本日は
先月の小諸の揚羽屋三度目の訪問を掲載しようと、揚羽屋の構成を変えたりしたので、意外に手こずってしまったよ。
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朝起きて、窓を開け払うと、外の冷気が流れ込んでくる。すがすがしい。
テーブルに座り、熱いお茶を一杯のむ。
一杯のみ、もう一杯ついで、立ち上がり、ガスコンロの上の昨夜の残り汁に火をつける。
テーブルに座り、ついでおいたお茶をのむ。
汁が煮立ちそうな気配を察知し生タマゴを落とす。
茶碗に昨夜の残りめしをもり、ガスコンロの火を止め、めしに汁とタマゴをすくってかける。
テーブルに座り、サクサクサクサラサラサラ、その味噌汁ぶっかめしをかっこむ。タマゴがトロトロ、うまい!
食べ終わり、お茶をついで、飲む。
うむっ。
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ときどき覗いたり書き込んだりしている地元系BBSでだが、その1人は50歳代ぐらいか、入院して退院したばかり。血圧と糖尿病で「結局、間一髪、クスリ漬けは免れ、食事療法で過ごすことになりました」しかし「これも辛い」。
「入院して分かったことは、若い人(男女とも)の糖尿病が非常に多いということです。重病の若い人も見ました」「病院で勉強したところ(糖尿病教室というのがあります)、ここの皆さんはラーメンなどが好物のようですが、塩分、脂肪分ともに、あまり健康的な食べ物ではなさそうですよ。脅かすつもりはありませんが、せっかく親からもらった健康な身体、小生のように損なわないように気をつけてください」「小生も若いときは身体には自信があったのですが・・・一度損なうと、一生、食事療法がついて回り、面倒です。いまさらながら、しまったな、という思いです」
うーむ、体験者ならではの言葉だなあ。
6月ごろは会社では健康診断の季節だ。アチコチで、そのことが話題になる。結果が無条件にマルというひとは少ないのじゃないかと思われる。ちかごろはとくに30歳代40歳代の再検査、精密検査が増えているらしい。
きけば、悪循環としかいいようのない生活だ。仕事が忙しい、毎日残業は夜中にまでなる、その帰りに食べるものとなるとラーメンだ。ラーメンの味になれる、すると昼間もラーメンを食べたくなるし食べる。
で、アチコチでたくさん食べれば、あそこがうまいぐらいのことは言うようになる。それが「ラーメングルメ」ということだが、ようするにラーメンのスープ、「アミノ酸水分中毒」なのだ。その「アミノ酸水分」たるや塩分と質の悪い脂肪である。それを、うまいといって飲む。カラダが壊れるにきまっている。
「グルメ」が「美味愛好」であるなら、それはおかしい。そもそも「美味」を愛するものが、単品に陥るのが、おかしい。うまいアルコール好きとアル中の違いを考えてみれば、わかるだろう。ようするに「ラーメン中毒」であって、スープが飲み干せるからよいナンテいっているのは「アミノ酸水分中毒」なのだ。そういうところには、事実、味覚文化の成長はない。そしてラーメンと肥満と糖尿が仲良しのエセグルメ文化が成長しているのである。
「しまったな」と思わないように、ラーメンはほどほどにしようね。
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キンチャラ小樽とは対極の岩見沢へ行った。岩見沢というと、毎夏開催される「ばんえい競馬」が有名だが、知っているひとは少なくなっただろう。「輓曳競馬」も「ばんえい競馬」と表記するようになった。
そしてそれ以外、コレといったモノがあるところじゃないから、フツウの観光客など行くところじゃない。しかし、コレといったモノがないところでも、そこに息づいている人びとの気持や精神つまり文化にふれることはできる。キンチャラ小樽運河やガラス工芸だけが文化じゃないのである。キンチャラ観光地は奔出した欲と、文化の頽廃をケンブツするにはよいのだが……。ともあれ、観光ブツはなにもないだろうと思われる岩見沢へ行った。
かつて数年間、東京から札幌へ月に一度は通ってシゴトをすることがあったのだが、運悪く札幌市内に宿がとれなくて、岩見沢に泊まったことがある。それが最初で、それで気に入ったから、もう一度行った。残念ながら、それから札幌へ行くチャンスがなかった。
一つは、その宿が、気になっていた。当時すでに、その「ホテル」を名のる木造二階建は渋く、大正モダンな風情があった。どうせもう、そのままではありっこないと思ったが、かつて栄えていた名残りが随処にみられた岩見沢の町もどうなっているか見たかった。
そして、スゴイモノを見つけたのである。その古さ加減からすれば、前に行ったときにもあったはずだが、なにしろ雪のある季節だったので、あまり町中をウロウロしなかったし気がつかなかった。
いやあ、スゴイ! ともかく、そのジャンクなたたずまいに、ため息が出て、しばし見とれた。
で、これは本日、「昭和の鑑賞」に掲載した。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/9413/sanpo_iwamizawa_1.htm
「昭和の鑑賞」ごらんになったことがないかたは、当サイトのトップページの右側に、ジャンプの入り口があります。
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16日午後1時半浅草駅集合で「やどや友の会」の「荒井畳店見学と下町の真相探索会」畳のことなら話が止まらない荒井さんの話にフームナルホド連発昭和20年築木造倉庫にも感動ノチ山谷地区夜の探索は荒井さんにまかせ茗荷谷BOOKMANの会7時開始ギリギリ到着「生活料理学入門」的まとまりのない話をしノチ茗荷谷駅そばのさくら水産11時過ぎの閉店までねばり帰宅ゲェ1時過ぎだあ翌朝出発の北海道旅準備して眠る。
寝たと思ったらスグ6時起床ドタバタギリギリで8時羽田発札幌行便千歳でH新聞K氏に電話会うのは18日夜になった。じゃ小樽でミーハーやるかと20年ぶりの小樽へ。ヒドイ有様でしたミーハーするを覚悟とはいえコリャあまりにヒドすぎる清里、軽井沢の安っぽいバカ騒ぎの増幅。なにせ小樽駅の到着ホームではホームの名前を「石原裕次郎ホーム」に変える命名式がイマシモ始まるところ。ナンデ小樽が石原裕次郎なのか、裕次郎には小樽のような港町が似合うという勝手な思い入れというか欲の皮つっぱり。なにからなにまでその調子で昔のようにとれたてのシャコをザルに山盛り茹でて出しソリャ食べろナーンていうカアチャンの人情を期待できるはずもなく、運河周辺のわずかな面積にゴテゴテチャラチャラ金欲が考え出せるだけのものを考え出し次々に並べたような「金欲噴出テーマパーク」のかつてのノンビリ情緒もままならない。看板や灯ぐらい規制して景観維持する気はないのか。夜景なら東京がイチバンだぞ。ツバしてクソして早々に札幌へ引き上げる。
観光地料金の小樽より札幌の方が安くて旨いものがあるとにかく札幌で飲みまくり食べまくり。もちろん今回の旅の目的地のゆりや食堂へ行ったゾゆりや食堂はいかにも北海道の厳しい風雪に耐えてきた感じの古い建物の同じ屋根の下に4、5軒の飲食店があるうちの一つ。東京なら闇市マーケット系というところだが、札幌には闇市マーケットはあったのかなあ?ラーメン400円、カレーライス350円。このいかがわし度3でH新聞K氏と北大大学院生のKさんと再会ってのがいいねでゆりや食堂のあとは背中合わせの焼鳥屋でイッパイ。それで19日もアレコレとにかく飲んで食べてバタバタ4時千歳発の便で帰ってきたというわけで、今日は疲れ休みしたいなあの気分だね。もう小樽だけは二度と行かないよ。
近日、アノ「ゆりや食堂」を掲載の予定。
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話がファンタジーにもどらなくなった。が、これもファンタジーか?
最近「工場野菜」がふえた。とくに以前なかったもので目立つのは、ホウレンソウとコマツ菜である。
どちらかといえば「工場野菜」は、ほかのものより「高級」なのだが、ここらさいたま市の北浦和あたりのスーパーでも、よく見かけるようになった。
とくに工場野菜という表示はない。が、見ればわかる。それは無農薬である。そして有機野菜とは対極の栽培法、つまり無機栽培野菜である。根っこに土がついてない。
問題は、こういうことだ。有機農法の野菜が自然に近く「うまい」、無機農法つまり化学肥料をつかったものは人工的で「まずい」という先入観があるうえに、有機農法はアンゼン、無機農法はキケンという思い込みもある。
いったい、どうしてこういうことになったのかねえ。有機か無機かによって分けられるはずはないのだ。それぞれ特徴があって、その扱い方によって、うまくもなれば、まずくもなるし、安全でもあるし、危険でもある、ということしかない。つまり人間サマの問題なのだ。
そもそもだよ、いまや有機がもてはやされているが、「植物が栄養分を無機成分として吸収するのならば、有機でも無機でも、味の面では関係ないはずなのだ」
有機肥料は植物の栄養のほかに土に力をつける働きがある。つまり植物の栄養ということなら、有機と無機の区別は必要ない。が、土に野菜を植えるから、土が問題になる。なら、水の中で育てればいいじゃないか。それが「工場野菜」だ。
安全性についていえば、有機野菜は農薬をつかわないかぎり、かなり念の入った対策をほどこし、料理のさいも念の入った処理をしないとアブナイ。それを念入りにできるほどの「マジメ」な生産者や料理者は、少ないと思う。
しかし、味は、食べて比較してみると、あきらかに違う。問題は、そこだ。では、どちらが「うまい」のか。そこで、ハタと「うまい」「まずい」の基準を考えてしまう。「本物の味」など存在しないことに気づく。どちらが「うまい」のか。おれは悩んでいる。どちらも「うまい」といいたいのだが……。
いずれにせよ、イメージで、有機野菜はうまくて安全というパターンは、ヒジョーに危険であると思う。なんでも自分で、よく確かめることだ。
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たしか久留米市だったと思う。2、3日前のWEBのニュースで見たのだが「ヤキトリ」で町おこしをするということだ。その記事を読みながらクライ気持になった。そもそも料理を町おこしの具にするなど愚の骨頂と思うのだが、電話帳で調べたら日本で一番「ヤキトリ屋」が多かったからというのが、それに取り組む根拠になっているらしいのだ。つまり「数」の論理である、文化ではない。
カレーライス、ラーメンなどというB級グルメがはびこるようになってからとくにそうだが、「何軒食い倒した」式の「数」のグルメがフツウになっている、それはまた必ず「単品グルメ」なのである。まったく程度の低い奥行きのない愚性だと思う。その愚性が優性なグルメ顔するから、さらにおかしい。
ついでに言えば昨日書いた大衆食堂の記事の「週刊朝日」だが、うしろのグラビアの最後のほうに「魂のラーメン」がある。ラーメン屋の情報と写真でもっているようなページだから、文はどうでもよいのだろうが、文は小野員裕さんだ。小野さんというひとは、だいぶ前に『日曜日はカレー日和』という優れた本があるのだが、それと比べると同一人物かと疑わしいズイブン内容のない程度の低いことを書いているので驚いた。後退しているとしか思えない。しかも肩書が「文筆業」なのである。うらやましいなあ、「週刊朝日」ってオイシイとこなのだなあと思った。彼は「数」に流されやすい単品B級グルメ流行の典型的な犠牲者のような気がした。それはまた、安易な「数」に走るB級グルメの虚しさのようでもあり、胸が虚虚するのだった。
で、「ヤキトリ」などで町おこしをしたら、また食文化の道を誤る哀れな犠牲者がふえるだけである。一方で「食育」がいわれている時代に、アホな町というイメージでしかない。食べ物で町おこしが悪いというわけではないが、単品グルメは「数」にはじまり数にしか行き着かないようなものがほとんである、未来はクライ。食は文化なのだ。
いいかげんにしてほしい。
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今週の「週刊朝日」(6月20日号)に大衆食堂の記事があるけど遠藤さんからんでいるのか、と大衆食の会の方から手紙があった(ユウビンにこだわっている人がいる、おそるべし)。
知らない、からんでいない、買ってみた。うしろのカラーグラビア、4ページをつかって、「健在! 大衆食堂」である。リード文が「早くて安い『効率』一辺倒のチェーン店やマニュアルどおりの接客を繰り返すファミレスに飽きたときは……そうだ、大衆食堂へ行こう」
おれが1994年ごろから目にした、大衆食堂系モノのなかでは、もっとも共感が持てる内容である。
掲載の大衆食堂は、サカエヤミルクホール、都民食堂、下総屋食堂、かめさん食堂、月よし食堂、八景食堂。『大衆食堂の研究』や当サイトにも登場し、あるいはその前から月よしや下総屋などは1994年頃からテレビに登場し、また最近では『東京定食屋ブック』に登場するなどで、「著名」なところがほとんどだ。
しかし、すでに知られている食堂かどうかは「グルメ情報」的には問題だろうが、この記事はそういうものではない。「ジャーナル的」つまり今日的価値としての大衆食堂なのだし、筆者は、その点よいライターらしい仕事をしていると思う。写真もいいね。
で、そのなかで、八景食堂だけは行ったことがない。が、『大衆食堂の研究』では、ちょっとだけ紹介し気になっていたので驚いた。いやあ、健在だったのだ、うれしいねえ。
『研究』を書くときに、資料として『都市住宅』1975年1月号の「駅前スコープ1975」を使っている。一冊まるまる、関東地域の駅前を写真に撮ったものだ。つまり75年の駅前における大衆食堂の存在が確認できるのである。
その横浜市、京浜急行金沢八景駅前の写真に、八景食堂は写っていた。『研究』ではそのことを紹介し、しかしおれは入ったことがなく、またその本を書くときはワザワザ食べに行く取材はあまりやらなかったので、「いまあるかどうか知らん」と書いた。それが載っているのだ。しかも、「場末の大衆食堂といった趣」といった紹介で、うううっ、すっごくソソラレルなあ。
この筆者・中川博樹さんは、情報屋的野心やケレンではなく、ジャーナルな視点を持ちながら、感覚的に大衆食堂が好きで書いていると思われる。いいねえ。
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「ジャンク度」について質問があった。これは、なんじゃ? ああ、すんません。一昨日掲載の泥酔紀行最終回に、ホテル宮又に「ジャンク度3」を進呈したい、とあるのだ。
ちょっと、サイト全体をチェックするのは大変なので、はっきりしないのだが、もしかするとほかにも「ジャンク度」が登場しているかも知れない。これは、『大衆食堂の研究』をご覧になった方は知っていると思うが、もともとは「いかがわし度」である。それを非責任にも、このサイトで「ジャンク度」というアンバイに言ったりするようになったらしい。つまり「ジャンク度3」は「いかがわし度3」のことなのだ。
と書いても、『大衆食堂の研究』をご覧になってない方には、わからないだろう。「いかがわし度」については、近々書いてサイトに掲載しようと思っていた。また、そうするつもりだが。とりあえず、『大衆食堂の研究』ではこう書いている、とだけ紹介しておこう。
………
ここで食堂の見方考え方の基準となる「いかがわし度」を整理しておこう。
いかがわし度3=ほんとうは看板も暖簾も出ていない食堂がある。そんなものはここにのせることができない。だから、看板や暖簾しかでてない店で、なおかつ昭和三〇年代のたたずまいがしっかりしているものである。
いかがわし度2=暖簾や看板しかでてない食堂。手製な小さなメニュー書がはってあることもある。どんなものをくわせられるのか、はじめてだと不安がよぎる店。
いかがわし度1=暖簾や看板のほかにメニューサンプルがならぶショーウィンドーがあったり、外から中が見通せたりする。
………
『大衆食堂の研究』においては「いかがわしさ」は重要なキーワードになっているので、ここだけ取り出すのキケンなのだが、ま、とりあえず、こういうココロなのだ、ってことで、詳しくは近々サイトに掲載します。でも、チト一週間ばかり忙しいので、そのあとね。
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昨日は、無理矢理、満足泥酔紀行を終らせた。一回の量も多かったし、それをウダウダ6回もなんて、われながらウンザリ。読んでいる方は、もっとウンザリだろうなと思った。嫌われて読者に逃げられないうちに終らせた。なーんてね。
しかし、おもふに、コチラじゃ山菜というと特別のものなのに、そしてたいがい品種のかぎられた養殖モノなのに、アチラじゃ季節の野菜として当然な状態が続いている。山菜を採って歩くのは年寄りの仕事で、それが減ってきているとのことだが、コチラと比べると店頭を見ても豊富だ。
山菜というのは、かなり独自な味覚で、とくにグルメたちによってフツウ「雑味」といって否定されるような感じの味が、むしろ持ち味になっている。いわゆる「アク」だって、それを完全にぬいてしまったら、山菜ではなくなってしまう。それから、あのシャキシャキショリショリ感だって、かなり独自である。おれはガキのころ、そういうものを大量に食べて育ったわけだが、これを大量に食べて育ったかそうでないかによって、だいぶ味覚が違ってくるのではないかと思った。
とにかく、山菜を食べる量は、いまとケタちがいに違った。今回も越前屋旅館の朝食で、味噌汁の具がワラビで、おひたしもワラビだったが、ワラビのシーズンになれば、それは毎日のようにあたりまえだったのだから。それも、たとえばワラビのおひたしにしろ、木の芽(アケビの芽)のおひたしにしろ、朝からどんぶり山盛り食べたのだ。まさに毎日毎日、山の草を山のように食べてすごすようなアンバイだった。ウシみたいじゃなあ。そういうことを思い出した。
ま、まだまだ大衆食の世界では、バラエティに富んだ味覚があるのだ。もちろん、その結果のウンコもだいぶ違うのである。
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「めしはないのですかあー」
「めしはないのですかあー」
「めしはないのですかあー」
ショクドーは目が覚めた。なんだ夢か。
同じベッドのショクドーの横にセドドーが寝ていて「めしはないのですかあー」と寝言をいっているのだった。寝ても起きてもめしのことしか頭にないセドドーだった。あーあ、ショクドーのパンツをかじっている。
そうか、夢だったのか、糺の森に絶海の孤島も朝飯島も、あるはずないよな…。ショクドーはブツクサいいながら、ヤカンに水を入れ、ガスコンロにかけた。
夢にしても、あのお茶はうまかった。やはり、まずは「おいしい生活」は、朝茶の一杯から始めるべきなのかも知れない。それがフツウの生活の起点なのだ。そうショクドーは思った。
ショクドーは、お茶を入れるつもりだった。しかし、もう数え切れない長い年月、家でお茶を飲んでない。家にお茶の葉がないことに気づいた。
なんてこった。ショクドーはセドドーの腹に蹴りを入れた。「こりゃ、お茶を買って来い!」
そうだ、なによりもまず、朝のお茶だった。フツウのめしはフツウの生活にあり、フツウの生活は、朝の一杯のお茶から始まる。そして、そこからグルメへの道があるはずだろう。仮にめしがなくてもいい、お茶を一杯のんで出勤しよう。それがスタンダードなのだ。ショクドーは、もう一発、何が詰まっているかわからないセドドーの腹に蹴りを入れた。昨夜は、あんなに舐めまわした腹なのに、いまは一杯のお茶が欲しかった。「こりゃ、お茶を買って来い! お茶の葉だぞ」
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そしてアヤシゲ新聞社のショクドーがやってきたのは糺の森の絶海の孤島に浮かぶ「朝飯島」だった。そこには理想的なフツウのメシがあるという。が、しかし、島に着くやいなやショクドーは直ちに捕えられ牢屋にぶちこまれてしまった。
「あああ、わたしは着いたばかりでなにもしていません」とショクドーがいうと、ナヨナヨニヤニヤ顔の島の役人の1人が言った「うるへえ、ここじゃ新聞社とテレビ局の人間は、食生活冒とく罪で牢屋へ入れることになっているのだ、だいたいおめえたち新聞記者は夜遅くまで飲んで、マットウに朝飯食べてないだろう、そのくせ、グルメ面して食べ歩きやがって」
朝食島では憲法によって、朝飯たべないものには人間的諸権利は、いっさい認められない。もちろんグルメたるもの、まず朝飯を食べなくてはならないのだ。ショクドーがぶちこまれたのは大きな木をくりぬいた独房だった。
そして一夜明けた朝、湯の入ったポットと茶の葉が入ったキュウスにチャワンが差し入れられた。ナヨナヨニヤニヤ顔の牢番がいった「ほら、朝食グルメの基本は、まず朝目覚めたら茶を飲むことだ」
ショクドーは朝のお茶が久しぶりだということに気づいた。一杯のんだ、じつにすがすがしい。馥郁たる茶の香りが、心地よく鼻腔をくすぐり、空気の味さえ違って感じられた。口に含んだ旨味は舌の感覚をやさしく刺激し喉へ落ちていく。こんなにおいしい味と気分を、どうして忘れていたのかと思った。なるほど朝茶は人間らしいフツウの生活の第一歩かと思った。
しかし、そのあとくると思っていためしは、いつまで待っても出てこない「あああ、めしはないのですかあー」ショクドーは怒鳴った。
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このあいだ酒の席で話題になったことだが。そもそもマットウな食事をしてない。三食が乱れに乱れ、とくに朝飯ヌキという生活をしながら、やれ玄米ゴハンが健康によいとか肉より魚がよいとか言っているのである。どうもそれはギャップがありすぎるのではないか。そうではなくて、まずは朝昼晩を、ちゃんと食べるように努力することだろうと思う。少なくとも朝ヌキを解消するとか。そういうことを積み重ねないで、乱れたなかでのたまさかの食事で「バランスのよい栄養」を追求するというのは、まったく理にかなっていない。
グルメも同様であって、行列に並んだり遠くの「有名店」へ行くのに時間はかけるが、ゆったりしたマットウな食事のために時間をかけることをしない。セカセカ食べ歩くことが「グルメ」になっているのだ。おかしい、本来グルメは、まずゆったりしたマットウな食事を愛し大切にするのではないか。ゆったりしたマットウな食事に、「おいしい」は追求されるのではないか。そこから育った味覚文化でなければ継続や成長は望めないだろう。
と、つくづく思うのだった。であるから、おれは、うふふふ、グルメを毛嫌いしているフリをしているが、じつは大変なグルメなのであった。しゃらくせえ「うまいもの談義」「栄養談義」「有機栽培モノ談義」のまえに、「マットウな時間のめし」ってことさ。
まずは「朝食グルメ」から始めよう。
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やっぱり、行ってしまった。そして失敗した。いや、アソコの魚屋である。やはり、あのオヤジが「安いよ安いよ」をやっていた。「どうカツオ、その3つ持っていきな、一つ100円にしておくよ」
カツオの刺身のコーナーには、半身のサクのほかに、4分の1のサクが3本あった、その3本をまとめて買えば300円にするというのだ。1本160円だから、480円から180円の値引きだった。モノも悪くないと思ったが、量が多すぎる。そう言うと、「たまには、タップリ食べな」とオヤジは言う、でもここのところカツオは食べ続けているからなあ。「じゃあ、これはどう、100円引いておくよ」と刺身の5点盛りを指さした。700円のを100円引くというのだが、見るとモノがイマイチだ。それに刺身に600円出す気はしない。第一、マグロが2点分のほかに、あまり好きでないサケがある。ほかの2点は甘エビとホタテとスズキとタコからの組み合わせだ。
いらんね、と頭をふって、その場を去り、肉類売場や野菜売場を見て、そうだ、トビウオが旬だし今シーズンはまだ食べてないからトビウオを焼こうと思って魚売場にもどる。するとオヤジがまたもやその5点盛りを取り上げて「200円引くよ」という。えっ200円引きかと思って、オヤジが手にしたのを見たが、やはりイマイチだしタコが入っているから、ショーケースのなかのホタテとスズキが入っているのを指さして「こっちも200円引くの」と聞くと、オヤジは一瞬ナンダナンダおれがすすめるので気に入らんのかという顔で一呼吸おいて「いいよ」といった。
そのとき、でもモノがイマイチだから、やはりトビウオにしようとチラッと思ったのだが、200円引きという数字と、自分でコチラならという態度をとった手前、もう商談はまとまったという顔のオヤジを裏切ることはできず、そのショーケースのなかの1個を取り上げた。オヤジは例によってマジックインキで、パッケージに500という数字を殴り書きし「まいど」と言った。
300円でトビウオの刺身にできそうなものを2尾買えたのに、500円も出してイマイチの刺身を買ってしまった、オヤジにつられて失敗したなと思いながら帰る。ウチに帰って、さらによくよく見るが、やはり500円に値しない刺身だった。うーむ、やられたか。オオバをタップリ刻んでかけてごまかして食べた。
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どうも近頃アソコの魚屋にハマっている。アソコとはスーパーの形態ではあるが、八百屋+加工食料品屋と肉屋と魚屋が同じフロアーで同一のレジ処理でやっているような、スーパーらしい統一性や画一性に欠けるダラシナイ安いローカルな店舗の魚屋なのだ。つまりはスーパーの魚売場のようではあるが魚屋なのである。
そこへ夕方行くと、メガネをかけた大柄なオヤジが売り場に立っていて、「安いよ、安いよ」とか言っている。おれがショーケースのカマスの前に立つと、「今日はカマスが安いよ、百円引くよ」といい、おれが移動してカツオの刺身の前に立つと「今日はカツオが安いよ、百円引くよ」というのである。
で、「じゃあ、コレッ」とパッケージを手に取ると、彼は手に持ったマジックインキで値札を乱暴に消し、値引いた値段を書いてくれる。そういう付き合いをやっているうちに、一日のうち一度は、そのオヤジのことが気になるようになってしまった。
昨日は、アジの刺身の前に立ったら、また「百円引くよ」というので、398円のアジの刺身を買ってしまった。そのパッケージを手に取ると、彼は例によって乱暴に値札のラベルにマジックを塗り、パッケージに300という数字を大きく書いた。98円の値引きだから2円たりないが、マンゾクである。今日も明日も時間があったら行きそう。そして最近は、確実に魚を食べる回数が増えている。
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どんなに忙しくても、一日に一回のサイトの更新ぐらいできるさ、と思っていたが、どうもそうではない。とくに、その忙しさに仕事とは切り離せない「飲酒」という崇高な累積疲労的行為がつきまとっているとなると。ま、ようするにトシがトシだからだろう、サイトの更新なんか毎日メシくってクソするように惰性のごとくやれると思っていたが、できないのだ。そこが、アタリマエだが、サイトの更新は生理的行為とは違うところなんだろうね。
まだ高千代酒造の五月まつりの掲載も完結してないのだが、その前に行った小諸の揚羽屋の新ネタがある、大宮の大衆食堂「伊万里」も載せなきゃ、4日には月島のもんじゃを食べ写真も撮ってある、掲載したいことがドンドンたまる……。
それに、すでに一回目は校正まで終ったが、某財界団体のPR誌に年内、月一で「江戸開府400年」を記念しての「江戸っ子食彩記」を6回連載。これが、江戸の食べ物のことだから、調べるのが大変だ。なにしろ根拠のない話ばかりが出回り流れ喜ばれ山積みだから真相がわかりにくい。どうしてこんなことになってしまったんだろうねえと感心するほど、「文化的な作り話」が多いのです。「文化的な作り話」を受け売りしてゼニ稼いできた「モノカキ」によって、食文化史はつくられたようなもんですわ。こまったもんですわ。食品の表示違反は「ウソツキ食品」と非難され会社が傾くほどなのに、「モノカキ」のタワゴトは非難されない、ええなあ、おれもそういう「モノカキ」になりたいわ。
ああ、そして今日も
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内田洋行が主宰する豪華「EducationEXPO」に「とうきょうED]の一員で参加。教員に混じってパネラーのような芝居をしてきた。
台風の風雨、会場の東京ファッションタウンに1時集合、あとの懇親会まで全て終えて帰宅したのが、夜の10時ちょいすぎか。遠いなあ。こっちも埼玉で田舎だけど、お台場も新橋汐留のむこうの荒涼たる田舎だぜ、都心を突っ切り田舎から田舎へ。
とにかく、腹がすきっぱなしの一日という感じで、懇親会では例によってタップリ飲んだ。昼食は内田洋行さんが用意してくれた弁当を食べた。おかずはバラエティに富んでまずくはなかったが、なにしろメシの量が少なくてなあ、力強くめしをくえって感じになれないまま、パネルディスカッションのようなことをやって、懇親会。あのあたりじゃ、マットウな居酒屋がないから、とにかくツマミはどうでもええという感じで、ひたすら飲みましたわ。
ま、そういうこと。
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