2005/03/31
最近、「蒸す料理」に凝っている。凝っているほどでもないが。なんでも、どんどん蒸してしまう。とにかく、いろいろなやり方があって、あきない、オモシロイ。
で、つくりながら思ったのだが、「簡単」と「単純」の関係だ。簡単は料理の手間の問題、単純は料理の構造の問題。どちらもカタカナ英語で「シンプル」というイメージだが、まるで違うね。
空を見上げると、飛行機雲が一筋。南の空を東から西へ。歴史も論理も現実も、そのように単純に流れているなら、なにもかも簡単でいいと思う。「スジを通す」とか、「首尾一貫している」とかが、一筋の飛行機雲のように、とても美しく大事に見えるだろう。しかし、実際は、そのように簡単で単純であるということはない。うどん玉のようにコンガラガッタかんじで蠢いているのだ。うどん玉だって、ゆでて食べるのと、蒸して食べるのとでは違う。これは関係ないか。とにかく「スジを通す」とか「首尾一貫」が正しいなんて、文章あるいは文学がもたらした幻想にすぎない。文章の読みすぎか、文章を信用しすぎている。そんなことにこだわっていたら、何も見えない、うまくいかない。「蒸す料理」一つにしてもだ。
「蒸す料理」は、簡単だけど単純じゃない。さあ、蒸してみよう。今夜は、何を、どう、蒸してやろうか。
そんなことは、どうでもいっか。
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きのう(正確には一昨日)のコメントに書いたとおり仮称「旅人文化振興会」なるものを立ち上げる準備中だ。一昨日(正確には一昨昨日)の夜も、その件でミーティング飲み会。ワレワレはいつもミーティングと飲み会のあいだに壁はない。
世界股旅仕事人歴25年男、背負子旅人歴8年女、背負子旅人歴13年男の座談会など中心に、中野にゲストハウス4か所を展開する「YADOYA」 に滞在した外国人の話などをまとめた、会誌?のようなものも、まもなく出来上がる。さらにそのうちホームページもできるだろう。
この「旅」というのは、旅行社が企画するような「商品としての旅」「消費する旅」とはちがう。という話をしていると長くなる。ま、バックパッカーと呼ばれる人たちの旅である。安い宿に泊まり、ときには高いものを食べたりするが、だいたいは土地の庶民の日常と同じものを食べ、より安く長く旅する。思わぬ出会いがある。思わぬ発見がある。思わぬキケンもある。そして、そこには世界の大衆食の世界があるのだ。それはまた、ザック一つと畳一枚のスペースがあれば十分という旅生活でもあるのだな。
で、だね。一昨日の飲み屋で、おれの隣に座っていた男、彼とは二度目だが、オーストラリア人23歳で、昨年9月から「YADOYA」に長期滞在している。今日あたりは、おかあちゃんのオッパイが恋しくなって、ちょいと里帰りしているらしいが。で、彼はおれにむかって、自分は「オタク」だというのだ。ぐへえ~、最近のトラックバックにある「雑誌『談』編集長のBlog」の「路地」と「うま味」と「おたく」、 これは日本語がそのまま「roji」「umami」「otaku」として世界共通語であるという話なのだが、その「otaku」に会ってしまったのだ。そして、さっそくおれは、茶室とワビ・サビとオタクの関係を弁じたのであるが。ま、その話しは長くなるからやめ。
旅人文化は、ワレワレのブヨブヨ「商品化された日常・非日常」「消費する日常・非日常」そのなかにいる自分をみつめるのにも、なんかよいように思う。そのオモシロイ話が、いま発刊準備中の「旅人文化」には、載っているのだ~。ああ、ブヨブヨ酔った。おしまい。
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2005/03/30
さきほどザ大衆食のサイトをごらんなった方からメールをいただいた。内容は、かなしい知らせ。渋谷の田毎食堂の人気者のオヤジさんが数年前に亡くなっていた。さっそく、田毎食堂のページに掲載した。
http://homepage2.nifty.com/entetsu/s/tagoto.htm
最近は、あのへんに行ってないからなあ。あのへんばかりでなく、最近はトシのせいもあってか、あまり都内をウロウロしなくなったから、それに大衆食堂のみなさんも高齢化しているから、ご無沙汰している間に、いろいろあります。
渋谷に残る貴重な大衆食堂。おばさんが店を守っているようです。
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整然とした環境、整然とした美学、整然とした文化、整然とした論理、整然とした考え、整然とした教条、整然としたブンガク、整然としたブログ、整然とした学校、整然とした会社、整然とした仕事、整然とした食事、整然とした排泄、整然としたセックス、整然とした睡眠、整然とした温泉、整然とした旅……、そういう整然とした装置にならされてはいないか。だから、デロリ。
http://entetsutana.gozaru.jp/hon/hoka_derori.htm
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2005/03/29
できあがってきた。オヤジ芝田さんの著『神戸ハレルヤ! グルめし屋』。すでにザ大衆食のサイトで紹介したように、おれは解説を書いている。
http://homepage2.nifty.com/entetsu/sinbun05/kobe_gurumeshi.htm
うへへへ、この解説の量たるや、全170ページのうち27ページを占めている。ま、編集者・著者・おれ、お互い承知のうえでやった「ムチャクチャ」だが、結果的にある種のバラスンがとれた、オモシロイ一冊になっていると、自画自賛できるものになった。
じつは、おれの解説、「解説、なようなもの」は、長いだけではなく、これまた「ムチャクチャ」だが、本文を読まずに書いている。おれが芝田さんと出会うことになった、芝田さんのサイトにある、神戸の大衆食飲食店の記事をみたり、芝田さんと2、3回一緒に飲んだ印象だけで書いた。それがよかった、ともいえるかな。
いま現物を手にして芝田さんの書いたところも通して全体を見てみると、従来の「食べ歩き本」「グルメ本」「食エッセイ」のたぐいにはない味わいがある。
それは齢50をすぎた男、オヤジ芝田さんの、神戸での暮らし。ビンボー家庭とはいえないだろうが、まだカネのかかる子供を抱え小遣いはままならない監視下にあり、A級もちろんB級だろうとC級だろうと外食に道楽できる余裕はない、ま、それがごくフツーのオヤジの現実だと思うのだが。そういうオヤジ芝田さんの、300円500円ときには1000円のカネを使ってそれでもそのなかでうまいものを食べたいと神戸の街をウロウロする生活が、シジジミセツセツと感じられるということだ。
つまり食生活は安ければよい高ければうまいでは「文化」にならないわけで、ミミッチイ予算のなかでもどううまいものにありつけるかに「文化」がある。そこんとこが、かめばかむほど味が出るスルメイカのようなアンバイに感じられる。
多くの「食べ歩き本」「グルメ本」「食エッセイ」というものは、過剰なといっていいほどの「形容」「装飾」にあふれたブンガク的表現に流れるか、はたまた写真と店の名前や住所さえあればアンタの無内容の文章はいらんというものが少なくない。それらは、最初から、「旨いもの好き」「食いしん坊」が書いたものとして「読ませる」あるいは「読まれること」を前提に、取材したり書かれたりするクサイところがある。
芝田さんの書かれているところにも、そういう部分がまったくないわけではないが、しかし、全体をとおすと、まさにコンニチ的オヤジ、芝田さんの神戸ケチケチグルメ生活という部分が、非常に魅力的だし、将来の史料価値としては、大法螺ふきの食エッセイなどよりは、こういうものが貴重になるだろうと思われる。
で、それで終わっては、ま、よく自費出版モノにある、「活字になるだけで満足」というレベルのものだったかも知れない。もちろん、それでも、いま述べたように、とてもよい味わいがあるし、それでもよいのだが。しかし、ナント、そこは自画自賛的に書くと、やはり根っからの貧乏人同士でありながらコツコツ大衆食に「美」を求め続けてきた芝田さんとおれの薄気味悪いが愛のヒラメキなのか、おれが芝田さんの本文を読まないで書いた「解説、なようなもの」があり、芝田さんの「体験」とうまくリンクし、地域(神戸)と生活と大衆食の関係性の普遍へと発展つなげ、本書は全国の「小生活愛好家」が楽しめるものとなっている。そのグウゼンに、おれはすごく感動した。愛はテレパシーだ!
芝田さんもおれも文章はうまいほうじゃないから、電車賃を苦にせず道楽にカネをつかうバカものや、文芸からしかモノゴトを見られないバカたちには支持されないだろうが、日々の小さな生活を愛しくおもうみなさんなら、本書が持つモロモロの拙劣さをこえて、かめばかむほど味が出るスルメイカのようのような感動を覚えると思う。
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2005/03/28
ザ大衆食のサイトに「ガツンな冷や汁」を掲載した。宮崎の「郷土料理」として有名だが、宮崎市出身のスズキさんがつくってくれて食べたときの、去年の9月の話だ。これから暑くなる、初夏から夏にかけて、エエですぞ。夏バテしやすいひとは、初夏のうちに、こういうものを力強くくい、体力をつけておこうぜ。
http://homepage2.nifty.com/entetsu/sinbun05/hiyajiru.htm
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2005/03/27
25日「横丁路地そして東京や「下町」を考える」 に書いた、「雑誌『談』編集長によるブログ」のアルシーブ社が20年ぐらい前から編集制作している『City&Life』(発行・財団法人第一住宅建設協会、季刊)69号=特集「吉祥寺 住みたい町ナンバー1の理由」と、74号=特集「都市の言説を巡る旅 10のキーワードから探る都市[論]の現在」が送られてきた。どちらもオタクなマコトさんらしい編集。ついでに、このマコトさんは、最近、読書界チマタで話題の「ユリイカ」4月号「ブログ作法」特集に登場の佐藤真さんだ。南陀楼綾繁さんも登場するね。
「吉祥寺 住みたい町ナンバー1の理由」には、凝ったつくりの豪華イラストマップつき。74号は、アルシーブ社が最も得意とする?編集方法で、これを見ると、現在の都市[論]がわかるという感じの本が、10のキーワードに分類されて100冊から200冊載っている。
で、その後者に、陣内秀信さんがブックナビゲーターとして、「江戸・東京から見る「都市論」の展開」を書いている。これと先日、五十嵐泰正さんにいただいた五十嵐さんの論文「池波正太郎の「下町」」を合わせてみる。
すると、80年代の「江戸・東京論ブーム」が、どのように始まって、どう流れていったか見えてくる。そして、先日、エンテツ資料棚に掲載した、80年代後半のB級グルメブームの火付け役になった、文春文庫ビジュアル版『スーパーガイド 東京B級グルメ』などを 合わせて考えると、「B級グルメ」ブームの始まりは、「江戸・東京論ブーム」と密接だったということもわかる。そもそも『スーパーガイド 東京B級グルメ』の最初の大扉には、「これは一種の東京論である。」と書いてある。
前にも書いたように「味覚」と「地域空間」は密接な関係にある。しかし、舌先だけの味覚に偏向したB級グルメは観念化し、そのことによって地域空間で成り立っていた「B級性」を失い、地域空間から離れ単品へと流れる。そして、地域空間から離れることによって、さらに味覚は観念化する。ちかごろのB級グルメは、東京論も、いかなる地域論とも無関係で、舌先だけの観念になっている。それは一つの、地域性を失い続けたことから発する、コンニチ的自己喪失とみることも可能だろう。
その流れの原因は、じつは、「江戸・東京論ブーム」に内在していた。そして、それは池波正太郎さんが「物語」として書いた、「江戸」と深く関わっている。とくに近年のラーメン屋に見られる、「職人風ファッション」や「職人風言説」に顕著だ。そこには日本の特に男が陥りやすいロマンチシズムや「物語」と「歴史」の混乱がある。と、いうのが、昨夜の発見、あるいは、ヒラメキ。と、忘れないうちにメモ。
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2005/03/26
資料整理をしていたら、『東京おとなクラブ』の創刊4号が出て来た。1984年5月2日発行。そういや、創刊号も持っていたのだが、誰かにくれたのだ。なぜか、わずかな持ち物のなかに、これだけ残っている。フシギ。
特集は「TV・CM」、小特集が「キム・ウンヨン少年」。そんなやつがいたなあ、いまどうしているのか。
ひさうちみちお、丸尾末広、いしかわじゅん、桜沢エリカ、米沢嘉博、村上知彦、よい子の歌謡曲、高取英。
「糸井重里VSおとなクラブ」では、中森明夫と荒尾だりあが糸井重里にインタビュー。「構造と力」だ浅田彰だよ。高橋源一郎も。
ええ、編集人はエンドウユイチ、発行人は中森明夫。
表紙レイアウトが、杉浦日向子だけど、これって、あの江戸系の杉浦日向子だよなあ。はあ、当時は知らなかったねえ。
オタクらも、いまじゃただのオヤジ。ごくろうさん。
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3月23日の日記「NHK生活ほっとモーニングの丼ごはん」 のコメントで、「めし」と「ごはん」のヘンを宿題にして、いろいろ調べているのだが、これがまあ、なかなかハッキリしないのだなあ。
わりと明快に言い切っているのが、『汁かけめし快食學』でも引用させてもらった、神崎宣武(のりたけ)さんで、ぶっかけめしを一汁一菜以前の日本食の原形と主張した上で、「日本の主食は二つある。日常の飯とハレのご飯」と。んで、その場合、「ご飯(はん)」はコメのめしで、「飯(めし)」は、コメのめしに何か混ざっている糧飯(かてめし)や雑穀のめしというふうに。
これは、わりと庶民生活の実態からの解釈で、庶民の日常は、白いコメのめしではなかったということを根拠にしている。
が、しかし、これも『汁かけめし快食學』に書いたが、室町期の絵に見られる座敷での礼服ではないが武家の正装をした食事で汁かけめしをする姿からも、上流武家の正式の作法であった「汁かけめし」の「めし」はコメのめしであると考えるのが当然だろう。その場合、「汁かけごはん」と呼んだ形跡はない。だいたい、「汁かけごはん」なんていう言い方は、近代以前には、なかったと思う。「丼ごはん」もちろんだ。
ということではなく、「みけ」なるものがある。「御食」と書いて「みけ」そして「御飯」と書いても「みけ」とふりがなのある例がある。これは天皇周辺の話だ。天皇周辺では、「飯」の字を「はん」と読んだ形跡はある。
流れからみると、「飯」という漢字は日本語の「めし」の当て字のような気がする。「めし」に漢字の「飯」をあてたことから、「はん」という読みが流通したのじゃないかな。そういう「外来文化」風の読みは、上流階級、古くは貴族階級のものだろう。そのあたりに、「飯」を「はん」と読み、「御飯」と書いて「みけ」と読んでいた可能性はある。それがのちに「ごはん」になる可能性はあるだろう。いずれにせよ、その場合、これは神崎さんの説のようにコメのめしだろう。
ああ、ややこしい。んでだ、コメのめしが主食でなかった庶民は、日常は「めし」である。で、日常、コメのめしを食べられるようになっても、それを習慣的に「ごはん」といわずに「めし」といった。江戸の町人は、コメのめしも「めし」といっている。江戸期は、圧倒的に「飯」は「めし」で、ときたま「はん」ぐらい。「ごはん」ってなあ、なんだ、ってなもんだ。それに、大正期、東京の大衆食堂の看板は「白めし」で「ご飯」じゃない。
とにかく、だよ、「ごはん」に統一するのなら、それなりの根拠を説明してほしいね。なにを根拠に、いくつもの読み方があるのに、一つにするのだ。じつにオカシイぞ。ということだけを言いたいのだ。「めし」は下品、「ごはん」は上品、なんていうのが理由だったら、ぜったい承服できないぞ。そんなやつらが歴史だの伝統だの言うんだったら、お笑い草だ。力強く、めしをくえ!
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2005/03/25
ここのところおもしろいデキゴトが続いている。
「散歩の純情 横丁回廊」というページがある。
http://www.geocities.jp/ed_meshi/yokocyo_top.htm
この「散歩の純情」などというふざけた名前のサイトを誰がつくっているかというとおれだ。
いまこの「横丁回廊」の右下の「横丁リンク」に三つのリンクがある。
ヤミ市横丁研究所
http://www11.plala.or.jp/music4u/
MUSIC and the CITY
http://blog.livedoor.jp/truestepper/
五十嵐泰正HP
http://homepage2.nifty.com/yas-igarashi/
まず、五十嵐泰正さんからメールがあって、「グローバル化時代における上野を中心とした「下町」地域のまちづくりについて博士論文を執筆」しているので、会って話をしたいということだった。ゼヒゼヒお会いしましょうと返信、連絡をとりあっているところへ、「ヤミ市横丁研究所」と「MUSIC and the CITY」これは同じ方のサイト、吉祥寺のハモニカ横丁の調査をまとめた大学生がやっておられるのだが、その方からメールがあった。そして、たびたび当ブログの話に登場する、「雑誌『談』編集長によるブログ」3月23日を見たら、「路地・横丁からの都市再生」なのだ、さっそくコメントを書いた。
http://dan21.livedoor.biz/archives/17035933.html
昨夜、五十嵐泰正さんと上野で会って飲んだ。いやあ、おもしろかった。盛り上がった。おもしろい話がたくさんあって、アタマが爆発興奮して、いま書けない。
とにかくね、どこもかしこも同じように横丁や路地をつぶし続けるような都市再開発を続けてきたわけだけど、もう限界なんですよ。だけど、かといって、すぐ横丁や路地からの都市再生の方法がトントンうまくいくかというと、これはこれで難しい問題を抱えている。だから、ま、考えて知恵をしぼらなくてはならないわけだ。
五十嵐さんはサイトと、そこからリンクしてブログを見てもらえばわかるが、東大で修士までだったかな? 現在は一橋大大学院で都市社会学の研究者、ビジネス世間的にいえば「都市プラン」専門ということだろうか。お会いする前に、雑誌「現代思想」に書かれた「グローバル化の中の「下町」」を送っていただいて見たときは、内容は面白いけど、うへ~学術用語だらけという感じだったが、お会いして話すと、学術用語一つもナシ! おれの拙い言葉で十分楽しく突っ込んだ会話ができた。コピーをいただいた、都市プランからの文芸評論のような「池波正太郎の「下町」」も、とてもオモシロイ。
なんだか、東京のモンダイが、わかってきたような気がしたぞ。
けっきょく日本料理の歴史がはらむ同質の文化的問題を東京もはらんでいる、ってことだ。
とにかくさ、じつは、食も味覚も、地域空間とヒジョーに密接だからね。
なんだか面白くなりそう。
カンジンな上野の話のほかに、いわゆる谷根千(谷中・千駄木・根津)とゴールデン街に共通するヘンや、高円寺阿佐ヶ谷と上野に共通するユカイや、都内のゲイの溜まり場があるマチの特徴はゲイの特徴と共通する仮説リロンや、池波正太郎の「下町」のヘンなどなど、感覚が飛躍する話題でも盛り上がった。
というわけで、つぎは、吉祥寺のハモニカ横丁を研究した大学生、いま帰省しておられるので帰京早々に、お会いすることになっているのが、たのしみだなあ。
「散歩の純情 横丁回廊」にある、「横丁学オモイツキ」を書いたころは、「散歩の達人」で横丁特集の手伝いをするのがキッカケだったが、その特集も情報をまとめきれず自分としても満足のいくものではなかったし、全体の関心も低かった。しかし、かなり状況が変わってきた。なにより、横丁に関心を持って研究する若い人の出現は、うれしいね。「「路地・横丁からの都市再生」なるか。すくなくとも、もっと路地・横丁から都市再生を考えなくてはいけないだろう。それは、大衆食の可能性のためにも必要なことなのだ。
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2005/03/24
きのうの「好きなんだなあ小沢昭一的こころ」の続きだが、その『dancyu』1991年6月号、「「カツ丼」のバカ旨」特集の、小沢昭一さんのページをめくると、つぎは塩田丸男さんの登場で、小沢昭一さんと正反対、文化的レベルの低さ無内容が露である。これはもう皮肉としかいいようがないほどで、こういう構成にした編集部に拍手を送りたいぐらいだが。
塩田丸男さんは、自ら文を書き、そのタイトルは「フランス料理のベテランシュフが、塩田丸男さんに、”裏技”を伝授!」である。そして、シェフの格好をし、「東京・世田谷の下北沢に小粋なフランス料理店「ル・グラン・コントワー」を出している菅沼豊明さん」の指導で、小沢昭一さんと正反対の「良質」づくめのカツ丼に挑むのだ。
シェフも良質、カツも「ペチャカツ」どころか、「鹿児島の黒豚」「卵は、千葉県御宿の地鶏の卵」「だしはカツオブシに日高こんぶ」、「お新香は京菜とハリハリ漬と柴漬だ。そして、器は美濃の蓋丼」と、ブランドづくめ。これを塩田丸男さんは「正攻法」という。そして最後に、菅沼さんの指導の下で自分で作ったカツ丼に満足しながら、「臨時の弟子の私のカツ丼でさえそうなのだから、大師匠の菅沼シェフの作品の味は、もう書くまでもない」とシェフを持ち上げておわる。
けっきょく、『dancyu』は、その後、「小沢昭一的こころ」ではなく、ブヨブヨ繁栄社会の申し子のような「塩田丸男的モノ主義ブランド志向、ブランド生産者や料理人ヨイショ」にはしることになる。10年後2001年の『dancyu』10月号は、似たような丼特集をやっているが、その軌跡がはっきりわかるのだ。その見出しを並べてみるだけでも、なかなかオモシロイ。
そんなこんなで、ちかごろ「グルメの傷跡」に興味がわき、「グルメの傷跡本」というのを拾ってみることにした。ま、ボチボチではあるが。
http://entetsutana.gozaru.jp/hon/siryou_index.htm
山本益博さんの『東京 味のグランプリ1985』は、来月の「書評のメルマガ」に取り上げる予定でいる。これは、なんといっても、「まえがきに代えて」の「拝啓―丸谷才一様」が噴飯モノとして秀逸。そのように料理評論家のみなさんのオコトバを、評価しランキングして楽しんでいる、今日この頃であります。
ちなみに、2001年の『dancyu』10月号では、嵐山光三郎さん、マッキー牧元さん、森脇慶子さんの鼎談だ。いやあ、面白いのなんの。さすが食こそエンターテーメントの『dancyu』だ。ブヨブヨ繁栄社会で調子にのった者たちがメディアで繰り広げてきたグルメなバカ騒ぎ。ちょいと売れたぐらいで、調子にのって恥をかく姿を楽しむのも『dancyu』の読み方であるな。
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2005/03/23
どなたか忘れたが、以前『大衆食堂の研究』を読んだ方に、「小沢昭一的こころの影響があるような」と言われたことがある。そうかも知れないと思った。何度も書いているように、おれは度重なる引っ越しや風来坊生活もあって、たくさんの本は持っていない、好きな本を繰り返し読む。「小沢昭一的こころ」も文庫本で、2、3冊しか持っていないが、何度読んでも面白い、気がつくとテキトウにパラパラ見ていることがよくある。
『dancyu』1991年6月号というと、創刊6号目だが、「「カツ丼」のバカ旨」特集をやっていて、トップに「カツ丼における小沢昭一的こころ」がある。
小沢昭一さんは、そこで「ペチャカツ」なる、むかしの、コンニチから見たら貧弱なカツのカツ丼を推奨し、つぎのように語る。
「 カツ丼で言えば、肉ばかりでなく、玉子も違うし、パン粉も油も違う。すべてが良質のものに変わった。しかし、良質なものの組み合わせが、必ずしも良いものを生むかというと、どうも違う気がする。適度な悪質が混じるから旨くなると思うし、味にも個性が出てくると思う。(略)
育ちの悪い人間というのはどこかクセがある。そのクセがなんとも言えず、良い場合がある。そのクセが人間を面白くさせている。今の繁栄社会のブヨブヨ人間が面白くないのと同じで、そういう社会の中から出て来た食い物も、なんとなくブヨブヨしているような気がする。」
好きだア~小沢昭一的こころ! ってことで、こういう影響を受けているように思う。
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NHKが「生活ほっとモーニング」で「丼ごはん」をやるらしい。丼アイデアを募集している。
http://www.nhk.or.jp/hot/
これって、昨年夏のTBSテレビのおれが登場した「はなまるマーケット」と、企画としては同じような。
https://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2004/08/post_16.html
ま、番組の料理の仕方は、トウゼンNHK流なのだろうけど。
「丼ごはん」語るなら、「汁かけめし」の歴史をちゃんと語れよな。
しかし、テレビでは、「めし」は、イケナイらしい。いわゆる、コードに、ひっかかるのだろうか? 「はなまる」のときも、「ぶっかけごはん」と言わなくてはならなくて、「ぶっかけめし」と普段言いなれているおれは、そのように言ってしまい、ビデオ撮りを何度かやり直しになった。これって、言葉の管理、ひいては文化の管理が行われているということじゃないだろうか。
生活の実態としては、「めし」も「ごはん」もアリなのだから、どちらも自由に反映させるのが、マスコミの役割だと思うのだが、そうではない。というようなことを書いている人間は、マスコミに嫌われ、ますますマス日陰者になるのだった。NHKに限らず、局に調子を合わせている取り巻きタレントで、番組は成り立っているのだな。
そこんとこ、どうなんでしょうか、NHKの●●さん。「丼めし」「汁かけめし」は、いけないのでしょうか。
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2005/03/22
生卵をめしにかけて食べるのは、小学校にあがる前からだった。そのころは近所にタマゴを売っている店はなく、となりの農家で買っていた。朝、母に命じられて、その家に行って、玄関で「タマゴ~」とかいうと、奥から「好きなのとってこ~い」と言われる。で、鶏小屋に入る。敷地内の、鶏10羽ぐらいがいる、それにしては広々とした小屋に入ると、鶏がギャアギャア騒ぎながら飛び跳ねる。その鶏がしゃがんでいたあたりのワラの上にタマゴが転がっているのだ。つまり鶏が温めていた生まれたてのタマゴを奪う。鶏は、威嚇するように、おれのまわりで、すくっとのばしたクビを前後にふり歩き回り、ギャオギャオいうが、うるせえしゃらくせえタマゴは人間様のものだ。
タマゴは温かい。テキトウに拾って、かごに入れて、またその家の玄関にもどり、「とってきたよ~」というと、奥からカアチャンが天秤ばかりを持ってあらわれ、タマゴを皿に移してはかり、「はいイクラね」という。カネは、その場では払わない、あとで一月分ぐらい、まとめて払うのだ。
しばらくすると、近所にタマゴも売る食料品店ができて、そこから買い置くようになった。でも、そこで売っているタマゴは、町内のタマゴを集めたものだったと思う。店先にはカゴに山積みになってタマゴが売られた。それからしばらくして、木の箱のモミがらに入ったタマゴが店先に並ぶようになった。そのころまでは、まだタマゴは量り売りだった。
はて、タマゴが量り売りでなくなったのは、いつごろからだったか、思い出せない。大規模養鶏が始まってからだったか? スーパーが普及してからだったか? とにかく、タマゴは、ほかの動物性タンパクに較べたら、圧倒的に安く手軽で、うまかった。
ここのところ、タマゴの高値が話題になっていたが、コンニチの市民は「裕福」なのか、タマゴの値上がりぐらいじゃ騒がない。なにしろ大幅増税でも平気な感覚だから。なんだかこの平気な感覚はオソロシイぐらいだ。このブヨブヨ麻痺した生活感覚に、コンニチのいいから加減のぶよぶよニッポン経済は支えられている。かくして平和である。メデタシ、イイカゲン大好き。
今日のネット「KYODO NEWS」から。
「鶏卵価格、8週ぶり下落 農水省の小売価格調査」
農水省が22日発表した肉・卵類の週間小売価格調査(14-18日、全国平均)によると、鶏卵(Mサイズ、10個入り)が前週比1円安の228円と1月中旬以来、8週間ぶりに下落した。
気候が暖かくなり、ニワトリの産卵が増えてきたことが要因。農水省は「卸売価格も安くなっており、小売価格は落ち着いていく」(消費・安全局)とみている。
輸入牛肉(冷蔵ロース、100グラム)は8円高の370円、国産牛肉(同)は1円安の694円だった。
こういう事態に馴れきった、ボクタチ。
それでも、タマゴは安い、1個23円。23円で、なにが買えるか。
さあ、タマゴでも買いに行ってくるか。
そうそう、トラックバックいただいた、とよださんの「とよだのにっき・卵かけご飯」の最後だが。
「ところで、「卵」と「玉子」はどう違うのかしら。
たまごかけごはんは「卵かけご飯」ぽいけど、たまごやきは「玉子焼き」表記のほうが合ってるなぁ。」
http://blog.livedoor.jp/toyo_toyo/archives/16899458.html
料理的には、生の状態を「卵」といい、加熱などされた状態だと「玉子」という区別があったように思うが、どうだろうか。でも「卵丼」というふうに書いている店もあるしなあ。イイカゲン大好き。
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2005/03/20
退屈男さんが吉村平吉さんの『浅草のみだおれ』(三一書房)を読まれ、当ブログの3月7日「吉村平吉さん逝去」にリンクをはられている。
http://taikutujin.exblog.jp/1765058/
それで思い出した。その数日後、『東京下町』(創森社)の著者で、その本にも吉村さんのことを書き親しくしていた朝日新聞記者の小泉信一さんから電話があった。
吉村さんの部屋の入口に毎日配達される牛乳がそのままなのを不審に思った管理人が遺体をみつけ、最初に連絡したのが小泉さんのところで、小泉さんがすぐ現場にかけつけたときには、遺体はそのままで、苦しんだのか、あるいは具合が悪くて何かしようとしたのか、吉村さんはベッドから床に落ちて亡くなっていたそうだ。すぐ読売の記者にも連絡したが、読売は資料を揃えるのに時間がかかったのだったかな?とにかく事情があって掲載が遅れ、結果的に小泉さんの記事が先になったらしい。
ま、おれはどのみち新聞は読んでないのだが。おれが3月7日に書いた一報は、読売が夜中にネットで流したものを見たようだ。小泉さんと話してわかった。おれが吉村さんと会ったころは、名刺の住所もそうだったが、住まいは千束4、つまり吉原だった。2年ぐらい前、そのビルが建替えで、いまの竜泉の住まいに越した。
吉村さんは、長く住んでいた吉原で戦後初の「風俗ライター」ということで知られるシゴトをし、またブルーフィルムの草分けともいわれたりしたが、それだけじゃなく、さまざまな顔を持っている。そのゼンボウは、とらえ切れない。
とにかく吉村さんもおっしゃっていたが、浅草は三つの顔がある。一つは浅草寺を中心とした、仲見世や六区の観光地遊興地。その前、雷門前あたりから展開する、商業地。そして浅草寺の背後に広がる、ここはなんと呼んだらいいのか、あるときは「苦界」といわれ「辺境」といわれ「下層」といわれ、はてさて……。吉村さんは、浅草でも、その浅草寺の背後に精通していた。
吉村さんの著作は、文章としては、それほど面白いとは思わないが、かえすがえすも著作の少ないのが残念だ。長い付き合いの方もおられるはずだし、あの吉原の住まいには貴重な資料もあったという話だが。
おれが吉村平吉さんの名前を初めて知ったのは、1980年ごろだろうか? 大道芸や一人芸のことを調べていて、たまたまその方面に詳しい、著名な某アナーキストに会った。彼と話したら、それなら、吉村平吉さんが一番詳しい、と言われて知ったのだが。
って、ことで、本日の本題は、「望月桂の一膳飯屋「へちま」のあと」をザ大衆食のサイトに掲載したというお知らせ。望月桂さん、大杉栄と活躍しアナーキストの歴史に名を残すひとが、谷中で1916年ごろ一膳飯屋「へちま」をやっていた。
http://homepage2.nifty.com/entetsu/sinbun05/hetima.htm
本日はアナーキスト流れであるが、もちろん、おれはアナーキストじゃない。とにかく東京という大都会は、いろんな人間がいろんなところで蠢いていて、大衆食堂というのはいろんな人間が出入するところで、おもしろいのだなあ。東京にいるなら、いろんなとこへ行って、いろんな人に会うってのが、いいねえ。いろんな人がいる。
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「ザ大衆食」サイトの編集方針「スロー、スモール、ローカル、よしっ!」「自由闊達、痛快無比、平凡日常再発見」「つくる地獄に見る地獄」
気どるな、力強くめしをくえ。
だよ、ここは。
あと「酔っぱらい歓迎」ってのもいいかもな。
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2005/03/19
ここんとこ、めずらしく年度末シゴトなど重なり、悩ましい事態にあったが、すべてスッキリ下剤を飲んだように完了。トツゼン、なにもなくなった。ふはははははははははは、あはあはあは……。フリーがシゴトがなくなって喜んでどうする。いやあ、しかし、不安定文筆労働者だからねえ、不安定と貧乏はアタリマエ。あと、有名人とか文化人とか、えと、芸能人とか、偉そうな職人とか、関係ないね。労働者だもんね。
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『大衆食堂の研究』HTML版の「思えば…編*田舎者の道」の、「三、食堂でなければありえない」「四、ジャンク者の誕生」「五、田舎者は食堂へ行け」を一挙掲載した。
http://entetsutana.gozaru.jp/kenkyu/kekyu_index.htm
この編「田舎者の道」は、本書の、見方によっては奇異な特徴となっている。が、おれが大衆食堂を語るとなると、はずせない部分だったし、東京の大衆食堂の繁栄は、60年代70年代に急増した田舎者の上京をヌキには考えられない。
おれが上京した1962年前後は、東京の家賃が「畳一畳千円」と騒がれ、そしてその後の70年前後になると、例の団塊の世代が「大挙して」東京へ馳せ上ることで、トツゼン膨張した東京は、小さなコップに水がどっと注がれたような大騒ぎが連続する。60年代70年代の東京をふりかえるとき、田舎者の存在をヌキには語れないのだ。しかし、雑誌『東京人』を始め、東京をブンガク的な観念を持って語る流れの中で、そのことは、まったくふれられないままであることに、『大衆食堂の研究』を書く当時のおれは、かなり不満を持っていた。
けっきょく、ふりかえってみると、60年代の田舎者の上京の背景には、農業基本法による急激な、あるいは無理のある産業構造の転換がある。これで田舎は一挙に「職」を失い衰退し、田舎者は大都会に「未来」を模索する以外の選択肢が困難な状況におかれた。これは、食糧自給率低下問題の最も深層の部分と重なる問題であるのだが。
そして膨張した東京が「都市問題」や「社会問題」を抱え、都政の責任が追及され、また都政を担当していた自民党の腐敗体質がもたらした「黒い霧」事件なども重なり、都政が「革新」の手に落ちかかった1970年代前半、自民党東京都連の「東京ふるさと計画」キャンペーンが浮上する。おれは、そのキャンペーン企画に関わるシゴトをしていたこともあるのだけどね。
「東京ふるさと計画」キャンペーンがすべてだったわけではないが、この「東京ふるさと計画」は、都市問題や社会問題を「文化的」「イメージ的」に処理する方向をもたらした。「東京ふるさと」の鈴木都政が誕生し都政を奪還した自民党は、「ふるさと」をキーワードにしたイメージ戦略を全国的に推進する。竹下登のバブルな「ふるさと創生」などもあった。そういう流れと、東京都の支援を受けた東京PR誌のような『東京人』の普及と、レトロブームの到来は、まったく無関係とはいえない。
ともあれ、『大衆食堂の研究』を書くころには、東京PRのようなレトロ趣味のキレイゴトのイメージは、バブルの時代を通してブームのようになっていた。そこには、土着性あるいは田舎者性を失い、観念やイメージのなかを浮遊する新しい「東京人」がいた。
おれは、その1人だったのだろうか? しかし、どうもおれは「東京人」になりきれなかった田舎者のような気がしている。あまりにも田舎者すぎたか?
『大衆食堂の研究』は、95年10月9日発売『週刊ポスト』10.20号―ブックレビューで、『清貧の食卓』などの編著者であらせられる山本容朗さんに書評をいただいた。
地方出身者が東京で出会うのは、三四郎(遠藤注=夏目漱石の三四郎のこと)なら下宿屋のめし、五木(遠藤注=五木寛之)、富島(遠藤注=富島健夫)世代で言うと、外食券食堂である。言わば外食券食堂、時が移ると大衆食堂となるけれど、これは東京同化物語の一つのキーポイントといっても過言ではあるまい。/遠藤氏は、六二年以降出会った大衆食堂をやや案内的に、しかし実質哲学的に考察する。/これは大衆食堂案内ではない。だが、川崎屋という店ではメニューに「冷やしみかん」あり、を読むと、なんとなくいい気分になってくる。///読み方によれば、この著作は、型破りの東京同化ストオリーだろう。だが、地方出身者には何かシコリが残る。それを癒してくれるのが大衆食堂だと読み手はそう勝手に解釈できる。また、大衆食堂は帰れない古里、消えてしまった所在の代替みたいなものであるかも知れない。熱っぽい語り口がこの本の魅力。
「読み方によれば、この著作は、型破りの東京同化ストオリーだろう。だが、地方出身者には何かシコリが残る。それを癒してくれるのが大衆食堂だと読み手はそう勝手に解釈できる。また、大衆食堂は帰れない古里、消えてしまった所在の代替みたいなものであるかも知れない。」この部分。
こういう、ある意味の屈折は、自分自身のことながら好きで、また帰るふるさとを失い、かといって東京を新たなふるさとにすることはできずに、東京で浮浪してきた田舎者にふさわしい屈折だろうと思う。
岡崎武志さんは、3月14日の日記に書いている。
http://www3.tky.3web.ne.jp/~honnoumi/frame.okadiary05.03.htm
「教育誌もう一誌のコラム、竜巻小太郎というペンネームで書いている。「わたしの上京物語」というテーマで書く。毎年、この時期になると15年前に大阪から上京してきた日のことを思いだす。東京出身者についぞわからないのは、他府県から上京してくる者の不安、期待、高揚といった気分、それに東京に対する過剰な思い入れだ。」
共感共振共鳴してしまう。60年代70年代の大衆食堂には、「他府県から上京してくる者の不安、期待、高揚といった気分、それに東京に対する過剰な思い入れ」が渦巻いていたし、そのことをヌキの大衆食堂を語るのは、自分としてはできない。悩ましい田舎者である。
ついでながら、「大衆食堂」を味覚だけから語るのは、間違いだと思っている。「大衆食」についてもだが。それは「生活」だからなのだ。「大衆食」から「生活」をひいたもの、それが「B級グルメ」かも知れない。そのことは、またあらためて、ちょいちょいふれるとしよう。
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2005/03/18
きのうの「卵かけめしの基本」の続きだが、卵と醤油を一緒にといてからめしにかけるか、卵をといてめしにかけてから醤油をかけるか、どちらにしても、料理としては、もう一つ大事な問題が残る。
めしは炊きたての温かいものだとして、卵の温度は、どれぐらいがよいかということだ。
おれは、新潟日報のインタビューに、「冷蔵庫の卵は、ちょっと常温のなかにおいてからのほうが卵かけめしがうまいと思う」と言った。新聞には「冷蔵庫から出して常温になった卵がおいしい」と書かれてしまい、ビミョウに違う。でもとにかく、いったい何度ぐらいの卵が、卵かけめしによいのか、正確には知らない。冷蔵庫から出したての冷たいのよりは、常温のなかにおいといたほうがうまく食べられるという体験はある。
料理は、温度と味覚の関係をアンバイするものでもあるし、温度と味覚の関係は深いのだから、冷蔵庫の卵を常温のなかにどれぐらいおいとくかは、「卵かけめし料理」の大事なところのハズなのだが。実際は、そこまで真剣になって、温度を料理したことはない。適正な温度を、おれは知らない。悩ましいが、グルメでもないから、テキトウにやっている。
グルメなみなさんは、トウゼン、知っているのだろうなあ。これは、B級グルメの課題かな? A級のひとはトウゼン知っているよね。
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2005/03/17
快挙。これがよろこばずにいられようか。
『ぶっかけめしの悦楽』や『下町酒場巡礼』などの傑作を刊行しながら、倒産の憂き目にあわれた元四谷ラウンド社長の田中清行さんが再起、市井文学株式会社を発足、苦労して第一弾を刊行した。こんなにうれしいことはない。不屈の、しかも早い復活だ。だいたい田中さんは倒産ぐらいで凹む人じゃないけどね。
それにしても昨年夏飲んだとき、「また~、市井文学なんていう会社の名前、すぐ潰れそうだなあ」と笑ったのだが、とにかく売れればよいのマーケティング出版に傾斜しているギョーカイで、不屈の挑戦とも思えて、とても清々しい、いい気分だ。そういや田中さんの名前、「清行」だから、あくまでも「清く」行くんだな。応援しよう。
おっと、その第一弾は、帰ってきた中学生のための教科書シリーズか。吉本隆明著『中学生のための社会科』だ。よろしくたのむぜ。このご時世に倒れて再び出版界にもどってきた、田中さんの心意気へのご祝儀がわりだ、読まなくてもいい、買ってくれ。本体価格1400円。それにしても、吉本隆明たあ、うへへへ。
市井文学のサイトもあるぞ。
http://www.shiseibungaku.com/index.html
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サッ、新潟日報の「卵かけご飯」の記事だが。その話の前に、基本から。
卵をめしにかけて食べる。そのとき大きくは、2つの方法にわかれるようだ。1つは、卵をといて醤油で味付けしてめしにかける。もう1つは、卵をといてめしにかけまぜ、そこに醤油をたらし食べる。
たとえば卵をとかずにイキナリめしにかけるなど、それぞれまたビミョウな違いがあるにせよ、基本は、このどちらかになるようだ。
これは料理上、つまりその結果である味覚上、大きな違いになる。たかが卵かけめしだが、やってみると、料理とは、味覚とは、が、ピンとくるのではないか、ナ。さて、どちらを選ぶか、悩ましい。
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おれの「卵かけご飯」に関するコメントが載った新潟日報が送られてきた。大きな記事だ。でも、その話しは、あとまわし。パラパラほかの記事を見たら、「ネット革命ブログ急増」という見出しが目に付いた。新潟県下でも「ブログ」が急速に普及しているらしい。
そういえば、最近雑誌などの特集でも、ブログ系が目に付く。もちろんブログでも「ブログ」について熱い語らいが見られる。
おれは、ブログを始めて、4月で1年になるけど、ブログにあまり新しい期待はない。自分のことでもそうだし、全体的に見ても、そうだ。ようするに、これまでだってそうだが、新しいメディアが普及したからといって、関わる人間の頭のナカミが同じなら、しょせんメディアはメディアにすぎないのだから、それを反映するだけで、何も変わらない。
コミュニケーション力、つまり、ちがう価値文化と積極的に交わり新しい価値文化を創造する力より、すぐ群れて仲間をつくり同じ水のなかで楽しむのかくつろぐのか、そういう方向にはしる。そこには既存の政治的権威や宗教的権威や、大小さまざまな文化的な権威が存在する。
こういう状況では同じコップのなかの水は濁りやすいように、そして安直なメディアであるがゆえに、むしろマイナス因子の増幅が大きいとみておいたほうがよいだろう。第一、安直なブログとはいえ、一番忙しく働いている多数の労働者は参加できない。
集団的なヒステリーの勃発は、このあいだのイラク人質のときの「自己責任」がらみの騒動、あるいは電車男、電車男の二匹目三匹目をねらう騒動、集団ヒステリーとはちがうかもしれないが集団陶酔などをあげれば数かぎりなく見られた。そこには既存の権威や既存の文化や既存の価値観に安住する姿しかない。
なーんてね。そうは固く考えるなよ、と、デレデレおれもやってきたわけです。ま、おれのばあい、このブログで何か仕掛けてやろうなんていう気は、まったくない。メディアを使って仕掛けるなんて、これまでメディアに関わってきた人間のイチバンのゴーマン悪癖じゃないですか。気ままな娯楽ね、それでいいのです。
ま、あと、「大衆食堂の研究」など、自分の作品をサイトに掲載しているけど、そういうおれの書いたものを読みたいという方へのサービスはしたいと思っています。
それが、ワタクシのブログに関する見解であります。
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2005/03/16
いまやっているちょいと面白いシゴトに、一日に一つのシゴトしかしないという「生き方」の話がある。
今日、手紙を書く、それだけ。あとはコーヒー飲んで寝てすごそうとか。手紙を出しに行くのは翌日。翌日、手紙を出したら、それでその日のシゴトはオシマイ。
いいなあ。これが「スローライフ」というものだぜ。
しかしだよ、この方法だと、一つの原稿をまとめる、というのも一つのシゴトになるよな。手紙は短いからよいけど、一つの原稿が長かったらどうなる。そこんとこ、どうしてくれるんだ。と、いいたい。
でも、「一日一シゴト」っての、いいなあ。
と、書いたら。なによ、一つもしないことが多いくせに、と、言われそう。
めしをつくるのは、シゴトじゃないのか。めしをつくるのは、シゴトじゃないんだよな。それをシゴトにしたら、クソしてケツふくのもシゴトになってしまう。でも、シゴトのように思われているんじゃないかな。「主婦労働」なーんていうと、めしのしたくが入っているような。わからん。おれは酒を飲むのもシゴトのような気がする。ちがうか。ま、いいか。
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朝日新聞社「一冊の本」2004年3月号に書いた「「食育」ナンダロアヤシゲ」をザ大衆食のサイトに掲載した。
http://homepage2.nifty.com/entetsu/sinbun05/syokuiku_asahi.htm
もうウンザリであるが。
ちくまプリマー新書の、これから発刊予定に、邱永漢さんの「故郷は残るが国は残らない」がある。
http://www.chikumashobo.co.jp/top/pshinsho/index.html
戦後まもなく邱永漢さんが「食は広州に在り」を書いたときから変わらぬ「故郷は残るが国は残らない」という主張だ。
「食育」も、故郷は残るが国は残らないから「ふるさとの味」を大事にしよう、ということならわかる。しかし、いまの食育基本法案は、故郷を滅ぼした国が、またぞろ同じ考えで、故郷は滅びてもよいが国に感謝し国を残せというものだ。すでに、政府与党の自由貿易協定積極推進で、故郷は死んでいる。
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2005/03/15
3月13日の日記に「茶」と「茶室」のことをちょいとだけ書いた。大衆食と縁がなさそうな茶系に興味を持ったのは、『料理物語』がきっかけだった。『料理物語』については、『汁かけめし快食學』の255頁に、つぎのように書いた。
江戸前期一六四三年に、『料理物語』が本になった。
この本は、いまのところ、調理法までのっている本邦初のマットウな料理本である。これ以前の料理書は、「料理の有職故実・規式に関する伝書・記録の類である。その記録する料理は実際に食べるためのものであったかどうかも分明ではない」と日本古典文学大辞典にある。
まさに『料理物語』の画期的なこと。その末尾には、おどろくべき言葉がある。この時代、こんなことをいったひとがいた。「右料理之一巻は庖丁きりかたの式法によらず。唯人々作次第の物なれば」つまり「この料理本の一巻は、式法によらない、ただ人びとのつくりかたしだいのものである」と言い切った。
「ただ人びとのつくりかたしだい」……ウム、ウム。
いまだに古くさい「式法」をタテにする人たちや、料理の由緒由来のウンチクをよろこんでいるひとたちがいることをおもうと、この一言は、とってもルネッサンスである。だからこそ周囲の状況を考えて、あえて著者の名前を記さなかったとも考えられる。
つまり作者不詳であり、だれが書いたのか、推理するたのしみがある。たぶん、あのひとだ、と……。現代語訳および解説書として、『原本現代語訳料理物語』(平野雅章訳・教育社新書)や『料理物語・考』(江原恵著、三一書房)などがある。
これだけしか書かなかったが、『料理物語』は料理史上重要であるだけではなく、中世末期を把握するうえでかなりオモシロイものなのだ。「聞き書き文学史」というジャンルがあれば、その歴史上画期的な作品と評価されること間違いないだろう。とにかく、「中世離れ」している点が、あちこちに見られる。合理性や論理性、そして自由な精神。
しかし著者不明。いったい、このようなものを誰が書き残したのか興味が湧いた。江原恵さんが『料理物語・考』を著したのは1991年だが、そのころおれと江原さんは何度か、この作者が誰か、酒のツマミに話し合った。で、あとでわかったのだが、そしらぬふりして、それぞれ見当をつけていたのだ。
95年『大衆食堂の研究』ができて江原さんと会って飲んだとき、おれはその見当つけていた人物の名前を言った。いまでは茶道遠州流の祖とされている、小堀遠州だ。
江原さんは即座に、「いや、その周辺にいた人物じゃないかと思う」といって、そのワケを説明した。小堀遠州にたどりつくまでは、おれとホボ同じ推論だったが、その先が、江原さんのほうが資料が豊富なだけ有利だった。「なんだ、もっと早く教えてくれたらよかったのに」とおれがいうと、江原さんは「こんなおもしろいネタは簡単に教えられないよ」といった。
とにかく『料理物語』から茶人へ、そして小堀遠州にたどりついた。小堀遠州というのは、ものすごくおもしろい人物で、こんな人間が戦国末期江戸初期を生き徳川政府の奉行にまでなったのかと思われた。ま、かなりの変わり者ではないかな。だけど、ふつうなら切腹という事態でも、このひとは、その作事つまり建築の才能が惜しまれて、助けられた。将軍サマから何度も江戸へ来るように催促されても嫌がり、やっと、晩年2回ぐらいかな? 関東に来る。そのとき、現在の川越市の喜多院にある庭の造園を手がけた。関東に残る、遠州の作品としては、唯一といえるか? おれは、その喜多院で、もしかしたら『料理物語』は遠州かもね? とヒラメイたのだ。その造園中、遠州は、どこに滞在したのだろうか? と考えた。『料理物語』の最後には、この書は「武州狭山」で書いたという趣旨の記述がある。武州、川越と狭山は至近だ。……想像は楽しい。
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テレビも新聞もいらないし、見る行為を拒否できるから、契約をしないで見ないですましている。しかし、問題は東京電力なのだ。この会社は、マスコミを支配する力を持ち、かなりの悪だと思っている。ここに払う電気代の一部は、ナベツナが卑劣な院政をひいた読売巨人軍を支援したり、ナベツネのようなワンマン「守旧派」の財源になるに違いないと想像している。巨人を応援する財界関係者らの集い「燦燦(さんさん)会」の会長は、平岩外四(東京電力顧問)だしな。ここいらに、日本を支配する最も古い体質の「守旧派」ミッションの一つがありそうと想像したくなる。
だけど、東京電力以外のところから、自由に安く電力の供給を受ける自由が保障されてない現状がある。東京電力は、かくも独占で、ひとの自由を奪い、やりたい放題なのだ。NHK以上の悪で、NHKはいらないといえるからまだよいが、東京電力はいらない、といえない。悔しい。
燦燦会会長 平岩外四(東京電力顧問)、副会長 近藤道生(博報堂最高顧問)、幹事 山口信夫(旭化成代表取締役会長)、幹事 稲葉興作(石川島播磨重工業相談役)、幹事 長岡 實(資本市場研究会理事長) だそうだ。うーむ、なるほど~
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2005/03/14
新・読前読後3月11日「気まぐれ度の大きさ」は、洲之内徹さんであり、『気まぐれ美術館』シリーズであり、『人魚を見た人』だ。
http://d.hatena.ne.jp/kanetaku/20050311
そこで洲之内徹さんのオコトバを引用している。おれはそこに用があるので、そこだけまた引用させていただく。
ゴッホで私の感じる優しさを、私はどう書けばよいか分らない。だが、何も無理して書くこともないだろう。批評や鑑賞のために絵があるのではない。絵があって、言う言葉もなく見入っているときに絵は絵なのだ。誰も彼も、猫も杓子もいっぱしの批評家気取りで、何か気の利いたひと言も言わなければならないものと考えて絵を見る、そういう現代の習性は不幸だ。(「男が階段を下るとき」)
この「誰も彼も、猫も杓子もいっぱしの批評家気取りで、何か気の利いたひと言も言わなければならないものと考えて絵を見る、そういう現代の習性は不幸だ。」というところだが、「絵を見る」を「料理を食べる」とでもしたら、近年のグルメな状況にピッタリのような気がする。
では、なぜ、そのような「不幸」なことになってしまったのだろうか。ということを書いていると、長くなるので、忙しい本日は、書いていられない。
先日旅先で見た11日付の中日新聞だが。自費出版で大躍進らしい「表現する人の出版社 新風舎」の全5段の広告があった。「あなたの本を出版します」である。おどろいたことに、そのキャッチコピーが、「表現する人が一番偉い」 なのだ。なんというクスグリだろう。
そして、おもうのだ、「批評する人が一番偉い」という空気もあるね。「何か気の利いたひと言も言わなければならないものと考えて」文章を書いているひとも、けっこういるね。「気の利いたひと言」に酔うひとも、けっこういるね。カンジンなことを忘れて。
なぜ、そのような「不幸」に……忙しい本日は、書いていられない。今日もまた、力強くめしをくい、力強く生きねばならない。のだ。
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2005/03/13
せっせとシゴトをしているのだが、パソコンに向かいながら、ツイ人様のブログを覗いちゃうのだよね。
それで雑誌『談』編集長によるBlogを見たら、わが官能が刺激を受け、大コーフン。コメントに書き込みしたら、アチラも仕事中なのか、ただちに返答ありで、盛り上がってしまった。
先日10日、犬山市にある国宝、織田有楽斎の茶室を見たのが。そのとき、それまではバクゼンと茶室は庭と一体と思っていたけど、それはカンチガイで、庭のなかに造られた最低限の出入り口しかない、完全な箱だというのに気がついたのだ。
茶室は庭という宇宙のなかに造られた箱なのだ。これはもしかすると庭のなかに庭よりもっと小さい宇宙をつくろうとしたのではないかとフト思った。それが、雑誌『談』編集長によるBlogを見たら、そのお題は「オタクは、日本の伝統文化の正当な嫡子」なるもので、茶のワビサビとオタクの関係が書かれている。もうヒラメキましたぞ、コーフンしましたぞ。
そのBlogは、こちらです。
http://dan21.livedoor.biz/archives/16126639.html
日本料理と茶の歴史は深い関係にあるけど、これまで書かれたものは家元茶からみたご都合主義な解釈ばかりで、まっとうなものがないし、ワビサビについても、かなり歪められて伝わっていると思う。
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「県観光連盟は十一日、今年の観光キャンペーン用に作成した六種類のポスターの中で、池波正太郎氏の著書を引用し、伊賀牛をPRした「伊賀の田園風景・すき焼き」編について、「作品の一部文言に不快と感じ取られる部分があった」として、配布済みのポスター四百二十一枚を回収し、廃棄処分するなどの対応を取ると発表した。」
伊勢新聞Web3月12日の記事だ。
http://www.isenp.co.jp/
回収されるポスターの具体的な内容は、まったくわからない。が、池波正太郎さんの『食卓の情景』のなか「柳生から伊賀上野へ」に、つぎのような伊賀牛にかかわる著述がある。それは、「伊賀の上野市」で「牛肉のすき焼で知られた〔金谷〕」でのことだ。
牛肉が、はこばれてきた。
赤い肉の色に、うすく靄(もや)がかかっている。
鮮烈な松坂牛の赤い色とはちがう。
と書いたあとで、こう書いている。
松坂の牛肉が丹精をこめて飼育された処女なら、こちらの伊賀牛はこってり(こってりに傍点)とあぶらが乗った年増女(としまおんな)である。
『食卓の情景』に限らず、池波正太郎さんの食エッセイを読むと、いくつか感心できない気になるところがある。その一つがこれだ。
見方によっては、いかにもオンナや男女のコトを知っているイキなひと、ということでよろこばれるのかも知れない。食に通じることは、人間や人間の生命の根幹に通じることではなく、イキに通じることである。というような、「食通」感覚や「食道楽」感覚があったし、まだあるように思う。
実際、『食卓の情景』の新潮文庫版の解説で、池波さんに可愛がられたらしい佐藤隆介さんは、「〔食卓の情景〕は読むたびによだれが出てくるような本である。「柳生から伊賀上野へ」という一章では〔金谷(かなや)〕なる肉屋が登場する。」と、先の部分を引用したあと、こう言うのだ。
などという描写は、池波正太郎ならではの至芸というしかない。私はここで必ず生(なま)つばをのみこみ「年増女のバター焼」に思いを馳(は)せる。そして、
こういう話に反吐がでる思いをするのは、おれだけだろうか。
もちろん、あまり杓子定規に考える必要はないと思うのだが、オトコの食通だの食道楽だのグルメだのは、こういう文章やコトで、いい気になってきたのは事実だろう。
と、健全な市民のみなさまから好感支持を得るには、ディズニーランドやサザエさんを揶揄してはいけないように、池波正太郎さんの食エッセイとりわけ『食卓の情景』を批判しちゃいけないのだが。けっこう気をつかって、書いちゃいました。ああ、これでまたおれは、旨いもの好きやグルメに嫌われ、さらに池波正太郎ファンに嫌われ、おれの本はますます売れなくなる……。たすけて~
関連
ザ大衆食「池波正太郎さんのお言葉」…クリック地獄
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2005/03/12
はくぶんさん が最近のコメントで、B級グルメ本をリストアップしてくださった。どうもありがとう。
転記すると。
東京B級グルメ
世紀末大東京遊覧
B級グルメの冒険
セイシュンのB級グルメ(1988)
B級グルメの基礎知識(1989)
B級グルメの東京自由自在
B級グルメの東京一番しぼり(1990)
B級グルメの半日散歩(1993)
B級グルメのこれが美味しい!(1993)
ベストオブラーメン(1989)
〃すし(1991)
〃蕎麦(1992)
ベストオブ丼(1990)
こうやって見ると「B級」の「単品グルメ」は、1990年代から盛んになったことがわかる。悩ましいことに、しだいに細分化され、かつ出版社やライターにとって市場性のある分野だけが「グルメ本」になる。こうなるともはや食文化の「全体像」とは無関係にカテゴライズがすすむ。食文化とグルメの分断、食文化の凋落とグルメの躍進!という関係が、そこにはある。
でも、ラーメンやカレーライスの「グルメ本」は、もっと前から出ていて、それらがB級グルメ本ブームへの流れをつくっていった。といえるかな。
とりあえず、思いついた「ラーメン本」二冊。
「なるほどザ・ラーメン」 林家木久蔵著 かんき出版 1981年12月
「ラーメンの本 人生を10倍たのしくする」 全日本ラーメン同好会著 双葉社 1982年12月
どちらも、ただラーメンが好き!で楽しんでいるという感覚が、のちの情報通あるいはゲーム感覚の「B級」とはちがう。過剰な表現も少ない。ま、「グルメ」も始まったばかりで、素朴だったということか。そういえば、千駄ヶ谷に住んでいた1980年中ごろ、代々木駅の近くに木久蔵ラーメンがあって、ときどき食べた。どんなラーメンだったか、忘れた。木久蔵ラーメン、まだあるのだろうか。
ラーメン本といえば、たしか1960年代の前半にカッパブックスから、出張かなにかで全国のラーメンを食べた人の本が出たはずだ。これがラーメン食べ歩きの本としては最も古いほうではないかと思って調べたが、まだハッキリわからない。
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2005/03/11
きのう、日記を書いてから、一泊で犬山へ行ってきた。犬山は、20年ほど前に、多治見から岐阜にかけての調査で行ったことがある。そのころは、主に旧市街地より新市街地や新興住宅地を中心にみていたので、今回初めて旧市街地を通った。
旧市街地は犬山城の城下町だったからだろう、まだ木造に瓦屋根の古い町の営みが想像以上に残っていて、オドロイタ。
で、そこで、五平餅屋をみつけた。古い木造の大きな建物、ガラスの窓枠まで木造。五平餅「専門店」というのが、意外だった。なぜここで「五平餅屋」なのか、それほど観光客がいるわけじゃないだろうし、いろいろ食べながら聞きたかったが、雨は降っている、つぎの予定がある、写真だけで素通り。
五平餅といえば長野が有名で、その発祥の説もさまざま。しかし、けっこう各地にみられる。駄菓子屋全盛期には、五平餅をウリにした駄菓子屋もあったはずだ。そこに何かの脈絡があるのかないのか……。
おやつのような感じで残っているが、むかしは労働に密接な食べ物だったようだ。地域によっては、かなり大量に食べられていたらしい。「研究者」からは、山間の貧しい食べ物、ちゃんとした「料理」ではない、と見られていたようでもある。実際には、じつに味わい深いものだ。餅の仕立てかた、焼き方、タレの作り方、それぞれ特徴があるし。
意外なところで、五平餅に出会うと、いろいろ考えてしまって、悩ましい。調べたいと思って、日にちだけがすぎていく。
ついでだが、犬山城は、現存する最古の城だそうだ。しかも唯一、個人の所有!
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2005/03/10
ときどき、というか、ちかごろ増えているように思う。いわゆる下町の大衆食堂で出すものが手づくりの「家庭料理」ではなく近所の店から買ってきたものや冷凍調理品であると、ガッカリする人がいるようだ。そういうひとは、もちろん、大衆食堂にとっては「新参者」だが。
これはどこか筋違いカンチガイというものだろう。そんなに手づくりの「家庭料理」がスバラシイ食べたいものならば、いわゆる下町の大衆食堂まで出かけるカネとヒマで、自分の家庭でつくればよいのではないかと思う。いわゆる下町の食堂まで出向いてそれを求め、ないからと食堂を非難するのは、おかしい。その食堂は、これまで、そういう「手づくりファン」に支持され生きのびてきたわけではないはずだ。
いわゆる下町というのは、昔ながらの手づくりの家庭料理の味を続けているというイメージを描くのは勝手だが、それは必ずしも事実ではない。「外食」と「中食」また「惣菜屋」が古くから発達していたのが、いわゆる下町で、「手づくり内食」の伝統は「山の手」のものだ。それは、ちょいと戦前や明治大正の話を読めばわかることだ。
それからたとえば、最近は、にわかホッピーブームだが、あれは、むかしたとえばおれが1962年上京して初めて飲んだころのホッピーはそういうものだったが、最初からジョッキに注ぎきりで出てくるのがフツウだったのだ。ひどいときは、ぬるい状態のこともあった。それが「戦後昭和」というものだ。
それが最近の「昭和レトロ」とかで、いわゆる下町の大衆食堂でホッピーを飲み、ジョッキに注ぎきりのホッピーが出てくると、懐かしがらずに文句を言ったり嘆いたりするひとがいる。「レトロ趣味」といいながら、それをよろこばない。
昭和レトロを求めながら、いまふうにマーケティングされた商品やサービスを求める。これは大いなる矛盾だと思う。しかし、「昭和レトロ」ブームそのものがマーケティングされたものである現状があるから、それも当然なのだろう。
問題は、本人が、マーケティングされた行為をしているのに、そうは思わずカンチガイして、自分はよい趣味をしていると思い込んでいることだ。そういう思い込みによって、せっかく残っていた地域性や「昭和レトロ」は、ナマケモノとして非難される。どうやら下町の人間は、すごい職人仕事をやる人でなければいけないらしい。
そういうイメージをうえつけたメディアも悪いが、近年の、いわゆる下町ブームの食べ歩き飲み歩きは、そのほとんどは「B級」といわれるものだが、歴史的社会的視点に欠け論理的思考を怠ける、「典型」ともいえる日本人の姿が顕著であるように思う。
前にも書いた。チンで仕上げたおかずが出ると文句をいうひとがいるが、昔から大衆食堂でめしをくってきたものにとっては、チンが導入されただけマシなのである。ナニゴトも、そのように歴史や社会の地域性のなかで呼吸している、その呼吸に、もっと思いをはせるべきだろう。
いわゆる下町酒場や大衆食堂を、「優秀な経営コンサルタント」の視線で食べ歩き飲み歩く姿は、いかにも悩ましい。そうなのだ、みんな経営コンサルタント、飲食店経営コンサルタントの「先生」になってしまったのだ。
こういうこと書くと嫌われて、本が売れなくなるから、なるべく書くなといわれたことがあるのだけど、書いちゃいました。オリコウなイイ顔していてもしょうがないもんな。ああ「先生」、あなたはエライ!
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2005/03/09
ブログを始めたのは昨年の4月。まもなく1年。そういえば、タダで容量の限界があるから、あと1年もつだろうかと思って調べたら、ナント、使用できる容量が増えていて、まだ18パーセントぐらいしか使ってない。
ということは、この調子でやっていても、あと4年はもつということだ。あと4年後というと、おれは65歳じゃないか。そのトシになっても、この調子が維持できるとは、とても思えない。年金暮らし悠々自適隠遁生活者ならともかく、売れないフリーライターだから。もし仮にシゴトがあっても、それをこなすだけで精一杯だろう。その次の優先順位は、酒だし。セックスは、もうダメになっているから心配ないにしても、酒飲めばブログなんかやれない。酒とシゴトで精一杯にちがいない。
もう、ダメだ、続かない。いや、生きているのだろうか。いい人間ほど早死にだというから、おれなんかもうとっくの昔に死んでいてよいはずだからな。
そんなことを考えながらシゴトをしている、今日なのですが。いつまでも、このブログを続けてほしい方、激励はいらないからカネと勃起力をください。
そして、昔のB級グルメの本を見ていたら、いろいろ気がつくことがあって、考えをまとめるために、ちょいと資料を整理しておこうかと、こういうページをつくってしまった。トシなのになあ。
http://entetsutana.gozaru.jp/hon/siryou_index.htm
しかし、あれだよね、自分はB級グルメで、うまいもの好きで、うまいもの食べられるならどこへでも行く、という人がいるけど。それって、カネとヒマをかけられるというのはB級じゃないと思うんだよね。このあいだも、いわゆる下町の大衆食堂で、そういう人がいて、三鷹のほうから往復2000円近くの交通費かけて来て、うまいもの食べて飲んで2000円かからないスバラシイ! って、そのように下町をB級して歩いている話をタップリ聞かされたけど、どうもおれは矛盾を感じる。ご本人は、矛盾を感じないのだろうか。
そもそも、グルメはグルメで、AもBもない。というのが、昔からのおれの考えなのだが。おれは、もちろん、グルメじゃない。だから、「うまい店おしえて」と言われても困るのだ。ザ大衆食のサイトに載せている店も、必ずしもうまいからではない。
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2005/03/08
わが故郷の新聞、新潟日報。
http://homepage2.nifty.com/entetsu/nipporensai.htm
電話取材があった。お題は「卵かけめし」(この記事では「卵かけご飯」)。十人十色の卵かけめしがあるそうだ。そうだろうなあ。そもそも、卵と醤油をかいてめしにかけるか、卵とめしをかいて醤油をかけるかで、味はちがうし。
かつて、東海林さだおさんは、死刑執行前に「白くて熱い炊きたてのゴハン」に「おかずを一品だけ許す」と言われたら、生卵を選ぶと決めてあるのだ、と書いた。
ま、おれも小学校にあがる前のガキのころから卵かけめしを食べているからね、話しはタップリあって、いろいろ電話口で思いつくままにシャベッタ。ガキのころは、近所に卵を売っている店はなく、朝には隣の鶏を飼っている農家へ、買いにいかせられたものだ。そこで「卵くれ」というと、鶏小屋から持っていけといわれる。で、鶏小屋に入って、鶏がギャワギャワ騒ぐなかで、ワラの上や下に転がっている卵を拾うのだ。
来週月曜日14日掲載予定。掲載紙が届いたら、紹介しよう。
しかし、ホント、地方紙は、いいね。こういうネタに真剣に取り組むから。
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神戸のほうでは、「いかなご」に燃えてますなあ。
http://d.hatena.ne.jp/MSHIBATA/
こういうのこそ、スローフード地産地消、か。料理としては簡単のようだが、1年に1回でもいいから、こういうふうに盛り上がりたいものだ。日本酒の新酒の季節とか、ワインのヌーボーばか騒ぎ以上に、各地元で盛り上がらなくては、おかしいよな。ラーメンもカレーライスも、ようするに「グルメ」というのは……マーケティングや流行で騒いでいるだけじゃないのかね。
あっ、また「グルメ」の悪口を言ってしまった。
ついでに、「いかなご」検索。
うひょ~ 「いかなごGo!Go!」歌踊りまであるぜ。
http://www.eurus.dti.ne.jp/~kinako/ga/ga-ik.html
漢字で書けるか。「いかなご」のオベンキョウしましょ。
http://www1.harenet.ne.jp/~toccin/ryousi/sakana/ikanago/ikanago.htm
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2005/03/07
報道によれば。作家吉村平吉(よしむら・へいきち)さんが、東京都台東区竜泉の自宅で亡くなっていたことが6日、わかった。84歳。1日の絶命らしい。
一昨年の暮れ、浅草の見番前で立ち話しをしたのが最後になる。
ネットで吉村さん死去のニュースに接したのは、昨夜午前1時過ぎだったから、そのことだけ記して寝てしまった。ので、追記。
「吉原酔狂ぐらし」1990年、「浅草のみだおれ」1997年。いずれも拙著「大衆食堂の研究」と同じ三一書房から同じ編集担当者で刊行。不運「浅草のみだおれ」は、たしか春ごろの発行だったと思うが、その直後、三一書房で、いまでも続く労使紛争経営紛争が始まってしまい、ほとんど本屋に出回らなかったのではないかと思う。「吉原酔狂ぐらし」は、2003年ちくま文庫版がでた。
おれが吉村さんと会ったのは、97年の暮。浅草生まれで吉村さんを敬愛する若い放送作家の紹介だった。そのときの名刺を見ると、肩書に「日本イベントプロデュース協会顧問」とある。吉村さんは、肩書だけいろいろあるものでね、と笑った。ま、とにかく、浅草のことなら、なんでも知っている吉村さんで、おれは以前から日本堤や浅草をねぐらにした放浪芸や一人芸の芸人に興味があったもので、いろいろ聞いたりした。
それから、立ち回る先が似たようなものだから、ぐうぜんに何度かあった。
吉村さんといえば「エロ事師」が有名で、野坂昭如さんの「エロ事師たち」のモデルになった。吉行淳之介さんのエッセイにも、そのスジの話で登場する。赤坂の骨董屋のボンボンで早稲田大学の学生だった吉村さんが、どうして浅草にはまり吉原のヒモ(あるいはポン引き)になったかなどは、「吉原酔狂ぐらし」で書いている。
当サイトに吉村さんご愛顧の店のうちの2軒がのっている。「ピーター」
http://homepage2.nifty.com/entetsu/piter.htm
それから「不二食堂」。
http://homepage2.nifty.com/entetsu/s/huji_ryusen.htm
ほかにも吉村さんご愛顧の古い喫茶店や鷲神社裏の、エート名前がすぐ思い出せない、とんかつ洋食屋さんなど教えていただいたが、これまで入る機会がなかった。
これなら、オンナにもてるだろうなあと思われたし、実際に浅草界隈で「吉村さん」といえば男にも女にも人気のあった、ダンディで優しい方だった。そのダンディぶりは、かつて「散歩の達人」の一面を飾ったこともある。かっこいい男!かっこいい人生!
吉村さんのオコトバ……「人間のいかがわしさや猥雑さが好きだった」(「東京下町」小泉信一著「はぐれ者の美学」より)
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2005/03/06
昨年12月に行ったのだが、まだレポートを掲載してなかった、京都の有名な大衆食堂、居酒屋食堂といったところか。
とりあえず簡単に掲載。
http://homepage2.nifty.com/entetsu/s/sutando.htm
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なんだか予定どおりいかないときもある。そういうときでも焦らない。とりとめなく、掃除する、でもなく、あたりをひっくりかえしていると、いろいろなものが出てくる。
メモ用紙。そういや以前、山本益博さんのオコトバを拾って分析してみようかと思ったことがあった。その残骸。
・週刊現代 1995.10.14号 山本益博の「うまいのなんの!」38 (料理名)豆芽炒麺(トーヤツオーメン もやしと黄にらの焼そば) (店名)斿龍酒家(ユーロンシュカ)
(見出し)平凡な素材から非凡な味を生み出した逸品
(本文)平凡の素材から非凡な味を引き出す、秘術こそないが間違いなく真打ち名人芸と呼んでいい。
これで、あなた、わかります? もう一つ。
・週刊現代 1995.10.28号 山本益博の「うまいのなんの!」40 (料理名)モンブラン・オ・マロン (店名)エス・ワイル
(見出し)フランスでもお目にかかれない逸品
(本文)栗には砂糖が控えてあるから、新栗の香りのよさは抜群。これにクリームを添えて口へ運ぶと、まるで夢を食べているような感覚だ。本場でもお目にかかりにくい逸品中の逸品である。
これ、山本益博さんが「料理評論家」としてデビューして、10年以上すぎているのですよ。ここから「逸品」だの「非凡」だの「秘術」だの「抜群」だの「真打ち」だの「名人芸」だの、食や味の話でなくてもよいようなコケオドシな「単語」をひいてみると、なにが残るでしょうか。ま、もちろん山本さんの80年代の先駆なシゴトは、それなりに意味のあることだったとは思うけど。
ま、これが、「一億総グルメ」から10年のアリサマというわけで、はて、ここからまた10年たったのですがね。はたしてね、とりとめなく、とりとめなく。こうやってみると、おもしろく、実態がわかりますね。
で、なんだか横光利一さんの岩波文庫「日輪・春は馬車に乗って」が、とりとめなく出てきた。付箋が貼ってある。そういや以前、横光利一のような作家は、どのように食や味を書いているか気になったことがあったな。
・「火」 田舎の村が舞台の短編
母も子も黙っていた。隣家から酒気を含んだ高声が聞こえて来た。子は夕暮前に、井戸傍で隣家の主人が鶏をつぶしているの眼に浮かべた。
「お母さん、お隣りのはな、鶏を食べていやはるのや。」と子は母を見上げていった。
「そんな事をいうものやない。」と母はいった。隣家の裏庭の重い障子の開く音がすると、縁側の処へ近所の兼助という男が赤い顔をして立っていた。
「お里さん、ご馳走だすぜ、さアお出でやす。」
とりとめなく、とりとめなく。このあと、母が子に、「奥から出て来て魚屋の通帳を彼に渡して牛肉の鑵詰を買って来いと命じた。」 で、魚屋は子に、牛肉の鑵詰のふたを開けて渡す。
ふーむ。「火」は、大正8(1919)年に書かれた。この文庫の解説は川端康成。「横光利一は明治三十一年(一八九八年)に生まれ、昭和二十二年(一九四七年)に、数え年五十歳で死んだ。本籍は大分県宇佐郡長峰村、生地は福島県会津郡東山温泉、父が測量技師であったため、父の任地につれて、小学校を十数回変わったという。しかし、母の生家が三重県の東柘植にあって、横光は幼年期の多くをここで過ごしたらしい。また、三重県立の上野中学校に入った。この伊賀の上野や柘植あたりを、横光は故郷として愛した」
うへ~、三重県か。とりとめなく、とりとめなく。
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2005/03/05
ときどき当ブログにコメントをいただき、2月18日の「定食のススメ」にも、とてもオモシロイ、ブラジルの定食についてコメントをいただいている、「『第七官界彷徨―尾崎翠を探して』『百合祭』脚本担当。ピンク&「薔薇族」監督」山崎邦紀さんから、「ブログ始めました」の案内があった。
最近ブログを始めたのですが、エンテツさんの「ザ大衆食つまみ食い」に影響され、ブログの中で「愉快なフェティシズムの研究」を始めることにしました。どこが影響されたのか分からない、マイナーなものになりそうですが、その発端を短く書いています。ご笑覧ください。
「影への隠遁ブログ」
http://blog.7th-sense.sub.jp/
ってことで、3月4日「エロ本業界の友」に、おれの紹介があり、ブログを始めるに至ったオコトバがある。
http://blog.7th-sense.sub.jp/?eid=37636
なーるほろ~、そういうことをやりたいのだな。
ブログには、いろいろあるし、「編集者」や「ディレクター」といったウルセェ連中があいだに入らないから、好きなようにやれる。いろいろあってよいと思うね。自分のカネと時間でやるのなら、気ままでもいいわけだ。
おれの場合、「なにをやりたいか」が割と鮮明なほうだと思う。「何が儲かるか」「何がうけるか人気をとれるか」とかではなく、「なにをやりたいか」だけなのだ。山崎さんも、「なにをやりたいか」が鮮明らしい。
「エロ本業界の友」に登場の「愛されて死ぬよりも、憎まれて生きる方がマシ」の塩山芳明さんの場合は、「嫌われたい」ために、毎日こんなもの書いている。日刊漫画屋無駄話。ごくろうさん。
http://www.linkclub.or.jp/~mangaya/nikkann.html
そうそう、それはともかく、「定食のススメ」をザ大衆食のサイトに掲載した。山崎さんのコメントも転載させていただいた。
http://homepage2.nifty.com/entetsu/sinbun05/teisyokuno_susume.htm
どさくさにまぎれて「大新聞とるの、やめよう。NHKは、いらない」の主張もしてしまった。そのうち、「嫌われ者がオススメの定食屋」というものを、塩山さんに書いてもらいたいと思っている。
と、本日は、「エロ系」でまとめてみました。
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2005/03/04
きのう書いた、週刊文春、買ってしまった。勝見洋一さんにしては雑な文章だが、雑で短絡がお得意な週刊文春らしくはある。でも、勝見さんの主張は、むかしから一貫している。
勝見さんは、文春文庫ビジュアル版のB級グルメ本で活躍した。手元にあるそれだと、『スーパーガイド 東京B級グルメガイド』(1986年11月)に「蕎麦屋で酒を飲む」、『B級グルメの基礎知識』(1989年4月)に「東京いい店安い店を探す」を書いている。
あらためて見ると、そのころの「B級グルメ」と現在の「B級グルメ」は、かなりさま変わりしていることがわかる。さま変わりして、袋小路に行き詰まっている。それは、とくに90年代以後のラーメンやカレーライスなどの「単品グルメ」に顕著な傾向なのだが。
ようするに90年代以後のB級グルメは、それまでの山本益博流を「B級」に持ち込んだにすぎない。そこにはB級ならではの地域の生活感も、そこから生まれる味覚も、それを感じる感覚もない。トウゼン味覚の表現は雑をきわめている。何軒くいたおした、と、それと並ぶハッタリだけの内容のない味覚表現。
勝見さんは、もとの生活環境からすれば「A級」のひとだ。若いころからジャガーなどの外車を乗りまわしたり。しかし、「A級」のひとだが「深窓」のひとではなく、東京が地域性を維持していた時代と地域の、普段の生活の味を知っている。
つまり地域の普段の生活の味、それが「B級」というものなのだ。B級グルメたるもの、それを味わうことに喜びを感じるべきではないか。それが勝見さんのB級グルメに関する変わらない主張だといえる。
かつて『B級グルメの基礎知識』では、「天麩羅の旨さは下手味にあり」「旨味だけでは語れない東京の傷の味」などと言い放った。「馴れない町にやってきてなんとなく心もとないとき、とりあえずはっきりとした味の食べ物を食べると、心身ともに落ち着くものだ。なるほど、この町の人はこんな味で日々を生活しているのかと、なんとなく納得して、すべてがわかったような気になる」
勝見さんの味覚表現は、生活があったし、豊かだった。食を楽しむ感覚が豊かだといえるだろう。
勝見洋一(かつみ・よういち)
1949年東京生まれ。成城大学卒。
東京・新橋に代々続く美術商を生家とし、少年時代より美術品に囲まれて審美眼を養う。
1973年より北京とパリの教壇に立ち、同時に“食”をはじめとする趣味道楽の泥沼にのめり込む。
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ふーむ。オモシロイ。
http://saryo.org/harushobo/archives/001924.html#more
「とはいえ、“コンテンツ”の“器”が無くなって行くのは本来の姿だと思う。まず、先陣を切って音楽がその方向に向かい始めている。Apple社のiPod & iTunesMusicStoreや、AUの着うたフルなど。そして映像もそれを追随していくだろう。さあ、問題は一番古い“器”の部類に入る“本”だ。歴史があるがゆえ、その“器”に文化が生じている。がゆえに、“器”がなくなった段階での“本”に求める欲求は非常に敷居が高い。それをすべてクリアして行くのはまだしばらく時間がかかりそうだ。」
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2005/03/03
今日発売の週刊文春に、勝見洋一さんが、敢えて言う「ラーメンなんて料理じゃない」ってことで書いているらしい。買ってみようかな~
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2月23日の日記の「千葉県房総 天津漁港」 で思い出したのだが。
新潟県下で秋から冬、よく食べられる魚でカナガシラがある。一昨年の秋だったか、おれも故郷の大衆食堂的蕎麦屋の万盛庵 で食べた。
「新潟の魚」ということで紹介もされている。
http://www.pref.niigata.jp/suikai/suisan/sakana/kanagasira.htm
とにかく、もっともよく新潟県下で食べられると、最近になって知った。
というのは、この魚は、太平洋岸でもとれて、千葉県の外房の漁港で揚げられたものは、トラックで運ばれる途中、携帯で連絡をとりあって、築地より新潟の市場のほうが高値だということになると新潟へまわる。たいがい新潟のほうが高値だから、そのように売られることが多い。という話を、なにかで聞いた。
白身のうまい魚だと思うが、東京や近県では人気じゃないらしい。そういえば、見たことがない。もしかして、この魚、ほどよく不細工だから、見た目を気にし気どっている東京人には好まれないのかな。
いまでは、新潟県のひとが新潟の魚だと思って食べているカナガシラは、必ずしも新潟のものとは限らない。おれが万盛庵で食べた、カナガシラも、そういう可能性がある。
その場合、ああふるさとのスローフード地産地消は、すばらしい!うまい! ねっ、やはりスローフード地産地消ですよ、スローフード地産地消バンザーイ、というココロは、どうなってしまうのでしょうか。
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2005/03/02
『魯山人味道』(中公文庫)を見ると、北大路魯山人さんは、昭和13年(1938)の「料理の妙味」で、「塩、醤油、酒、味醂、砂糖、味の素、かつおぶし、昆布、煮干しなどは、味付料としていずれもよき味の持ち主ではあるが」と述べている。味の素が含まれているのがオモシロイ。化学調味料という認識は、なかったのだろうか。
昭和33年(1958)の「味を知るもの鮮し」(「鮮し」は「すくなし」)では、「砂糖の乱用と化学調味料を無定見に用いることは、充分慎むべきことであろう」と述べている。
化学調味料を、完全に否定してはいない。そのまま、受け止めれば、彼の味覚は、味の素や化学調味料を完全に否定していたわけではないことになる。
1970年代、築地周辺の有名な寿司屋のカウンターには、卓上用の味の素のビンがあった。小皿に注いだ醤油に、味の素をたっぷりふり、寿司や刺身をそれにつけて食べる「通」たちがいた。
1972年ごろ、おれは初めて築地へ行って、驚いたのは、大量の新鮮な魚ではない。築地の場外の問屋の店先に、10キロ単位ぐらいでビニールの袋につめた味の素が、山と積まれていたことだ。おれは、最初それを見たとき、まさか味の素がそのような業務用の姿で大量に売られているとは思わなかったから、案内で同行していた魚卸会社の社員に「あれは、なんですか」と聞いたものだ。
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2005/03/01
昨夜。早稲田の古書店、古書現世へ。目録を見て注文しておいた本を受け取りに。もちろん、セドローくんと、それを口実に呑むため。あとから三楽書房のソリアゲくんも加わって、がははははは。セドローくんの日記に書いてあるよ。
http://www.w-furuhon.net/wswblog/000390.html
先日、2月16日、「すごいぞ、この食堂メニュー」に秋葉屋市場食堂のメニューについて、「これだけの量のメニューというと、「大衆食堂 横丁」や「さんちゃん食堂」とか、それ以上か?」と書いたのだが、もっと大量のメニューの食堂があったような気がして、思い出した。そして行って、確認してきた。
ザ大衆食のサイトに掲載した。荒川区町屋の「ときわ食堂」
http://homepage2.nifty.com/entetsu/s/machiya_tokiwa.htm
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