いまのグルメは、将来に何を残すか
飲食には時間が必要だ。A店へ行ってBを食べているあいだは、A店以外のことはわからない、A店でもBを食べている時間には、B以外のものを食べていないことになる。外食ですませば自分でつくらないし、自分で料理して食べれば外食しない。こんなことは誰にもわかりそうなものだ。
ところが、通ぶりたい、知ったかぶりしたい人間は、そのことが、わからないらしい。だから自分があるものを飲食しているあいだに、ほかの人はあるものを飲食している、自分がイマやってない体験をしているということに思いをはせない。ま、それだから、自分のわずかな体験を中心にして、平気で自慢ができるわけだが。
たとえ、100歳まで健啖をふるっても、ひとりの人間が一生のあいだに飲食できるものなんて、たかだか知れている。
だから、どう生き、どう食べるかが問題だと、おれは思う。そして、酔って寝るのだ。いや、酔いながら、こんな話をしていたな。
男「いまの小学生が大人になったころには、ごはんにみそ汁なんてことは、なくなるでしょうかね」
おれ「ぬかづけの衰退ぐあいからすれば、食糧生産と供給の事情が変わらないかぎり、ま、いまの食生活やグルメ騒ぎは続くだろうから、そういうことになるだろうねえ」
男「さみしいねえ」
おれ「さみしいと思うのは、トシとったということさ」
| 固定リンク | 0
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
このあいだ飲み屋で、となりにいた2人の50歳過ぎの男。話の内容からすると銀行員。片方が、蕎麦打ちを始めて半年ばかり、片方は、もう20年やっているとかで。ま、その話は、いずれ書きますが、およそ想像いただけるでしょう、そういう話をツマミに飲みましてね。それで、こういうことを書いてしまったのですが。
どうもホントウの蕎麦の味を知っているかどうかで、人間の優劣を測るとはね。でも、そういう話は、よく食通談義にあるような。
食べたいとき、食べたいものを食べる。1個のカップラーメンがスゴクうまく思うときもある。
しかし、イマ、野菜が高いのには、まいったなあ。
投稿: エンテツ | 2004/10/22 23:30
一生のうちに何食食べられるかを計算すると、今日の一食一食を大事にしたいと思います。仕事が忙しくて、昼食を抜いたり、そこらの不本意な飯を食ったときは、よく食べなおしをしました。(若いときの話)
けしてそこいらの飯や弁当がすべて悪いわけでなく、”選択の余地”や、そのときの体調、気分による”考察”ができない場合に”不本意”となります。
だから、時には、ファーストフードもファミレスも立ち食いそばも”本意”であることもあります。外食か自炊かもそんな選択肢の中で考えますが、最近は、やはり自然の味や自分で作るプロセス、外食ならばマニュアル化されていない人間味や店やそれを取り巻く客層の個性を最近は重視しますね。
食に貴賎なし。
投稿: Take | 2004/10/22 12:13