失われた全体像の末路
最近のトラックバックに「アメリカの食肉処理の現場で内部告発が続いている」がある。なにをいまさらという内容で、すでに知られているアメリカの屠畜方法のモンダイをあげ不安を煽っているにすぎない。この動きは、「全頭検査」が無意味なもので税金の無駄遣いにすぎないことがあきらかになったころから、「アメリカ産牛肉輸入反対」の立場のひとが根拠がなくなり、強調し始めた主張なのだ。
おれは、BSE問題を政治の具にすることで、モンダイの本質がごまかされているという意見を、たしかだいぶ以前の日記時代から主張してきたし、このブログにも書いた記憶があるから、それへのトラックバックだろう。
もう何度も繰り返して書く気がしない。こういうトラックバックをするひとは、ひとの発言を理解しているのだろうかと思う。まったく議論が噛みあっていない。そのうち、今まで書いたことを、ザ大衆食のほうにまとめるつもりだが、とりあえず、人様がまとめたページを利用させていただこう。
「BSE問題 不愉快の政治決着」市民のための環境学ガイド。
http://www.yasuienv.net/BSEPolitical.htm
おれはこの考えに全面的にマンゾクというわけではない。もっと根本的な、誤魔化されてきた重要な問題、つまり日本のBSEはいつごろどのように「始まった」のかの真相解明について(それは生産事業者や政府や政治家の問題になるだろうと想像されるが)、ふれてないからだが。それはまた別の問題へと発展するから、当面はこれでコト足りる。
何度も繰り返されてきた全農や漁協など日本の生産事業者の問題、それと癒着あるいは持ちつ持たれつの関係にある政府や政権党の問題を考えれば、日本の生産事業者ならアンシンと無邪気に信じる前提はオカシイ。アメリカの現状を突っついたところで自らの問題が解決するわけじゃない。
そもそも安全は「天与」のものではなく「文化」であり、人間が創造するものだという視点が必要だろう。
より速く正確に走るダイヤのために、少数ではなく大量の犠牲者が出る。すると、より速く正確に走るダイヤを望み、あのクソJRを絶対アンシンと信じていた者がトツゼン態度豹変で、自分はこのようなことは望んでいなかったかのように声を荒げるが、ソレハ、ほんとうか? では、イツ、あのダイヤを問題にしたことがあるか。
世界のトヨタの日本で政府方式の統計だけでも毎年1万人の交通事故死(統計方法を変えれば、その何倍にもなる)。それでもクルマの販売をやめよという声は聞こえてこなかった。BSEの発生は、その事故死の1万分の1以下の発生率、1名に満たない、あるいはその数字すら明確でなく論じられている。たしかに1人でも犠牲者が出ることは避けなくてはならないリクツではあるが、しかし現実は発症率の低い全ての感染症に関心を持って日々すごしているわけではないだろう。
それに、ひとを人と思わない深い退廃のなかでの安全を模索しなくてはならないのも現実である。さらに食糧についていえば、それが国家戦略の具にされるなかで、「国民経済の実態に即した食料調達」が必要という現実も考えられなくてはならない。
しかし、いつも、問題が起きたときに本質的なところを突っ込もうとすると、表面的で部分的でマニアックな、かつ「常識的」な話だけが声高に通ってしまい、白馬にまたがった正義漢が偉そうにしてオシマイ。おれのような意見は「人非人」あつかいである。けっきょく同じことが繰り返される。
そんなことで、政策的な議論は可能なのか。この高度に発達した複雑な資本主義国の安全を「創造」できると思っているのだろうか。そもそも「安全」とは創造するものだという自らの責任ある視点を持っているのか。安全に関する全体像を追求しているのか。
いつまでもこういうレベルの話を繰り返さなくてはならないのかと思うと、ヤリキレナイ。とても高学歴社会のデキゴトとは思えない。という理由をつけ、酒を飲むとするか。
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