きょうは、作家の山田風太郎さんに会った。あの、ちょっとエロっぽい忍者もの小説の山田風太郎さんだ。
山田さんはおれの担当じゃないけど、出社すると担当の先輩社員に、午後に山田さんを訪ねる約束なのだが、どうしても都合がつかなくなった、かわりに行ってくれといわれた。
東京の西郊、京王線聖蹟桜ヶ丘駅に初めておりた。西部劇の開拓地のように道路だけで何もない駅前から、あまり広くない道路が一直線に、むこうの丘へのびている。その丘の上に山田さんの家があるはずだった。先輩にはタクシーを使えといわれたが、タクシーは一台もないし、2、30分ぐらい歩くのは平気だ。降り続いた梅雨空も、ちょうど雨はあがり、雲は高く降りだす気配はなかった。
丘をのぼりつめると、同じような広さの道路と交差し、丘のむこうがわの展望がひらけた。その丘のテッペンのへんに山田さんの家はあった。
竹?を組んだような低い門囲いのなかに、広い庭に囲まれて山荘風の建物。豪邸というほどじゃない。門を入って玄関に立つ。奥さんが出てきた。ものすごい美人、色っぽくてだけど女学生っぽいフンイキがチラッと、肌が白く輝いてシットリふっくらマシュマロ、しゃぶりナメ突っつきたいかんじ。「水もしたたる……」というのは、こういう美人なのか。
庭に面して広い縁側のある、大きな居間兼応接間の応接セットに案内された。天井が高く、開口の広い窓のむこうの庭ごしに展望が開け、まさに山荘にいるような気分。
山田さんは、地味な色のズボンにポロシャツで現れた。作家という人種に会うのは初めてだから、緊張していたが、ずいぶん気さくなひとだった。しかし、目は力強いのだが、身体全体のフンイキがどうも、枯れたというか物体感のない、フワフワとしたというか、若くもないオジサンでもない、もちろん老人ではないのだが、でも老人でもあるようだしオジサンでもあるようだし若者でもあるような。ふだん会っている人種からは得られない感触があった。作家とは、このように世俗の人間とはちがうのだろうかと思った。
笑い方に特徴があった。口は大きく開けるが、声は空気がもれたように、「ははは」がスカスカで、それほど大きな声ではない。そうだ、けっこうよく話よく笑った。おれが初対面のあいさつのあと、「先生の新しい本読みました」というと、その空気がぬけたような「ははは」をやって、「いや、ありがとう」とかいった。それからなんの話をしたか。そもそもおれは何の用件で行ったのだろうか。たぶん山田さんが海外旅行をしたく思い、おれは海外旅行の段取りとか手続きとかの説明や訪問地の希望などを聞きに行ったのではないかと思う。
なにしろ、きのうの日記に書いた、旅行社に入社したての梅雨どきのことだ。細部は覚えてないことが多い。こうして思い出しながら、イタズラに当日の日記風に書き出してみたのだ。
記憶にハッキリ残った一話。あれこれ話をして、大げさにいえばテーマは「日本と中国の人文交流について」というかんじになっていた。山田さんは博学だし、中国、漢文学ということになるのだろうが、とにかくやたらめったら詳しく、おれはほとんど聞き役になっていた。
で、山田さんはトツゼンというかんじで「キミ、コウガンだって、もとはといえば中国語だよ」といったのだ。おれは「コウガン」が、その前の話とつながりがないようなので、一瞬なんのことかわからなく「はっ?」という顔をした。すると山田さんは、「コウガンだよ、コウガン、男のキンタマだよ、あの字」といい、また例の「ははは」をやった。それでおれは「睾丸」に気がついて、大きな声で「あはははは」とやったのだが。いやはや、たのしい方だった。
おれは応接セットの壁側に座って、そうやって話しているあいだ、ときどき色っぽい奥さんが、山田さんの背後を行き来した。ちょうど久しぶりに陽がさしたから、奥さんは庭へ出たり入ったりしていたのだ。その歩く姿が、とてもうきうき楽しそうで、ますます輝いてみえて、おれは目をしばしばそちらに走らせた。山田さんは奥さんが背後を通りかかると、ちょいと声をかけたり、すると奥さんの応える声が、はずんで美しく、まるで新婚夫婦のような仲のよさを見せ付けられたかんじだったが。あるいは、おれがしばしば奥さんの方に目を走らせたので、山田さんはわざと仲のよさをみせつけたのか? クソーッ。
3時ごろだった。1時間以上滞在した。帰り、山田さんが「タクシーよぶか」というので、「歩いてきましたし、帰りは下りだから散歩しながら帰ります」というと目を大きくし、また例の「ははは」をやって、「いそいで会社に帰ることはないね」といった。
門のところまで奥さんと一緒に出てきて、こっちの道はああで、こっちの道はこうで、というような話をされたような気がするが、そこで挨拶をして別れた。それが山田風太郎さんとの一期一会である。そのあとおれは大阪へ長期出張となり、山田さんの旅行のことはどうなったか知らない。1966年の梅雨時のことだとすると。山田さん1922年生まれ。おれ1943年生まれ。
山田さんの笑い顔は印象的だったが、その声は、ここに書いたとおりであったかどうか自信はない。そういう記憶だというだけで、あるいは大声で豪快に笑っていたかも知れないが、おれの記憶に残ったのは、こんなかんじなのだ。
山田風太郎さんは、美人にも骨美人と水美人がいて、自分は水美人が好きだ、というようなことを書いていたと思うが、おれはそれを読んだとき奥さんを思い浮かべ「ははん」と思った。