『大衆食堂の研究』の発端
きのう南陀楼綾繁さんと高田馬場BIGBOXで開催中の早稲田古書店の古本市で待ち合わせ。駅近くの横丁ビルのなかの「秋田っ子」へ。あとから、古書現世セドローくんと初対面の三楽書房アキヒロくん。
くわしくは、綾繁さんの「ナンダロウアヤシゲな日々」と
http://d.hatena.ne.jp/kawasusu/20050106
セドローくんの「古書現世店番日記」に。
http://www.w-furuhon.net/wswblog/000342.html
なかなかオモシロイ店で、いろいろな意味で興味を持った。まず場所が、かつてはキッタナイ小さな横丁路地だったに違いないところを一つのビルにして、ビルの玄関はつくらないで、そのまま横丁に入っていく感覚の一階真ん中に、小さな間口のアヤシゲな飲食店がならぶ路地を残した古いつくりだ。こういうビルも、そのなかにある店も、フラッと入るには「勇気」がいる。
そもそも店主が、「よくこういう店に入ってきたね、勇気がある」というようなことを言った。もとはといえば綾繁さんが昼定食を食べに入ったことがあって、夜もよさそうなので入ってみようということだったのだが。その店主が、客がいるのに自分で勝手に飲んで酔っぱらうオモシロイひとである。彼は、どうもおれと同じぐらいの年代のようだが、秋田から中卒15歳の集団就職で上京したのだ。つまり「金の卵」といわれたひとたちだ。うーむ、その話を、もっとよく聞きたい。
おれの中学の同級生も多くが集団就職で上京した。彼らは、ほとんど東京の街の商店とくに飲食店に就職した。東京の大衆的な飲食店と集団就職の関係は深いものがある。思い出したので書いておくが、1960年前後は、いまでは想像つかないくらい都内には蕎麦屋が多く、蕎麦屋に就職したひとも少ない。そして彼らは、何十人分もの蕎麦を一緒に肩に担いで自転車に乗って配達するという「芸当」のようなワザを身につけ、それが自慢だった。おれの親戚にも、そういうひとがいたが、先年他界した。
ところで『大衆食堂の研究』だが、その発端は、一昨日の日記に書いたように、埼玉県朝霞市のかめさん食堂である。そこでめしくいながら、「もしかすると、イマ大衆食堂の存在は、ジケンじゃないかな」とフト思った。それがいつのことだったか、もう忘れた。このかめさん食堂のページに『大衆食堂の研究』から引用している文章を見ると、1993年秋に、かめさん食堂でめしをたべているが、そのときだったかどうかはワカラナイ。とにかく、かめさん食堂に初めて入ったときに、そう思ったのは、たしかだ。
もし、そのときだったとすると、2回目の離婚と同時の蒸発ブラブラ開始が92年の6月だったような気がするから、それから一年ちょいとすぎたころになる。とにかく、「懐かしい」とかいうものではなく、「ジケン」だと思ったのが、『大衆食堂の研究』のナカミになるのだ。『大衆食堂の研究』に、あまり「レトロ感」がないのは、そのためかもしれない。
今日は、ここまで、つづく。
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