妙味といふこと
また昨日の続きだが。山口瞳さんは、こうも書く。
「関西人と食べものの話をするのはあじけない。どこかで話がくいちがってしまう。つまり、私にとっては、食べものというものはそんなにうまくなくていいのだ、というあたりの心持ちを理解してもらえないのだ。このへんが肝腎なところである。なぜ食べものはうまくなくてはいけないのだろうか」
「関西人と」というのが気になるが、最近は、どうも食べものの話をすると味気ない思いをすることが多い。そして、おれが「大衆食」なるものをやっていることがわかると、相手は必ず食べものの話をするのである。
で、それは「食べもの」の話ではなく、「うまいもの」の話なのであって、ナニナニはドコドコのものよりドコドコのものがうまい、とか、やはりドコドコのシュンにはかなわない、とか、ナニナニはこうやって食べるのが基本でコンナ食べ方は邪道だとか、そういう話になる。会話としての妙味もなければ、食べものの話としての妙味もない。テキトウに相槌はうつが、腹の中はウンザリしている。
ときたま、ガマンして聞いたあとに、「おれは、うまいものに興味はないんです、興味があるのは快食ってことでしてね」と、切り返すこともある。
じつは、ちょっと話はちがうかも知れないが、最近、すごくウンザリしたことがある。
あるところでタケノコを食べたのである。東京では姫タケノコといわれるものなのだが、その地方では5月ごろが最盛期だ。その姫タケノコを皮がついたまま炭火で焼いて、そして皮をむいて調理した味噌(味噌と酒かミリンを混ぜたていどでもよいのだが)を付けて食べるというのが、楽しみで、これは、その地方へいけばフツウのことで、おれは、その地方の、いわゆる田舎味噌の味も楽しみだった。
しかし、今年、それを楽しみに行くと、いつも、そのように食わせてもらえるのに、今年は味噌ではなく、塩がついて出てきた。おれが食堂のオヤジに「アレッ、いつも味噌だったけど」というと、「いや、このあいだ○○というテレビに出ている料理人がきて、こういう採れたての山菜は味噌でなんか食べるものではない、それじゃ素材のうまみを殺してしまう、塩で食べなさい、というんでね、味噌はやめたのさ」というのがオヤジの答えだった。
おれはそれ以上はなす気もせず、味噌を出してくれという気もおきず、かといって残すのもワガママのようだから、そのまま味気なく食べて、悲しみにヒタヒタひたりながら帰ってきた。
まったく、味気ない話さ、味噌味には味噌味の妙味というものがあるだろう。こんな世の中に誰がした。
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