竹屋食堂の客になって10周年記念たわごと
気がついたら、竹屋食堂の客になったのは、1994年の春だったから、ちょうど10年である。ので、ちょっと感傷をこめて「竹屋食堂への伝言」を掲載した。
思い出はイロイロあるが、あのころ、都内ではホームレスがどんどん増えていて、「社会問題」になろうとしていた。ビートたけしなんていう野郎がテレビで偉そうに、「あいつら、働く気がないのだ、働く気があるなら、タクシーの運転手だったらいつでもなれる、いつも募集しているじゃないか」と、いっていた。たけしは、タクシー運転手をやったことがあるのが自慢の野郎だ。
ホームレスは、「社会的弱者」であるうえに、そのように「働く意志がない人間」と誹謗・中傷され、バッシングを受けていた。そのころから、マスコミは「強きを助け、弱きをくじく」バッシングに熱心だったのだ。それは、おそらく、増加するホームレスを「社会問題化」したくなかった政権や失業を排出していた財界の腹と同じだったであろう。
ちょうど竹屋食堂にいたときテレビで、そのビートたけしと同じようなことをいっていた。そこに、いまはリストラでなくなってしまったが、当時竹屋食堂のそばにあった、タクシー営業所の運転手たちが食事をしていた。
その一人が「おれたちは、ホームレスになる前の雲助さ」といった。別の、10年以上タクシー運転手をやっている人が「一生しがない雲助です」と相づちをうった。
マスコミや、そこで偉そうにしているタレントたちの独善的な言論そしてバッシングは、職業の優劣観がつくる構造の頂点に近いところで成り立っていた。
そして、じつは、日本の「マスコミ」は、タクシー運転手ほどにも自立してないのである。巨額広告主である大企業にソッポをむかれたらオシマイという商売なのである。自民党にしても、あれほど企業献金が政治腐敗のもとであるといわれながら、そしてその腐敗を断ち切るために設けられたハズの政党補助金を受けながら、まだ企業献金ナシではやれないでいる。
職業優劣観の構造の頂点に近い部分が、もっとも自立していない。その構造は、日本でマットウな言論が行われない、1つの原因になっていると思うのだが。
だから、人間は一生ホームレスでもいいのだよ、職業を拒否する価値観も、働かないという美学も、怠けるという美学も、堕落の美学も、人間だもの、あってもいいのさ。という話に、なかなかならないのである。
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