「蒸す料理」簡単と単純のあいだ
最近、「蒸す料理」に凝っている。凝っているほどでもないが。なんでも、どんどん蒸してしまう。とにかく、いろいろなやり方があって、あきない、オモシロイ。
で、つくりながら思ったのだが、「簡単」と「単純」の関係だ。簡単は料理の手間の問題、単純は料理の構造の問題。どちらもカタカナ英語で「シンプル」というイメージだが、まるで違うね。
空を見上げると、飛行機雲が一筋。南の空を東から西へ。歴史も論理も現実も、そのように単純に流れているなら、なにもかも簡単でいいと思う。「スジを通す」とか、「首尾一貫している」とかが、一筋の飛行機雲のように、とても美しく大事に見えるだろう。しかし、実際は、そのように簡単で単純であるということはない。うどん玉のようにコンガラガッタかんじで蠢いているのだ。うどん玉だって、ゆでて食べるのと、蒸して食べるのとでは違う。これは関係ないか。とにかく「スジを通す」とか「首尾一貫」が正しいなんて、文章あるいは文学がもたらした幻想にすぎない。文章の読みすぎか、文章を信用しすぎている。そんなことにこだわっていたら、何も見えない、うまくいかない。「蒸す料理」一つにしてもだ。
「蒸す料理」は、簡単だけど単純じゃない。さあ、蒸してみよう。今夜は、何を、どう、蒸してやろうか。
そんなことは、どうでもいっか。
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