ドカ雪涙の冬山合宿の思い出
故郷の六日町あたりはドカ雪で上越線が止まっているらしい。ドカ雪というと必ず思い出す。高校2年の山岳部冬山合宿。1960年の12月末だ。このときも上越線が数日間止まるドカ雪で。いま岩波書店の「近代日本総合年表」を見ると、61年1月1日に「裏日本の豪雪で列車100本が立ち往生、乗客15万人が車内で越年」とある。
そのドカ雪の降り始めの日に入山したから、たまったもんじゃなかった。たしか2泊3日の予定で、5日間分ぐらいの食糧と燃料は持っていた。家族にも、それだけあるから、下山が遅れても心配しないように言って出かけた。
ところが並の降り方じゃなくて。登山口の最後の人家に着くまでも大変だったが、そこを通りすぎ2、3キロ行った、まだ登山予定の山の中腹より下の位置で、登山用語でいう「ラッセル」という雪をかきわけて歩行するのに、胸の位置にまで雪が積もって、とにかくドンドン積もるんだなあ。先頭を交代しながらラッセルして、すすむんだけど、ノロノロもいいところ。
ついに、どうにも雪が多すぎて、立ち往生、先へ進めない、引き返せない。腹は減る。新雪ドカドカの深雪で雪洞もほれない。視界もほとんどきかない。雪崩から安全そうな場所にテントをはることにした。しかし、テントをはったはいいけど、雪がドンドン降るから、すぐにテントがつぶれそうになる。交代で雪かきを続けなくてはならない。
このときのメンバーは確か、1年生が3人と2年生がおれとノザワと、あとホンダがいたかな?ホンダのことは覚えていない。とにかく雪山経験者は、1年のとき以来の冬山や残雪期を経験しているおれとノザワだけ。それが普通だったのだが、3年生は卒業を前に部活どころじゃないから参加してない。
ま、それで、予定の2泊3日目になっても、雪はドカドカ降り続いている。下山予定日だけど、身動きできない、そのまま停滞。計算外だったのは、交代で雪かきを続けていたから、濡れた衣服を乾かすのに、ほとんどコンロを使いっぱなしで、燃料のガソリンと石油がドンドン減ることだ。水を作るのにも燃料がいるしね。ついに3日目の夜になって、翌日の食糧はあるが燃料切れで食事のしたくは難しそうだとわかった。
雪はドカドカ降っている。このときはおれがリーダーじゃなくてノザワがリーダーで、ホントよかった。リーダーの責任は重いからね。テントは、当時としては新型の新しいビニロン素材だかの、厳冬期用ウィンパー型のテントだったけど、いまと比べたらお話にならないぐらいお粗末で、とにかく燃料を節約していると寒くてたまらん。
そんなわけで、燃料はなくなりそうだしどうしようかということになった。おれとノザワが小声でボソボソ相談していると、その話は同じテントのなかにいる一年生にも聞こえる。楽観的な材料は一つもない。そのうち1年生の一人が泣き出した。そしたら、ほかの二人も泣き出して。という状態になった。チッ、泣いても、どうもならんよ。で、とにかく、翌日は雪が降っていても、全員で下りにかかり、ノザワは単身先に下って、一番近い人家に助けを求めに行くということにして、なだめた。が、腹の中は、ケセラセラ。
翌日だ。朝、撤収して、くだり始めたら、ナント、雪がこやみになったのだ。立ち込めていた暗い灰色の雲が流れ、天が開けてきた。このときほどうれしかったことはないね。みんなもう、よろこんだ。それっ、いまのうちにくだれ! だけどだけど、とにかく背丈ほどの雪なのだ。まさに雪の中を泳ぐように歩く。もうヘトヘトヨロヨロの下山だった。ぶったおれそうだよう。そして、ついに、最初の人家が見えた。
見えたのは覚えているが、そこから先は覚えていない。家に帰り着いたころ、また雪が降り出した。
はあ、イマ新潟の雪は、どんなあんばいなんでがんしょ。
そうそう来週末は、六日町の雪祭りだ。いいよ~小さな町の雪祭りは。札幌のような大都会の雪祭りと、情緒が違うね。それに温泉と酒。ウへ~行きたくなっちまうな。
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