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2003/03/24

なんとまあ四條流のつづき

そもそも「四條司家」のモトである「四條流」の登場のモトもはっきりしてない。アサヒグラフの最初の見開きにウヤウヤしく登場する『四條家流庖丁書』は、これまで一般には「家」のない『四條流庖丁書』だが、そして「四條流」が料理関係に現れるのは、この書においてなのだが、原田信男さんは「長亨三(一四八九)年に伝授された内容を記したもので、室町時代まで遡ることはできない」と指摘しているし、『日本料理史考』(柴田書店、1977年)の中澤正さんは、「この庖丁書の作者は四條某ではなく多治見備後守とある。たぶん門人の一人なのであろう」と推測する。

ナゼそれほど根拠のないものをウヤウヤしく飾り立てなくてはならないのか。まだある。アサヒグラフの次の見開き右ページ、例の家紋付き見出し「四條流庖丁式」で当主の庖丁儀式の写真があり、その説明には「平安初期、藤原山陰は光孝天皇から生類供養、悪霊払いのための式と作法をつくることを依頼され、神道、仏教、陰陽道などを取り入れてこの庖丁儀式を完成させた、といわれる」である。最後に「といわれる」とあるあたり、じつにズルイ。こういうズルイ飾りつけをしなくてははならない「四條流庖丁式」そして「四條司家」とはナンナノカ、と思わざるを得ない。

このことについて原田さんは「藤原山陰を、四條流の祖とする説に関しては、同時代の史料や信頼しうる所伝にはまったく登場せず、家伝にとどまっている」である。そして中澤正さんは「またこれまで、四條山陰が庖丁式の祖であるとか日本料理の祖であるということが、料理人やそれを生業とする者達のあいだで信じられてきた。けれどもよく調べてみると、山陰中納言が庖丁式をやったり、日本料理の祖であったとする確証はどこにもないし、四條(エンテツ注=この「四條」には丸印がふられ強調されている)山陰とする根拠もない」という。これは、それ以前に江原恵さんが『庖丁文化論』で指摘したことだが。「四條」はあとで誰かが載せたものなのだ。

が、だからといって「四條家」だか「四條司家」だかは「日本料理」とは無関係ということではない。問題は、ナゼそんなにゴテゴテした虚飾の権威がなければ「日本料理」ができないのかなのだ。そしてそのことは、80年代以後の「グルメ」にも、大いに関係すると思われるのですね。グルメも巻き込んだかたちで料理界には根深い権威主義がはびこっている。文字制限だ~

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