山口瞳の「食べもの論」
最近ちくま文庫から刊行された荻原魚雷さん編の『吉行淳之介エッセイ・コレクション 1 紳士』を読み終えたら、なぜか山口瞳の『男性自身』を読みたくなって読んでいる。手元にあるのは、1965年発行の68年5刷版だ。その「カレーライス」
以下引用……
カレーライスというものはどの店でも味がすこしずつちがう。どこの家庭でもつくるが、どこへいって御馳走になってもすこしずつ味がちがう。
どの店でも味がちがうということは不安であるはずなのに、私ははじめての店ではカレーライスを注文してしまう。なぜかというと、カレーライスはまずくてもいいからである。ちぇっ、まずいね、このカレーライスは、と思ったことがない。まずくてもいいのである。まずければ不味いなりに妙味があるから妙である。
……引用おわり
ふりかえってみると、食べ物の話や食べることの話になると、「うまいもの好き」が「うまいもの」について語るのがアタリマエのような風潮になったのは、グルメブームの80年代以後のことだろう。そして、「うまいもの好き」が大手をふるようになった。
しかし「うまいもの」を語れば、「食べ物」や「食べること」を語ることになるのか、といえば、もちろん、そうではない。それは、ホンノ一部なのだ。「食べ物」や「食べること」は、「うまさ」という、うすっぺらな話ではすまされない「妙味」がある。それは、人生や生活には、「成功」という言葉だけでは語れない「妙味」があるのと同じだろう。「うまいもの好き」とは、そういう「妙味」のわからない連中である。
山口さんは「食べものなんてそんなにうまいものである必要はない」と、くりかえす。
おもえば、食べものの話をつまらなくしたのは、「妙味」にアタマがおよばない「うまいもの好き」たちではないか。
ま、なんにつけ、通ぶるなんて、イチバンかっこう悪いことだ。
それにしても、吉行淳之介と山口瞳は、どこか似ている。とても、かっこいい。
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