、結果、いつまでたっても普通は究極の犠牲で、なかなか普通のうまさが普及しないし向上しない。それには日本の歴史的事情があると思うが、そのことはおいといて、酒の世界ではチト事情が違うように思う。
ここ一年間に酒蔵に招かれることもあったりで、「酒好き」というか世間的には「通」と呼ばれるであろうひとの話を聞く機会が何度かあった。酒好きのあいだには、普通酒あるいは普及酒がうまくなければいけない、それがうまい酒蔵は吟醸酒もうまい、という考えが、それなりにガンコにあるのだ。
で、そういう人に話をきくと、ちゃんと「普通の酒のうまさ」について説明してくれるのである。究極の大吟醸をありがたがっているだけじゃ酒好きとはいえない、という感じなのだ。そのへんは、ラーメングルメで「究極」を求めて食べ歩き、インスタントブランドにまでなった「青葉のラーメン」あたりを崇拝している連中とは、かなり違う印象を受けた。
ま、もともと、酒通と80年代以後のグルメを比較してはいけないのだろうが。「食べる」世界は、あまりにも「普通のうまさ」について無頓着すぎると思うのであった。究極を求め普通を失う。
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2003/03/09
昨日、一昨日、イベント、6日から準備もあって忙忙多忙。3日連続してお台場通いしていたので、たまっていることがあって、今日も日記は休み。
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2003/03/07
ハンバーグ、タマゴサンドなど、同じ名前だけど、料理としては違うものの話が続いた。カレーライスも、国民食といわれるようになった、あの黄色いカレーライス、そしてインスタントのルウのカレーライスと、インド料理のカレーライス風のものとは料理としては違う体系だというのが、おれのガンコな主張である。そのことは、まだまだ「断固カレーライス史考」で、いろいろ例をあげていいつのるだろう。
今日は、同じ名前でもこんなに違うのかという、驚いた話である。それは「フライ」だ。
フライといえば、エビフライや魚のフライを想像するだろう。ところが、まったく違う「行田のフライ」というものがあり、またそれとは違う、どうやら東京の足立区荒川区あたりにしかなかったと思われる「フライ」がある。
行田のフライは、このサイトの「関東うどんそば逆襲協会」のコーナーに紹介の「うちいれ」のリンク先でも見られる。ようするにお好み焼きのようなもので、もっともシンプルなものは、うどん粉を溶いてフライパンで焼いて醤油やソースにつけて食べるか、砂糖や塩で味付けして焼くかのたぐいで、ことによるとほかの具も一緒にまぜて焼いたり、あるいは具はのせたり、いろいろのようだ。まだ行田で食べたことがないからわからないが、おれが「どんどん焼き」として食べたのと同じようなものらしい。
行田というのは、埼玉県行田市のことで、そこには「行田のフライ」を食べさせる店がけっこうあって「名物」らしい。で、行田だけではなく、近くの熊谷や秩父にも、そのような「フライ」が存在する。家庭でおやつに食べたひともいる。
ところが、東京の足立区荒川区のフライは、エビフライや魚フライのコロモ部分ですな、あれだけを団子状というか片手で握ったくらいの感じのものを串にさして揚げて、ソースをつけて食べるやつなのだ。大阪京都なら、串カツの身のないようなやつなのだ。これは、祭や縁日の屋台に必ずあったものらしい。戦前の話にも登場する。ただし、日暮里あたりから荒川区足立区の一帯で育ったひと以外の話は知らない。
インターネットで調べると、足立区の西新井大師で、最近まで屋台を出してやっていたおばあさんがいるらしいが、トシで屋台のほうはやめ、通販では売っているらしい。詳しいことは、よく調べてないのでわからない。
ともかく、同じ名前で、そんなに違うのも、めずらしいね。ということ。
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2003/03/06
昭和天皇が死んで平成になったのは、1989年1月7日だから、ほぼ昭和は1988年におわった。その年に、江原恵さんの『家庭料理を美味しくしたい』が刊行された。バブルという「超景気」が、いつまでも続くかのごとく錯覚するバブリーな世相は、このころから色濃くなっていく。
で、人びとはバブルのカネを握って、家庭料理から解放された。家庭でうまいものを食べようというより、「外食」に走ったのである。
カネを持ったときに本性があらわれる。日本人の家庭料理に対する本音があらわれたと見てよいだろう。家庭料理は貧しい生活、貧しい生活のしのぎの手段、という深層にあった意識が露呈した。と、みることができる。
食事を家庭でするか否かは、さまざまな歴史条件や環境条件によるのであって、いちがいにどちらであるべきだ、食事は家庭ですべきだとは言い切れない。戦前、日本でも、とくに大都会で、食事を家庭でするのは非効率という議論があった。香港やタイの朝食の外食風景は有名である。
しかし、そういうことは関係なく、日本では家庭料理は愛されていなかった、バカにされていたのではないだろうか。カネがないからガマンして、そこに甘んじていただけだから、カネを手にしたとき、まずそこから解放されたいと思った。「一億総グルメ」は、自ら愛する生活、充足や楽しみを自ら発見できなくなっていた結果であるように思う。
新宿のゴールデン街の地上げが活発になったのは、平成になってからだと思う。そのころ新宿のションベン横丁もかつてないほど衰退し、深夜、歌舞伎町の靖国通りは人であふれているのに、そこは閑散とし、そのうち板を打ち付けたままの店がふえた。人がいなくなると、本当にバラックなのだなあ、と、しみじみ思った。
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2003/03/05
めちゃ忙しいのに、なぜか気分転換というか、思いつきで、もう一個ホームページを作ってしまった。その名も「昭和の鑑賞」。なんだか、きのう書いたタマゴサンド以来、昭和ってのは歴史になってしまったんだ、おれは昭和の遺物で平成の異物なのだという深刻な事態に気づいて……なーんてわけじゃないけどね。
いままで、このサイトにあった、「横丁楽学」を、そちらに移し、そのうち「田舎の散歩」もそちらに移すつもり。
いまのところ、トップページの目次の右下の、「昭和の鑑賞」からジャンプできます。
そういうわけで、ああ、かんじんの仕事がすすんでない、この日記を書く余裕もなし。といいながら、もうこんなに書いてしまった。
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2003/03/04
おれは、意識としては戦後昭和、猥雑で粗野で田舎くさい戦後昭和を生きているのであって、アタマは平成についていってない、ついていく気もない。と思っていて、戦後昭和は歴史ではないハズなのだが、もう平成も15年だそうで昭和は遠くなり、記憶の底に沈殿したまま浮上しない戦後昭和のことが多くなったようだ。なにしろ、60歳になるというトシでもあるしなあ。
いやね、このあいだ雑談の席で「日曜研究家」で有名になった串間務さんが、どこかの古い喫茶店でタマゴサンドを注文したら、ゆでタマゴをグチャグチャにしてマヨネーズであえたやつをはさんだのが普通だと思うけど、そうじゃなくて、薄いタマゴ焼きがはさんであって、初めてだとか珍しいとか言った。
それをきいて、「そういえば、それは、1960年代、おれが上京したころの喫茶店のサンドイッチは、その薄焼きタマゴをはさんだのが普通だったんだよ」と思い出し、そう言ったのだが、あとになって考えてみると、それがいつごろからゆでタマゴサンドに変わっていったのか思い出せない。いまでも、それが気になってしかたないのだが、思い出せない。
そして、その薄焼きタマゴサンドをよく食べた、市ヶ谷の五番町の角にあった「崑崙」という喫茶店とその味を、懐かしい歴史として思い出すのだった。戦後昭和は、おれの肉体のなかでも、遠くなった。のだろうか。戦後昭和をノスタルジーするようになっちゃあ、ヤキがまわった。
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2003/03/03
きのうの日記は「はたして、」でおわっている。文字制限千字だから。そのあとなにを書こうとしていたか忘れてしまった。
一昨日、土曜日3月1日。千駄木の旧安田邸の公開があって、男3人女1人連れ立って見に行った。大正期の近代和風建築でいろいろ面白い発見があったのだが、そのことではない。
そのとき何の関係でか、たぶん古い昭和の喫茶店の話をしているときに出た話だが、談話室「瀧沢」のことだ。あそこのウエイトレスが「未亡人」であると、みんなナントナク聞いているのである。どこでだれに聞いたかは記憶はないし、確かな話かどうかもわからない、いわゆる「風聞」というやつだろう。
その日は、ちょうど新宿中央口の瀧沢で打ち合わせがあったので、旧安田邸がおわってから行った。で、そこのウエイトレスを見ると、どうもやはり「未亡人」のように思えなくはない。では、未亡人とは、どのように見えるのかといわれると、それは瀧沢のウエイトレスのように見えるから未亡人なのだと、これじゃあ、堂々巡りだが、そういうふうに見えてしまうのは、なぜだろう。
そして瀧沢のあと、改装オープンになった、新宿駅ビル「マイシティ」で食べてみようと行った。7Fの名前は忘れたが、プチモンドが経営しているらしいコジャレた長野系の蕎麦屋に入った。おれは天せいろにビール。ほかの連れと、長野名物縄文おやき、焼味噌、お新香など、芋焼酎もちょっと飲んだ。
それはいいのだが、そこのウエイトレスが気になるのである。未亡人かどうか、気になるのだ。が、瀧沢のウエイトレスのように、未亡人という感じはない。だから、ますます瀧沢のウエイトレスは未亡人に思えてくるのだった。
都市伝説は、こうして生まれるのだろうか。でも、ほんとうに未亡人かも知れないしなあ。むかしマクドナルドがまだ珍しいころ、マクドナルドのアルバイト女性は、みんな医者やイイトコのお嬢様だというウワサがあったが、あれは、どうだったのだろうか。
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2003/03/02
料理の歴史は「何をどう食べてきたか」つまり「生活の技術の歴史」というのが、おれの考えだ。いうのは簡単、実際は、かなりめんどうが多い。まず、料理は食べるとなくなり、まったくカタチを残さない。だから歴史をとらえるのは、かなり難しい。さらに、名前はおなじでも違う料理は、めずらしいことではない。名前は、料理の実態、つまり技術に関係なくイメージで呼ばれるからだ。
たとえばハンバーグだ。大雑把な話、刻んだタマネギをゆっくり炒める→炒めてドロドロになったタマネギとミンチの肉ほか材料を混ぜ合わせる→焼く、これがハンバーグである。しかし、実際は、ミンチの肉ほか材料を混ぜあわせる→焼く、という例が少なからずある。とくに、いわしハンバーグや豆腐ハンバーグは、ほとんどこの類だし、ミンチ肉を使用する場合でも、ま、ようするに料理としては「つくね」をフライパンで焼くようなものが少なくない。だけどハンバーグというのである。いま、後者をハンバーカと呼ぶとしよう。
ハンバーカは、刻んだタマネギを炒めベースに使うことをしない。ハンバーグは、刻んだタマネギをドロドロになるほどゆっくり炒める。この技術は、日本になかったものだ。習慣的にないものは、習得するか、めんどうなら、今までの方法のバリエーションでやろうとする。で、つくねをフライパンで焼く方法でハンバーカができたのだが、これはハンバーグではない。ソースも含めれば、さらにずいぶん違う料理である。技術的にも味覚的にも、まったく違う。
ハンバーグは新しい技術の獲得であり、ハンバーカは従来の技術の系譜なのだ。
いまならハンバーグの歴史は、かなりリアルタイムでわかるから、こういう話ができる。しかし、すでにカレーライスの場合は、インスタントカレールウ以前が、わかりにくい。わかりにくいのだが、そもそもカレーライスが歴史になったのは、あの黄色いカレーライスが「国民食」といわれるほど普及したからである。もし、これがなかったら、たとえばハヤシライスと比較してみればわかるが、歴史にはならなかったかもしれない。
料理の歴史は、料理はつくって食べればなくなるものだから、その複製復元のくりかえしが歴史なのだ。もっと本質的な言い方をすれば復元複製の技術が料理の歴史なのである。料理書にあるレシピでも、それが繰り返し復元されないかぎり、料理の歴史にはならない。はたして、
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2003/03/01
昨日、北千住名所大はし建て替え閉店両手に花飲酒のち遠太宿屋女生臭牧師泥酔ゲロゲロ本日休み。消える大はしの建物は大正のもの。
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