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2005/06/13

思えば70年代後半の会社クーデター

江原恵さんの「カレーライスの可能性について」を収録した小冊子は「polycent」つまり「ポリセント」というタイトル。これは、おれが、所属していた企画会社の経営実権を握って安定してから、その会社の経費で発行したものだね。

この会社の経営実権奪取についてはオモシロイ経過があった。もう正確に覚えていないこともあるし、あまりはっきりできないこともある。とにかくおれは若き30代だった70年代後半だったと思う、会社は経営危機に陥りボーナス払えない、社員はストライキの体制、オーナー社長も高給取りの常勤役員2人に運営委員と称する幹部も策ナシ、という状態で会社の瓦解が迫っていた。

おれはその状態で、とんでもないことだが、首切られ要員という扱いにあった。それは、おれが入社したときから役員をトップに「編集派閥」が経営を支配し、おれのような編集能力のないマーケティング系は、イジメにあい次々とやめていた。だけどおれは、けっこう大きなプロジェクトをやっていたし、自分からはやめずに、クビを言い渡されるまで居直っていた。ま、かなりイジメにあった。しかし、そもそも会社の赤字の原因は、おれやマーケティング系の人間にあるのじゃなくて、派閥体制そのものが赤字の原因だった。

とにかく、そういうわけで、当時のおれは、社内の誰にとってもどうでもいい立場だったわけだ。それで、ダメもとで、その立場を利用してイッパツおもしろい策を考えついた。で、いよいよ、もう会社はダメだというどん詰まりのある夜、社長とあって、おれの策を示した。それはもうゼッタイ当面の経営危機は乗り切れるものだったし、社長はのってきた。そこである取引をし、その夜のうちに常勤役員ほか運営委員の解任を決めてしまった。朝には、おれが会社の経営実権を握っていた。これぞ、イジメに対する復讐もかねたクーデター、かな?

それは、誰もが、そんなことしたらゼッタイ会社は潰れると思うようなテだったのだが。ま、経営ってのは、そうじゃないんだな。しかし、赤字解消に一年はかかった。それで無借金黒字経営に転換してから、いろいろやったうちの一つが、この「polycent」の発行だった。

クビになるところ、転がり込んできた会社経営だからと、ふつうの会社じゃやれないことをいろいろやったのだが。ようするに一人で経営やれないようなやつが何人集まっても意味がない。一人一人自立できる経営能力があるものが集まってやってこそ会社はオモシロイ、という考えだ。一か月ごとに収支計算書だけではなく、試算表や資金繰り表など全ての経理を公開するなど、その具体策だ。ま、編集者や制作者も、決算書ぐらいよめるようになっていなきゃあな、資本主義だもの、ということだ。

それで、そういう経営や集団のありかたをコトバにすると、どうなるか。日本語だと「多中心」ってことのようなかんじなのだが、横文字にするとどうなのだろうかねえクリヤマさん、と。2人の常勤役員を解任したあと一人だけ役員になってもらった、そしておれが役員にしたおかげで早死にしたといわれる東大仏文科出の男性に聞いたら、「polycent」だという。それで、この「polycent」が生れた。

この会社のほうは、何年か後に、黒字のうちに売って儲けようという社長が売り払ってしまった。最近知ったのだがビックリの金額を手にいれていた。おれのほうは、江原さんと生活料理研究所をつくるなど、いろいろ好き勝手やらせてもらったが、諸悪の元凶で最低最悪の人間とのレッテルを貼られ、おさらばした。ま、火中の栗を拾う度胸も能もない世間とは、そんなものだ。言いたいやつにはいわせておけ、おれは男は愛嬌フラフラと不倫のオンナと手を取り合い、いくらでもあるオモシロイ山へ向かったのだった。ああ、東京流れ者。

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