「素材」センチメンタリズム
ある料理人と飲んだときだ。かれもおれも、かなり酔っている。
「ヤキトリは、塩とタレ、どちらで食べるの?」
料理人がおれにいった。おれは、そのあとの話が想像ついた。だから、ワザと、こういった。
「もちろん、タレさ」
すると、想像どおり、料理人は、こういった。
「なーんだ、それじゃ、うまいヤキトリ、食べてないね。ホンモノのヤキトリはね、塩で食べなきゃあ」
「おや、タレで食べるのは、ホンモノじゃないとでも?」
「だって、そうでしょ、タレは肉のホントウの味を殺すでしょ、塩で食べてうまいヤキトリこそ、ホンモノでしょう」
「つまり、素材がよくなくてはいけないと」
「そりゃそうでしょう、素材のよいヤキトリは塩で食べる、これはね、よいコメのメシは塩さえあればおいしく食べられるのと同じですよ」
「しかし、それじゃ、タレはどうしてできたの、ヤキトリをうまく食べるためだったのじゃないのかい」
「それは、むかしの肉は臭いし、まずかったからでしょう」
「では、いまの肉のほうが、むかしの肉よりよくなったとでも?」
「うまい肉をつくる技術は、むかしよりいまのほうが進んでいるでしょう、コメだって同じじゃないですか」
「しかしだよ、食べる人間の味覚は、どうなんだい、いつものあんたのセリフだと現代人の味覚は、コンビニフーズや給食でおかしくなっているんじゃないのかい。つまりだな、その素材をうまいとする味覚は、大丈夫なのかってことだよ。それに、あんたのリクツだと、料理人は生産者になったほうがいいんじゃないのか」
「いやあ、今日も酔ってからんでしまったなあ」
「おいおい、いまおれがからんでいる最中なのに、立場を勝手にかえては困るなあ」
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