酔ったあとはさえる
有名な話だが、ハインリッヒ・シュリーマンさんはホメロスのギリシャ神話の話を手がかりに、トロイの遺跡を発見した。ほかにも書物に残っていたアトランティス大陸文明の記述から、それを求めて、その発見にネツをあげた人はたくさんいるし、まだたくさんの人がネツを上げている。
書物をもとに、書物の外に真実がある、という考えがなければ、こういう行動はナカナカおきないのではないだろうか。
日本人の場合は、どちらかというと、書物のなかに真実があると思い込む、というか書物に書いてあることそのままが真実である、と覚えこまされた歴史が長いような気がする。書物を手がかりに書物の外に真実を求めたり真実を確認したりすることに、情熱がうすいというか、情熱がわかない。圧倒的に「書物崇拝派」であり、書物に対する信頼がイジョーに高く、書物の権威がイジョーに高いし、書物に書いてあることを知る人間の権威がイジョーに高い。つまり体験などより、書物から得た知識がイジョーにものをいうのだ。
日本料理の歴史を調べていくと、そういう印象が残る。
日本料理をさかのぼると「有職故実」なるものが、すぐに登場する。伝統主義日本料理は「有職故実料理」だといっても差し支えないほどである。この「有職故実」なるものが学問の中心にすわる制度が、書物のなかに真実があるという考えを固定化させた元凶といえそうだ。
記憶で書くが。そういう書物イジョー偏重が制度して確立するのは、日本料理から見ると、藤原時代だろう。あるいは、藤原一族は、その書物イジョー偏重を制度化することによって、権力と権威をにぎった。
たしか、四位の上か下か以上でなければ、貴族でも高級官僚にはなれない制度ができる。その四位の上か下かに就けるかどうかは、こんにちの文部省のもとになった、ああ、名前を忘れてしまったぜ、ナントカという学問所のようなものを終了しなくてはならない、ところがそこに入れるのは藤原一門。というようなシステムができる。これがつまり、こんにちまで続く文部省の始まりで、高級官僚制度と連動する東大を頂点とする大学学問制度の始まりなのだ。とにかく古今の書物を読み有職故実を覚えることだった。それはイジョーなほど、書物偏重だった。
伝統主義日本料理をさかのぼると、「日本料理の祖」とされる藤原山陰という人物が登場する。平安時代初期、800年代中ごろの人だ。この人物が、なぜ「祖」といわれるようになったかは、四条流の「庖丁式」に関わる伝説にあるが、それは「史実」ではなく伝説であり、歴史的には、なんらかの料理に関する有職故実の成立に深く関わった人物なのではないかと推測するのが妥当だろう。
とにかく食や料理の世界でも、なぜか本を一冊書くと「先生」と呼ばれ、本を出すことにあこがれ、本を一冊書いたぐらいで別格の人種になったような錯覚を、本人も周りも持って、どこそこにはこう書いてあるぞ「どうじゃ、おまえは知っているか」というような話が、まかり通るのには、そのような背景がある。
書物偏重、活字偏重、文章丸暗記。体験を大事にせずに、まるで体験を否定するように、体験からの知識より書物からの知識が偏重される事態や、書物の外に真実を求める情熱の欠如は、文部省の古い歴史が関係するようだ。
いまだ日本は、教育を「文部」が独裁している。教育の現場は、東大を頂点とする大学学問の下請け機関にすぎない。これが教育がゆがんだ根本だろう。防衛庁を防衛省にするより、文部省を解体して教育省か文化省じゃないの。
書物は、なんらかの真実に近づく手がかりにすぎない。
そういうことを考えたことがある。ということを思い出したので、忘れないうちにメモしておく。酔ったあとはアタマがさえて、記憶の底にねころがっていた、こういうことを思い出すのだ。記憶で書いているので、間違いがあるかも知れない。読んでもらうためではなく、自分用のメモである。食や料理から、いろいろなことがみえる。
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