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2005/02/01

社会を考えられなくなった末の栄養、グルメ談義

28日の「ウソつき主婦」の『イモめし時代の雑記帳』だが。「はしがき」が石毛直道さんだ。そこで石毛さんは、川上行蔵さんの前著『栄養学汎論』(健帛社、1963年)から次の部分を引用し、「このことばの重みは現在でもいささかもゆるがない」と述べている。

 栄養学は、栄養に関する知識の綜合である。しかし、食生活に関する知識の綜合ではない。栄養は食生活をささえる重要な支柱の一つではあるが、全部ではない。また、その大部分でもない。したがって、栄養学の見解だけで食生活を動かすことはできない。栄養学を十分に活用するためには、この点に留意して、食生活を支えている他の支柱についても、できるだけ多くの知識を累積する必要がある。

 食生活とは融合している食物摂取行為である。この食生活を支えているものは、(1)栄養、(2)嗜好、(3)経済である。食生活というからには、生活に関係があり、当然社会の影響がある。それは、食生活の三要素の一つである経済に含まれ、嗜好さえも規制することになっている。だから、食生活を支える支柱としてさらに「社会」を加えることもできるが、社会の「影響」は「嗜好」と「経済」に織り込みずみと考えれば、食生活の支柱は先に述べた栄養、嗜好、経済の三つとなる。この三支柱の間にあって栄養は嗜好に優先することもできず、経済に優先することもできない。非常の場合を別とすれば、少なくとも平常の食生活における栄養は栄養学を学ぶ者の考えるほど、現実の食生活に大きな変動を与えるだけの迫力は持っていない。また、栄養学がそれほどの迫力を持つものと過信してはならない。むしろ、嗜好と私経済とに焦点を合せた栄養を考える上に栄養学の知識を活用するよう心がけるべきものだと思う。

川上行蔵さんの専門は栄養学だった。たしかに、「このことばの重みは現在でもいささかもゆるがない」

栄養学は万能であるかのようなオシャベリは止むことなく。栄養士を「食育教諭」のようなものにすれば、食生活は改善され日本はノーベル賞受賞者をたくさん輩出する「一流国家」になるようなことをいう人気な「栄養タレント」がのさばり、事態はさらに全身ガン症状のように複雑悪化している。

おもうに、『イモめし時代の雑記帳』の1982年以後は、「食生活」をめぐる言論やオシャベリは、ますます「社会」から遊離した。意識的に「社会」を避けているのではないかとも思われる。

そもそも、「社会」に鈍感か関心が低いか知識がお粗末なところで、「食談義」が華やかなのだ。「社会」を考えないか考えられない連中が、栄養で騒ぎ、グルメにハシャギ。あるいは料理の歴史などは、カレーライスの歴史談義などにも見られるように、まったく「社会」など考えられない「好事」の連中がやるものとして存在しているようにも見える。

でもまあブログなど見ていると、「嗜好と私経済とに焦点を合せた栄養を考える」ひとも増えてきてはいるようでもあるが。

とにかく。食生活は社会と自己の現実を認識する場でもあるし、何度も書いてきたが、料理は自己認識と社会認識のあいだにあるものだ。と、おれはシツコイんだね。

しかし、食の分野にかぎらず、どこの分野でも「マニアック」な知識やオシャベリが受け、社会認識はどうなっているのかと思うほどバランスを欠いているように思う。タコツボだらけ。

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