うむ
熱下がり
回復中
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「日本人も犬肉を食べているけど、たぶん量は少ないし、知らん顔しているから実態がなかなかわからないんですよ」
ソウル食堂でポシンタンを食べながらショクドーが話した。日本で犬食を聞き出すのは、なかなか難しい。何度か会って、この人ならしゃべっても大事にならないだろうと安心されるまで、聞くことができない。犬肉をくっていると、おかしな眼で見られることを意識しているし、だからこそ食べている人たちは「特別な」仲間意識で、それを隠そうとする。そもそも日本人はなんでも食べているくせに、狭量といってよいほど、偏見差別意識の強い民族である。自分のことはふせて、正義漢づらで他人を非難する。おまけに見栄を張るから本当のことはしゃべらない。食の実態は、なかなか聞き出すのが難しい。
しかしショクドーは二か所で、犬を食べた話を聞いている。どちらも山間の集落でのことで、熊や猪や、他の野生の動物の肉を食べているし、犬も食べている。一度はショクドーは、猟をやるひとの家で、一緒に犬鍋を食べた。
猟をやるが、もちろん猟師として生計を立ているわけではない。そして食べた犬は、いつも何匹か猟犬として飼っているなかで、使いものにならない犬を殺して食べるのだといった。ずっと以前から、それが普通なのだそうである。可愛がっていたものは人には渡さない、優秀な猟犬を残すには、そのようにして淘汰するのが「伝統」だというのだ。冷凍庫のなかには、熊や猪や兎の肉の塊と混ざって、犬の肉があった。
その猟師のところで食べた犬鍋より、ポシンタンのほうがはるかにうまいとショクドーは思った。食堂のひとに聞いてみると、そもそも下ごしらえがしっかりしているのだ。猟師の家では下ごしらえなどせずに、いきなり鍋にしていた。それでも、他の獣肉の鍋や汁より、犬肉はうまかった。
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昨日「ポシンタン事件」というタイトルをつけたが、ポシンタンは事件になってない。まったくテキトウだね。しかし、犬食については、賛否の議論が姦しい。
そして最近、問題になっているのは、といっても、問題にしているのは例によって「文明国」の一部なのだが、アフリカの猿食、チンパンジーである。そのことについて愛犬雑誌「犬ドー」のキャンネエ編集長は、編集後記に書いている。
「アフリカでは猿食の伝統があります。鯨よりもチンパンジーは絶滅の危機に瀕していますが、どうなんでしょうかね。彼らは猿を喰うなと言われても、鯨を食べる日本人、犬を食べる韓国人のように反論しているんだろうか。してないみたいでした。反論などとまだるっこいことせずにさくさくと捕まえては売っているようです」
またアヤシゲ新聞の「食の偏見」特集でショクドー記者は書いている。
「チンパンジーが人間に近いといっても、しょせん料理のできない動物ですから、その意味じゃほかの動物と同じで食べられても仕方ないでしょう。動物には、料理をつくれる人間と、料理はつくれない動物という違いしかなく、料理をつくれない動物は人間の食事の対象になってしまう、というのが生活的な料理的な見方だと思います。それが自然なのです。
猿は、どうやって食べるのか詳しく知らないけど、よくウマイといわれる頭を切って脳ミソをくうとなると、タブーとかなんかに関係なく、ちょっとオゲッという気分ですが……。
私は中学のときから登山を始めて高校では山岳部で、山ではイロイロなものをつかまえて食べました。可愛いウサギチャンの背中のへんの肉は生で食べてもうまくて、忘れられないでいたら、上京してかなりたってからニワトリのササミの刺身を食べたら、とてもよく似た味でした。ウサギは可愛くて食べられないけど、ニワトリのササミは食べられると言ったひとがいますが、ブスなら食べてもいいのか!殺してもいいのか!そりゃニワトリに対して失礼だと思いました。」
犬食については、韓国の大学の教授による「犬肉のホームページ」をご覧になることをおすすめしたい。犬食にかぎらず、「食の偏見」を考えるうえでもよいと思う。日本語のページがある。
http://wolf.ok.ac.kr/~annyg/japan/index.html
ところで、第二のコロッケ傷害事件は、都内のとある飲み屋で発生した。これは殴り合いだった。(つづく)
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アヤシゲ新聞社は、突然暑くなった夏にバテ気味である。もうこう暑くてはコロッケ傷害事件なんかどうでもよい気分である。そして、韓国の犬鍋つまりポシンタンは、日本のうなぎの蒲焼のように夏バテ防止夏バテ回復に食べられるという話なので、アヤシゲ新聞の数名は揃って三河島のソウル食堂へポシンタンを食べに行った。
それがしかも、アヤシゲ新聞社で発行している愛犬雑誌「犬ドー」の編集長キャンネエが言い出したことだった。その雑誌に犬鍋を食う話を載せよう、それなら会社の経費で食べられるではないかというのだ。
そんな愛犬雑誌に犬鍋の話なんか載せてよいのかという声もあったが、キャンネエは「いいのいいの、食べる文化と可愛がる文化は違うものだから」というし、しょせん意地汚い連中だから会社の経費で飲み食いできるとあれば、それほど犬に義理を通すことないだろうと、数名が揃ったのである。そのなかにはアヤシゲ新聞編集長のモクドーまでいた。だらしなく乱れた会社なのだ。
そしてかれらがポシンタンを食べている最中に、第二のコロッケ傷害事件がおきたのだった。
それはともかく。三河島のソウル食堂は日本だけど韓国だった。日本語がほとんど通じない、店の人間も客も韓国語である。がしかし、キャンネエは韓国語がしゃべれるし、彼女はすでに韓国で何度もポシンタンを食べているのだった。だが愛犬雑誌の編集長であり、犬を5匹飼っている愛犬家だった。
暑いから今日は、ここまで、(つづく)
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朝のうちに昭和の鑑賞「さすらいの昭和ジャンクメモリー」を更新したから、もう何も書く気がしない。
しかし、ネタがたまりすぎたから、しばらく頑張って掲載してしまわないといけないなあ。だけど、暑くなったからねえ。ああ。
そういうわけで、日記はなし。
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今週、アレッ、もう先週か?とにかく、そのお盆休みの週は、いろいろあった。大衆食堂ネタも、いろいろたまっている。
で、今夜、というか、もう昨夜だ。なにしろ、これは、18日の午前1時半ごろ書いているのでね、そこからすると今夜、あるいは昨夜、三河島の「ソウル食堂」で犬鍋たべてきたのだ。犬を食べるのは2回目だが、うまい! 写真も撮ってきた。
日本にだって犬食はあったのだぞ。
ってことで、徐々に、アヤシゲ新聞社の正常化を図るつもりの認識であります。
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ようするに池波正太郎は、癇癪おこして食卓をひっくり返したことがあるだろうと想像できるし、新婚家庭で食べたいものも食べられない若い男にいらだち「気に食わないものが出たら、お膳をひっくり返せ」と言ったりはしたが、自分がうまいものくいたさに、そうしてきたとは書いてない。
池波正太郎の食べること食卓への関心は、そういうことを、佐藤隆介氏のように誇らしげにするほど、うすっぺらなものではない。そして、『食卓の情景』では、その池波の食べることへの、なみなみならない心のくだきよう、そうしなければならなかった「情景」こそを知るべきだろう。
『食卓の情景』は、先に引用した「惣菜日記」の前の「巣と食」から始まる。巣とは家庭のことだ。池波の同居の母と妻は、どちらも気の強い女性で、〔もめごと〕が激しかったらしいが、その「〔もめごと〕は、先ず台所からはじまる」。
「飯のたき加減、味噌汁の味、漬物のつけ方などから、姑と嫁のいさかいが起きる」
だが、「ことに、私のような職業についている者は、一日中、巣の中ではたらかねばならぬ、いわゆる〔居食〕なのであるから、日々の食事は、非常にたいせつなものとなる」ここからがカンジンだ。
「ぜいたくをしようというのではない。おいしく食べられなくては仕事にもさしつかえてくる。気分よろしく食事をすることが健康を保持する唯一の道であって、いかにすばらしいビーフ・ステーキを出されようとも、巣の空気が険悪であっては、
(身にも皮にもならない)
のである」
池波家の「食卓の情景」がどんなものだったか……。とにかく、池波は〔巣づくり〕に懸命になる。「人それぞれに、わが〔巣づくり〕に努力しているわけだろうが、私の場合は、母と家内の〔共同の敵〕になることによって、嫁と姑を接近せしめた」
つまり「叫び、怒鳴り、叱り、脅し、全力をつくして〔悪者〕となったのである」「家内を叱りつけた翌日は、むりにも母を叱る。母に注意をあたえたときには、むりにも家内に注意する」というぐあいだった。
かりに食卓をひっくり返すことがあったにせよ、それは嫌いなジャガイモコロッケをだされたからというような、それほど脳天気な話ではないのだ。
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佐藤隆介氏のように、自分の嫌いなものが出たぐらいで、池波正太郎の「教え」をたてに、お膳をひっくりかえされる主婦は悲惨である。そのような食卓に食べる愉しみは育つのだろうか。そういうものが育たない食卓で料理のうまいまずい、ニセモノホンモノの話が、どれほど意味をもつのだろうか。
池波正太郎にとっても迷惑な話だろう。池波は食べ物の好き嫌いをいうことを恥じていたはずだし、あるいはお膳をひっくり返したことがあったかも知れないが、それは若気のいたりで癇癪もちが爆発したことがあったであろうと想像つく程度の表現にとどめている。佐藤隆介氏が「教え」をいうなら、こういう池波をこそ、「教え」にすべきだろう。
つまり、『食卓の情景』の「惣菜日記」には、こう書かれている。
………
また、ひどくまずいものを食べさせられたときは×印をつけておく。
ときには、
「……今日の夕飯は、身にも皮にもならなかった」
なぞと、大仰なことを書いている。
これは家人の眼にふれることを意識してのことで、
「こんなものを食べさせられていては、とてもとても仕事がつづかぬ。家族を養うチカラもわいてこない」
と、つづけたりしている。
このごろはもう、そのようなことを書いてはいないようだ。
また、以前ほどに膳の上を見て、いきなり癇しゃくをたてることもなくなり、なんでも食べようという心境になってきている。
………
私も少年のころは、なかなかの偏食であったらしいが、戦争中、海軍に入って、それがほとんどなくなった。
………
そして、池波正太郎は、コロッケのジャガイモは「間違いだ」なんていう言い方をする人間では、断じてない。
おなじ『食卓の情景』の「京の町料理」で、池波正太郎が馴染んできた東京下町風の濃い味付けを、旅先の料亭で味わってのことである。
………
心身を惜しみなくつかい、汗水をながしてはたらく町民の舌が、そうした味を要求するからだ。
………
と、味覚の基準を「心身を惜しみなくつかい、汗水をながしてはたらく町民」においている。であるから
………
私は、他国や他家の料理や食物の悪口をいわぬようこころがけている。
これほどに愚劣なことはない。
人の好みは千差万別で、それぞれの国、町の風土環境と、人びとの生活によって、それぞれの好みがつくられるのだ。
………
という。
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吉行淳之介の「贋食物誌」は昭和48年(1973年)12月11日から翌年の4月10日まで「夕刊フジ」に連載された。ちょうど100回分。山藤章二のイラスト。74年10月新潮社から単行本になり、78年新潮文庫。
………
あの二十五円くらいのコロッケは、うまい。なまじ、値段が高くて肉の多いものは、私の趣味には合わない。ジャガイモが大部分で、ときどき肉ともおもえぬ小さなコリコリした粒が歯に当たるものあよい。
この小型判のコロッケに、ソースをだぶだぶかけて、熱いめしのオカズにする。
ソースはウスター・ソースにかぎる。トンカツ・ソースとかいう、甘くてドロドロしたものは戦後の産物で、昔はああいうものは存在していなかった。
私がそういう見解を述べると、ある食通(とくに名を秘す)が反対意見を出した。
「そんなのはダメだ。コロッケというのは、まるくふわっとフクラんで、中身がとろりとしたものでなくちゃ、食べられたものではない」
そういうものに旨いのはあるが、私が問題にしているのは「コロッケ」のことで、その食通のいうのは、しいていえば「クロケット」とでもいうものか。
こちらが塩せんべいの話をしているときに、生クリームを使ったケーキを礼賛しているようなもので、だから食通は困る。
………
吉行淳之介は、こう述べる。しかし、それから20年以上もたって、まだ佐藤隆介氏は「そもそもコロッケはジャガイモで作るものと思うほうが、私にいわせれば間違いである。本来は安上がりの庶民のおかずどころではなく、非常に手の込んだ本式フランス料理の一品なのだ」というのである。「こちらが塩せんべいの話をしているときに、生クリームを使ったケーキを礼賛しているような」愚がくりかえされる。
佐藤隆介氏は池波正太郎を「師」と呼んではばからない人だ。そして、………「気に食わないものが出たら、お膳をひっくり返せ。さもないと一生うまいものは食えないぞ」と、池波正太郎は教えている。その教えを早いうちに実行した………とまでいう。すでに述べたが、この引用の仕方は、間違っている。そんな「教え」は佐藤隆介氏の勝手な解釈にすぎない。
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昨日、新宿でとうきょうEDの研究会があり、のち懇親会、のち懇親会二次会でションベン横丁の「きくや」へ久しぶりにゆき、泥酔状態帰宅。「きくや」には、まだ鯨メニューがあり、その刺身を食べたことだけは覚えている。
そういうわけで、よってくだんのごとし。
激しい二日酔いで何もする気がしないので、とりあえず宣伝でもしておこうか。
本読み活字中毒者たちのメルマガ、「書評のメルマガ」の8月10日配信の号から1ヵ月おきに、「食の本つまみぐい」を連載。1回目は、ここでもたびたび話題にしている『庖丁文化論』。
「書評のメルマガ」の購読申し込みとバックナンバーはこちら。
http://www.aguni.com/hon/review/index.html
まぐまぐから無料配信だから、よろしく。どんどん宣伝も、よろしく。
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セドドーはコロッケが山盛りの大皿を、モクドーが原稿を書いている机の上にドンと置いた。
「うーん、たまんないねえ、これだよこれこれ」モクドーは素早く一個をとってほおばる。
コロッケの表面には微妙に焦げ目がついている。強いバターの匂い。バターをタップリひいたフライパンでコロッケを焼いたものだった。
セドドーはヤマザキの食パンの袋とウスターソースを持ってきていた。その食パンの袋を無造作に破り、一枚にコロッケをのせ、ウスターソースをたっぷりかけ、もう一枚をかぶせると、アングとかぶりついた。
「それでだね、コロッケのこの食べ方だよ、冷たいコロッケをあっためて食べるのね」モクドーが口をモクモクさせながらいった。
「それは、五木寛之もやってましたね」とセドドーもモグモグ。
「そうそう、吉行淳之介の贋食物誌のコロッケのとこに出てくるよね……五木寛之のエッセイを読んでいて、思わず笑い出したことがある、ってやつさ」
「テレビ局から電話がかかってきて、私の得意料理というようなタイトルの番組に出てくれといわれる」
「そこで五木は”得意な料理はあります”と答えるね」モクドーは三個目のコロッケをとる。
「どういうのでしょうかとテレビの人にきかれて、五木は説明する。テーブルの上にトースターを出す。その前に、前の晩にコロッケを買っておかなくてはならない」
「一晩おいて冷たく固くなったコロッケを、両の掌のあいだで、トースターに入れられる厚さに押しつぶす。それをトースターに入れ、レバーを押しさげる」
「こういう話、いまのオーブントースターを使っている連中にわかりますかねえ」
「わからんだろうねえ、でも、とにかく、そうやって焼くということがカンジンなんだよね」モクドーは五個目のコロッケをとる。
「焼きあがったコロッケを皿にうつし、ソースをかけて食べる」
「あっ、セドドー、おまえペースはやすぎるぞ、いくつ食べたア」
「そんなことありませんよ~、社長こそ」
アヤシゲ新聞の社長モクドーと専務セドドーのコロッケ上に暗雲ただよう。ああ、なんとあさましき新聞社なのでありましょうか。(つづく)
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メシドーは便所から出て六畳の広さのダイニングキッチンのテーブルに座った。一通の封書がのっていた。妻の姿は見えない。
封書には差出人の名前がなかった。封を切って便箋を取り出す。いきなり万年筆の達筆で本文がはじまっていた。
「本らしい本は沢山売れる本ではない」と私は言ってきた。しかるに池波正太郎ごとき沢山売れる本の著者を「師匠」などと奉り、いったいこの男は「師匠」の意味がわかっているかと言いたいのだが、佐藤某のことだ。私設秘書だか腰ぎんちゃくだかわからん男が、「池波正太郎の食卓」などと題して、池波のことを正確に書くならともかく自分のことを偉そうに書く。それを読んで、食卓を引っくりかえす愚かをするものがいる。「グルメ」とは、しょせんそういうものではないか。
それで終っていた。著名がない。メシドーの視線は宙をさまよった。「本らしい本は沢山売れる本ではない」という言い方は、山本夏彦ではないか。しかし、山本は、すでに鬼籍のひとである。屁が一発でた。便所から出たばかりなのに、実と屁は関係ないらしい。
とつぜん、となりの部屋でうめき声した。妻の声だ。息が止まりそうな様子だった。メシドーが板の引き戸をあけると、妻が床でのたうちまわっていた。かすかに「水」といっているのがわかった。メシドーは周辺にちらばっているコロッケを見て、すぐさま事態を覚った。一瞬、そのまま妻が死ぬかもしれない、それを見守りたい誘惑にかられたが、また一瞬のうちにその気持を否定し、水道の水をくみにもどった。
メシドーは、ジャガイモが嫌いだった。カボチャも、サツマイモも嫌いだった。佐藤隆介氏とおなじなのだ。
アヤシゲ新聞社の社長モクドーは、モクをモクモク吸いながら原稿を書いていた。
……佐藤隆介氏は食べ物について書いているが、グルメだからではない。いわゆる「池波正太郎モノ」の作家なのである。
「社長、できましたよ、どうです、この色、この香」
専務のセドドーが大きな皿にコロッケが十個以上あるだろう、持って社長室に入ってきた。
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