目黒のサンマ
15日の日曜日のことになるが、下北沢の北沢八幡で一か月おきにある立川談四楼の独演会へ行った。今年になって初めて。後援会員の太田尻家に同行だ。
ひさしぶりに「目黒のさんま」を聴いたが、談四楼のは、けっこうおもしろい。「上」と「下」ではまるでちがうのである、「下」のものが「上」の生活などわからないように「上」は「下」の生活などわからない、そして、どうも「上」の人間の生活とは不合理で奇妙なものであるというワサビが、かなりきいた話になっている。そのワサビをきかす要素が、料理であって、「上」の料理は、サンマまでも骨抜きにしてしまう、ということなのだ。そこんとこを、前ふりの段階からやっている。
つまり前ふりで、サンマの缶詰を食べる話をする。とくにトロサンマの缶詰がよい、それを開け、器になんぞうつさないで、醤油と七味をかけて食べるとうまい。「邪道だがマヨネーズをかけると、さらにうまい」、これで一杯やるとたまんない。そして残り汁をめしにかけて食べると、もう大満足である。というような話を、かなりうまくやる。これが、「下」の庶民のオイシイ生活であると。しかし「上」の料理というのは、まったくちがうのである。サンマなどは「下魚」といって食べない。と、本題にはいる。
最後に、どの噺家もやるように、殿様が「サンマは目黒にかぎる」というオチであるが。目黒でとれるサンマではなく目黒で食べたに過ぎないサンマについてそういう、そのバカバカしさ、つまり、実態にかかわりなく観念的な産地でよしあしをいう習慣が強烈に皮肉られる結果になっている。缶詰でも、うまく食べればうまいのであるという話が、ホネになって生きるのだ。
この話を、聞きながら、かつて食品のマーケティングの仕事をしながら、本膳料理や懐石料理など「上」の世界の「プロの日本料理」を規範にし、それを家庭に持ち込もうとする料理学校のありかたにギモンを持ったころを思い出した。
あれから約30年すぎて、缶詰のサンマをうまく食べたりするような話をする料理の先生も出てきたり、ま、おれの汁かけめしの話が本になるようなことにはなっているが、まだ世間の「通念」としては、タイやヒラメの刺身が上等で、ナントカはドコドコにかぎるといったことや、冷凍食品や缶詰は下等で手抜きであるといった、産地信仰やプロ信仰や新鮮信仰が、けっこうハバをきかしている。
生活は庶民でありながら、なぜか「上」の観念のモノサシをありがたがるのだなあ。かくて、幻想と現実のギャップは、ますます拡大するのだなあ。
昨夜は、キャリナビの大学生たちを前にしゃべってきたのだが、このへんの料理の話は十分にできなかった。
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