あるプロジェクトの仲間のマリリンが書いている。
はなしはかわって、野菜が高い。
テレビで騒いでいるように、レタスは500円。絶対に買えない。
でも、不思議なのが、そんな中でも、インターネットで有機野菜などを見てみると、値段が以前と変わらない。今なら有機野菜のほうがはるかに安い!しかも、おいしいし、断然体にも良い。
最近、ジュースの材料として、にんじんとりんごを箱ごと取り寄せたのだけど、スーパーで買ってきたにんじんと、無農薬で育てたいびつで泥だらけなにんじんを、それぞれ生のままかじってみると、その味の違いに驚いてしまった。スーパーのものは、スカスカな口当たりで、甘みも少ない。形だけをみると大丈夫かなあと思ってしまう(多分、こちらが普通なんだろうけど)有機にんじんは、ぎゅっとにんじんさんが詰まっている。あまい。もう、スーパーでなんて買えない!って思ってしまう。りんごも、見た目はぼろぼろだけど、これが甘くておいしい。
オーガニックに凝りすぎてしまうのも、何かなあ、なんて思っていたけど、こうも違いがはっきりしていて、しかも、今ならオーガニックのほうがお買い得となると、使わないわけにはいかないですね。
1990年前後、おれは九州の熊本県宮崎県境の山奥で、無農薬有機栽培食品の生産と販売をつなぐシゴト、と自分では認識することをしていた。それだけではないのだが、そういうことをやっていた。
細かくは省略するが。無農薬有機栽培のキュウリを扱ってくれるスーパーが見つかった。自分が子供のころ食べた、アノしたたるうまさのキュウリを、ぜひ売りたい、見た目が悪いのは覚悟のうえだ、でも、あのうまさを店頭で売りたい、という、そこそこ有力なローカル・スーパーの、やる気のある若い仕入担当者と出会ったのだ。
しかし、そこへの出荷を可能にする生産体制がなかった。そこで、ある地区の、キュウリ栽培グループに相談をした。その地区は、そういうマットウな農業に熱心なリーダーがいた。彼と、そのグループの会議に参加した。そしておれは、無農薬有機栽培のキュウリの需要状況、必要としているスーパーの紹介などして、生産出荷体制の相談をした。
そのリーダーは、「一回ぐらい農薬散布してもいいや、ということじゃだめだよ、「無農薬有機栽培」という信用で出すのだから、一回も農薬を使ってはいけない」といった。
すると、ある農家の女性がいった、「話は、わかるけど、そんなこといっても、私らが県の呼びかけで行った朝市では(ここで彼女が言ったのは、その県の県庁所在地である)、自分たちが毎日食べている、農薬も化学肥料も使わないキュウリを出しても、見た目が悪いと言って誰も買わなかったよ、本当に売れるの、大丈夫なの」
また、この話の続きをするとして。まもなくミカンのシーズン。そのころ出会った、高岡さんのみかんのことは、「ザ大衆食」のコチラに紹介しています。このミカンも、そのスーパーで売ったことがあるのだが、最初は「見た目」が悪くて苦戦した。
http://homepage2.nifty.com/entetsu/takaoka.htm
無農薬有機栽培食品については、これは、大きな関心と話題にはなっていても、イマの日本のベーシックな体制つまり庶民の日常生活の体制ではないのだから、いろいろ難しい問題を抱えている。でも、マリリンのように、消費者が自分での舌とアタマで主体的に判断していくことが、これから、ますます必要になる。と、思う。
それは、生活を主体的に「つくる」ということではないだろうか。「無農薬有機栽培」かどうかより、マズ、自分の生活を主体的に判断する、ということが基本だろう。と、思う。
おれは、イマのアメリカ産牛肉輸入禁止措置も、解禁、この解禁がクセもので、高級牛だけの解禁という、いかにも政治取引な、そのために「日本国民」の「安全意識」が利用される、そういう事態を、じつに腹立たしく思っている。前から何度も書いているように、日本だけ特殊に過剰な「全頭検査」は、日本であのようにBSEが発生し、そしていまも発生している根本問題をはぐらかすものでしかない。
いま発見されている日本のBSE牛は、全頭検査でなくても、「国際基準の検査」で発見可能ではないか。それが、全頭検査のおかげ発見されているようにいい、そのことで日本の牛肉は安全が保たれているようなフリこそ、欺瞞である。そもそも、どのていど「危険」なものなのかの、科学的な根拠すら示されてない。これは、いったい、どういう「騒ぎ」なのだ。気休めなのか?
「高級牛」だけ「解禁」で、庶民生活に最も関係する牛丼用の「安物」は禁止のまま、とは、どういうことなのか。これは、政治取引以外のなにものでもない。そういうことに「安全意識」が利用されてよいものだろうか。