栄養学なんて「食」とは縁もゆかりもございません
昨日、おれはマコトさんの日記にコメントを書いた。
http://dan21.livedoor.biz/archives/4240212.html
すると、マコトさんはコメントをかえしたくれた。それが、こうだ。
「エンテツさん コメントありがとうございます。 栄養学なんて「食」とは縁もゆかりもございません。 奪還闘争、がんばりましょうぜ」
がはははははは、あいかわらず、カゲキかつ挑発的じゃなあ。
でも、笑い事ではないのだな。
もちろん、必要なのは、「食を愉しむこと」なのである。しかし、とりわけ近年、「食を愉しむこと」の障害として、「インチキ・栄養学」と「インチキ・グルメ」が食事と料理の分野にはびこっているので、こういうカゲキな表現にならざるを得ないということなのだね。
すでに、この問題は、過去、1980年代の後半に、とくに料理の面から江原恵さんが、批判的な検討を加えている。いわく、「栄養士制度が広めた『栄養食餌学』」そして、学校給食は「栄養配合食餌」であると。
本当は、食事の効率化のために「貢献」した「栄養食餌学」は、学校給食だけではなく、効率社会のための効率的な食事、つまり加工食品や産業食品や外食産業の普及と供給に、もっとも「貢献」してきたのだ。
そこには、「食を愉しむ」あるいは「食は愉しむものだ」という思想とは反対の、食は栄養的に満たされていればよいのであるという、食事と料理の主体や固体差を無視した、じつは、これは日本で特殊な「栄養学」が誕生し成立する独特の思想なのだが、食事を「食餌」としか考えない思想が根強くある。そのために、どれぐらい日本の食文化が破壊されてきたか、自覚する必要があるだろう。
で、だから、江原恵さんは、『料理の消えた台所』と『家庭料理をおしいくしたい』で、料理が消えゆく台所、家庭料理の衰退の元凶に、「栄養士制度」を見たのだ。それは、すでに、20年前のことだよ。
しかし、この問題は、かなり近代日本の成立あるいは「日本的デカルト主義」(この言い方は正確ではないかも知れないが、約、その種のものということで)に関わって、根深いものがあるのだなあ。
たとえば、マコトさんの日記の、「『健康志向』からいかにして降りるか」をコメントも含めて見て欲しい。
http://dan21.livedoor.biz/archives/1097360.html
マコトさんは、『談』という雑誌で、この方面のことを精力的にやっている。やや、哲学的と申しましょうか、学究的専門的だが。食事と料理の根源に関わって、大事なことなのだ。
ま、「健康志向」や「長寿志向」から、いかに降りるかが、よりよい食事と料理のためにも課題になっているわけだ。それには、いろいろな方法があるだろう。栄養教諭だけは、いらないが。おれは「快食」というコンセプトをあげている。
いま朱雀正道さんが「コンビニ研グルメ班日記」で精力的にやっているような、これは「学校給食を軸とした、ニッポン食文化変遷史」というタイトルになっているが、
http://d.hatena.ne.jp/sujaku/20040716
体験的な個人史的な食文化史ともいえるものであり、固体差のある肉体にからむ食文化史としては、このようにして「自分の」食文化史を持つことが、「食を愉しむ」ために意義あることだと思うのだが、どうだろうね。こういうことをやることで、「健康志向」や「長寿志向」に「抵抗力」のある自分をつくれるのではないだろうか。
とにかく、「食を愉しむ」ということを、もっと主体的に追求しなくては、ってことなのだね。
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