本日は
休み
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何事もないように書いているが、あるのである。だけど、それがフツウ化しているからワザワザ書かないだけなのである。つまりは、毎日飲んで飲んで飲んで~、胃だか肝臓だか脳だか、休まることがない。肉体がアルコール漬のようなのである。こんなに飲むのなら、「大衆食」ではなく、「酒とつまみ」というのをやるべきだった。
そうである、昨夜は「酒とつまみ」という雑誌、まあミニコミ誌だね、をつくっているひとたちと飲んだ。この単純なタイトルの、どうしていままでなかったのかという雑誌である。それを彼らは創刊して2号目。
そういうわけで東京八重洲の加賀屋で飲んだのである。前の晩も、その前の晩も飲みすぎで、出かけるときには飲むのはキツイという肉体のかんじだったので、東京駅についてからソルマックを飲んで臨んだ。どんなにキツイ状態でも飲みだすとドンドン飲めて、そのあげく翌日のダメージがヒドイからである。ソルマックを飲んでおくと、翌日のダメージが軽くすむ。ソルマックでなくキャベジンでもいいのかも知れないが、ソルマックに信心している。おかげで今朝の状態は、そんなに悪くはないが、これ以上書く気がしない。今月は中ごろに小諸へ行ったときから、とにかくアルコールのなかで生きているようなかんじで、悪くはないが疲れた。いいトシこいてバカなことをと、まったく思わない。酒飲みには反省がないのがフツウなのである。
「酒とつまみ」
http://www.saketsuma.com/index.html
気どるな! 力強く飲め!
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「あああ、でも、となると」
ショクドーはデパートの紙袋から新聞紙の包みを二個とりだし、一つをメシドーに渡し、一つを自分の膝の上でひらいた。新聞紙のなかはヘギに包まれた二つの大きなニギリメシだった。ヘギも珍しいが、ニギリメシの大きさも近頃は見かけない大きな、それはコンビニオニギリからは想像つかない、コンビニオニギリ3個分ぐらいをギュと握ったぐらいの大きさであって、まぎれもなく手で握ったとわかる豊に丸々したものだった。そして全面的に海苔がおおっていた。海苔はやや湿気をはらみ、かといってとろけるほどではなく黒々としたツヤを保ち、芳香を放っていた。二つのニギリメシのあいだには、小さな塩サケの腹の部分の切れ身を焼いたのと、キャラブキの佃煮、黄色いタクアンが4切れ。
ショクドーは両手でニギリメシを持ってかぶりついた、メシドーも同じようにする。飯粒がシッカリつまったニギリメシのなかは、もちろん梅干だった。
メシドーが大きく息をはいて「ああ、この味だ」といった。「わずか30年で、この味は失われてしまった」
「あああ、でも、となると、自分の味覚が未成熟なためにうまく思う、あるいはまずく思うということがあるのでしょうか」
「それは、難しい問題だなあ、一般化はできないだろう。たとえば、このキャラブキの佃煮だが、これは田舎の人間がつくったとすぐわかるな、苦味が強くこの味じゃ東京のものには喜ばれないから、東京で東京の人間がカネを払ってくれるように商品化するには、東京の人間が好むように味を直さなくてはならない、これまでもそうしてきた。だけど、東京の人間がこっちへ来てだよ、こういうところで食べると、これがうまいとかいうだろう。これが自然の味、素材の味だというだろう。東京の人間が東京でうまいという感覚と、こういうところへ来てうまいという感覚は、どちらが本当なのか、それは難しい問題だ。おなじ人間がだよ、こちらへ来て最初の2日ぐらいは、こういうキャラブキの味がうまいうまいといっていたのに、3、4日するとピザが食べたいなんて言い出すからね」
「あああ、禅問答みたいになりそうであります」
「ま、だからさ、そう思う自分がいる、なぜそうなのかということを絶えず考えることがカンジンなのさ」
「あああ、ますます哲学のような、われ思うゆえにわれありのような、あああ、フツウのメシはどうなるのでしょうかあ」
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「カンジンなことは、『うまい』と思ったら、ナゼ自分がそれを「うまい」と思ったかを考えることなのだ。そのことによって、人間も味覚も成長するし、こんにちの食物や料理の発見は、そうなされてきた」
昼でも暗いブナ・ナラ林のなかで、メシドーはいった。アヤシゲ新聞社のショクドーは、フツウのメシ・ファンタジー特集のため、実在しない人物といわれてきた幻のメシドーを追いかけ、ついに発見したのだった。
「ま、人間というのは、自分はマットウあるいは、ひとより優れていると思いたいのが普通なのかもしれない。だから、あるモノを食べたり飲んだりして『うまい』と思ったときに、そう思った自分の状態や現実、なぜそれをそのようにうまいと思ったのかなどは、あまり考えないのかも知れない。だけど、それを考えた人間が食物や料理を育て、そしてフツウのメシは維持されてきた。つまり、マットウな人間は、そのように考えるものなのだ」
「あああ、紀元前2003年の『ザ大衆食』という古サイトを古サイト屋で手に入れて見ているのですが、その『リンクの花園』に、とくにオススメというリンクがあって『Bar Fujiwara』です、そこの『貧すれど鈍せず』は食エッセイのようなものですが、読んでみると、作者の藤原素子さんという方は、メシドーさんがおっしゃっているような考え方をする方のように思えます」
「それなら、わたしも知っている、5月23日の『パン』では、初めてパンを焼く話だね、外国旅行のときに食べたパンを思い出し、こう書いているね。『そんなおいしいパンが、日本にもあるはずと、しばらくはご飯も食べずにパンに熱中した時期があった。西に評判のパン屋があると聞けば、行ってその味を試し、東に老舗の店があれば、行って手あたり次第買い・・・。しかし、いまだにあの味は見つけられていない。第一、旅行先で出会った味を後になって求めること事態、所詮ムリなことなのだろう。その国の気候や、自分の気分の高揚などによって、味覚も正常ではなくなっていると思われる』」
「あああ、そうですそうです、『その国の気候や、自分の気分の高揚などによって、味覚も正常ではなくなっていると思われる』と考えるあたりが、わたしは常人ではないように思えましたが……」
「そんなことはない、そう考えるのがフツウだし、フツウでなければならないのだよ」
「あああ、でも、となると」
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なんでも流行というのか、流行り廃れというのがあって、味覚もそれに左右されるのではないだろうか。
ラーメンも一時は「サッパリ系アッサリ系」とうるさかったが、ちかごろは「コク」、この言葉の使い方は間違っているんじゃないかと思うが、とにかく「コク」「コク」と、それが濃厚芳醇系を意味するらしい。
清酒についても同様で、一時は「サッパリ系アッサリ系」と、それは、ある種のブランドといってもよいぐらいの「新潟清酒」の「淡麗辛口」が代表格みたいで、ま、それは「越の寒梅」あたりから始まって「八海山」「久保田」ということになるが、とにかくそういうことだったが、近頃は「濃厚芳醇」だの「コク」だのと言い出して「淡麗辛口」なんざ水みたいなものだと……。
そりゃまあいいのだが、そういうふうに流行り廃れにすぎないのに、あたかも普遍的であるがごとき言い方で、そして自分の舌がカミサマであるがごとき口ぶりで「サッパリだからよい」と言ってランキングをし仕切っていたものが、こんどは「芳醇だからよい」という、なんじゃ、それは。
だいたい清酒を評価するのに「米の味がするからよい」なんていう表現はおかしいじゃないか。そんなやつは、コメを生でかじっていればいいのさ。もっとも、そういうやつは、以前は「酒の味は、よい水に近いほどよい」なんていっていたものだが。
ま、とにかく「淡麗辛口」は流行を追いかけている連中から飽きられていることだけは確かだし、それはまた絶対的にうまいものなんかないという証明でもある。もともと味覚は、そのような二者択一や三択四択のような単純なものではなく、もっと複雑で多様で個性的なはずなのだ。そして歴史がある。その複雑、多様、個性的なところを楽しんで、歴史を深く味わって、それでこそ飲食や味覚の楽しみがあるのであって、おなじモノサシで測って上下をつけるなんてのは、人間を五段階評価する以上の愚の骨頂なのさ。
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本日の更新で「公洋軒」に載せておいたが、かつて公洋軒を愛顧していためりいさんからのメールに、次のようなくだりがあった。
健在だったのですね。
しかし、おじちゃんおばちゃんが、おじいちゃんおばあちゃんに・・・・
時は残酷なものです(涙)。
そう、大衆食堂は「うますぎては」いけないのです。
まずくはないが、ごくふつう。
これこそが正しい大衆食堂かと存じます。
そういう意味で、ハム洋軒は、よい店でございます。
とくに、この後半は名言だと思うが、前半の含む意味も大きい。つまり、なぜその「ごくふつう」の店へ通うのかというと、「そこに再び会ってみたいひとがいる」からだろうと思う。そして、その関係こそが、こんにちもっとも困難になっているのではないだろうか。
最近、どこかの地域のローソンで、「新潟県産コシヒカリ」のおにぎりに新潟県産コシヒカリが一粒も入っていなかったというジケンがあった。これが、どう発覚したか忘れたが、とにかく消費者が食べて気づいたというものではなかった。おそらく、おれが食べても、気がつかないだろう。だけど、東京で食べるフツウの新潟県産コシヒカリというのは、おれの故郷の魚沼コシヒカリの産地、六日町で食べるものとは、まったく味がちがうということはわかる。だから、東京で新潟県産かどうかなんて表示をアテにするようなことはしない。どのみち現地のものより、はるかに「マズイ」。のだが、たとえ表示がウソであっても、リーズナブルならいいのである。
そもそも、あのローソンの仰々しい包装の高額な新潟県産コシヒカリおにぎりなどは信用してないし必要ない。しかしあのような、ほかにインスタントのカレーやラーメンに産地ブランドや料理人ブランドの高額品が出回っているが、そういうことがなぜおきたのかというと、「グルメ・ブーム」の結果であろう。ホンモノや究極を追求した結果、信用のおけない表示やブランドを頼るようになった、ともいえるのだ。肉のインチキ表示問題にしても、消費者が食べて気がついたのではない。にもかかわらず、自分はホンモノがわかる舌の持ち主であるがごとき「グルメ」がまかりとおっている。これが、つまりは、最大のインチキだと思うが、インチキ表示のように排除されることはない。
とにかく、もっと、日常のフツウを愛そうね、ってこと。
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どうも。また昨夜、飲んでしまいました。この日記は「アル中ファンタジー」にでもしたほうがよいような…。
阿佐ヶ谷駅の高架線路下の商店街、営業している店より閉業の店が多いようなウラブレた感じの、そのなかの一軒、名前は「葉山房」?だと思ったけど。イカガワシ度3。なんだか安く上がったなあ、勘定まちがえたんじゃないかいオヤジ。3人で、ビール4本かな?お通しがついて、焼酎玄海を一本とって湯割り、つまみにマーボ豆腐、メンチカツ、揚トウフ、山菜オイル焼、シシャモで、一人2000円しなかった。んで、ま、それから阿佐ヶ谷やどやへ立ち寄り、駅にもどって北口の丸長で、ギョーザにビールをやって、最後にラーメン。
帰り着いたのが午前1時過ぎ。ああ、飲んでいる最中は元気なのだけどね、翌日は飲み疲れ寝不足がドッとたたる。以上。
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今日はもう、いろいろアソビすぎがたたって、アタフタバタバタだすな。なのになのに、「六日町大阪屋高千代酒造満足泥酔紀行」の二回目をアップ。
読むのも大変でしょうから、日記は休み。じつは、書き続けで、書く気もしない。書くのも大変、読むのも大変、ご苦労さま。
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どうも。今日は今日で、ウチで高千代を飲んで、よい気持。しみじみ思うに、日本酒って、おれにとっては清酒のことだけど、これを一升瓶でホンカクテキに飲みだしたのは、中学2年生だからね、ずいぶん飲んだことになるだろうなあ。高校生のときは、酒を飲んで騒いでいるのが評判になって、親が学校に呼び出されたわ。あははは。
なにしろ新潟県の南魚沼の生まれ育ちだから、酒は身近な環境なのね。黙っていても酒のほうから口に入ってくるのさ。小学生でドブロクを飲んでいたよ、最初に腰をとられたのはドブロクさ。ま、いろいろ飲んだなあ。比較的よく飲んだ思いつく銘柄をあげると、小千谷の長者盛と地元六日町の金城山、これは親が飲んでいたから付き合いは深い。金城山は八海山に押される恰好で消えたけど、おれがガキのころは八海山は、あまり評判のよい酒じゃなかったね。
えーと、それから塩沢の鶴齢に高千代、湯沢の白瀧、小出の緑川、そんなとこかな。みんな魚沼の酒で、いまでいう「地酒」だね。白瀧の評判が高かった。いまでは想像つかない甘口だったけど、それがよいというので評判だったような気がする。清酒は甘いもの、というのが常識だったねえ。
ナショナルブラントは記憶にないなあ。新潟の酒でも、久保田で有名な朝日山や越の寒梅を飲んだのは東京に来てからだね。なにせ当時は混ぜ物はアタリマエの時代だったからね、そういうウワサとか、あとドコドコの酒はドコドコの酒を買って混ぜているとか、なにせ狭い地域だから、すぐ話題になるのさ。そんな状態だった。あと焼酎なんか貧乏人が飲むマズイ酒ということで、まったく見向きもしなかった。でも町の酒屋には白波と宝があったのは覚えている。
そして、いろいろな酒を飲みました。安いだけの酒ってのも覚えているものだね。酒屋じゃ見ないけど、新宿南口にあった日本晴、この店は忘れられないね。日本晴という酒が、ばか安くてねえ。安いけどいくら飲んでも、なかなか酔わない、どうなってるのという面白い酒。あと、清酒じゃないけど、安ウイスキーってのがあったね。もうなくなったけど新宿歌舞伎町の立ち飲み屋にあった、アリスという、合成酒だろうけどウイスキーってことでコップ一杯なみなみ50円、これは酔えたねえ。そういうのも楽しくて、いいものさ。エト、それでは、なんだか今日は、なんでしょう、こんなところで。どうもまだ正常化してないようだ。
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休み。
昨日、故郷の新潟は六日町の隣の塩沢町の酒蔵、高千代酒造の12回五月まつりに昨年に続いて参加。山菜まっさかりシーズンを肴に、純米吟醸と大吟醸を、2時ごろから飲みたい放題に飲み、食べたい放題に食べ、あげく、もうベロンベロンなのに、だからか、酔った勢いおいで一緒に参加の同級生のウチへ行って、またまた高千代を飲み、10時過ぎてから温泉宿に宿泊を頼み転がりこむという暴飲乱飲をやらかし、本日グッタリ帰宅。
ちょうど魚沼コシヒカリの田植えの真っ最中でした。六日町の老舗の大衆食堂の大阪屋にも寄ってきた。近日中に写真と共に大公開します。
て、ことであります。
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えー、わたくしエンテツです。ホームページビルダーを導入しカウンターまで付けて本気こいてサイトづくりを始めて4月20日で一年がすぎました。ご愛読ご憎読ありがとうございます。
で、トップページにありますように、「さらに力強く」「さらに猥雑に」とサイト内を再編中であります。なにしろパソコンもよくわからんのですから、フォルダーなどつくらずに、ファイルをどんどん増やすだけだったので、もうメチャクチャ頭の中もサイトの中もワイザツなのでありますが。そこで、さらに、というわけで、どうなることやらフォルダーをつくったりしながら、再編中なのでありますね。
「貧乏食通研究所」は「食文化本のドッ研究」を吸収合併し、「浮気のめし新聞」に「メシゴトロジー」を再編復活し、「索引3」に項目を加えるなど、みなさまの利便と健康と住みよい町づくり、といいながら悪化の道をたどる合併さいたま市のように、なっているかも知れません。どこか不都合不具合など発見しましたときは、メールをいただけると、ありがたいのですが。リンクなど、かなり乱れ途切れているのではないかと思います。とっても見難くなった、などの感想も歓迎です。
ま、これからも、よろしくお願い致します。
そして、エンドーの古サイトの日記を見ながらセドドーは、その3匹のイワシをどうやって食べたか気になるのだった。
いち、そのまま生で丸ごと食べる。
に、塩焼きにする。
さん、醤油味のショウガ煮にする。
し、ひらいて天ぷらにする。
ご、刺身にする。
ろく、酢の物にする。
しち、なめろうにする。
はち、さんが焼にする。
きゅう、ひゅうが飯風のぶっかけめしにする。
じゅう、いわし飯にする。
想像するだけで、セドドーはよだれがタラタラ流れるのだった。
ところで、エンドーは、どう料理したのでしょうか。セドドーが見ている、古サイトには載っていません。
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セドドーは古サイト屋で買ってきたエンドーの古サイトの日記を見ていた。紀元前2003年5月16日の分である。
昨日近所のスーパーへ買い物に行った。ウチを出る前からカツオの刺身を食べようと固くこころに誓っていた。大きめの皿にトマトの輪切りをひきますね、その上にカツオの刺身をのせますね、その上に新タマネギとショウガとニンニクとカイワレダイコンとオオバをテキトウに切ってばらまきますね、最後に酢醤油をかけます。そのようにイメージができていた。
ところがスーパーの鮮魚売り場へ行ってみると、すでにカツオ刺の前には一人の主婦が陣取っていた。不吉な予感がした。主婦は特大的に太いわけではないのだが、それでも横幅があり、カツオ刺は半身の二分の一、つまり腹と背に分けたサクが二列14個たてに並んでいて、その前に立たれると脇から手をのばすよりしょうがない状態になっている。仕方ないからほかの魚を見ながら時々、「早くどけよな」という厳しい視線を投げかけるのだが、主婦は一心不乱に一つのサクを選ぶために他の13個と比較する作業に専念しているのである。つまり1個を左手に持ち、右手でショーケースから別の1個を取り上げ見比べ、選択された方が左手に残っていくという仕組みである。その作業がいつまでたっても終らない。新たに左手に残った1個は、また他の13個と比較されなくてはならないからだ。しだいにショーケースのカツオ刺の列は乱れる。
「いったい、このバカ主婦は何を比べているのだ」と思いながら、イワシが安くなっているのに気付く。3匹パックで298円、千葉県産で目玉も肌の色もよい。思わず手をのばす、と、そのときイワシのパックの上で手がさまよった。それは3列27個あって、どれを選ぼうか手が、そのうえでふらふらするのである。生きの良さは、ほぼ同じようだから、パックの3匹が揃って、ほかの3匹より大きいものを手は選ぼうとしていた。頭のほうは、どれもたいして変わらない、3匹揃ってほかのものより大きいなんてことはありえない、早くどれでも取ってしまえと命令するのだが、手がいうことをきかないのである。そして、いつしか手は、その主婦と同じ作業をしているのであった。疲れ果て1個を選んだときは、なぜその1個に決まったのかわからない状態だった。そこを離れながら例の主婦の方を見ると、まだ一心不乱に見比べていた。魔物だ、と思った。
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ギャッ、だいたい、いつもトツゼンだ。遅めのゴールデンウィークというわけではないが、なかなか予約がとれない小諸の高峰温泉が、いまごろから梅雨時はOKのことがある。ホームページを見ていたらナントナク行きたくなったので、ダメモトで電話してみたらOKだった。こうなったら成り行きだあ、本当は明日金曜日締め切りの原稿があるのだけど、ナントカナルダロウ、で行って来た。昨年も、そのようにして、6月に1回行っている。
このサイトの「揚羽屋」と「桑の実」で書いているが、揚羽屋と高峰温泉をセットに低料金で満足度が高い。揚羽屋で一ぜんめし定食をたべながら亀の海を飲み、標高2000メートルの1泊2食1万2千円か3千円の高峰温泉につかり、地場のものしか使わないうまい量もタップリの料理をガツガツ食べ飲む、さらに今回は天気がよかったので、4時間の山歩きまでやった。ヘトヘト。
驚いたことに揚羽屋では、当サイトのトップページと揚羽屋のことを書いたページをプリントアウトして届けてくれたお客さんがいてオヤジがそれを持ち出してきた。時間があまりなかったが、しばしそれをネタに歓談。
揚羽屋でも高峰温泉でも、いまの時期しか食べられない「こしあぶらの木の芽」のてんぷらを食べた。ほかにもタラの芽とウドの葉と桑の葉のてんぷらを食べたのだが、こしあぶらの木の芽と桑の葉は初めて。どうも長野県か小諸周辺でしか食べないようだ。近々このサイトで詳しく報告したい。
というわけで、ウヘッ、自ら首をしめてしまったので、今日明日は忙しい。では。
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はるか紀元前2003年のエンドーは、古本屋の片隅でホコリをかぶっていた「アヤシゲ新聞」を一山買ってきて、パラパラ見ていた。
そしてモクドーの、その論説のところに来ると、腹をかかえて笑った。「ばかなやつ!」
一方、モクドーのヨメとセドドーはアヤシゲ新聞社の一室でヒソヒソ話し合っていた。
「けけけ、どうもね、ウチのヤドだけどおかしいよ、あの論説の文章だってさ、おなじ人間が書いたものとは思えない」
「ななな、確かにおかしいですよね、どうしたんでしょうね」
ってことで、今日は、浮世のめし新聞の更新をしたので、お休み。
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それから数日後のアヤシゲ新聞の日曜日の一面に、またモクドーの論説を見ることができる。
うひゃひゃ、ほかの知ったかぶりグルメのように、わたしもブリア・サヴァランの『美味礼賛』のアフォリスムしか読んでないかのように言う連中が、なんと!わが身内にまでいて、わたしをエロ本マニアのごとくいうのだが、いまにみておればかものどもよ。ついでにいえばエロもわからんやつに人間がわかるか。
さてそれで、『美味礼賛』の後半の後半、「味覚の生理学 第二部」の最初「つなぎの言葉」である。そもそも本書の原題は「味覚の生理学」なのであって、それすらも知らないで、本書を何か高級な上品なグルメの本と勘違いして引用するものも少なくない現状だ。それは知ったかぶりのグルメをやることが、高級で上品な人間への近道あるいは条件と勘違いしているものが少なくない現状に対応している。またアンチ・グルメにおいては、この『美味礼賛』というタイトルに、何かエラそうな高級上品ぶっているグルメの書と決めつける誤解もある。
そうではない、本書は人間が宗教的な環境、つまり宗教が禁欲をタテマエに美味への欲求を敵視することに人間を従わせようとしてきた時代に、合理的な理知的な精神を持って人間として自立し世界を理解しようとして生まれた、ごくフツウの人間の考察「人間哲学」の書なのだ。当時は、そういう精神を反映して「生理学」がはやり「官吏の生理学」といった、とても面白い書も生まれている。
たとえば、本書の後半には「料理術の哲学的歴史」なる項があるのだが、この国において料理史なり食文化史を書こうというものが、その内容をどれぐらい真剣に考えたか疑問を持たざるを得ない。そのくせ、前にも書いたように最初のアフォリスムの一言だけの引用がハヤルのだ。ウチのヨメやセドドーなどは、そういうことを洞察しているわたしのことをまったく理解せず、わたしをエロ本やエロ系カタログしか読まないようなことを言いふらしやがる。あの2人はデキているのではないか。
ともあれ、だから、その「つなぎの言葉」でサヴァランは言う。「ここまでわたしが言うところを注意深く読んでこられた読者諸君は、きっと見て取られたことと思うが、わたしはこの本を書くに当たって二つの目的を持ち、決してそれらを見失うまいと心した」
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「けけけ、ヤドが偉そうなこと書いているよ、自分は『美味礼賛』を全部読んでいるのかしら、文章でひとがわかるのかね」
モクドーのヨメは、夫のことを「ヤド」と呼ぶ。そもそもドー族のあいだでは夫は妻のことをヨメと呼び、妻は夫のことをヤドと呼ぶのが普通なのだ。それにドー族の女には名前がない、みんなムスメかヨメである。
「ななな、ウソですよ、読んでないですよ。最初のところだけですよ。万葉集、古今集、百人一首、徒然草、奥の細道、なんでも最初のほうだけ。あのひとが最初から最後まで真剣に読むのはレモンクラブというエロ雑誌だけです」
セドドーは丼めしを食べている。妙な丼めしだ。
「けけけ、ヤドはねエロ系の通販カタログも真剣に集めて見ているよ、美味礼賛どころかマットウな本を読んでるところなんか見たことないよ。ところで、あんたさっきから何を食べているの、何杯もおかわりしている、その妙なもの」
「ななな、これはちょっとうまいめしです。出し汁にコメを入れて煮ますね、コメが柔らかくなったら、食パンと味噌と牛乳を入れて煮ますね、食パンがとけてどろどろになったら、丼に盛ってシラスとゴマと海苔。うまくて何杯も食べられますよ」(著者注=よい子のオトナの皆さんはマネしないようにしましょう)
「けけけ、マズそう。そんなの下品ていわれるよ。ぶっかけめしだって下品といわれてるものね。この国は偏見というのかな、なんでも食べるものを上下、上品下品で仕切って。このあいだ南北新聞文化部の山岡司郎がカツ丼について書いていたけど、鹿児島のサツマイモをくわせて育てたホンモノの黒豚でつくったカツ丼は、至高な上品の味だとかってね、カツ丼に上品な味なんていう尺度もおかしいし、そもそも上品な味、下品な味ってなによ」
「ななな、ヤツが書いているのは、ほとんど4000年前のマンガ『美味しんぼ』の盗用ですよ。この国ではそのころからすでに、フツウとかスタンダードは、貧しい下品といわれてきたのですよ、だからフツウなうまさやスタンダードなうまさについてわからなくなっている。大衆という言葉がつくと、いい意味にならない、大衆は貧しく下品であるという観念があるのです。ただ多様であるだけのはずの味覚を、上品下品にわける観念が生まれるのは、聖徳太子のころからでしょう」
「けけけ、聖徳太子といったら、そりゃまた古いことじゃないか」
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さて、それではファンタジーにもどろう。
アヤシゲ新聞の、ある日曜日の一面の論説、社長のモクドーが書いている。
うひゃひゃ、著名なブリア・サヴァランの『美味礼賛』のなかで、もっとも引用の多い個所は、これである。
「どんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人であるかを言いあててみせよう」
とりわけ日本の美味や味覚に関する著作のなかでは、よく目にする。ここにあげたのは、1967年発行の岩波文庫版、訳者は関根秀雄と戸部松美であり、ほかの翻訳もあるが、イチバン使われている。著者によっては、自分がガイコク語を知っているぐらいのことを露出したいがためか、原書から独自の翻訳で引用する例もある。しかし、この翻訳には、かなわい。
なぜ、この引用が、ひんぱんなのか? 翻訳本にも、見かけなくはないが、はるかに少ないし引用の方法が異なっている。なぜ、この引用が無数といっていいほど、日本のグルメ本において、ひんぱんなのか?
その一つの理由は、この一文が、短くはない著作のごく最初のほう、本文に入る前のアフォリスムのところに登場するからだと考えられる。つまり岩波文庫版に従えば、目次のつぎ、「読者に告ぐ」とある扉を開いたすぐのアフォリスムの4番目に登場するのだ。
その引用の仕方から見て、『美味礼賛』はまったく読まずに、この引用個所だけを孫引きひ孫引き的に使っている例もあるが、そういうことを多少なりとも後ろめたく思うひとは、てっとり早く岩波文庫版を手にするやパラパラと見ると、なんとよろこばしいことに、解説と目次と扉をのぞけば1ページ目にこれを発見する。かくてすぐさま、自ら「読んだ」という自信を持って、そこから先も、いやその前の解説すら満足に目を通さずに、ここだけを引用することになる。ちょっとマシなひとは、2ページ20項目にわたるアフォリスムを全部読むくらいのことはするかもしれないが、引用者の多くは、この個所しか記憶にないだろうと思われる。
もっとも笑止なのは、自らサバランになった気分で、「どんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人であるかを言いあててみせよう」と述べる著者が少なからずいる。まさに全文を読んでいないがゆえに、そういうお粗末がおきるのだろう。
わたしはそういうひとに向かって、こう言いたい。「文章を見れば、どういう人間かわかる」
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昨日の初めての「コナモンの日」、コナモン協会発足記念イベントは、想像していた以上の盛況で、おどろいた。もうコナモンに夢中なひとたちばっかり。まさにコナモン・ファンタジーだな。
大阪で有名なたこやき屋「うまい屋」父子が、店を休むのは一年に一日だけというのに、わざわざ休みにして出張ってきてくれて会場で焼いてくれたたこやき。うまかったよ~。大阪の店では最低でも1時間は並らばなくてはならないタコヤキを並ぶことなく食べられたし、熊谷真菜さんとは例によって楽しくガハハガハハ、酒もタップリ飲んだ。酔った勢いで当然のごとくハシゴして、完全酩酊状態で帰宅。
さて、いよいよ関東コナモン連も動きださなくては、と、二日酔いの頭で考えているが、考えられない。とりあえず、昨日の様子を、今日中にこのサイトの関東コナモン連に載せるべく努力してみようか。コナモンに夢中のひと、夢中になりたいひと、連絡ください。
そうそう懇親会では同じテーブルにずららっと美しい男たちがいたので、「あんたら美形な男たち、どういう素性?」と聞いたら同性愛者のグループということで、しみじみ親しく同性愛者の悩みなどを聞いたり、コナモン・ファンタジーの会場で同性愛ファンタジーにも触れ、熊谷真菜さんの底なしの顔の広さ驚いた。しかし、これで当日記のファンタジーにおける糾の森もうまく書けるかもな。うふふ。
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マジです。
5月7日。
はじめての「コナモンの日」です。
トップページ>関東うどんそば逆襲協会>関東コナモン連をごらんください。
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「カツオのナマリ節」ってなんですか。という質問メールがエンドーにあった。40歳の女性の方からです。40歳は若くはないでしょうが、あるいは1960年代生まれぐらいからのひとは、もうあまり食べたことがないのかも。古い食品ですからなあ。
ようするにカツオを茹でたものだね。ナマリ節は「生利節」と表記されることが多い。そうとう古い原初的な食べ方といえる。カツオ節は、ここから発展したものだろう。高知などカツオの産地じゃ、これがフツウ。エンドーの知り合いの高知の桂浜近くの出身の男は、「東京へ来て出身地をいうと、おいしいカツオの刺身が食べられていいでしょうとよくいわれるけど、ほとんど食べたことはない。ナマリは、家のなかにゴロゴロしていて、こればかりくわされた」といいます。とにかく安くてよいおかずになる。
ああ、それからついでに、「セドドーに変なことやらせてください」というメールもありました。ああ、この日記は、変態ファンタジーじゃありません。マジメな食ファンタジーなのです。でも、食と性は、一緒に論じられることが多い。生活としては、ヒージョーに同質なものをもっている。食はよく性にたとえられ、性はよく食にたとえられる。かの梅棹忠夫さんは学問的に食事学と性事学を論じようとした。「何軒くいたおした飲み倒した」グルメなんていうのは、「女千人切り」なんていうのと同質ともいえるし、実際その程度のことしか言ってない。そういうわけで、セドドーはもしかすると、ショクドーと京都の糾の森で手を握り合っているかも知れないのである。ハテ、なんの話じゃ。どういう展開になりますか。
ということで、本日は多忙に付き、ここまで。当日記に関する質問、あるいは、当ファンタジーに対するこのような要望意見、感想などありましたら、なんでも遠慮なくメールください。もちろん、この2件のメールはファンタジーではありません。念のため。いや、まてよ、もしかすると紀元前2003年からのメールかな……。
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「げっ、おまえはフツウのメシ、フツウのメシってうるさいんだよ。黙っていても我々ドー族が普段食べるものはフツウのメシに決まっているのだ。ヒヤッチル、おかわりするのかしないのか。おかわりしないと糾の森のことをバラすぞ」
「あああ、します、します、します」
「げっ、ヒヤッチル、おかわり、メシだけ6杯分ぐらい持ってきておいて」
「あのあの、そんな、そんな、そんな、じゃ、わたしも」
「げっ、そうこなくちゃ、ドー族のムスメじゃねえや」
”ドー族”とは、そして”糾の森のこと”とは何のことでしょう。それはともかく、渋谷の魚山亭で、ショクドーとサギドーがとんでもないことを始めようとしているが、おれエンドーは、昨夜はダイコンおろしとナマリをめしにかけて食べた。これがまたね、うめえのですよ。
大きめの器にダイコンをおろす、そして、ナマリつまりカツオのナマリ節ですね、これをちぎって入れる。ここから先はどうでもよいですが、気分としては、器のなかで味付けをしてしまうより、茶碗にメシを盛り、そこにダイコンおろしとナマリの混ぜたのをかけ、醤油をかけ、レモンを半分に切ったのを手に握りギュッとひとしぼり、好みで一味や七味などをかけるのがよい。これで、いいのだ。サクサクサク、メシがうまいうまい。そうやってエンドーは、昨夜たべた。
「ななな、モクドーさん、エンドーは、紀元前2003年5月4日の夕飯にダイコンとナマリをまぜたのをメシにかけて食べてますね、よくまあ毎日ぶっかけをやるひとだ。ナニナニ、あれま私のわんこぶっかけの話をしていますよ。えっ、ナニナニ、あのムスメがわたしに惚れているかもしれない? そうだそうだ、私はデブじゃない巨漢で頼もしいのだ」
アヤシゲ新聞社の一室。社長のモクドーと専務のセドドー。セドドーはパソコンにむかっている。
「うひゃひゃ、なんでそんなことがわかるの」
「ななな、これ、早稲田の古サイト屋”現世”で買ってきた古サイトですよ、4000年前のサイトですが、これでエンテツ大飯教のナゾがとけるかもしれません。ナニナニ、著者からのお断り、この日記について、この人物は自分のことではないかとの問い合わせが多数よせられていますが、実在の人物や団体などは一切関係ありませんので、勝手に想像しおたのしみください。なお、食べ物は、書いてある通りにつくって食べれられます。とさ。じゃ、やってみるか」
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昨夜は11時ごろから夜中、ニフティがつながらなかったようで。このあいだも、そんなことがありましたなあ。
ま、それで夏には夏のぶっかけめしがあって、カレーライスだけじゃない、暑くなるとぶっかけめしをガツンガツン食べるのがいいのだ。で、このサイトのトップから「ゲロゲロッ、さあ今年も夏に備えよう!」で、評判のよいオススメぶっかけめしを紹介しているが、やってみてください。おれは、昨日の遅い夕飯に、これのバリエーションをやって、うまかったあ。時期ハズレ真空パック冷凍モノだけど、山芋をつかいましてね。
材料は山芋とマグロブツと納豆とオオバだけ。山芋はすりおろさないで、ビニール袋に入れて叩いてつぶす。これだとサクサク感があっていい。大きな鉢に、それとマグロブツと納豆を入れてかきまぜ、ストレートのインスタント麺つゆで味付け、最後にきざんだオオバを撒き散らして出来上がり。これを茶碗に盛っためしにかけながら食べる。簡単。うまいうまい。めしがガツンガツン食べられた。これからの季節、ほかにも、楽しみのぶっかけめしがあるなあ。
さてそれで、ファンタジーのほうのぶっかけめし、わんこぶっかけとは何か、いかなるものか。マメドーのムスメは語る。
「あのあの、セドドーさんがおっしゃいますには、わんこそばってありますよね、あれとおなじようなものらしいのです。お椀にめしを入れると、横にいるひとが味噌汁をそそぎ、それを食べるとまたお椀にめしを入れ、汁をそそがれるというものなのだそうです、もう休む間もなく食べさせられるのだそうです」
「げっ、あいつ、そういうことをよろこんでやっていたのだろうなあ、そんなことして生きてきたのか」
「あのあの、それは巨漢の、セドドーさんてデブとは違いますよね巨漢ですよね、そのセドドーさんでも苦しかったようです。柔道部の合宿でやらされたとおっしゃってました」
「げっ、あんた、あいつに惚れているのか、あいつは単なるデブだよ、そういうことをよろこんでやるやつだよ」
「あああ、でも、このヒヤッチルでわんこぶっかけやったら、けっこう食べられそう、サギドーさんはおかわりしたじゃないですか」
「げっ、おまえもおかわりしろ、そうだ、いまこれでわんこぶっかけやるか」
「あああ、それってフツウのメシの探求になりますか」
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渋谷の魚山亭。宮崎料理の店。渋谷駅から宮益坂の右側歩道を上がり左に郵便局、その斜め前。最初は一店だけだったが人気なのか、隣のビルにもう一店できた。その新しい方の店で、ショクドーとサギドーと、一人の若い女。
「あああ、このヒヤッチルはいつ食べてもうまいです」とショクドーは茶色の民芸調のどんぶり鉢にかぶりつく。”ヒヤッチル”とは”冷汁”のことだ。
「げっ、暑くなると、よけえうんまいね、もう酒のあとにはサイコー、ラーメンくってるやつの気がしれねえや」
「あのあの、わたし、これ初めてなのですけど、とってもおいしいです。たしか、これは、日本の三大かけめしであると、3000年前の本に書いてあるそうですね」
若い女はアヤシゲ新聞社のマメドーのムスメである。つまり、オヤシゲ新聞社は、社長のアヤシゲ、アヤシゲのヨメ、専務のセドドー、ショクドー、マメドーのムスメ、5人だけの会社なのだ。
「げっ、そりゃ、紀元前1999年の『ぶっかけめしの悦楽』という本だろう、エンテツの」
「あのあの、あの本、みなさま読まれたことはあるのですか、とっても面白いという話ですが」
「あああ、あの本は、異端の傑作といわれ、ときの上品道を国是とした政府によって断裁処分にあって、一冊も残らなかったといわれていますが、そういう弾圧があると信者ができるもので、それがいまのエンテツ大飯教になるのですよね、その連中が口伝えのものを書きまとめ、あのメシドーが持っているという話ですが、本当ですかサギドーさん」
「げっ、そりゃ、わからん、あのメシドーは詐欺師みたいなものだからな、だけど、そんなことに関わらず、この冷汁は、三大かけめしに入るよ」
「あのあの、三大かけめしといっても、一つの黄色いカレーライスは滅びたときいてますが」
「あああ、あのそれが、そのエンテツ大飯教の連中が資金稼ぎに、復活させて、じわじわ勢力をのばしているのですよ」
「げっ、うめえなあ、ヒヤッチル、おかわりっ!」
「あああ、そんなに食べるんですかあ、これは、やはりフツウのメシですよねえ」
「げっ、あったりまえだのぶっかけめしだ。冷たい味噌汁をめしにかけてくうようなものだが、アジを使うところがな、ミソだよな、それにやはりムギメシがいいよ」
「あのあの、セドドーさんにきいたところでは、わんこぶっかけというのがあるそうですよ」
「あああ、なんですか、そりゃ」
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一日中、探しものをしていた。気になるものが、って、チョットのことを確認するための資料なのだけど、それが見つからないと何もほかのことが手につかない。もう夜の8時になる。
といっても、メシとサケは別。サケ飲んでメシくって、探しものをしているうちに時間がすぎ。
こうやって書くと、いかにも日記らしい。日記としては、お休みじゃないかもしれないが、でも、このファンタジーな日記としては休むことになった。
資料を探しているうちに、大衆食堂的写真がイロイロ出てきた。食堂の資料も、イロイロ出てきた。ちかごろボケたせいか、というよりもともとイイカゲンだから、すっかり忘れているな。
そういうわけで、近々、その写真を掲載したいと思う。「ヨッ大衆食堂」「大衆食者の食卓」「浮世のめし新聞」など、思いつくままにデザインを変えている。
なんだかんだ、酔ってきた。ショクドーは、どうしているだろうか。どこかのスーパーで取材でもしているのだろうか、フツウのメシはみつかるのだろうか。サギドー、メシドー、みんなあやしげだ。そしてアヤシゲ新聞社とは。
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休み
メシをくうなら本もよめ
古本の世界へ旅ってのもいいよ~
早稲田古本街による
「5月度BIGBOX古書感謝市」
■5月2日(金)~8日(木)
■10:00AM~9:00PM (最終日7:00PM 終了)
■会場 高田馬場駅前 BIGBOX 1階コンコース広場
(JR山手線、西武新宿線、地下鉄東西線)
「青空古本掘り出し市」
■5月12日(月)~18日(日)
■10:00AM~7:00PM (最終日5:00PM 終了)
■早稲田正門前
おれは早稲田大とは関係ないよ~
だけど早稲田の「公洋軒」に関する最新の情報を知りたいなあ
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