アジノモト荒野
女…アジノモトはイケナイということでしょうか。
男…イケナイということじゃないね。アジノモトが味覚の根っこのところ、基本的なところをつくっているものについては、それが拡大すると味覚文化にとっては荒野をつくるだけだということを、いまは話しているだけ。
女…ラーメンは、最近は、アジノモトの類をつかわないものも増えてますよね。
男…しかし、それは、いくつか問題があるんだなあ。その話はいずれにやることにして。どのみち、いまのラーメンブームは、アジノモトで普及したマーケットにのっかって、つまりアジノモト文化から生まれたものではある。「レベル」の高さを決める、その舌の文化の根っこにアジノモトの味覚があることは否定できない。そもそもカリスマが存在できうるということが、その証明だよ。カリスマというのは、カリスマがよいという味をほかの大多数が熱烈に支持して、カリスマになるわけだけど、つまりそれは「レベルが高い」というけど、もっとも幅広い支持のある味で、言い方を変えれば個性がない。そういう構造がなぜできるかというと、もとのところの基準にアジノモトがあって、すると、それは同時にアジノモト的でないところへも一緒に動いていく構造であるにすぎないということだね。アジノモトを克服しているわけじゃないのさ。
女…個性的な味も、カリスマが褒めることで、広く受け入れられるということがあるのではないでしょうか。
男…それは一般的にはありうるけど、ラーメンや清酒にとっては、いまのところ、そういうキザシはないね。それはラーメンや清酒を別々に考えていたのでは、この「荒野」問題の本質的なところは、わからないのだよ。アジノモトが根っこのところにあるマーケット全体を見ないとね。とくに、ラーメンも清酒も「汁モノ」という面があるわけだけど、そういう意味では、アジノモト味で、どんどんいろいろなものがつくられている飲料水のたぐいとの関係は見逃せない。アジノモト味の「汁モノ」への中毒といってよいほどの執着が、ラーメンブームの背景にあると思う。
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