言葉の理解
人間は、その所属する集団のなかでモノゴトを考え、モノを言う。それを理解して、その言葉を理解しなくてはならない。しかし、それをしないで、自分の都合で、その言葉を用いることはよくある。
そして一方、このアタリマエのことがわかって、自分の実になるようにひとの言葉をヨミ、より人びとの幸せになるように、その言葉を用いるひともいる。
ブリア=サヴァランの言葉などは、世界中でよく使われているが、そのようにブリア=サヴァランを、もっともよく理解していた日本人は、書いているものを見た範囲内ではだが、開高健さんではないかと思われる。彼はブリア=サヴァラン『美味礼賛』の「新しい御馳走の発見は人類の幸福にとって天体の発見以上のものである」の箴言を用いて、『新しい天体』という「食味小説」を生んだ。それを読むと、つくづく、ひとの言葉をよく理解することの大事さ大変さがよくわかる。
今日は、イラクで死んだ政府の役人の葬式で、その人が言った言葉を用いてキャンペーンが始まっている。最初から政府が2人の死をどう利用しようかという意図はハッキリしているのだが、あまりにも露骨で、いささかウンザリである。
1人が「いまさら引き下がれない」と友人にしていたメールの一言を取り上げて、それを「強い使命感」だとしている。それは死人に口なし、一度肉体を離れ文字になった言葉は1人歩きするのたぐいを、勝手に利用する例だろう。
「いまさら引き下がれない」は、そういう状況に陥っているという、それはまさに彼が所属した集団である政府が、強引にコトをやった結果を表しているにすぎない。それを「強い使命感」などというのは、生き残っている政府の人間の身勝手だし、彼が陥った、そのように極まった苦境を国民全体のものにしようという政府の意図の働きにほかならない。死人の言葉に対して、あまりにも稚拙。
おれはかつて山岳部に所属し登山をよくやって、山で死んだひとの葬式に何度か出た。決まったように「山で死んで本望だろう」「勇敢だった」「男らしかった」というセリフが出る。しかし、それでは山の遭難死は減らないわけで、慰めとしてそういうことは言っても、もっとキチンと自分は同じ遭難はしないようにしようと考えるものなのである。それがアタリマエというもの。彼が生前、仮に「山で死にたい」といっていても、その遺志を継ごうなんていうひとはいない。生命は貴重なのだ。
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