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2005/01/30

鈴木漁生本に没頭す

■ERAさんからトラックバックがあった。ERAさんのほうにはコメント書けないから、ここに書いておこう。「おひさしぶりです。なんだか、おもしろそうな展開になっていますね。」

そういや、2月11日に国立の地球屋でライブがあるんだった。「シリーズ 日本の味」って、ま、まさに「大衆食の味」。うーむ、残念、この日は都合がつかない。

■3月刊行予定のオヤジ芝田さん著の『神戸ハレルヤ! グルめし屋』の解説のゲラが幻堂出版から送られてきた。一緒に『鈴木漁生傑作集 漁生の浪漫戦記 青春の墓場』が入っていた。うれしいね。と、これを見はじめたら、仕事にならなくなった。アツいなあ。「作家あとがき」も、文章は淡々としているけど、アツい。いい一冊だ。なかのさん、ありがとう。って、ことで、漁生本に没頭しちゃい、ゲラを見るのはあとまわし。

しかし、解説のゲラ、原稿量を気にしないで一気に書いたら、かなりあるぜ。どうやら本文より多いらしい。うへ~、そんな本、アリか。ま、著者の芝田さんもおもしろがっているから、いいか。いいだろう。もうちょっと書き足すか。な。うへ~、どうなるんだ。

そういうわけで、みなさん、これは「おれの本」だから買ってください。とか、いっちゃったりして。

■資料調べていたら、こんなんがあった。おもしろい資料がたくさん。さすが天下の電通。
http://www.dentsu.co.jp/MUSEUM/index.html


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2005/01/29

バテバテ酒

昨夜も、けっきょく終電。一日おきにコレは疲れます。なにしろ帰り着くのが2時近くになっちまうからね。おまけに泥酔だし。でも2、3年前までは、ワリと平気だったような気がするけど、ここんとこ「老化」が激しい。「老人力」なんてなあ、老人の負け惜しみだな、素直じゃないね。ってことで、バテバテなので、今日はここまで。

しかし、昨夜は、おもしろかったなあ。行った先で、まったく予想もしてなかったひと、画家で「画家ノート 四月と十月」発行編集人の牧野伊三夫さんと、3年ぶりぐらい?に会って。まあ、とにかくこの人と飲むと楽しいんだわさ。神田神保町周辺で二軒、そのあと中野へ行こうと強烈に誘われて、あやうく行きかけたけど、踏みとどまって帰ってきた。

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2005/01/28

アホじゃないぜ、これが日本人だぜ、浪曲と三味線

2月25日、浅草は木馬亭に春風は吹くか、吹くだろう、これだけイイ女がそろえば。
玉川美穂子やりたい放題
玉川美穂子としゃみしゃみいず

「しゃみしゃみいず」とは。若い男のバアドル沢村豊子、もうこの人の三味線聴いたらドキッとするぜ。アアンかわいいようあんたはホントウのアイドルだ!沢村さくら。あんたはどうでもええオバドル、玉川美穂子。この三人の三味線、こりゃもう楽しみってもんだ)

それからそれから、おっと、関東の空風と野田の醤油でノドを鍛えたかベテラン澤孝子に、三味線の曲師は、アノ佐藤貴美江だ。なにっ?佐藤貴美江を知らんと? おれが5年ぐらい前?に一目ぼれ、いや一聴きでほれた三味線、どことなくニヒルでアナーキーなフンイキが漂う三味線がねえ、いいのだよ。

ま、この件については、また書くから。
まずは、このチラシ見てよ。がははははは、やっぱりアホか。
http://homepage2.nifty.com/entetsu/tamamiho.htm
ちょいと重いかも知れないけど、ひらくの待って見ておくれ。

浪曲と三味線、知らんやつも知ってるやつも、来いよ~

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ウソつき主婦

おれは、あまり本を買わないし持ってない。おれの個人史でいうところの第一婚期、つまり1回目の結婚生活の25歳ぐらいから40歳ぐらいの時期は、本をタップリおける空間のある家を持っていたし、めちゃくちゃ買って読んだ。しかし、その生活にオサラバしたあとは、身軽。

一冊の本を何回も読む。そのなかに川上行蔵さんの『イモめし時代の雑記帳』がある。1982年、健友社発行。古書店によく安く出回っている本だ。この本は軽いエッセイなのだが、食文化について示唆に富んだ内容で、いまもって新鮮である。ということは、そのあと食文化研究の分野ではロクな学者が出てないということだが。

川上行蔵さんは、食文化史上、地味だが大きな功績を残している。本でいえば彼の編著である『料理文献解題』ということになるが、この書は、彼が主宰した料理書原典研究会の成果であり、彼の大きな功績とは料理書原典研究会を主宰することで、その道を開いたことだ。

『イモめし時代の雑記帳』で「巻末によせて」を書いている平田萬里遠さん、有名人では「なべや」の福田浩さんなど、地味だが日本食文化史研究上欠かせない料理書原典研究の人材が育ったのも川上さんの功績だろう。江原恵さんも、独学で漢文を勉強し原典を解読していたが、やはり川上さんに直接会って教示を得ている。

最近また、『イモめし時代の雑記帳』をパラパラ見ていたら、おもしろい話があったので思わず笑ってしまった。「食習慣の転換」のなかで、「食事というのはとかくみえを張りたがるものである」「栄養研究の必要上の調査をしようと思って、奥さん方に聞いても、教養ある奥さん方は笑いにまぎらして自分の家の常食についてはお話にならぬ。教養のない奥さんは事実以上の高価な献立を申し立てられるのであって、結局栄養調査というのはできないのである」

食のマーケティングで、主婦の購買意識や行動などの調査分析をしたことがある人なら、このテのことは誰でも経験しているのではないか。

こまったものだ、主婦はウソをつく。直接の面接調査でも、堂々とウソをいう。データは、まったくあてにならない。が、それでひっこんでいては、マーケッターはウソつき主婦に負けたことになって商売にならないから、いろいろなテで真相にせまる。

おれが1970年代から長いあいだ組んでやっていたマーケッターは、いまではリッパなコンサルタントになっているが、1970年代のかけだしのリサーチャーのころは、ゴミ収集の日に出るゴミ袋を収集車が来る前にクルマに積んでとってきて、あけて調べることまでしていた。彼だけではなく、ほかのリサーチャーもやっていたが。それで、あるていど調査結果のデータと実態とのあいだの「誤差(つまり主婦のウソつき度)」に見当つけることをしたのだ。

「ふだんどこのスーパーで買い物しますか」という類の質問には、ウソつき主婦は、実際にふだん利用しているスーパーよりワンランク上の店舗で多く買い物しているかのような回答をする。ところが、そのゴミ袋に入っているスーパーの買い物袋は、その回答とは違う実態を示す、というようなことがあるわけだ。

とにかく、プランニングのときは、得たデータや情報のなかに真相があるのではなく、ちがうところに真相があると考え、そのポイントを見つけるのが腕のみせどころ。「偏差値」というのも、似たような考えのデータで、得たデータを、そのままつかうのではなく、母体の平均値や傾向値との偏差を求める。

NHKの言っていることがホントウか、朝日新聞の書いていることがホントウか、読売新聞が書いていることがホントウか、なんていう議論はじつにオカシイ。それぞれデータや情報がくいちがっている場合は、そのなかのどれが正しいかではなく、どれもウソで大事なことや真相は別のところにある、発表されてないところに目をつけるのがジョーシキだろう。ましてや、政治家やマスコミなんて、ウソつき主婦以上に信用ならない連中なのだから。どっちが正しいかなんていう議論そのものがウソにハメられる道である。

と、話は、おもわぬ方向へ転がってしまった。

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2005/01/27

酔っ払いというものは

昨夜はBOOKMANの会、内容は「ナンダロウアヤシゲな日記」に。
http://d.hatena.ne.jp/kawasusu/20050126

会のあとは例によって、茗荷谷駅そばのさくら水産。おわり近くに席を移動しウロウロ、本日のゲストスピカー毒男塩山芳明さんの隣でギャアギャアやっていたら、急に酔いがまわった。蛍の光が鳴り、時計の針が11時45分をさすと、シンデレラ男は終電に乗り遅れるから急いで帰らなきゃならない。

オンナのもとへといつの間にか消えた毒男塩山さんのほかは揃って茗荷谷駅へ。地下鉄で池袋。池袋駅でJRのキップを買おうとするが、千円札で自動販売機が動かない。一枚目ダメ、二枚目ダメ、三枚目ダメ、四枚目ダメ、うしろのほうで、「酔っ払いジジイなにしてんだよ」の声が聞こえる、クソッ誰も助けてくれない、機械をかえて同じようにやってみる、やはりダメ。

と、ふくよかな女性がそばに寄ってきて、わたしが買ってあげるわよんアハン、って、あんたどこの酔っ払いか、いや酔っ払いにはちがいないが、近頃おれの愛人とのウワサが日本読書界に広まっている愛人ハタナカさんではないか。今日は荻原魚雷さんの「借家と古本」をもらっちゃったし、ありがとう。なんだJRのバカヤロウ、新しい千円札が使えないのか。

改札入ると、どっちへ行っていいかわからん、アヤシゲさんが「遠藤さんはこっちこっち田端まで一緒でしょ」と袖をひっぱる、そうだそうだ田端へ出て京浜東北線に乗り換えるのだった。ホームに出てみると、アレッ、あっちに見える電車、川越行じゃないか。じゃあ埼京線の川越行がまだあるんじゃ埼京線で赤羽に出たほうがよい。しかし、「準急」というのがチトおかしいなあ、埼京線に準急なんてあったかなあ、あったかもな。ないのだがそう思ったし、アヤシゲさんもその電車をあやしむかんじはなく「じゃあ急いでアレにのれば」

おれはアワテ走って階段をかけおり、そっちのホームへ行こうとするが、通路がない。ホームがあるはずの側は壁なのだ。アワテ走って別の階段のところへ行くが、やはりそっちは壁。えっ、どうして川越行きのホームへ行けないんだ。もしかして改札を出てまわるのか。そんなはずないけど、そう考えた。アワテ走って改札へ、駅員に「川越行き、どっち?」駅員は「埼京線の川越行はおわってますよ」「だって電車が見えてるじゃないか!」「えっアレはお客さん、東武です」そこでおれは一気に酔いがさめた。

ぐへぇ、ヤバイじゃないか大宮行終電乗りはずすと、赤羽からタクシー代が6千円近くかかるんだぞ。あのアヤシゲの野郎テメェ酔っていたのか、なんで東武の川越行だってのに気がつかなかったのだよ、だいたい埼京線には準急なんかないのだし、あの位置に埼京線があるはずないじゃないか。ひとをウラミ舌打ちしながら、また走って山手線のホームにもどる。やっときた電車に乗って田端に着いたら、誰かの不幸はおれの幸、京浜東北線は人身事故のおかげで遅れていて、無事に間に合って電車で帰ってこれた。

やれやれ。今日は昼になっても頭痛もち。

しかし、この池袋駅で酔って走りまわるあいだ、おれは胸に両手でシッカリ一升瓶をかかえたまま。「愛のコリーダ ボーイズラブ編」でセドローくんと主役を演じる柳瀬さんが、酒一升瓶をくれたのだ。主役に抜擢してあげたお礼とか。今朝、キンキラのすごい外箱を開けた。ナント、茨城県は森島酒造の純米大吟醸「大観」ではないか。なんでこんな高級な酒をおれがもらえるのかわからんけど、おれのように生きて善行を積んでいればこういうよいことがある。今日はこれで迎え酒。

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2005/01/26

紙メディアの魅力

さきほど、退屈男さんのブログを訪問したら、「個人メディアの時代だ」のタイトルで、1999年発行の『ミニコミ魂』の感想に続いてアレコレ書かれて、最後に「でも、やっぱり紙メディアの魅力もすてがたいよナァ」とあった。最近考えていたことなので、おもわず触発されコメントを書き残した。

HP「ザ大衆食」は、タイトルページに「遠藤哲夫が勝手につくるWeb版「ザ大衆食」」とあるとうり、紙版「ザ大衆食」から始まっている。最初は「大衆食の会通信」というタイトルだった。ワープロと手書きの切り張りをコピーして作った。ここに一部を転載している。
http://homepage2.nifty.com/entetsu/kai.htm

HP「ザ大衆食」を開設した当時は、紙版も発行を続けるツモリだったが、ナントナクこれでいいやという気分に流されてしまった。しかし、コレを今年は再開する!と決意している。

インターネットやっているひとは増えたが、やってないひとがたくさんいる。しかも大衆食の会の会員は、やってないひとが圧倒的に多い(3分の2のひとがインターネットを利用してない)。紙版を望む声が前からあったのだ。

それで気がついたのだが、やはりHPはひとりよがりに陥りやすい。それはバーチャルなメディアが本質的に持つキケンだと思う。とくにブログになって、よけいその傾向があるのだが、ブログの場合「編集作業」はないにひとしいし、HPの場合でも紙版と比べると「編集作業」はかなり雑になる。詳しくは書かないが、そのことによるマイナスは大きい。

しかも、バーチャルなメディアであるがゆえに、編集作業を経由しないイイカゲンなコトが、まるで普通であるかのように流通し、自分もそのことに鈍感になっていくキケンがある。何度か遭遇したが、前に書かれてあったことが同じ文中で、語句の訂正ぐらいならよいが、まったく違う内容に書き換えられたり、前の文がわからないように削除されてしまうということがある。つまり文章の存在自体がバーチャルで軽い一過性のものと、覚悟してつきあわなくてはならない。こうなるとメディアとしての信憑性にも関わる。こんなものとだけつきあっているのはキケンだという気持になる。

あと自分の手ごたえというのかな、紙メディアは「本当に好きな人」とつきあえる、できあがったときも含め自分の充実感が大きいなど、イロイロ考えさせられることがある。

自分が読者の立場では、やはりWEBで「読む」行為は、おれは「生活読書」という感覚を大事にしたいのだが、そういう「読書」の感覚からはほど遠い。

もちろん、ブログにはブログのよさがある、「でも、やっぱり紙メディアの魅力もすてがたいよナァ」 ということで考えると、こういうことをツラツラ思っていたので、今年は最低年に1回ぐらいは紙版「ザ大衆食」を発行しようと、低いハードルを自分に課している。

もうひとつ、まったく別の新しい紙メディアを準備していて、これはいまテープおこしの最中だから、こちらの方が先に発行になるかも知れない。

おっと時間だ。

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2005/01/25

飯屋すずめで内田百閒さんの話

おととい23日、ザ大衆食に掲載の「まる代」を書きながら思い出した。この店のように、玄関土間を店にしたような食堂が、バブル前つまり1980年代前半ぐらいまでの東京の都心には、けっこうあった。

おれがよく利用したのは、千代田区五番町にあった「すずめ」、食堂というより飯屋という風情の店だ。JR市ヶ谷駅から麹町の通りへ向かって日本テレビ通りの坂をのぼると、最初の交差点が五番町。そこを右に曲がれば、おれが仕事していた事務所があったのだが、左に曲がって左側すぐ、いまは大きなマンションの位置に、すずめはあった。

古い二階建ての木造家屋で、間口二間ぐらい、入口は4枚ガラス戸だったと思う。その戸をあけ、すぐが横長のカウンター、10名は座れない。カウンターにむかって客が座ると席のうしろの戸のあいだはないから、ガラス戸をあけた位置に腰をかけるか、そこが一杯だったら道路から別の戸をあけて座る。

「ママ」とみなが呼んでいたママは、カウンターの向こう側客席よりやや奥行きがある台所にいた。小柄で身体もよく動くが、頭の回転もよい、利口なママだった。クジラの刺身が安くてうまくて量があって人気だった。ほかはクジラ南蛮炒めに、その日の焼き魚と、煮魚はほぼカレイや銀ムツというメニューだった。

ここが人気で、昼時になると、どっと混むのだ。すると土間と奥のあいだの障子をあけはらう。奥は、けっこう広い座敷だった。畳は茶色に焼け、柱など木部も渋い色で、ま、うす暗い部屋である。昼でも蛍光灯をつけ。

ときどきはやく行った時は、その座敷にママの老爺が病気がちらしく寝ていることがあって、われわれが障子をあけると、あわてて老婆が手伝って寝床をあげるという場面があった。そして座敷に一番のりした客が、立てかけてあるちゃぶ台や座卓を出す。老婆はそのまま膳の上げ下げなどを手伝い、老爺はいつのまにかいなくなっている。というアンバイだった。

このすずめに向かって右隣、つまり五番町交差点から奥側隣が、やはり木造2階建て、1階が酒屋「ことぶき」、2階は雀荘「ことぶき」、その雀荘に上がる階段をはさんで1階にラーメンや洋風メシもやっている大衆食堂「ことぶき」。これらはみな一緒にいまのマンションに地上げされたが、おれがこの地域で仕事した10年ちょっとのあいだ、イチバンお世話になった一角だ。

雀荘「ことぶき」は、昼時はマージャン台の上に白いビニールをかぶせ、大衆食堂「ことぶき」のテーブルになった。おれの仕事仲間にマージャン好きがいて、彼らと4人で昼飯時に雀荘「ことぶき」に入って、「半チャンだけ」とかいいながら白いビニールをとり、めしがくると食べながらやり、しかしそのうち熱くなって、午後の仕事をほうりだし、ビールもとったり……ということを、たまーに、やった。

ところで、その酒屋「ことぶき」は、かつて内田百閒さんの御用をつとめた酒屋だったのだ。五番町交差点から右、つまりおれが仕事をしていた事務所の先は六番町で、そこに内田百閒さんは死ぬまで住んでいた。

おれがある日、すずめでめしを食べながら、たいして期待もせずにナントナク「このへんで内田百閒さんの評判など聞いてます?」とママに話かけた。すると、ママは、「え~え~、そりゃもう、となりの酒屋さんなどは、お得意さんでしたからね」というのだ。で、おれはついでに「やはり、借金など」というと、「え~え~、そりゃもう、お上手なかただったらしいですね、そういう話はたくさん聞きましたよ、でも誰も悪くいう方はいませんでしたよ」とママはニコニコしながら、懐かしそうにこたえたのだった。

今日は、ここまで。

内田百閒さんが亡くなったのは1971年。おれがすずめやことぶきのお世話になったのは1972年から10年ちょっと。

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2005/01/24

やってみるか料理の命名

なるほどねえ。料理はよくつくるし、どうせつくるならと、自分流でドンドンやってみるが、できあがるとドンドン食べてしまい、自分流の名前など考えたこともつけたこともない。

しかし、この「目玉焼きのキャベツ囲み」を見て、名前をつける楽しみも、食事や料理の楽しみのうちだな、と思った。

「みそがいの防戦一方」1月22日「目玉焼きのキャベツ囲み」なかなかおもしろ楽しい。
http://misogai.way-nifty.com/def/2005/01/post_34.html

生活の楽しさは、日常のちょっとしたことで違ってくる。これから心がけてみよう。

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2005/01/23

ザ大衆食の更新

ひさしぶり、今年初の更新。
「栃木県今市「まる代」のそばと二宮金次郎さんの墓」を掲載。
http://homepage2.nifty.com/entetsu/sinbun05/imaichi0411.htm

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2005/01/22

『大衆食堂の研究』復刻HTML版

激動編*大衆の道、めしの道、食堂の道
三、貧乏大衆のための東京食堂事情
四、昭和三〇年代の大衆食堂

を一挙掲載。
http://entetsutana.gozaru.jp/index.html

「大衆食堂」の呼称が生まれる時代、そして東京の「大衆食堂」の原形となる、関東大震災前後の公立の簡易食堂から戦中の外食券食堂、戦後の東京都民生食堂の時代。
これで4分の3ぐらいは掲載がおわったようだ。

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解説40枚のちジケン対策熱燗グイグイ

スッカリ忘れていた幻堂出版から3月発行予定の、オヤジ芝田さん『神戸ハレルヤ! グルめし屋』の解説頼まれたの。思い出し3日間ぐらいで書き上げ、締め切りの20日に間に合わせた。

打ち止め制限ナシ、いくら書いてもよいといわれていたので、どんどん書いたら、40枚ぐらいになった。イイノカ。もっと書きたい書けることあるけど締め切りきたし、ちょっと疲れたのでメールで送って、ヤレヤレ。

ついでに、やはり忘れていて綾繁さんに催促された、書評のメルマガのアンケートも、酒飲み酔っ払いしながら書いて送る。

昨年夏の『汁かけめし快食學』以来、あまり書きたい気持がわかなかったが、ハズミがついたのかイロイロ書く気が出てきたかんじ。出してくれる出版社のアテはないが、ボチボチ書いてみるかな~の気分。

というところで、からんでいるプロジェクトでジケン発生。昨夜は緊急会議。もちろん飲みながらだ。どんな重要なことも飲みながら打ち合わせ。

出る杭は打たれる。業界ニンゲンと小役人が組んで、弱いものイジメ。成長著しいおれたちのプロジェクトを潰しにかかってきた。じつに陰湿なテでなあ。弱いものイジメ好きの2チャンネラーもマスコミも、びっくりなバッシング。ふん、そんなことは計算ずくだ、バカめ。こっちは海千山千がやっているんだ、甘くみるなよ。と、対策。おかげで、ゆっくりやればいいと思っていたことを早めにしなくてはならなくなったが、ま、いいチャンスだろう、そうでもないとグズグズやることになるから。

うひひひ、いま新しい態勢が整う前に詳しく書いて、また潰しにかかられるとマズイから、後日トコトンやってやるぜ、こんなことは何回も場数ふんでいるんだ。クビ洗って待っていろよ。

日本のガンは、腐った業界と腐った役人、そのうえにのっかった自民党公明党のなかの腐った連中、それになれきった「芸能人」「文化人」「スポーツ人」「フツウ人」ほかようするに、「お上の御威光」にぶらさがり惰性的な腐った連中、たしかに「惰性は創意の墓場」だ。「先進国」「高学歴」でこれほど腐っているのもめずらしい。

まったくニーズやら世界やらがみえてないんだなあ。おれたちがうまくいっているのはニーズや世界の動向にあったテをうっているからんなんだよ。あんたらも、そうすればいいのだよ。自分たちの能無しを棚に上げて、おれたちを潰しにかかるなんて、世界の笑いものだよ。もう日本は十分笑いものになっているが。こんな連中と沈没心中したくないね。こんな国にこだわっていることはないね。

そういうことで、昨夜はビール一本のあとはポン酒熱燗グイグイで、チト今日に残ってしまった。ウゲッ。

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2005/01/21

なぜなのかねえ医者いらず

おととし、過去3年間に一度も国保をつかって医者にかからなかったということで、さいたま市から「贈り物」が届いた。市の保養施設の一泊無料券と、カタログから好きなものを注文する仕組みのもの。

では、またさらに3年間医者にかからなかったらこのようなものがくるのかと思っていたら、昨年また同様なものが届いた。つまり継続して過去3年間、という計算なのだ。

これで通算4年間、医者にかかってないことになる。その前、医者へ行ったのは、耳鳴りと、眼が痛くなったのとで、診た医者はどこもおかしくないという。それぞれ一回行ってやめてしまった。眼の痛いのは直ったが、耳鳴りは続いている。

とにかく、ここに引っ越して6年がすぎるあいだに、医者にかかったのは、その耳鼻科と眼科だけだ。風邪をひきかかったことはあるように思うが、寝込むほどではなかった。

こういう場合、ナゼこのように「健康」であるのかの判断は、どうしたらよいのだろうか。同居のツマも、ほぼ同じように最近は医者にかかっていない。

となれば、栄養士なら栄養に気を配っているからと自分のプラスデータに入れるかもしれないが、栄養なんか気にしたことない、気の向くまま食べたいものを食べているし、3食キチンと家で食べることなどめったにない。生活は泥酔乱脈をきわめている。

同居のツマとアレコレ検討した結果、よく酒を飲んでいるからだということになった。これからも大いに飲もうと思っている。過去3年間医者にかからなかったら、一年間の酒代の本人負担は3割にして、あとは健保から払ってほしい。

とにかく、このように、「健康」の理由やヒケツなんてものは、わからないものなのだ。「長寿村」の調査をしたからといって、何がわかるのだろう。

あんたらバカだから風邪ひかないだけだよ、という声が聞こえてきそうだ。はい、バカです。

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2005/01/19

豚足煮込み

ちかごろ、スーパーに豚足の陳列が目立つ。これも「韓流ブーム」?

安いから買ってきて、韓国風にミソをつけてかじるのではなく、中国風?に鍋にイロイロ野菜とブチこんで煮込んだ。味付けは、醤油味に。時間をかけて(だいぶ時間がかかったが)ゼラチン質がドロドロ骨がバラバラになるまで煮込んだらうまかった。

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又一順で腹いっぱい、ひさしぶりの渡辺勝

昨夜は、ひさしぶりに、「なってるハウス」の渡辺勝さんと川下直広さんのライブへ行った。
これまたひさしぶりに同居のツマも同行。

まずは、日暮里駅東口前の「又一順(ユウ イ シュン)」で腹ごしらえ。焼き餃子に水餃子に五目やきそば。ここは大衆食堂なみに安いうまい、量が多くて、餃子のアンはぎっしり入っているし、これだけで腹いっぱい。ほかにうまいメニューがたくさんあるのだが……。食べているあいだに、家族連れがどんどん入ってきた。やはり中国料理は大人数で食べるのがいい。でも「又一順」には、ときどき一人で入るのだが。

なってるハウスに早く着いて生ビールを飲んでいると、後ろのカウンターで渡辺さんと川下さんの話す声がきこえる。渡辺さんの声って、ふだん話しているときの声もいいんだなあ、こういう声を耳元でコロコロやられたらオンナはイチコロだろうなあ、などと思っていると、南陀楼綾繁さんあらわれる。同居のツマを紹介。

この日の渡辺勝さんは、演奏が始まると、いきなりトップギアでガンガンかっとばしエンジン全開というかんじで、あいだにゲストの有馬忍さんをはさんで、それが最後まで続いた。すごいパワー。

うーむ、このように人間の身体は声が出るものなのか。ピアノもギターも、こんな音が出るんだとおどろくことしばしば、怒涛のごとく。むかしむかしロックンロールが「不良の音楽」といわれたころ、いずみたくが「ロックンロールは岩をも砕く波のような音楽のことで、不良の音楽ではない」というふうにいったことを思い出した。例の曲「東京」も、いままで聴いたのとちがって、「はじけろ 東京」という歌詞をうたいあげるときには、カンゼンに弾けていた。

で、終わってみれば、いつもより30分近くながい演奏時間、約2時間20分ぶっ続け。いつものとおり休憩ナシだったが、そんなに長い時間には感じなかった。

おわって、渡辺さんに、「今年は、このセンでいこうということなのですか」とインタビューしてみたくなって、つい無礼もかまわずそのように声をかけてしまった。「いや、かれとやっていると、こうなってしまって……」と川下さんを理由にしたが、でも去年だって川下さんとやっていたのだからなあ。ま、いいさ、こんなすばらしいライブを、6、7人で独占というのが、もったいないというか、至福というか。

帰り綾繁さんと、鶯谷「呑兵衛」で、軽くイッパイやった。帰りに、すっかり忘れていた「書評のメルマガ」の原稿の催促をされた、正月気分というわけじゃないが、どうも近頃忘れやすい、今日も忘れていた原稿を明日まで仕上げるためにフントウしなくては。

と、今日もニガテな日記風に書いてみた。

「ナンダロウアヤシゲな日記」にも、昨夜のなってるハウスが書いてある。
http://d.hatena.ne.jp/kawasusu/20050118
渡辺勝さんのブログ
http://ragrock.blog.ocn.ne.jp/refuge/
なってるハウス
http://members.jcom.home.ne.jp/knuttelhouse/

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2005/01/18

「年賀状評?」をいただく

今年の年賀状は、つぎのように年賀はがきをつかって、年賀状はやめた宣言だった。

タイトルは「エンテツ年頭消息   2005年正月号」

元気一番。今年から「年賀状」は、やめることにした。もともと年賀にかこつけて一年に一度ぐらいは、生きているぜ、こんなアンバイだぜ、と自分の存在を押し売りアピールするのがタノシミだったのだ。この新スタイルなら年末年始の飲酒繁忙期に、年賀状づくりを気にすることなく、思いきり酒を楽しめるからね。それに年賀状につきまとうメンドウがなくてよい。という万事自分の都合が最大の理由。怠惰は創意の基。でも今回は年賀はがきを買ってしまったから、移行措置として、こうなった。さて、昨年は7月にちくま文庫から『汁かけめし快食學』、それがキッカケで初めてTBSテレビ「はなまるマーケット」出演など、イロイロな初体験が重なった。故郷の六日町はマサカの大地震に襲われたし、このトシになっても、初体験はまだまだある。かくて、いろいろ感慨を覚え発見も多かったが、じつは、おれは何も変わらなかった。今年はどうなる? トシをとる。 天国か地獄か。 62歳になる 遠藤哲夫

これに、何人かの方から返信をいただいた。
「来年も、このスタイルで年賀ハガキをつかってやってください」というのがあった。うーむ、悪くないかも。

さすが!うまいなあと思ったのは、Oさんからの、これはもう巧みな「書評」のような。

印刷賀状にしては、読ませる。意外風で共感を呼ぶスタイルは、おみごとです。 「怠惰は創意の基」(エンテツ注=基の字の横に「・」)が、絵と重なり「墓」と読めて、オモシロイ!と思ったが、ハテナ? 拡大鏡で「基」をたしかめました。「惰性」なら「墓」だが、「怠惰」なら「基」でしょうね。今年もご活躍を!

「絵と重なり」というのは、バックに『汁かけめし快食學』の表紙カバーの写真を入れたからだ。

Oさんは、おれより10歳ぐらい上であるが、意気軒昂。どうか健康に気をつけて、いつまでも健筆をふるってほしい。

ほかに、いただいた年賀状に書かれた文に、こんなものがあった。
「5キロ1800円ぐらいの標準価格米を昔食ってて、また食いたいのですが、ナゼかスーパーに売ってなくて弱っています。」
そういや、もう「標準価格米」というのは、ないんだな。うちの近所のボックスストア型のスーパーマーケットには、5キロ1800円ぐらいの米は売っているけど、どこかの米屋がブレンドしたものだ。このひとは都心に住んでいるのだが、都心のスーパーには、5キロ1800円ぐらいの米はないのだろうか。

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2005/01/17

山田風太郎との一期一会

きょうは、作家の山田風太郎さんに会った。あの、ちょっとエロっぽい忍者もの小説の山田風太郎さんだ。

山田さんはおれの担当じゃないけど、出社すると担当の先輩社員に、午後に山田さんを訪ねる約束なのだが、どうしても都合がつかなくなった、かわりに行ってくれといわれた。

東京の西郊、京王線聖蹟桜ヶ丘駅に初めておりた。西部劇の開拓地のように道路だけで何もない駅前から、あまり広くない道路が一直線に、むこうの丘へのびている。その丘の上に山田さんの家があるはずだった。先輩にはタクシーを使えといわれたが、タクシーは一台もないし、2、30分ぐらい歩くのは平気だ。降り続いた梅雨空も、ちょうど雨はあがり、雲は高く降りだす気配はなかった。

丘をのぼりつめると、同じような広さの道路と交差し、丘のむこうがわの展望がひらけた。その丘のテッペンのへんに山田さんの家はあった。

竹?を組んだような低い門囲いのなかに、広い庭に囲まれて山荘風の建物。豪邸というほどじゃない。門を入って玄関に立つ。奥さんが出てきた。ものすごい美人、色っぽくてだけど女学生っぽいフンイキがチラッと、肌が白く輝いてシットリふっくらマシュマロ、しゃぶりナメ突っつきたいかんじ。「水もしたたる……」というのは、こういう美人なのか。

庭に面して広い縁側のある、大きな居間兼応接間の応接セットに案内された。天井が高く、開口の広い窓のむこうの庭ごしに展望が開け、まさに山荘にいるような気分。

山田さんは、地味な色のズボンにポロシャツで現れた。作家という人種に会うのは初めてだから、緊張していたが、ずいぶん気さくなひとだった。しかし、目は力強いのだが、身体全体のフンイキがどうも、枯れたというか物体感のない、フワフワとしたというか、若くもないオジサンでもない、もちろん老人ではないのだが、でも老人でもあるようだしオジサンでもあるようだし若者でもあるような。ふだん会っている人種からは得られない感触があった。作家とは、このように世俗の人間とはちがうのだろうかと思った。

笑い方に特徴があった。口は大きく開けるが、声は空気がもれたように、「ははは」がスカスカで、それほど大きな声ではない。そうだ、けっこうよく話よく笑った。おれが初対面のあいさつのあと、「先生の新しい本読みました」というと、その空気がぬけたような「ははは」をやって、「いや、ありがとう」とかいった。それからなんの話をしたか。そもそもおれは何の用件で行ったのだろうか。たぶん山田さんが海外旅行をしたく思い、おれは海外旅行の段取りとか手続きとかの説明や訪問地の希望などを聞きに行ったのではないかと思う。

なにしろ、きのうの日記に書いた、旅行社に入社したての梅雨どきのことだ。細部は覚えてないことが多い。こうして思い出しながら、イタズラに当日の日記風に書き出してみたのだ。

記憶にハッキリ残った一話。あれこれ話をして、大げさにいえばテーマは「日本と中国の人文交流について」というかんじになっていた。山田さんは博学だし、中国、漢文学ということになるのだろうが、とにかくやたらめったら詳しく、おれはほとんど聞き役になっていた。

で、山田さんはトツゼンというかんじで「キミ、コウガンだって、もとはといえば中国語だよ」といったのだ。おれは「コウガン」が、その前の話とつながりがないようなので、一瞬なんのことかわからなく「はっ?」という顔をした。すると山田さんは、「コウガンだよ、コウガン、男のキンタマだよ、あの字」といい、また例の「ははは」をやった。それでおれは「睾丸」に気がついて、大きな声で「あはははは」とやったのだが。いやはや、たのしい方だった。

おれは応接セットの壁側に座って、そうやって話しているあいだ、ときどき色っぽい奥さんが、山田さんの背後を行き来した。ちょうど久しぶりに陽がさしたから、奥さんは庭へ出たり入ったりしていたのだ。その歩く姿が、とてもうきうき楽しそうで、ますます輝いてみえて、おれは目をしばしばそちらに走らせた。山田さんは奥さんが背後を通りかかると、ちょいと声をかけたり、すると奥さんの応える声が、はずんで美しく、まるで新婚夫婦のような仲のよさを見せ付けられたかんじだったが。あるいは、おれがしばしば奥さんの方に目を走らせたので、山田さんはわざと仲のよさをみせつけたのか? クソーッ。

3時ごろだった。1時間以上滞在した。帰り、山田さんが「タクシーよぶか」というので、「歩いてきましたし、帰りは下りだから散歩しながら帰ります」というと目を大きくし、また例の「ははは」をやって、「いそいで会社に帰ることはないね」といった。

門のところまで奥さんと一緒に出てきて、こっちの道はああで、こっちの道はこうで、というような話をされたような気がするが、そこで挨拶をして別れた。それが山田風太郎さんとの一期一会である。そのあとおれは大阪へ長期出張となり、山田さんの旅行のことはどうなったか知らない。1966年の梅雨時のことだとすると。山田さん1922年生まれ。おれ1943年生まれ。

山田さんの笑い顔は印象的だったが、その声は、ここに書いたとおりであったかどうか自信はない。そういう記憶だというだけで、あるいは大声で豪快に笑っていたかも知れないが、おれの記憶に残ったのは、こんなかんじなのだ。

山田風太郎さんは、美人にも骨美人と水美人がいて、自分は水美人が好きだ、というようなことを書いていたと思うが、おれはそれを読んだとき奥さんを思い浮かべ「ははん」と思った。

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2005/01/16

毎日英文タイプライターを打っていた

昨日飲んでいる最中にエヌが、「おれたちはさあ若いとき英文タイプをやっていたからパソコンのキーボードになじみやすかったのだよ」といったので思い出した。

エヌはおれより2歳上だ。おれは大学2年のときだったかな? 親父の商売はゆきづまり倒産、家は競売にかけられ両親が路頭に迷うかっこうになった。ま、倒産で家がなくなるのは二回目だったけどね。一回目はおれが小学校4年のとき。だけど今回は再起不可能というかんじで、両親は身一つで、東京の工事現場の飯場に転がり込んだ。

おれは短期臨時雇用や長期臨時雇用を転々とした。当時は「アルバイト」と「短期臨時雇用」「長期臨時雇用」が区別されていた。一日短時間の労働はアルバイト、社員と同じ勤務時間だが3か月だったか6か月だったか以内の雇用契約は短期臨時雇用、6か月だったか1年だったか以上の臨時雇用が長期、という区別だったと思う。つまり短期臨時雇用や長期臨時雇用だと、実質社員と同じように働くから、大学へは行けない。2年の後半ぐらいから、そんな生活だったような気がする。

そしてもう自分は大学生という気持はなかったが大学生年齢でいうと4年の春に就職、つまり「臨時」ではなく「社員」として雇用された。その会社でエヌと出会った。1966年の春ということになるか?

その会社が海外旅行専門の会社だった。当時は東京オリンピックあたりで自由化された海外旅行をねらって、海外旅行専門の会社がどんどんできていた。自由化されたとはいえ、いまと比べると旅券をとるにも、ビザを取得するにも手続きが面倒で、シロウトじゃ無理だった。外貨の持ち出しも制限があって、一定額以上になると日銀に申請し許可や承認が必要だった。これらの手続きは、旅行社が代行して行い手数料を得るというのが普通だった。

とにかく毎日、英文タイプライターに向かって、英文だらけの書類を作る日々だった。しかし、おれもエヌも英語なんか、まったく知らんよ~、話せないよ~。だったのだ。どうやって仕事していたのかねえ。でも「ABC」という部厚い、世界中の飛行機ダイアや運賃がのっている本をめくりながら、航空機のキップの手配とか、みんな英語でやっていたのだよなあ。どうやっていたのだろう。思い出せない。

しかも、入社数ヵ月で、大阪に支店つくるからおまえ行ってつくれ、なーんて言われて一年間も長期出張になり、大阪支店をつくったなあ。そのときには、自社企画の団体ツアーの集客営業もやらなくてはならなくて、おれなんかまだ海外旅行もしたことがないというのに、課長がコレ見て行って来たフリして営業しろと渡された、彼が前年ツアー添乗で撮影したスライドを見て、もう海外旅行のベテランですという顔して営業した。それで100名ぐらいの集客をしたんだよなあ。おもしろかったけど、いま考えると、よく大過なくやれた、おそろしい。

その大阪で、約一年間不眠不休で仕事して、無事に大阪支店はできたのだけど、おれは帰京してすぐ身体をこわし心臓発作で倒れ、ちょうど住んでいた荒川区熊野前の近くにあった東京女子医大に運ばれ、長期安静と医者に宣告され、あわれ会社はクビ。会社というのは、そういうとこだと、身にしみたね。

そして、両親が転がり込んでいた飯場の窓のない薄暗い部屋で、世間から忘れられたように誰とも会うことのない寝ている生活のときに、エヌが訪ねてきた。彼は、おれの枕元で涙を流して帰っていった。

ま、そういうことを思い出したので、また忘れないうちに書いておく。同じ会社で英語も知らないのに英文タイプライターを打っていたエヌとおれだが。エヌは、その後転々のち某業界トップの会社を育て、先年それをM&Aつまり売り払って悠々自適の生活に、おれは相変わらず、ま、こんな調子。

そういえば『大衆食堂の研究』の原稿もワープロだった。キーボードを苦もなく叩きHPを作っているには、こんな事情もありました。とさ。

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なぜ、かくも頭痛

昨日は西荻の「ぷあん」開業一周年記念飲み放題食べ放題時間無制限2000円で、3時半ごろから8時すぎまで飲み続け。学校建設資金の件で愛人Aにエヌを紹介。何時ごろか愛人枝豆から電話があって話をしたが何の話をしたか覚えていない。途中でおれの隣に座った上海亭の男が、まもなくタイ女と結婚するもので、その女の話と結婚後の夢など、とにかくタイ系結婚系の話をしゃべりまくるのにテキトウにあいづちうちながら、食べまくり、生ビール、紹興酒、赤ワイン、メコンウィスキーをロックで飲みまくる。ああ、かくてヒドイ二日酔い。バタッ。

■もう始まっているが、1月13日(木)から2月27日まで「頑張れ新潟、頑張る中越IN浅草」開催中。浅草国際通り、今半別館角を入って(かっぱ橋通り商店街)すぐ、左側のテプコ浅草館。弱小高千代酒造は、最初の一週間に集中して試飲販売を行うそうだ。よろしく~よろしく~。

新潟の故郷は大雪 「魚沼の四季」
http://www2.ocn.ne.jp/~at99/
知人からの年賀状で知ったのだが、彼の奥さんの実家は小千谷で家は全壊、仮設住宅暮らしだそうだ。うーむ、この大雪。ふだんならスキー場はよろこぶのだが、地震にスキー客キャンセル続出の今冬では、うらめしいばかりか。

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2005/01/15

『レモンクラブ』の南陀楼綾繁と小あじ日記風

きのう。漫画屋が編集する『レモンクラブ』2月号を買いに浦和駅近くのエロ本屋へ。おれはエロ本屋があるかないかで、街の「文化度」をみる。エロ本屋のない街は文化はつる街、深みのないノッペリとした街が多い。北浦和に引っ越してきて、浦和駅から2、3分、しかも県庁ヘむかう大通りにエロ本屋を発見してうれしかった。

その近くには大衆居酒屋食堂の「いづみや」があって、駅前黄金コンビというかんじだったが、残念ながらそちらは閉店、エロ本屋は残っている。ときどき寄る。たいがい立ち読みだけどね。

かつて都内の私鉄沿線に住む知人が、駅前にパチコン屋ができるというので反対運動を始めた。ところが同じ駅に住む別の共通の知人が、ちょいとひねくれた男であるが、こいつが推進署名をやろうと言い出して、おれはどっちに加担したかというと後者だ。

そもそも反対の理由が「街の風紀が乱れる」とか「文化都市にパチンコ屋はいらない」とか、そういうものだった。あきらかに自分たちは文化的な「良民」で、パチンコをやる人間を下品で野蛮な「悪人」として差別し排除しようという意識があった。それこそ文化のていどの低さを露呈したものだ。

エロ本屋に対しても同じような見方がある。パチンコ屋やエロ本屋があるぐらいで失われる「街の風紀」や「文化」なんか守るに値しない。そういうわけで、それまで一緒に飲んでいた、われわれ3人は分裂し非常にきまずい関係になったのだった。20数年近くたち、最近ゆるやかに関係が改善するきざしがあるが。

ところで、『レモンクラブ』では南陀楼綾繁さんが「物好き〔南陀楼綾繁〕の活字本でも読んでみっか?」と毎号1ページ使って本一冊を紹介している。今2月号は、当ブログ12月14日に紹介した『あわわのあはは』が載っているのだ。『あわわ』とは徳島のタウン誌、トウゼン綾繁さんの興味の対象。この本は、モノヅクリとしてのタウン誌の話はあまりなくて、経営やら経営をめぐる動きが中心でおもしろいのだ。

発行元の西日本出版社の内山さんに『レモンクラブ』現物を、著者の住友達也さんにコピーを送る約束をしているので2冊買おうと思ったら、いつもは2、3冊はあるのに、1冊しかない。ま、貴重な1冊が手に入ったのでヨシとしなくては。南陀楼綾繁さん、この最後で、「オレも十年後にはこんな風に悠々自適になりたいなあ。まず成功しないとダメか……。」だって。あはははは。

エロ本屋の帰り、スーパーで小あじが安かったので買った。最近なんでもレモンを使って我流に料理して食べるのにこっているので、そのようにしたら、もううまかったこと。しかし、ちょいと骨に火の通りが悪く、食べるときじゃまになった。火加減は難しい。

幻堂出版から3月ごろ発行予定のオヤジ芝田さんの本の解説を引き受けたまま、正月酒に埋没して、すっかり忘れていた。締め切りが「1月中ごろ」だから、「中ごろ」を20日ごろまでと考えれば、まだ十分まにあう。と、酔態でとりかかる。

と、今日は日記風に書いてみた。日記、にがて。

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2005/01/14

『大衆食堂の研究』復刻HTML版

え~、だいぶあいだがあきましたが、ザ大衆食エンテツ資料棚の『大衆食堂の研究』復刻HTML版に、「激動編*大衆の道、めしの道、食堂の道」の「二、カフェー、そして食堂はどう生まれたか」を掲載しました。
http://entetsutana.gozaru.jp/index.html

すでに当ブログに書いているとおり、今年は『大衆食堂の研究』発刊10周年であります。細々と10年、いやはや、よく続いた、というべきか。

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カネモチと「求道」のジジイのいうことは正しい。か?

先日11日の「食は三代のれれれれれ?」の「美味しんぼ第19巻」からの引用は「食は三代、という言葉を知らんのかね。成り上がり者には本当の美味しさがわからんということだ。富を重ねて三代、それで初めて美味しいものがわかるのだ。究極のメニューなんて云々できるのは、多山家くらいの人間だけだよ。君たちのような貧乏サラリーマンが究極のメニュー?笑わせるな」だ。

このような「言説」はよくみられるし、であるから、木下謙次郎さんの『美味求真』や北大路魯山人さんの著作のアレコレや村井弦斎さんの『食道楽』などを無批判に利用し、自分の言説に「箔」をつけることが横行する。カネモチと年季の入った「求道」のジジイのいうことは正しい、ということになってしまうのだなあ。

カネタクさんの「読まずにほめる」とは反対に、昨日は『サライ』の見出しだけで「読まずにけなす」ことをしたが、「グルメ」記事には、そのようなものが多い。

ある種の権威主義なのだろうが、つい半世紀ばかり前まで続いていた封建身分制を背景にした「序列文化」「年季制度」の反映で、戦後の「民主主義」の時代になっても、なかなか抜け出せないようだ。ま、日本は、まだまだ民主主義に遠いということか。あるいは民主主義そのものを捨てようとしているのだから、その反映かもしれない。

そこには、5年の者はそれなりのたのしみ、20年の者はそれなりのたのしみ、ビンボーはビンボーなりカネモチはカネモチなりのたのしみがある、という考えがない。それが日本人の食のたのしみ、食の快楽、ひいては「たのしく生きる」という生活のたのしみを狭いものにしているのじゃないかという気がする。

とくに味覚は年齢によって、たとえば20歳ごろと、いまのおれの60歳ぐらいでは、個体差や地域差もあるが、かなりちがうし嗜好も変化する。20歳は20歳の味覚でたのしみ、60歳は60歳の味覚でたのしみ、そこに「上下」などはないはずだ。料理をつくるのだって、経験の浅いものは、それなりのたのしみ、長いものはそれなりのたのしみがある。

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2005/01/13

『サライ』に悪口『酒とつまみ』を絶賛

おとといだったかな? スーパーへ行ったらアンコウが安かったので買って来て、アンコウ鍋をやった。

きのう大宮のジュンク堂へ行った。『サライ』の表紙を見たら、「木下謙次郎の『美味求真』を食す」とかで、「食通が最後にたどりつく」とかのフグとスッポンの特集だ。

笑わせらア、アンコウはどうなんだ。あの複雑なうまさ、たのしみの深さ、それにフグやスッポンとくらべたらはるかに安い。

しかし、フグやスッポンの特集をやるのに、木下謙次郎や食通を持ち出してウンチクしなくてはならないなんて、あいかわらずの紋切り型ステレオタイプだね。編集者のレベルが低いのか読者の成長がないのか。

『サライ』をWeb検索したら、「わが国初、大人の生活誌」とあった。なるほど~「大人」か。「大人」の雑誌が、こうも人気のようじゃ、わが国には「大人」になっていない、身体だけでかくなってトシだけくって、『サライ』を買えるていどにはテキトウにカネをもってしまった人間がウロウロいるということだな。
http://serai.jp/index_rakudas.html

そもそもわが日本でグルメなんていうと「求道」であって「快楽」でないね。「求真」とかいっちゃってさ。そんなものは戦前の封建貴族社会の名残さ。文化と民主主義の後進性だな。

それはともかく、大宮のジュンク堂では『酒とつまみ』6号を買ったのだ。ますますバカバカしさを深めている。いいなあ。酔客万来が重松清さんの登場だったが、これはイチバンつまらなかった。重松さんて、予定調和的なひとなんだなあ。

おれがイチバン興味もって読んでいるのは、連載の「思いつき研究レポート」と「瀬尾幸子のつまみ塾」。これはもう、ほかではやらないやれないことを堂々とやって、じつにバカバカしいようでいて、深いんだなあ。

って、なんだかわからんだろうけど、ま、買って読んでください。
http://www.saketsuma.com/index.html
これほど可能性ゆたかな雑誌は、いまないでしょう。『サライ』なんか棺おけに片足つっこんだような雑誌ですわ。アッ、Sさんすみません、『サライ』の悪口書いて。

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2005/01/12

ようは日々の感覚なんだろう

自分は優れた人間であると偉そうにしたい気持はわかるが、「グルメ」の悪癖に、とりわけその傾向があるのはなぜだろうか。

それも「おれはこんなに高いものを食べているのだぞ」と偉そうにするなら、まだわかりやすいし納得できるが、そうではなくて、自分がよい本物の味を知る人間であると偉そうにする。たとえ知っていたとしても偉そうにすることはないと思うが。「実るほど首をたれる稲穂かな」という言葉があるようにね。

ようするに、とても、生活や食を楽しんでいるようにはおもえない。

田舎のローカル線に乗り換えたら、男女が乗ってきた。初老の夫婦だ。車掌との会話で、東京から来て、温泉に行くらしいことがわかった。男は、元東京都公務員の管理職、というフンイキである。

電車がはしりだすと、男は立ち上がり外を見て「ああ、田舎はいいなあ、自然はいいなあ、なあおまえ見ろよ」と同行の女に言った。「見ろよ」といわれなくても、座席に座ったままで見えているのだが、男は、そう言った。そしてまた座りながら「田舎も自然もいいけど、暮らすとこじゃないよな」と言った。

それから数日後、おれは都心の喫茶店で1人の女性と仕事の打ち合わせをした。終わって帰り、近くの駅までの道で、彼女は、こう言った。「都心にも自然はあるんですよね」

トツゼンだったので、おれは「えっ」と言った。すると彼女は、紅葉した葉を貧しげにつけている一本のやせ衰えた街路樹を指さして、「ほら都心にも四季があるんですよね」と言ったのだ。

おれは、後者の女の方が、日々の生活や食を愛し楽しんでいるような気がしてならない。そして「グルメ」の悪癖は、同行の女に外の景色を「見ろよ」と言った男のようである。

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2005/01/11

新春早々ピンサロ取材

某女からのメール、一部無断転載。差別主義のマスコミには、こういう話はのらないね。

店内に響く悲鳴、つまみだされる酔っぱらい、 泣きじゃくり労働拒否する女の子たち、待ち客6人、 なだめるマネージャー… 取材続行不可能、新春早々イイ場面に遭遇できました。

「でもイイ子いましたので、●●●●●「●●●●●」よろしくお願いします。」だってさ。今年は、大衆酒場やめて、ピンサロで呑むかねえ。『東京人』とか「大人のナントカ」とかいう雑誌で、ピンサロの特集やってくんないかな。

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「食は三代」のれれれれれ?

「食は三代」ということばがある。おれは「衣は一代、住は二代、食は三代」と覚え、ビンボー人がカネに少し余裕ができると、まず衣にカネをかける、一代目はそれどまり。その財をひきついだ二代目は、住まいにカネをかける。そして三代目にいたって、やっと食にゼイタクをするようになる。つまり毎日の食を節約しながらひとは財をなすのである。であるから味覚が変わるには三代を要する。三代は、ほぼ百年。というふうに覚えていた。

ところが、googleで検索してみたら、ずいぶん解釈がちがうのだ。

■検索トップの「月刊薬膳コラム」2001年4月号は、こうである。
http://www.teisan.com/column/200104.html

中国には、財は一代、衣は二代、食は三代という格言があります。これは、いかに食文化を子孫に伝えるのが難しいかを表しています。

■つぎの「大阪風味」の「味堂一筋」は、こうだ。
http://www.kuidaore-osaka.com/2top/fumi/08_mido/12_01.html

「食は三代」と言われるが、木村さんの場合は確実に「一代で三代分」の料理を胃袋に収めたにちがいない。

これは、わからなすぎる。

■つぎの、「水産物医食同源」2004年7月7日は。
http://suisandonya.foods.co.jp/isyokudougen/040707.html

「ゲンさん、俗に『食は三代』なんてことを言うけど、あれは本当ですか?」なんて尋ねられたんだがね。・・・「食は三代」ってえのは、ご存じのように本当に味がわかる人間が育つには、財を築いて三代かかるってえ例え話だ。

■つぎ、「すぎやまこういちグルメリスト」の「僕の好きな店・関東編」には。
http://sugimania.com/food.html

食は三代(祖父・両親についで)の三代目 すぎやまこういちの好きなお店
こうなると、れれれれれ? だね。

■つぎ、さあ、「美味しんぼ第19巻「食は三代(後)」の登場だ。
http://www.asahi-net.or.jp/~AN4S-OKD/private/bun/man0091901.htm

「それがそもそもおかしいのだ。食は三代、という言葉を知らんのかね。成り上がり者には本当の美味しさがわからんということだ。富を重ねて三代、それで初めて美味しいものがわかるのだ。究極のメニューなんて云々できるのは、多山家くらいの人間だけだよ。君たちのような貧乏サラリーマンが究極のメニュー?笑わせるな」

■で、おれの覚えに最も近いのが、やっと十数件目にあらわれる。おおっ、おれも寄稿したことがある、「Web マガジン en」の「食を探る」のコーナーだ。加藤純一さんが、このように。
http://www.shiojigyo.com/en/backnumber/0311/main2.cfm

かつては「衣は一代、住は二代、食は三代」といわれ、味覚は三代以上の年月をかけて緩やかに変化するものだとされてきた。


まあ、こんなぐあいなのですなあ。
これはまあ、どういうことなのでしょうかなあ。
ま、世の中、とくに食の話は、こんなものですか。

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2005/01/10

『大衆食堂の研究』とライターへの道、前夜

「文脈」だの「脈絡」だのは、「知的生活」には必要なことがあるかも知れないが、「知的生活」は世の中のわずかな部分で成り立っているにすぎない、コリクツをいじりまわしてエラソウにしている狭い世間のこと。そんなものを信じていたら、ヒラメキの出る幕がなくなる。とくに広い世間に可能性は満ち満ちているし、カネは天下のまわりもの、人生はギャンブルとなれば、真底のところは「文脈」だの「脈絡」だのは関係ない、フトしたヒラメキこそが頼りだ。

ということで、バブル最中の1990年ごろ、おれはスリリングな賭けに出ていた。職業「プランナー」つまり「企画屋」、共同出資のプランニング会社1個を持って、いくつかのプロジェクトを請け負っていたが放り出して、ある一つの20数億円のプロジェクトにしぼった。それがコケたら、フリーの生活は窮地に陥る。

「バブル」は「超好景気」とかいわれたりしたが、ゴマカシの表現だろう。本業の利益以上に、あるいは本業は赤字でも、本業以外で何もしていないのに、カネだけは膨らんでまわる。そういう異常なカネの動きをしていたのが「バブル」だ。そんな「景気」ができたのは、日本のエリート大蔵省と銀行サマのおかげ。

バブルのころは「仕掛け人」だのといわれ「企画屋」はモテモテ、企画の本がゾロゾロ出た。『企画の王道』なーんていう本もあったなあ。おかしなおかしなバブルを象徴するような本。

企画本ブームには二つの背景があったと思う。一つは、カネまわりがよくなったので新規企画に投資しようというネツが異常にあったこと。もう一つは、欧米のコンサルティング会社の日本進出で、各種の手法がドッと流れこんだことによる、「企画技術」の「流行」だ。

とにかく、「企画」のシゴトはイロイロあるが、イチバン多いのはフツウの企業からの発注で、これには予算というものがつきまとう。企画屋の儲けは、その予算のなかでハジキださなくてはならない。それが、ま、フツウの状態だ。

しかし、バブルのころは、カネが異常な動き方をしていた。そのもとになっていた銀行からカネを引き出すチャンスがふえた。カネの流れは心臓部で豊富、先に行くほど細くなり、企画屋の儲けが少なくなるのは道理だ。心臓部の銀行からカネを引き出すプランニングをすると、フツウの企業の予算のなかでやるプロジェクトより企画屋の儲けは、はるかに大きいし、そういうチャンスは、ごくマレである。

で、ま、そういうチャンスに遭遇したおれは、チョイト賭けに出てみることにしたのだ。賭けに出るというのは、世間ではまだバブルに浮かれていた1989年後半には、実際にはカネの動きに変化が出ていたからだ。それは、バブルのオワリを意味していて、おれの周囲のコンサルティングやプランニングの関係者のあいだでは警戒感があったし、オリコウな経営者は、とくに不動産への投資をひかえ本業をかためた。「バブルの崩壊」への動きは、1991年ごろから加速し顕著になるが、実際あとになってみると、その前の89年ごろから一年間ぐらいの手のうち方で、バブル後の明暗が分かれたともいえる。

で、おれは、そのチャンスに遭遇したとき、もしかすると、その異常なカネの動き方がおわるまでのあいだに、そのカネを銀行から引き出せるかもしれないと思ったのだ。20数億円のプロジェクトは当時としては大きい方ではなかったが、1人で仕切ることができるから、うまくいったら、ま、数千万円を手にできるかな、というプランニングだった。

これがおれの賭けで、カネは引き出せないうちにコケてしまった。さいわい、自分の借金はなかったが、トツゼン収入は途絶え、家賃すら稼げない状態になった。それが、1992年の、おれの「蒸発前夜」のありさまだった。おかげで、ライターでもやってみようかという気分になれた。こうしておれの『大衆食堂の研究』とロクデモないライターへの道がひらかれたのだなあ。

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2005/01/09

船戸博史アルバム『LOW FISH』

はあ、昨夜の酒は、けっこうダメージが残った。だいたい4時半ごろから長時間ガンガン飲んだのだし。夕方近く、ようやく正常なバカにもどったら、昨夜は竹屋食堂の帰りに西日暮里駅前を通りぬけ千駄木まで行って、古書ほうろうでCDを買ったのを思い出した。

去年12月15日の日記のコメントで南陀楼綾繁さんに教えてもらった、船戸博史のアルバム『LOW FISH』だ。
https://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2004/12/post_18.html

これを昨夜は帰ってきてすぐかけて聴いてるうちに寝てしまったらしい。聴きなおしてみると、ええねえ、続けて3回ばかり聴いてしまった。とさ。夕食は、これを聴きながらオイシイものをつくり、今夜はおうちでおとなしく飲んだ。とさ。

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切なくも愉快な常連たちの宴

昨夜の竹屋食堂は、偶然「古豪」ともいうべきヘビーな常連が揃った。内装職人のSさん、ハイヤー運転手のNさん、製本職人のKさん、看板屋のEさん。みな地元人。この顔ぶれが一度に揃うことはめったにない。いつものことながら、したたかで遠慮のない「密偵たちの饗宴」というかんじも、一段とスゴミがあり賑やかだった。

死んでいった5、6人の常連たちの思い出、最近は顔を出さなくなった80歳ぐらいの常連をあげつらね、だれがつぎに死ぬかという予測。ついでに地域の医者3軒ばかりの評価とヤブ度を論じ、どうやったら新聞勧誘集金人からモノをせしめたりカネを払わずに追い返せるか、NHKの集金人を困らせる方法、集金人たちが困り怖がり嫌がる地域はどこか、自分たちのことは棚に上げ近所のオカシナ連中のこと、最近全国的に有名になった近所の北島肉店とそこに来る客たちのオカシナ様子、国際情勢経済情勢に関する楽観論悲観論、やっぱオンナだよな買春アソビの今昔、やっぱゼニだよなのバクチに株の今昔、アアッおれは死にたいよこれ以上生きていてもつまらない、あんた○ン○が立たなくなったら死んじまったほうがいいよ、アレはどうなんだい一回たたなくなると二度と立たないの、そりゃオメエ……etc大声でメチャクチャな持論を展開し相手をやりこめ、大笑いし……『大衆食堂の研究』の「食堂世間咄」の「どうでもいい第二話」に書いたように、
http://entetsutana.gozaru.jp/kenkyu/kekyu_3_03.htm
「だいたいちょっと見識ありそうな話から昔の思い出になり、自分の人生をじっとみつめるような味のある話になったと思ったら、一転、女の話でめでたく終わり、というのがひとつのパターンなのである。」という展開。かくて、酒もすすみ泥酔帰宅のち倒れこむように寝て、二日酔。

たしか、竹屋食堂に初めて入ったのは、1994年のことで、そのときは大衆食堂の本を出すことが決まっていた。まだ、過ぎ去ったバブルが、すぐもどって来るような期待や錯覚が、気分として漂っていたころである。

まえに常連の一人が自殺した。たしか52か3歳だった。縫製職人つまりミシン職人である。板橋から上野周辺のあたりには、小さな縫製屋がたくさんあって、一日中路地の奥からミシンの音がしているという時代があった。彼は、その数少ない生き残りといえる。たしか板橋あたりが仕事場だったと思うが、竹屋食堂の近所のアパートで一人暮らし、毎日決まった時間に決まったものを食べ決まった量の酒を飲んで帰った。自殺したが身よりはわからないし竹屋食堂以外の近所づきあいはなかった。警察が竹屋食堂に知らせに来て、とりあえず竹屋食堂のオヤジが葬式などいっさいのメンドウを見た。

アパートの部屋を整理したら800万円ばかりの預金通帳が出てきた。これは大変だというので、警察も家族や親戚をさがしたら、出身地の田舎に、オジがいることがわかった。電話をすると、「そんな男は、勝手に家を出て行ったのだから知らん、骨も引き取りれない」という返事だった「それでは預金通帳のほうは」というと急に態度がかわって、骨を受け取りにきた。というようなことが、細部記憶ちがいがあるかもしれないが、あった。

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2005/01/08

ブログの威力か

5日の「精進料理のススメ」で吉祥寺日乗さんの記事を紹介したが、吉祥寺日乗さんからトラックバックがあった。

急いでいたので簡単な紹介だった。これまでもイロイロPR誌に書いたが、編集者や発行会社の関係者以外の読者の声というのは、ほとんど聞こえないで過ぎていくことが多い。とくに月刊の単発記事の場合は、そうだ。そういえば、広報担当セクションの上役の、わけのわからない意見だけが聞こえる、ということも少なくない。

今回のように、読者の反応がすぐわかるのは、うれしい。しかも検索で、すぐわかるのだからなあ。これぞブログの威力か。

退屈男さんのブログ、1月7日の「二〇〇四年の個人的おさらい」では、
http://taikutujin.exblog.jp/1518330/
「もっともインパクトのあった本」に『汁かけめし快食學』が。

先月21日に書いたが、「ナンダロウアヤシゲな日々」の「貧しさのなかで夢見る12冊」にも『汁かけめし快食學』あった。
https://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2004/12/post_28.html

こういうのも、うれしいね。イロイロな競技やコンテストで入賞したことがあるけど、ベスト10入りとか10点満点8点以上入り、とかいったものより、このように「インパクト」賞とか「貧しさのなかで夢見る」賞など、ポイントがはっきりしていたほうが、うれしい。

ベスト何位とか点数とかは、評価のポイントがあいまい(スポーツの場合でもアイマイな点数制がある)か、同業業界内にしか通用しない仔細なことをあげつらねた「業界内的視点」での評価の場合が多い。

ま、そういうこと。『大衆食堂の研究』の発端のつづきは、たぶん、またあとで。

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2005/01/07

『大衆食堂の研究』の発端

きのう南陀楼綾繁さんと高田馬場BIGBOXで開催中の早稲田古書店の古本市で待ち合わせ。駅近くの横丁ビルのなかの「秋田っ子」へ。あとから、古書現世セドローくんと初対面の三楽書房アキヒロくん。

くわしくは、綾繁さんの「ナンダロウアヤシゲな日々」と
http://d.hatena.ne.jp/kawasusu/20050106
セドローくんの「古書現世店番日記」に。
http://www.w-furuhon.net/wswblog/000342.html

なかなかオモシロイ店で、いろいろな意味で興味を持った。まず場所が、かつてはキッタナイ小さな横丁路地だったに違いないところを一つのビルにして、ビルの玄関はつくらないで、そのまま横丁に入っていく感覚の一階真ん中に、小さな間口のアヤシゲな飲食店がならぶ路地を残した古いつくりだ。こういうビルも、そのなかにある店も、フラッと入るには「勇気」がいる。

そもそも店主が、「よくこういう店に入ってきたね、勇気がある」というようなことを言った。もとはといえば綾繁さんが昼定食を食べに入ったことがあって、夜もよさそうなので入ってみようということだったのだが。その店主が、客がいるのに自分で勝手に飲んで酔っぱらうオモシロイひとである。彼は、どうもおれと同じぐらいの年代のようだが、秋田から中卒15歳の集団就職で上京したのだ。つまり「金の卵」といわれたひとたちだ。うーむ、その話を、もっとよく聞きたい。

おれの中学の同級生も多くが集団就職で上京した。彼らは、ほとんど東京の街の商店とくに飲食店に就職した。東京の大衆的な飲食店と集団就職の関係は深いものがある。思い出したので書いておくが、1960年前後は、いまでは想像つかないくらい都内には蕎麦屋が多く、蕎麦屋に就職したひとも少ない。そして彼らは、何十人分もの蕎麦を一緒に肩に担いで自転車に乗って配達するという「芸当」のようなワザを身につけ、それが自慢だった。おれの親戚にも、そういうひとがいたが、先年他界した。

ところで『大衆食堂の研究』だが、その発端は、一昨日の日記に書いたように、埼玉県朝霞市のかめさん食堂である。そこでめしくいながら、「もしかすると、イマ大衆食堂の存在は、ジケンじゃないかな」とフト思った。それがいつのことだったか、もう忘れた。このかめさん食堂のページに『大衆食堂の研究』から引用している文章を見ると、1993年秋に、かめさん食堂でめしをたべているが、そのときだったかどうかはワカラナイ。とにかく、かめさん食堂に初めて入ったときに、そう思ったのは、たしかだ。

もし、そのときだったとすると、2回目の離婚と同時の蒸発ブラブラ開始が92年の6月だったような気がするから、それから一年ちょいとすぎたころになる。とにかく、「懐かしい」とかいうものではなく、「ジケン」だと思ったのが、『大衆食堂の研究』のナカミになるのだ。『大衆食堂の研究』に、あまり「レトロ感」がないのは、そのためかもしれない。

今日は、ここまで、つづく。

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2005/01/05

精進料理のススメ

「ちくま」1月号に、ちくま文庫から昨年12月発行の藤井宗哲著「禅寺の精進料理十二ヶ月」の紹介書評を書いた。タイトルは「精進料理のススメ」。「吉祥寺日乗」さんが、その記事にふれている。1月4日「PR誌」の項。
http://d.hatena.ne.jp/suetakashi/20050104

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人生山あり谷ありのなかでの「大衆食堂の研究」

きのうのつづき。拙著、『大衆食堂の研究』は三一書房から1995年の発行、『ぶっかけめしの悦楽』は四谷ラウンドから1999年の発行だが、じつは企画としては、『ぶっかけめしの悦楽』のプランのほうが先に進行していた。それは原案の段階では、「汁かけめしとカレーライス」というかんじだったが、その話の発端は、たしか1991年だろう。

そもそもは江原恵さんが三一新書から刊行していた『カレーライスの話』(1983年)を大幅に書きなおす話で、江原さんは監修で、おれが書くという編集者のプランから始まったのだ。

なぜ、その話がおれのところにきたのかというと、『カレーライスの話』発刊の企画にからんでいたからだ。つまり江原生活料理研究所が発足した1980年ごろ、おれが発行人になって、ミニコミ小冊子「ポリセント」(季刊)をだしていた。そこに、江原恵さんに「カレーライスの可能性」という短いエッセイを書いてもらったのだが、それが三一書房の編集者の目にとまり、カレーライスの本の企画になった。

その最初の企画から、取材の段取りや費用のてあてなど、おれは江原生活料理研究所のプロデューサーというかんじの役回りでからんでいた。そして当初は、おれも共著者として書いてほしいという話もあったが、おれはモノヲカクということにあまり関心はなかったし、周辺にライター稼業のひとをたくさんみて、ああいうショーバイはしたくないなあという印象があったり、それに本業のプランナー稼業のほうが忙しくかつおもしろく、まったく書く気はなかった。

しかし、内容については、江原さんと毎日のように夜な夜な飲み、議論していた。『カレーライスの話』の「第一章 カレー談義」は、冒頭「本書の執筆をすすめた友人が、かれの社の近くの大衆酒場で、話にひとくぎりついた後で、私に言った」で始まる。その「友人」がおれで、「カレー談義」として書かれているのが、その議論のナカミである。ま、書かれたナカミは、議論と必ずしも正確に合致しない「創作」もあるが。

「かれの社の近くの大衆酒場」とは、当時おれが契約在籍していた、千代田区麹町、五番町交差点近くの企画会社の前にあった、居酒屋チェーンの駒忠である。そこは午後2時に開店したのだが、おれは開店同時に入り、酒を飲みながらモロモロの打ち合わせをして過ごすということをよくやっていた。ヒドイときは、午後2時から閉店の午前2時まで、いつづけることもあった。

つまり最初は1991年ごろ、『カレーライスの話』を書きなおす話から始まったのだ。そのプランを検討しているうちに、おれが東京に落ち着いていなかったこともあったし、まだそのころでもモノヲカクということに気がすすまず、デレデレと案を相談しているうちに2回目の離婚や、その後の蒸発放浪ブラブラという事態が重なって、のびのびになっていた。

思い出したが、『カレーライスの話』の発刊のころも1回目の離婚でイソガシカッタのだから、この企画は、よくよくおれの人生の破天荒イチダイジに関係がある。いやはや、人生山あり谷あり……。

ま、そういうわけで、蒸発放浪ブラブラのあいだに、フト気になった大衆食堂で、大衆食堂の本のアイデアが浮かんだのだ。そして、当時は、おれは家なき住所不定蒸発オヤジであったから、ときどきおれから三一書房の編集者に連絡しては、都内の大衆食堂で会っていた。

その連絡のとき、ハガキで連絡するときは、「大衆食堂で会おうかい」の「かい」を「会」と書いたりしてアソンデいた。それやこれやで、『大衆食堂の研究』と「大衆食の会」の誕生になるのだ。

そうそうそれから、『カレーライスの話』のときは、おれはまったく原稿作成に関わる気はなかったのだが、Sさんという若い女性の、ライターとしてもエディターとしても有能なスタッフをくわえた。『カレーライスの話』には「S嬢」なるひとが登場するが、それが彼女で、「第3章 ごった煮カレー汁と本物のカレー」の、北海道での調査や聞き書きは、彼女のシゴトなのだ。

そして、『カレーライスの話』の書きなおしプランのときも彼女は最初から参加していて、そのまま「大衆食堂で会おうかい」にも参加し、『大衆食堂の研究』の最後に登場する嶋岡尚子さんである。大衆食堂の本を先に出すことが決まってからは、われわれは、何度かそうして都内の大衆食堂で会っていた。

ああ、長くなった、今日は、ここまで。
大衆食堂の本のアイデアが浮かんだ食堂は、ザ大衆食のサイトに紹介してある。こちら、かめさん食堂。
http://homepage2.nifty.com/entetsu/kamesan.htm

ついでに、「はてなダイアリー 江原恵」には、江原さんが「カレーライスもまた立派な日本料理だ、と、まじめな挑発をおこなった」という書き方をしている。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%BE%B8%B6%B7%C3?kid=44225
江原さんは「過激」な言動が多かったが、「挑発」というのは、この「はてな」を書かれたかたの主観だろう。そのことは、いずれ詳しくふれたいが、『カレーライスの話』は最初は「カレーライスの可能性」として企画されていたのであり、それはまた日本料理の可能性でもあるというのが、そのころのおれと江原さんの共通した考えだった。それは第一章のなかに、「カレーライスを生んだ文化の可能性」というぐあいに表現されている。これは、決して「挑発」などではない。とはいえ、本は出版されたら一人歩きするし、書かれたものはすべて著者の主観によるものであるし、また読むひとも主観を持って読むのだから、江原さんの言動を「挑発」と読むのも、またオモシロイと思う。

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2005/01/04

オッ「大衆食堂の研究」から10周年

忘れていたが、おれの出版デビュー作『大衆食堂の研究』の発行は1995年7月だから、2005年の今年は10周年なのだ。

「大衆食の会」も、10周年。それまでは、いいかげんに「大衆食堂で食べよう会」などとハガキに書いて案内していたのだが、本をだすにあたって、おれが無名の新人なものだから、著者名になにかモットモラシイ会の名前を入れたほうがよいという編集者のアドバイスもあって、「大衆食の会」を名のった。

大衆食の会になってからの初快会食は、1995年10月19日、「サバ味噌煮を食べる会」だった。そのときの様子は、紙版「大衆食の会通信」に載せ、ザ大衆食のサイトに転載してある。
http://homepage2.nifty.com/entetsu/kai951218.htm

昨年は、一回も大衆食の会をやらなかったが、今年は2月に予定しているほか、10周年記念イベントも含め何回かやる予定。

ま、とにかく、おれは、『大衆食堂の研究』の発行のころは、マダ50歳そこそこの若さだったが、10年たってアワレな老人62歳である。

しかもバブルでイカレきったあとの世間のアタマは『大衆食堂の研究』を受け入れがたかったのか、あまり売れなかったし、「下品」というよろこばしい非難をあびるし、出版社の三一書房は労使紛争と経営紛争のゴタゴタで、配本も発行もできない状態になった。イッタイこの10年間は、祝えるかどうかわからない「失われた10年間」ともいえそうだが、しかし、なんでもいいからリクツをつけて酒を飲んで騒げばよいのである。

『大衆食堂の研究』は、どうして始まったのか。ということは、明日から書こう。

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2005/01/03

新年

oosizu

太陽が午前10時ごろに昇り午後1時ごろには沈む雪の山中で、暖衣飽食にあけくれた。暖衣飽食といっても、「山中にしては」の、但し書きつきだが。

日中ストーブをつけても室内の温度は12度ぐらいまでしか上がらない。夜ふとんに入っても、ふとんの外の頭の芯がズキズキ痛むほど冷えた。

自然に身体をさらし、本や雑誌や新聞やテレビやのメディアがふりまく、文明のたわごと絵空事の知識の数々を脳ミソから洗い流し、ちったあ生身の身体の感覚にかえった気がした。

帰宅してメールをあけたら、半分以上がスパンメールで、ウィルスもどっさり届いていた。ああ、またバカバカしい文明の華とつきあわなくてはならない。

もしかすると、メールで届いた添付ファイルの年賀状を、ウィルスメールと一緒に削除してしまったような気がする。すみません。

まあ、今年もよろしくお願い致します。

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