『東京いい店うまい店』と「ヤル気のない」食堂
「書評のメルマガ」に隔月で連載中の「食の本つまみぐい」。12月8日発行vol.191に「中流意識市民のためのスタンダード」というお題をつけ、文藝春秋編『東京いい店うまい店』文藝春秋1967年を掲載。配信中。申し込みは、こちら。
http://www.aguni.com/hon/review/index.html
12月1日の日記に書いた朝日新聞夕刊に載った不二食堂の記事を読んだ、大衆食の会に参加の読者から手紙が届いた。長いあいだ不二食堂のある台東区竜泉に住んでいたひとである。
彼は手紙に、こう書いている。「不二食堂、ホントよかったです。あのヤル気のなさがまだ続くかと思うと泣けます」
いやあ、こういう手紙をもらうと、ホント、泣ける。そうだ、「ヤル気のなさ」が魅力の大衆食堂は、ほかにもいくつかあるが、その魅力を、マーケティングな尺度、たとえば経済的な成功のために「意欲的」で「輝いている」ワタシじゃなきゃいけないといったことを、日常の「生きる」基準にしてしまったひとたちや、西欧エリートのモデルにすぎない近代合理主義でかたまった客観的で普遍的な正義や美学を信仰しているひとたちに説明するのは、とても難しい。彼らは「優劣」を評価するだけで、「優劣」以外の存在を知らないからね。
食事や料理は、客観的あるいは普遍的な「優劣」じゃ評価できない。ナゼナラバ、それは、人生とおなじように、一過性のものだからだ。かなり主観的な、個人的な、身体的感覚の世界のことだからだ。
「ヤル気のなさ」がよいこともあるのさ。そもそも、「ヤル気」なんか、どうだっていいのさ。自分にとって、なにが大事かであって、それによって食事も料理も決まる。客観的な評価、普遍的なうまさ、なんか、幻想。自分の身体感覚を自由に保つことだね。客観だの普遍だの、というのは、日本的には、「みんなの目」「まわりの目」「誰かさんの目」ということにすぎないんじゃないの。
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