ロワゾーさんのお言葉
「ありふれたものを美味しく食べる」には思想があり技術がある。「食べることは生きること」この言葉は、おどろくべきことに、そして当然のことなのだが、フランスの有名な三ツ星レストラン<ラ・コート・ドール>のオーナーシェフ、ベルナール・ロワゾーさんが口にしているのだ。『NHK未来への教室 SUPER TEACHRS 明日への船出』(NHK出版)に載っている。
彼は、こう言う。「私にとって『食べる』という行為は、生きていることを実感する、一番美しい瞬間です」
彼は、また子供達にむかってこう言う。「私だって、君たちのお母さんに負けない、おいしい料理をつくりたいと思っているが、それは不可能だ! だって、誰にとってもお母さんの味が世界一なのだから!」
「ふつう民間」の料理を見下してきた日本の料理人からは、こういう言葉は聞かれない。日本の料理人には、ロワゾーさんのように、「家庭料理こそが食の原点」という思想がなかった。それはまた「ありふれたものを美味しく食べる」思想の欠如につながっている。
しかし現実の生活では、「ふつう民間」では、「ありふれたものを美味しく食べる」ことが必要とされていた。「家庭料理こそが食の原点」だった。でもそれは、現実的にそうだったのであって、確固とした思想だったわけではない。
それは、むしろ「貧しい食事」と卑下され、「ふつう民間」の料理を見下す思想のもとで、「恥ずかしいもの」という劣等意識をもたされてきた。
だから、70年代以後バブルの時代に、多少の金銭的ユトリの「中流意識」の家庭が競ってそれを捨て、きらびやかなウンチクにまみれたハリボテのグルメに走ったとしても当然といえば当然だったのだ。
日本は、あるいは日本の料理人はフランス料理から多くを学んだはずだが、この根本だけは学ばなかった。そして、こんにちのグルメは、「家庭料理こそが食の原点」「ありふれたものを美味しく食べる」という基本を欠いた、ある種、奇形な存在となった。
それは、日本料理の奇形な存在と深くかかわっている。
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